文化領域論に関する公式原稿(通し番号付き)をアップしてから、2か月以上が経過してしまいましたが、勇気を出して(?)、このブログを再開することに致します。
その間も文化領域論については考えておりましたが、特に「文化とメンタリティの領域図」について、心変わりはありません。やはり、私たち人間が生きている世界というのは、そうなっていると思います。また、現在の社会情勢を考える上でもこの考え方を踏襲しないと、論理が進まない。よって、これから記載する原稿におきましても、基本的な考え方は、文化領域論を前提とすることに致します。
若干、補足させていただきます。まず、“芸術”という言葉の定義がなされていなかったように記憶しております。芸術とは、音楽(身体系)、文学(想像系)、美術(物質系)などであって、オリジナルであり、かつ、多くの人々の共感を得たもの、と言うことができると思います。そして、同時代で広く受け入れられた場合、それは大衆文化となり、長い間支持された場合、それは伝統文化となる。こう考えるのが良いと思います。オリジナルであるということを前提とするので、芸術とはその本質において、前衛でしかありえない。よって、芸術とは文化の長い歴史の中で、一瞬、煌めく閃光のようなものであって、それは滅多に現出しない。また、現代という時代において、芸術が喪失してしまったことは、先に書いた通りです。
宗教については、簡単に、次のように記載することができると思います。
原始宗教
動物信仰
悪魔、悪霊に対する畏怖
経典宗教
神に対する信仰
人(家系)に対する信仰
日本の知識人の中に、「日本の宗教は特別だ」と言う方がいますが、そんなことはない。聖書のように膨大な経典を持っているかどうか、というような条件によって、宗教の形は変わりますが、基本的な構造は上に記した通りで、日本だけが特別ということはないと思います。そして、先進諸国においては、宗教もほぼ終わっている。終わっていないとしてもそれは、既に「半信半疑」であって、本気で天国や地獄があると思っている人は稀である、と言えそうです。
現代という時代においては、芸術も創造されず、宗教も喪失した。人々の心の中は、ほとんど空っぽになってしまったのではないか。街中やネットには、ひたすら記号だけが氾濫し、この世界においては、既に起承転結すら存在しない。まして、論理的思考というものは、ほとんど瀕死の状態にある。
そして、世界は貧しくなった。人間は、自然が生み出す資源を消費し過ぎたに違いない。野生の動物は減少し、魚の数だって減っている。環境破壊が進み、温暖化が止まらない。内戦のシリアや貧しいアフリカの諸国から、ヨーロッパを目指す難民が、後を絶たない。YouTubeで海外の番組を見ていると、女性や子供の遺体が映し出される。安普請の船に乗り込み、イタリアなどを目指す訳ですが、途中で船が沈没してしまう。そういうことが地球上で起こっている。ホンジュラスなどの危険な国から、アメリカを目指す難民がメキシコとアメリカの国境に到着した。7千人とも1万人とも言われていますが、トランプ大統領は、彼らに銃を向けろと言っている。
日本も貧しくなった。大学を卒業した若者の多くが、奨学金の返済を迫られている。働けば、そこはブラック企業やブラックバイトだったりする。理不尽なパワハラやセクハラがまかり通り、そういう画像がネットに溢れる。保育や介護は大変な仕事ですが低賃金のため、深刻な人出不足に見舞われている。
ソビエト連邦が崩壊した時に、多くの人々は、共産主義ではダメだと思った訳ですが、格差を拡大し続ける資本主義にもウンザリしている。一時もてはやされたグローバリズムにも、陰りが見え始めた。一つには、イギリスのEU離脱、2つ目はトランプ大統領(自国第一主義)の登場、そして3つ目が、今回のカルロス・ゴーン氏逮捕の一件です。かと言って、日本のような資源に乏しい国は、輸出を止める訳にはいかない。労働力も不足し、移民を受け入れざるを得ないところまで来ている。敗戦後、70年以上続いてきた「対米従属」も、アメリカの衰退、中国の台頭などから、そろそろ成り立ち難くなっている。
ここまで書くと、お読みいただいている方も、嫌気が差して来たかも知れません。書いている私も嫌になってきました。しかし、これが真実ではないでしょうか。
本当のことを言えば、今、人類は大変な危機に直面している。ただ、その危機は、日本のような先進国においては、見えにくい形で進行しているに過ぎない。
どうすればいいのか。
私は、行き過ぎたグローバリズムを抑制し、国家という集団の単位に回帰すべきではないかと思います。それは「天皇陛下万歳」と叫ぶ、旧来の国家ではありません。日本国憲法が指し示す、平和で、平等で、人権が守られ、自由が尊重される国家、という意味です。そういう知恵を、憲法は指し示していると思うのです。今こそ、日本国憲法の声なき声に、耳を傾けるべきではないか。
例えば、憲法12条の前段には、こう記されています。
「この憲法が保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。」
憲法は誰に語り掛けているか(これを名宛人と言います)と言えば、それは一般に国家の権力者だと言われています。しかし、上に抜粋した箇所の名宛人は、明らかに「国民」です。では、これは憲法が国民に対して義務を課しているのでしょうか。そうではない。義務と言うにはあまりにも抽象的です。これは、憲法が国民に教えている、のだと思うのです。憲法に定めたからと言って、国民の自由や権利が保障される訳ではない。それだけでは、不十分だ。だから不断の努力が必要なんだ、ということを憲法が国民に教えている。
では、日本国民はその不断の努力をしてきたでしょうか。答えはNOだと思います。私自身はどうか。同じくNOなんですね。せめてもの罪滅ぼしということで、これから憲法についての記事をこのブログに掲載していこうと思っています。
私は、憲法の専門家ではありません。従って、例えば憲法の条文があって、判例があって、学説がある。そういう体系立てられた憲法論を展開する能力を持ち合わせていません。ただ、憲法というのは、“想像系”の文化の最高峰に位置するもので、そこにはぬくもりがある。そんなことを文化論の立場から、記述してみたいと思っているのです。
以上