文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 57 心のメカニズム(その1)

さあ、クリスマスだ。君はどうしてる?
So this is Xmas and what have you done?

我らがジョン・レノンの“Happy Xmas (War is Over)”は、このようにさり気ない歌詞から始まります。私は、クリスマスとは関係のない人生を送っていますが、例えば街の雑踏やレストランなどで不意にこの曲が流れてくると、ああ、今年もこの曲が流れているんだなと思って、嬉しくなります。

“イマジン”が発売されたのが1971年10月8日で、“Happy Xmas (War is Over)”はその直後の1971年10月28日、29日に録音されています。今から実に45年も前のことなんですね。この曲を聞いていると、ジョンが次のように語りかけて来るような気がします。

“君、本当は、文化は科学に敗北したと思っているんじゃないのかい? 例えば、ジャクソン・ポロックが死んだ1956年に君は生まれた。しかし、それから60年の間、絵画の世界でさしたる成果はなかった。そう、思っているんだろう? しかし、人類の歴史を考えれば、60年なんてあっという間さ。心配することはない。科学というのは、どんなに発達しても、傷ついた人の心を癒したり、感動させたりすることはできないんだ。それができるのは、文化なんだよ。そして、優れた文化は必ず継承されていく。ほら、今年だって、俺の歌が世界の街角で流れているじゃないか!”

では、気を取り直して本題に入りましょう。

これから記そうと思っていることは、このブログNo.44に掲載しました“芸術を生み出す心のメカニズム(チャート図)”をバージョンアップさせた内容です。「おいおい、その問題をまだやるのか!」とお思いの方がおられることは、重々承知しております。しかし、これは本当に大切な問題だと思うのです。文化というのは、人間の心が生み出すものです。従って、心の地図を書くことができれば、文化の地図も見えてくるに違いありません。また、人生において、喜びやトラブルの原因となりがちな人間関係についても、その理解が進むはずなんです。

バージョンアップの経緯を少し。ユングのタイプ論は、心が持っている感覚、感情、思考、直観の4つの機能を平面に置いて、検討するものでした。しかし、その後の分析心理学において、ユングは心の深さについて述べています。すなわち、意識、個人的無意識、集合的無意識などのことです。こちらは、立体的になっているんですね。しかし、この平面と立体の2つの概念は、融合させるべきではないかという疑問がありました。

次に、思考というのはロジックのことだと述べてまいりましたが、ロジックとは何か。それは言葉のことではないかと思うのです。言葉はすなわち、記号です。記号によって、世界を認識しようとする。これが、思考の本質ではないか。一方、感情というのは、他者に共感を求める心の働きと、個人的なコンプレックスによって構成されている。そして、この感情こそが、個人的無意識の本質ではないかと思うのです。そう考えると、私の人生経験において、理解不能であったいくつかの事象の説明がつく。ある時、突然、感情、すなわち個人的無意識がむっくりと首を持ち上げる。その時、人は、通常では考えられないような行動を取る。しかし、それは無意識のなせる業なので、何故そんなことをしたのか、本人にも説明ができない。極端な例で言えば、あのゴッホは、ゴーギャンとの相克に傷つき、自分の耳を切り落として売春婦の元へ届けたそうですが、何故、そんなことをしたのか。多分、本人も説明できなかったのだろうと思います。そこまで極端ではないにしても、個人的無意識に突き動かされる人々というのは、決して少なくない。そして、直観を働かせると集合的無意識に至る。概ね、そんな内容となります。では、バージョン3のチャート図をご覧ください。

 

f:id:ySatoshi:20161224181744j:plain

 

申し遅れました。私と致しましては、ジャクソン・ポロックを検討した経緯から、集合的無意識、もしくはそのようなものが存在すると結論づけました。従って、私はレヴィ=ストロースは支持せず、ユングの側に立たせていただく所存です。

No. 56 孤高の前衛 ージャクソン・ポロックー(その5)

ジャクソンの作品を見ていると、ああ、私にはとてもこんなことはできない、と思います。例えば”One”のような作品を見ていると、これでもかという程に、線が重ねられている。私だったら、精神的にそこまではできないというのが一つ。また、ジャクソンの生活を考えてみると、これまた私にはとても真似ができない。スプリングスに住んでからは、農家の納屋を改造してアトリエにしていたようですが、とにかく毎日ここで、塗料をタラタラッと垂らして、時折、ピシャっと叩きつける。この作業を、毎日、やる訳です。1週間位なら、私でもできそうですが、それ以上続けると、不安に駆られてしまいそうです。世間とも、絵画の歴史とさえ隔絶した作業を延々と一人で続ける。これはもう、驚嘆するしかありません。

ちなみに、前回の記事で1947年以降は、ジャクソンの作品が飛ぶように売れたのではないかと書いてしまいましたが、資料によれば1948年の時点でも、ジャクソンは経済的な問題に悩まされていたようです。ネットで調べてみると、ジャクソンの“ナンバー17A”という作品は、後年、2億ドルで取引されたそうです。1ドル100円換算で、200億円! 数字が大き過ぎて、ちょっとピンときませんが、私などは、せめてその100分の1でも、時給1ドル75セントで石切り工の仕事をしていた1935年のジャクソンに渡せないものか、と思ってしまいます。そう言えば、あのゴッホでさえ、生きている間に売れた絵画は、たったの1枚だったという話があります。

ところで、数年前に日本で“ポロック展”なるものが開催され、そのプロモーション番組のようなものがYou Tubeにアップされています。これを見て驚いてしまったのですが、ある女性評論家がこう言っているのです。「ポロックの絵は、例えば喫茶店で流されている軽音楽を聴くような気持ちで見るといい」。私は腹が立つのを通り越して、悲しくなってしまいました。この評論家の心には、芸術を理解する“直観”という領域がない。ジャクソンは前衛芸術家として、しかも世界のトップランナーとして、自らの無意識と対峙しながら、人生を掛けて孤高の頂を目指したのです。そんな男の作品を、喫茶店のBGMと一緒にするとは何事でしょうか。

ジャクソンの作品は本物の芸術であり、ニューヨークで衝撃を受けた私の眼に狂いはなかった。本物の芸術、それは解決することの困難な心の課題に直面した人間だけが獲得する直観という心の機能が生み出す、危うい結晶のことです。では、ジャクソンが直面していた心の課題とは何か。それは、単にアルコール中毒という症状のみによって、判断するのは誤りでしょう。そこには、もっと深い何かがある。うまく言えませんが、それは人間が、人間であるがゆえに抱えている、本質的な課題だと思うのです。例えば、人間は言葉を生み出してから、記号と現実の双方に向き合うという宿命を背負ってしまった。そこから生まれて来る不安定な何かが、時として、芸術家の心を突き動かす。

このシリーズを締め括るに当たって、最後にもう一つ。それは、ジャクソンの抽象画が、何故、人々の心を打つのか、ということです。もちろん、全ての人々という訳ではありません。前述の評論家のように、何も感じない人もいます。しかし、私が衝撃を受けたのは事実ですし、彼の作品が200億円で取引されたのも事実です。確実に彼の作品は、人々の心を揺さぶっている。それは、ジャクソンが掘り下げ続けた彼の無意識と、彼の作品から衝撃を受ける人々の無意識との間に、共通する何かがあるからではないでしょうか。そう考えないと、説明がつかないと思うのです。民族も世代も異なるジャクソンと私。しかし、無意識を掘り下げていくと、共鳴する何かがある。それは例えば、同じ音程の音叉が二つあったとして、震わせた音叉を近づけると、もう一方の音叉も震え出す。そんなイメージでしょうか。

ユング集合的無意識というのは、人々の心に悪い影響を及ぼす元型という概念によって説明されています。従って、少し違うのかも知れませんが、本質的には大差ないようにも思います。よって、例えばジャクソンと私の無意識に共通する何か、それを集合的無意識と呼んでも差し支えはないように思うのです。

No. 55 孤高の前衛 ージャクソン・ポロックー(その4)

1950年当時のジャクソンの精神状態はどうだったでしょうか。多分、猛烈なプレッシャーと凍えるような孤独感にさいなまされていた。私には、そう思えます。

かつては、遠くの方ではあっても、ピカソの背中が見えていた。しかし、ポアリングという技法を完成させたジャクソンの前には、誰の背中も見えていなかった。ジャクソンがピカソを超えたかどうかという問題は別にして、ジャクソンが進み始めた道の先には、誰もいない。何しろ、あのような絵を描いた人は、人類史上、ジャクソンが最初だった訳です。参考にすべき前例も、頼りにすべき理論も、ジャクソンには何もなくなってしまったのです。

また、世間のジャクソンに対する期待も高まる一方だったと思います。新しいものを生み出し続ける。それが、前衛芸術家の宿命です。周囲はジャクソンに、より新しい刺激的な作品を期待した。それは、ジャクソン本人も重々承知していたことでしょう。しかし、ポアリングという技法が完成の域に達し、例えば“One”のような作品を描いた後、一体、ジャクソンに何ができたでしょうか。

その後、ジャクソンは“ブラック・ペインティング”と呼ばれる時代に突入します。そして、主に東洋の書道のような、墨絵のような、黒を基調とした作品を発表します。また、ポアリングに加え、絵の具をチューブからキャンバスに直接押し付けるような技法も用い始めます。しかし、結論から言ってしまえば、世間の評価はさんざんだった。そこには、全盛期の絵画に見られたスピード感も、エネルギーも感じられません。評論家は、前衛芸術家であるはずのジャクソンが後退したと言って非難しました。

何故、そんなことになってしまったのでしょうか。ジャクソンの妻、クラスナーは次のように述べています。「1950年の個展の後、あなたならどうしますか。同じことをやりながらそれ以上進むことは彼にはできなかったのです」。

アルコール中毒と闘いながら、進んだり戻ったりしながら、それでもジャクソンは自らの無意識と向かい合い続けたのです。と言うよりも、むしろ、命を削りながら、自らの無意識と対決し続けたのだろうと思います。そして、1952年、ジャクソンは傑作“ブルー・ポールズ”を発表します。

 

f:id:ySatoshi:20161216170751j:plain

 

ジャクソンが生涯を通じて描いた作品の中で、最高傑作は何かと尋ねた場合、この“ブルー・ポールズ”を挙げる人も少なくないでしょう。そうかも知れませんね。ブルーとは言うものの、ここに描かれている8本の柱は、実質、黒で描かれています。すなわち、この絵によって、ポアリングとブラック・ペインティングが融合されているとも言えるように思います。

ちなみにこの絵は、私にはこう見えます。

エネルギーだけが充満している宇宙というカオスがある。まだ、そこには形というものが存在していない。そこに、邪悪な何かが生まれようとしている。それが、8本の柱上の物体である。それらは、人類に他ならない。

また、ゴッホが最後に描いた麦畑の絵には、不吉なカラスが描かれていました。この8本の柱とカラスの間に、共通する何かを感じてしまいます。

結局、ジャクソンのアルコール中毒が癒えることはありませんでした。

1956年8月11日夜、おそらくは泥酔していたであろうジャクソンは、無謀にもクルマを運転し、木立に激突しました。即死だったそうです。享年44歳。

No. 54 孤高の前衛 ージャクソン・ポロックー(その3)

ここまでを振り返ってみますと、ジャクソンは貧しいながらも芸術的には恵まれた環境下で10代を過ごしたことが分かります。20代になると、ニューヨークでの極貧生活が待っていた。そして、25歳から31歳まで、足掛け6年もの間、アルコール中毒の治療を受け続けています。

当時の美術界、特にシュールレアリストの間では、オートマティスム(自動記述法)に関する論議が活発になされていたようです。前提としては、芸術を創作するには、自分の無意識から出発すべきだということがあります。そのためには、絵を描く際に意識的なコントロールを極力排除する必要がある。予め構図などを決めず、キャンバスに向かうその瞬間、自分の無意識だけを頼りに描くべきだ、という考え方なんです。言葉で説明するのは簡単ですが、実際に行うのは大変だと思います。ジャクソンも苦労して、オートマティスムに取り組んだようです。

また、進んだヨーロッパの美術理論なども、ニューヨークの若き画家たちに強い影響を及ぼしていました。ジャクソンも必死になって、キュービズムの勉強をしたことでしょう。後年ジャクソンは、「何か新しいことをやろうとしても、それは既にピカソがやってしまっていた」と発言しています。貧しい生活、アルコール中毒との闘い、先には見えるが決して追いつくことのできないピカソの背中。

1945年と言えば、第二次世界大戦終結した年ですが、この年の10月、ジャクソンはクラスナーという女性芸術家と結婚しました。そして、ニューヨークの南東に位置する島、ロングアイランドのスプリングスという場所に家を購入し、新婚生活を始めます。翌1946年には3回目の個展を開催しますが、これはなかなか評判が良かったようです。

そして1947年になると、ジャクソンは初めてキャンバスの全面をポアリングで描いた作品を発表し、一大センセーションを巻き起こします。「ジャクソンは氷を砕いた!」などと絶賛する評論家も現れます。他方、ポアリングに対して「ヨダレのようだ」と批判するメディアもありました。いずれにせよ、全く新しいものが登場した際、世間というのは両極端な反応を示すのでしょう。しかしそれは、ジャクソンにとって悪いことではなかった。世間から注目され、作品は高額で飛ぶように売れたはずです。

ポアリングという技法は、ジャクソンにとって、オートマティスムに対する解決策だった。絵筆に絵の具を付け、キャンバスに描く。この作業では、どうしても意識が介在してしまう。意識を介在させないためには、キャンバスに向かうその瞬間、無意識の赴くまま、絵の具をキャンバスに滴らせる。もしくは、叩きつける。そうすることによって、自分の無意識をストレートに表現することが可能になった。この方法だと、思わぬ所に絵の具が飛び散ったりしそうなものですが、ジャクソンは明確に「そこに偶然はない」と言い切っています。既に、高度なポアリングの技法を身に付けており、自信があったのでしょう。

いい時には、いいことが続くものです。1948年、ジャクソンは遂に禁酒にも成功し、猛烈な勢いで、傑作を産み出し続けます。そして1950年、このブログ(No. 52)でも紹介致しました“One”という作品を完成させたのです。この作品は、やはりジャクソンが乗りに乗っている時期に創作したものだったんですね。

世間の注目は高まる一方で、ジャクソンの創作活動をテーマとした短編映画まで作成されます。これは1950年の9月から10月に掛けて撮影されています。その一部は、日本語の字幕付きで、You Tubeで見ることができます。

この期間、すなわち1947年から1950年が、ジャクソンにとっての絶頂期だったと言えるでしょう。

短編映画の撮影が終わったある日、ジャクソンは自分の作品の前で、妻にこう尋ねたそうです。「これは、絵画だろうか?」と。そして、1950年10月、38歳のジャクソンは再び酒に手を出してしまう。前衛芸術家として、作品を発表し続ける重圧に、耐えられなかったのでしょうか。

No. 53 孤高の前衛 ージャクソン・ポロックー(その2)

ジャクソンは1912年1月28日、5人兄弟の末っ子として生まれました。一家は当時、ワイオミング州に暮らしていましたが、同年11月、カリフォルニア州のサンディエゴへ移住します。

ジャクソンの父は、野菜農園を営んでいましたが、ことごとく失敗したそうです。一方母親は、美術に強い情熱を持っていたそうで、やがてジャクソンの兄たちも美術に惹かれていきます。

1927年、ジャクソンはサンディエゴのリバーサイド高校に入学しますが、翌年3月、士官との口論が原因で、退校処分を受けてしまいます。1928年の夏、ポロック家はサンディエゴから、ロサンゼルスへ移住します。ジャクソンはここで手工芸高等学校に入学しますが、後に体育教育に反発し、停学処分を受けてしまいます。隊列を組んで行進する時間があったら、もっと有益な教育をしろというのがジャクソンの主張だったようです。どうやら、反抗精神が旺盛な少年だったようです。

1929年と言うと、ジャクソンが17歳頃のことですが、世界恐慌が勃発します。大変な時代を生きていたのが分かります。

1930年の秋、ジャクソンは、既にニューヨークに居を構えていた二人の兄を頼って、移住します。そして、美術学校に入学します。当時のジャクソンは、他の青年同様、芸術を目指したいという野心を持ちながら、他方では自分にそんな才能があるのか、確信を持てずに悩んでいたようです。

1933年、経済不況の影響もあってか、ジャクソンは美術学校を退学します。そして、極貧生活が始まります。週給10ドルで学校の管理人を務めたり、時給1ドル75セントで石切り工の職についたりしたそうです。いつも腹を空かせ、十分な暖房費も払えず、ニューヨークの寒い冬に耐えていたことでしょう。これは私の想像ですが、寒さに耐えるため、安くてアルコール度数の高いテキーラのような酒を飲んでいたのではないでしょうか。

1935年、恐慌の吹き荒れる中、政府が雇用対策として始めた壁画事業によって、ジャクソンは幸運にも職を得ることができます。決められた期間内に、壁画を作成して提出するという仕事だったそうです。

ついにジャクソンは、強度のアルコール中毒になってしまいます。1937年には、治療のため数か月間に渡り精神科に通院します。但し、この時の医師は、ユング派ではありません。翌1938年には、アルコール中毒を治療するため、1か月程、入院したそうです。この時の医師も、ユング派ではなかったそうです。そして、第二次世界大戦が始まった1939年、ジャクソンはユング派の医師を訪ね、精神分析による治療を受け始めます。この治療は、翌1940年の夏まで続けられたそうです。それでも治らず、1941年の春から1943年まで、今度は別のユング派の医師の下で、治療を続けます。その際、ジャクソンは“精神分析用デッサン”を描いては、分析医に提出していたと言われています。

そんな経緯もあって、ジャクソン自身も神話とかユングの心理学を勉強していたようです。後年ジャクソンは「長い間、私はユンギアン(ユング派)であった」と告白しています。

1942年、30歳の時ですが、ジャクソンはピカソの影響を感じさせる大作を作成しています。ちなみに、1944年のインタビューに答え、ジャクソンは「尊敬しているのはピカソとミロである」と述べています。

1943年、ジャクソンの貧困生活は、まだ続いています。彼は創作の傍ら、ネクタイの図案画作成、美術館の守衛などの仕事に就いています。同年、ジャクソンは個展を開き、初めてポアリングという手法を取り入れた絵画を発表しました。

ポアリングというのは、“撒き注ぐ”という意味です。キャンバスを床に置き、上から絵の具を滴らせるようにして描く手法を意味しています。ジャクソンは、この手法をナバホ・インディアンの砂絵から着想したようです。砂絵は、以前このブログ(No. 15)でも紹介しましたが、病気の治療を目的とした呪術で、様々な色の砂を上から地面に落として描く絵画のことです。夜が明ける前にはかき消してしまうのが、インディアンの風習です。インディアンは色の着いた砂を上から落とした。ジャクソンは砂の代わりに絵の具や塗料をキャンバスの上に滴らせた訳です。ジャクソンがこの手法を用いたことによって、砂絵が有名になったのだろうと思います。

No. 52 孤高の前衛 ージャクソン・ポロックー(その1)

今から20年以上前のことだったと記憶しているのですが、年上の技術者と2人でアメリカに出張した時のことです。仕事を終えての帰り道、トランジットでニューヨークに一泊することになったのです。自由時間は数時間しかありません。また、夜には技術者の旧友と食事をする約束もありました。初めての場所で、少しウキウキする気持ちもあり、とりあえず私たちは街中を歩き回りました。そしてホテルの近くに美術館を発見したのです。なんとそこは世界的にも有名なニューヨーク近代美術館(The Museum of Modern Art, New York)だったのです。まったくもって、ラッキーでした。私たちは、出口で待ち合わせることにして、早速、それぞれのペースで見て回ることにしました。そして、ある巨大な絵画の前で、私の足は止まってしまったのです。衝撃だったと言って、過言ではありません。金縛りにでも掛かったように、体が動かなくなってしまった。キャンバスの中を視線がグルグルと回り始める。何かの物語のようにも感じるのですが、どこが最初でどこが終着点なのか、まったく分からない。そして、私は思ったのです。ああ、この絵の中には宇宙と生命の真実があるのだ、と。それが、ジャクソン・ポロックの描いた“One”という作品だったのです。

 

f:id:ySatoshi:20161209174542j:plain

 

私は1分1秒でも長く、この絵の前に立っていたいと思いました。しかし、約束の時間は刻々と迫ってきます。私は拳を握り締め、体をブルブルと震わせながら、そこから立ち去りました。他の作品は全く見ずに、小走りで出口へ向かったのです。それでも20分程度の遅刻となってしまいました。私はひたすら技術者に謝罪しました。幸い、彼は笑って許してくれましたが・・・。その時点で、私はポロックの名前を知りませんでした。何かの手掛かりになればという藁をも掴む思いで、美術館のカタログのような雑誌を購入しました。

 

f:id:ySatoshi:20161209174718j:plain

 

ポロックの作品、いかがでしょうか。何かを感じる人もいれば、もちろん、そうでない人もおられることと思います。ただ私は、あの時に感じた衝撃は何だったのか、そこに芸術の本質があるのではないかと思うのです。そして、あのような絵を描いたポロックという人間と、向き合ってみたい。一体、どんな男で、どんな人生を送ったのか。そうすることは、私にとって、人生の宿題のような気がしてならないのです。

No. 51 ユングと集合的無意識(その3)

こうして見ていきますと、ユング集合的無意識という概念は、分裂病患者の妄想と神話の研究成果から導き出されたことが分かります。すなわち、心理学と文化人類学が融合し、集合的無意識という概念が生み出された。

ユングのこのような考え方は、日本では河合隼雄氏(以下、敬称略)によって普及されました。研究者は多くいるのでしょうが、その著作、翻訳の量からして、河合隼雄が筆頭であることは間違いないでしょう。彼はある文献の中で、「ユングの考え方を全て支持するのではなくとも、自分の考え方を常にユングと比較し、どこが同じでどこが違うのかを考えている人。このような人がユング派なのである。その意味で、自分はユング派だ」と述べています。河合隼雄も100%ユングと同じという訳ではなさそうですね。

集合的無意識について、ユングは明確に遺伝によってもたらされると述べています。しかし、“量子もつれ”やテレパシーの研究などを更に積極的に評価するグループが現れ、彼らの主張する心理学が、トランス・パーソナル心理学と呼ばれるようになります。詳細は承知しておりませんが、人間の人格は個別に存在しているという従来の常識に反し、私たちの心はつながっているのではないかという考え方のようです。このアイディアには、妙な魅力がある。そんなことを考えていたある日、私はクジラに興味を持ったのです。広大な海の中で、クジラはその低い声によって、確実にコミュニケーションを取っている。イメージとしては、正にトランス・パーソナルを実践している。先日、クジラの本を眺めていたところ、ある人が「トランス・パーソナル心理学を研究している」と述べていました。集合的無意識とトランス・パーソナルとクジラ。私に良く似た人もいるもんだなあ、と驚いてしまいました。

一方、ユングに真っ向から反対する人たちのことも述べておきましょう。概ね、経緯は次の通りかと思われます。

記号論ソシュールから始まります。それまでの言語学は、歴史主義と言いますか、どこの言葉が元になっていて、それがどの地方へ伝わって、発音がどのように変化したのか、という研究をしていたそうです。このように、時間の流れに沿った状態を通時態と呼びます。しかしソシュールは、そんなことをいくらやったって、言語の本質は理解できない、と考えたのです。そこでソシュールは、通時態に対する研究を一切拒否し、今現在、世界の言語がどういう状態になっているのか、すなわち共時態を研究の対象としたのです。なるほど、それはいいアイディアですね。そして、ソシュールはある果物をリンゴと呼ぼうが、アップルと呼ぼうがまったく制約がないこと、言葉というのは同時に2つの事項を説明できないこと等々、研究の成果を挙げたのでした。そして、このソシュールの研究方法に興味を持ったのが、文化人類学レヴィ=ストロースです。通時態を無視して、あくまでも共時態を研究の対象にしようと彼は考えた。そこで、構造人類学という本を出したりします。やがて、レヴィ=ストロースの考え方は、構造主義と呼ばれるようになります。構造とは、ある対象物を様々な角度から見ても変わらない本質を指すようです。しかしながら、レヴィ=ストロースの著作を読むと、ちょっと変だなあ、おかしいなあと思う人が沢山出てくる。そう思った人たちが様々な分野で、研究成果を発表していきます。これが、ポスト構造主義と呼ばれる潮流となった。

レヴィ=ストロースは、その代表的な著作“野生の思考”の冒頭部分で、明確にユングを否定しています。神話を解釈するには、元型的な要素を一切排除すべきだ、と述べているのです。その割には、同じ文献の中で「シンデレラの物語は、同様のものが世界各地に存在する」などと述べており、おいおい、それって元型的なものじゃないのか、とツッコミたくなるのですが・・・。

さて、ここで私としては、ユング派を支持するのか、レヴィ=ストロースの側に立つのか、2者択一を迫られることになります。感情の世界であれば「どっちも好き!」と言って済まされそうですが、ロジックの世界でそうはいきません。そしてもちろん、キーワードは集合的無意識ということになります。

話は変わりますが、今西錦司(1902~1992)という人が、確か“自然学の提唱”という本の中で、カゲロウの生態について面白い話をしていました。仮に、ある世代のカゲロウを第1世代と呼ぶことにしましょう。彼らは、小川のA地点で産卵します。その卵は流されて、第2世代のカゲロウは、翌年、下流のB地点でふ化します。ふ化した第2世代のカゲロウがどうするかと言うと、川を上流までのぼって行き、第1世代と同じA地点で産卵するというのです。これって、不思議ではありませんか? 私は、この話を考えながらお酒を飲んでいると、普段より早めに酔いが回ってしまうのです。