文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 85 共同体と個人(その2)

宗教国家が生まれる直前の日本では、豪族による武力支配と、シャーマニズムに基づく精神世界があったようです。そこで、聖徳太子(574~622)が登場します。聖徳太子に関しましては、どこからどこまでが彼の功績だったのか判然としないようですが、ここでは当時の偉人の象徴という意味で、登場してもらうことにします。

聖徳太子は遣隋使を派遣するなどして、大陸の文化、特に仏教を積極的に取り入れ、天皇を中心とした中央集権国家の設立を目指しました。まさに、宗教国家としての日本はこの時代に生まれたんですね。そして、彼は17条憲法というものを作った。これは「一に曰く、和を以って貴しとなし~」という言葉から始まります。これを反対解釈すれば、当時の社会では争いが絶えなかったということですね。そういう混乱した社会に秩序を与えようというのが、聖徳太子の願望だったのではないでしょうか。そして、17条憲法の2番目には仏教を信奉せよとあり、3番目では天皇制について言及しています。日本における仏教神道天皇制)の関係は、既にここから始まっていたんですね。また、聖徳太子は冠位十二階という身分制度も制定します。(学説上は、異論もあるようです)これは、朝廷に使える臣下を12の等級に分類する階級制度であって、天皇が授与したと言われています。こうして日本においても、階級というものが制度化されていく。

その後、紆余曲折はあったものの、この宗教国家という制度は、第二次世界大戦で敗戦するまで継続したのだと思います。大日本帝国憲法の第1条には、こう記されています。

第1条 大日本帝国万世一系天皇之ヲ統治ス

現在の日本国憲法が施行されたのは1947年ですから、日本における宗教国家の時代というのは、聖徳太子の時代から1300年以上も続いたことになります。そしてその間、日本を支えてきた制度の最大の特徴は、“集団主義”であったと思うのです。人々の“個性”などというものが、注目されることはなかった。“自由”にいたっては、その概念すら存在しなかった。徹頭徹尾、集団の結束と集団の利益が尊重されていた。そのような時代にあって、人々の心を支えていたのは仏教神道天皇制)だった訳ですが、江戸時代以降は、それらに“武士道”が追加された。

武士道の起源は相当古いのだろうと思うのですが、有名なのは、“葉隠”ではないでしょうか。これは、「徳川幕府が開かれてから約百年たった元禄時代の直後、佐賀藩の元御側役であった山本常朝が口述し、後輩の田代陣基が筆録した一種の語録であり、回想録である」ということです。(文献1)時代背景としては、江戸時代のことなので、結構、平和な暮らしが続いていた。すると武士が、堕落してしまう。そういう若者を先輩武士である山本常朝(つねとも)が叱咤している。しかし、そこには狂気ともいえる内容が含まれています。例えば、「武士道は死狂ひなり」ということが書かれているんです。これは、いざという時にあれこれ考えていては、行動が遅れる。そういう時には、死に物狂いでぶつかれ。何も考える必要はない。そうすれば、「この内に忠孝はおのづから籠るべし」というんですね。お家の一大事のような時には、何も考えずにお前の命を差し出せ、と言っている。武士道の本質が、ここにあるような気がします。このような考え方が、やがて新渡戸稲造三島由紀夫に影響を与えていく。教育勅語にも、その流れは通じているようです。言うまでもなく、武士道という考え方は、個性も、自由も、人権意識も、そんなものとは無関係で、徹頭徹尾、集団主義なんです。

時代によって違いはあるのでしょうが、概ね、そういう時代が1300年続いた。別の言い方をすると、当時の日本人の精神の中に、自己意識というものは、希薄だったと思うのです。自分とは何か、自分はどう生きるべきなのかという問題意識は、あまりなかった。個人の存在意義というものは、共同体との関係性の中にしか存在していなかった。ある側面を捉えれば、宗教国家の制度というものは、個人に自律的な思考を促さないシステムだったと思います。従って、自律的な思考を望まない人々にとっては、居心地が良かった。

では、そういう日本人が共同体を離れた時に、どうなったのかという問題もあると思うのです。例えば、旅に出る。現役を退き、隠遁生活に入る。すると、自己意識の希薄な日本人は、自然と同化していったのではないでしょうか。

 

古池や蛙飛び込む水の音

 

ここに、自己意識というものは感じられません。あくまでも自然があって、この句を詠んだ芭蕉がそこにいて水の音を聞いたのかどうか、それは重要ではない。自然の静けさこそが、この句の主題であると思うのです。このように、日本人の自然観というものは、個人や個性を尊重しない宗教国家のシステムが、その反射的効果として生み出したのではないかと思うのです。

(参考文献)
文献1: 続葉隠/神子 侃/徳間書店/1977

No. 84 共同体と個人(その1)

このブログのNo. 82 ~ No. 83におきまして、“プレモダンのメンタリティ”というタイトルで原稿を掲載致しました。実は、これをシリーズ化して、モダン、ポストモダンへ続けようと思っていたのですが、どうもうまく行きません。一つには、時代区分は4つにすべきだと思い始めてしまったことと、どうもメンタリティという漠然とした切り口では、焦点がボケてしまう。

そこで、時代区分は4つにして、共同体と個人の関係にフォーカスしたものに仕切り直しをさせていただくことにしました。行きつ戻りつ、脱線しつつ、というのがこのブログの特徴なので、ご容赦ください。また、今回のシリーズで私が記載したいと思っている時代区分と、各時代における共同体と個人の関係につきましては、以下の通りです。

A. 無文字社会の時代  ・・・ 一体
B. 宗教国家の時代   ・・・ 依存と支配
C. 近代思想の時代   ・・・ 対立
D. ポストモダンの時代 ・・・ 分離

予め、概略を記しましょう。まず、“無文字社会の時代”につきましては、個人の自己意識というものは芽生えておらず、個人は、共同体と自らを区別することなく、一体感が育まれていたものと思います。文字が発明されると宗教が生まれ、それが国家へと発展していく。個人のメンタリティとしては、共同体に依存していたと思います。自由とか、個性という概念自体が、まだ生まれていなかった。しかし、共同体が国家としての形を持ち始めると、そこに納税義務が生じる。国家の権力というものが生じる訳です。そして、特に明治維新以降は、外国との戦争が始まります。この時代は、共同体としての国家が、個人を支配していたと言えると思うのです。敗戦後、日本国憲法が制定されます。私は、この憲法の中に近代思想の骨格が記されていると思うので、主要な条文についても考えてみたいと思っています。日本国憲法は素晴らしいと思いますし、その憲法は幸い、今日においても健在です。しかし、近代思想については、その信頼性が揺らぎ始めた。何がどう揺らいで来たのか、今一度、検証してみたいと思っています。近代思想が揺らいだ結果、ポストモダンというメンタリティが生まれる。これはもう、歴史的な必然だったのでしょう。ポストモダンの時代においては、共同体自体がその結束力を弱めている。共同体の側からの個人への働き掛けというものが弱まり、個人も共同体への依存を最小限に留めようとしている。この現象を“分離”と記した訳ですが、ディタッチメントなどと呼ぶ場合もあるようですね。AとBについては、既にいくつかの原稿で言及していますので、今回は、CとDに力点を置きたいと考えています。多分、皆様が興味を持っているのも、“ポストモダン”ではないでしょうか。但し、ポストモダンのメンタリティというのは、近代思想に対するアンチテーゼとして生まれたものだと思うのです。従って、近代思想とは何だったのか、何故それが衰退したのかというところから考える必要があると思うのです。

ところで、タイトルにも使いました“共同体”という言葉の意味を定義する必要がありそうです。学生時代に読んだ社会学の教科書には、次のような記述があったと記憶しております。人間集団の中には、目的を持ったものがある。その典型は、国家である。このような集団をゲゼルシャフトと言う。他方、特段の目的を持たない集団もある。典型は、社会であり、家族である。このような集団をゲマインシャフトと言う。当時は、なるほどそんなものかなあと思ったのですが、その後の私の実社会における経験において、そんな違いはなかった。会社というのは、利益を追求する集団であり、典型的なゲゼルシャフトであるはずです。また、私としても、そうあって欲しかった。とにかく、休日は、誰にも邪魔をされたくなかったのです。しかし実際には、祭り、スポーツ大会、花見、慰安旅行と、私の休日は潰され続けたんです。あの時の休日を返せ、と叫びたい位です。おっと、また脱線しかかってしまいました。話を戻しますと、このような実体験からして、集団をゲゼルシャフトゲマインシャフトに分けることに、メリットはないと思うのです。よって、このブログでは、双方をひっくるめて、“共同体”と呼ぶことにします。大きなものは国家から、小さなものは家族まで、ということになります。

さて、無文字社会の歴史につきましては、No. 82の原稿に記しましたので、ここでは補足的な事項のみを記します。

初期の無文字社会では、狩猟採集によって人々は暮らしを立てていました。言わば“なわばり”というものがなく、比較的平和に暮らしていたものと思われます。(ゴリラなんかもそうですね。)獲得した獲物も、平等に分配されていたと言われています。そうでないと、弱い者、子供などが生きていけない。そうしてみると、ほぼ、階級などはなく、平等な社会だったと言えそうです。支配、被支配の関係というものも存在しなかったのだろうと思います。また、文化としては、既に物語や呪術が存在したものと思われます。

やがて、農耕・牧畜が行われます。農耕を始めるということは、すなわち“なわばり”を持つこととなり、部族間の衝突が生じます。また、定住することにより、人間集団の規模が、少し拡大したのではないでしょうか。そこで、祭祀の文化が発達し、祭祀を取り仕切る者、お告げを聞く者としてのシャーマンの役割が拡大します。雨乞いの儀式なども、この時期に生まれたのではないでしょうか。日本で言えば、邪馬台国卑弥呼が有名ですね。しかし、この時代においても、支配・被支配の関係は、存在しなかった。仮に存在したとしても、それは緩やかなものだったはずです。また、階級制があったとしてもそれは、シャーマンとその他の人々、という程度の緩やかな区分だったのではないでしょうか。また、シャーマンが祈るのは、共同体やそのメンバーにとって利益となる事柄ですから、他のメンバーにとっても、納得性は高かったものと思います。このような時代において、人々は共同体と自分というものを区別することなく、両者を合一して、認識していたものと思われます。なんだか、それはそれで、幸せな社会だったのかも知れませんね。

無文字社会の時代に生まれ、今日にも生き続けている文化というのは、少なくありません。祭りとか、民芸品などもそうですね。現代のマンガも、実はこの時代に作られた物語に通ずるところがあると思うのです。その中では、奇想天外なことが起こるんです。

No. 83 プレモダンのメンタリティ(その2)

No. 83

<プレモダンのメンタリティ(その2)>

プレモダンについては、やはり、2つの時代区分に分けて考えた方が良いかも知れません。

無文字社会の時代
・宗教国家の時代

双方の時代には、共通点もあります。人々の個性や自由は、尊重されなかった。しかし、これらを区分すると、例えば村上春樹の作品世界がよりクリアに見えてくる!

前回のシリーズで取り上げました村上春樹の「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」(以下「本件作品」といいます)には、宗教国家のメンタリティというのは登場しないんです。例えば登場人物が突然悟りを開くとか、特攻隊精神を鼓舞するとか、そういう話はまったく出て来ない。本件作品に登場するのは、呪術師とか悪霊ですが、これらは皆、無文字社会のメンタリティなんですね。また、本件作品にはいくつか、登場人物が現実世界と夢の世界を混同する場面が描かれています。例えば、多崎つくるは白根柚木とセックスをする夢を見ますが、その後、「白根柚木をレイプしたのは僕かも知れない」というようなことを発言しています。完全に、夢と現実を混同している。しかし、このようなことは、無文字社会であるパプアニューギニアのイワム族では、実際に起こるんです。「あの男が夢の中で、俺の農作物を盗んだ。だから、あいつを逮捕してくれ」とイワム族の男が白人の保安官に陳情したという話は、以前、このブログに記載した通りです。

そもそも、夢というものは、何らかの意味を孕んでいる場合もあるし、そうでない場合もある。本件作品に登場する多崎つくるの夢も、同じかも知れません。意味のある場合と、意味を推察することができない場合があるように思います。村上春樹は、意味のある夢だけを抽出しないで、意味という概念を捨て、夢そのものを作品内に持ち込んでいるのかも知れません。

ところで、村上春樹の作品においては、登場人物がいとも簡単にセックスをするんですね。このことに違和感を覚える人も少なくないと思うのです。現代日本の現実というものは、そう単純ではない。しかし、前述のイワム族の社会では、同じようなことが起こるんです。

数十年前の話ではありますが、イワム族の男女が偶然、森の中で出会った。すると女性がこう言ったそうです。「あなたは男、私は女。私はOKよ」。それで、2人はセックスをした。随分、簡単ですよね。現代なら、まずメルアドか何かを交換するところから始まる訳ですが、当時、そんなものはない。メールを打とうにも、そもそも文字がない。すると、こういうことが起こるのでしょうか。

しかし、これって村上春樹の世界に通じてないでしょうか? 本件作品においても、大学生の多崎つくるは、アルバイト先で知り合った女性と、簡単に肉体関係を持ったことになっています。やがて、彼女が結婚するため、2人は別れる。彼女は、婚約していたんですね。そして、こう言うんです。「とても良い人なのよ」。こういう関係と、前述のイワム族の話と、どこか似ているように思うのです。共通しているのは、そこに至るまでのプロセスが簡単であること。また、セックスに関して、道徳的、心理的な規制というものが働いていない、ということでしょうか。

モダンの時代に生きながら、モダンを否定し、宗教国家のメンタリティを目指したのが三島由紀夫だとすると、ポストモダンの時代に生きながら、モダンを否定し、無文字社会のメンタリティを訴求しているのが村上春樹だと言えそうです。

No. 82 プレモダンのメンタリティ

人間の心のあり様、これはメンタリティと言っていいと思うのですが、これを3つの時代区分で考えるというアイディアは、河合俊雄氏の文献にヒントを得たものです。これが、なかなか興味深い。

<3つの時代区分>
プレモダン・・・・前近代
モダン・・・・・・近代
ポストモダン・・・近代後、現代

但し、メンタリティも文化と同じで、旧来のものが簡単になくなる訳ではありません。現在がポストモダンの時代だとしても、未だにプレモダンとモダンも生きている訳で、これはあたかも積み木を重ねていくような仕組みになっていると思います。従って、上記の区分は、それぞれのメンタリティが発生した時期の区分、ということになります。

人類の歴史が10万年だとすると、大半がプレモダンの期間ということになります。まず、人類が文字を持つ前の時代についてですが、これは、このブログの冒頭の記事に詳述していますので、ここではそのポイントのみを振り返ってみます。

人類はまず、言葉を獲得しました。すると、様々な自然現象などについて、疑問を持つようになります。そして、仮説を立て、それらの不思議な現象を理解しようとします。その仮説が、神話や民話などの“物語”として、語り継がれていきます。次に、現実世界に対し、能動的に働き掛けようと考えます。例えば、病気を治したいとか、恨みを晴らしたいと思う。そこで、人類は“呪術”を発明します。まじないの言葉、特定の植物や動物の骨などを使って、何かを可能にしようとする。呪術は1人で、または少人数で行われます。やがて、人類はトランス状態になることを覚えます。その方法は、大別すると2つあって、1つには長時間踊り続けるなどの方法があります。2つ目は、麻薬を利用する方法です。それが“祭祀”の起源だと思われます。呪術と違って、祭祀は大人数で行われます。すると、メンバーの中から、トランス状態になり易い人、トランス状態をコントロールできる人が現われます。その人が、やがて“シャーマン”となる。グループを代表してトランス状態になり、精霊などと意思疎通を図り、“お告げ”のようなものを得る。

上述の“言葉”から“シャーマニズム”に至る期間は、例えば“無文字社会の時代”と呼べるかも知れません。この時代のメンタリティの特徴としては、まず、“融即律”というものがある。これは、対立する2つの概念があったとして、一方を肯定することは、他方を否定することにならない、というものです。また、“類化性能”ということもあります。これは、合理的に考えれば特段の関係がない複数の物事に対し、その類似性なり関係性を認める、というものです。いずれにせよ、現代に生きる我々からしてみれば、非合理な考え方、と言えます。(但し、現代においても、天才的な芸術家などはこれらのメンタリティを“直観”として維持している、というのが私の意見です。)

ところで、上記の無文字社会の時代においては、人間の個性というものはどのように考えられていたのでしょうか。もしかすると一人ひとりの人間が特徴を持っているという発想がなかったのかも知れません。そうではなくて、当時の人々は、人間の集団に特徴を持たせることに腐心していたように思えます。例えば、トーテミズム。これは、特定の動物などと、特定の人間集団を結びつけるものです。日本にトーテミズムはなかったと言われていますが、日本には家紋があり、屋号があり、暖簾があり、各地域を象徴するような神社があります。従って日本も例外ではなく、人間の個性は注目されず、各人が所属している共同体と、その内部における結束力が重要だった。

伝統文化が、人間の個性というものに注目していない理由がここにあると思うのです。以前、盆踊りの行列に出くわしたことがありますが、全員が同じ浴衣を着て、リズムに合わせて同じように踊り、笠を被って顔が見えないようにしている。そこに、個性という発想は見受けられません。また、茶道、華道、歌舞伎、日本画などにも流派というものがあって、基本的には師匠の技を弟子が継承していく。あまり、個性には注目されていない。

やがて、人類は文字を発明します。すると、シャーマニズムの体系化、組織化が可能となり、宗教が生まれます。そして、宗教と渾然一体となった国家が生まれる。宗教国家とでも言いましょうか。日本で言えば、仏教を採用した聖徳太子が17条憲法を作ってから、第二次世界大戦で敗北するまでの期間がこれに相当すると思います。宗教国家の時代は、宗教上の戒律、封建制、曖昧な法律などが人々を縛りあげ、個人の自由は否定された。この時代のメンタリティを簡単に言うと、個性と自由を否定するものであった。戦時中の話は、私が述べるまでもありません。

さて、ここで少し、個人的な体験について、述べさせていただきます。

私は、昭和の時代に地方で製造業を行っている会社に就職しました。その会社での1年のサイクルは、まず、正月に上司の家に集まることから始まるんです。そして、桜の時期には、花見がある。若手社員は上司の命令で、仕事は早めに切り上げて、花見の場所取りに行かされます。お酒を飲み過ぎて、喧嘩になるようなこともありました。夏には、全社を挙げて夏祭りを開催します。秋には、慰安旅行もあります。当然、夜は宴会になる訳ですが、その際にはセクション単位で、隠し芸をやらされるんです。今の人からすれば、信じられないと思いますが、昭和の会社というのは、結構そういうものだったんです。折角の日曜日でも、野球大会をやるから出て来い、というようなことがしょっちゅうある。休日がどんどん潰されていく。当時、先輩が「若い者に暇を与えると、悪い本でも読んで共産主義に染まるから、時間を与えないんだ」ということを言っていました。私は、共産主義には染まらないので自由にさせて欲しい、と心の底から思ったものです。今から思えば、当時、その会社のメンタリティは、プレモダンだったんですね。個性は顧みず、自由は与えない。共同体としての会社組織があって、その内部の結束力が重要だった。そういう価値観だった。

その会社は、10年程前にスウェーデンの会社に買収されました。私としては、ヨーロッパの会社なので、合理的な会社になるだろうと期待したものです。しかし、ある時、スウェーデンまで呼び出されたのですが、そこで何をしたかというと、グループに分かれて海辺でカニ釣りをするんです。1メートル程の釣竿を渡されるのですが、先端にタコ紐がついている。岩肌にへばりついている貝を石で叩き割って、それをタコ紐の先端に結びつける。水際にそれを垂らして上下させていると、運が良ければ小さなカニが採れる。もちろん、親睦とレクリエーションとしてやっているのですが、私としては12時間もかけて、ほとんど地球の反対側から来ている訳で、やり切れませんでした。また、別の機会には、ホテルの大ホールを借り切って隠し芸大会をやる。目的は共同体の結束力強化であって、結局、スウェーデンの会社もプレモダンだったんです。

スウェーデン人を批判する訳ではありません。人口9百万人の小さな国です。それなりの事情もあるのでしょう。しかし、数日前、ネットである記事を見つけたのです。記事によれば、スウェーデン徴兵制が復活されるということです。さもありなん、という感じがします。このように、政治状況と人々のメンタリティには、密接な関係があると思うのです。

No. 75 雑感とブログタイトル変更のお知らせ

武田泰淳の「ひかりごけ」には、人肉喰い(カニバリズム)に対する強烈な嫌悪感という集団の無意識を背景として、全人格が否定される個人(船長)が描かれていました。今どきそんなことはない、と思われる方もおられるでしょうか。確かに、最近はカニバリズムについての話は聞かなくなりました。しかし、出来事の本質は、今でも変わらないと思うのです。例えば、最近こんな話がありました。福島から避難してきた子供が、避難先の学校でイジメを受けているというのです。放射能に対する恐怖感という集団の無意識があって、想像力の不足した人たちが、特定の個人を攻撃する。性的なマイノリティーの人たちを最近ではLGBTと言うようですが、これらの人たちも差別を受けている。アイヌ民族の人々も、未だに差別を受けていると感じています。本質的には、皆、同じメカニズムが働いていると思うのです。

ひかりごけ」という作品は、武田泰淳という作家の直観が、集団の無意識を真っ向から否定した作品であると言えます。

少し戻って、小川国夫の「葦の言葉」では、ドストエフスキーの小説、「悪霊」に登場するキリーロフという人物が、ロシア人にとっては肉体化している観念である聖人譚に従って自殺する、ということが述べられていました。ここでは、集団の無意識がキリーロフの直観を支配していた。

このように、人間の直観と集団の無意識の間に存在する緊張関係というものが、浮かび上がってきたように思います。

こうしてみますと、このブログで扱ってきた私の文化論、芸術論は、No. 57に掲載致しました“芸術を生み出す心のメカニズム Version 3”というチャート図に集約されますが、一応、完成したように思います。

多少の充実感と共に、何だ、そういうことだったのか、という虚脱感もあります。文化とか芸術と言っても、それで天国へ行けたり、人間の存在理由が分かったりすることはありません。そして、このブログをどうするかということを思案した訳です。まとめの記事を書いて、終わりにするという選択肢もあります。しかし、それでは7か月も掛けてこのブログを書き、ニヒリズムに到達して終わることになってしまいます。(ニヒリズムは、到達点ではなく、出発点であるべきだ、というのが私の持論でした。)

そこで、ブログタイトルを変更して、もう少し続けてみることにしました。新たなブログタイトルは、「文化で遊ぶ」というものを予定しています。

「遊ぶ」という言葉は、少し不謹慎に聞こえるかも知れません。しかし、いい加減に遊ぶという意味ではありません。文化によって人間の存在理由が分かったりするようなことはないけれども、それでも人間には文化が必要なんだ、それで遊ぶのが人間なんだ、という気持ちを込めて、このタイトルにしたいと思うのです。

今後の記事の掲載予定ですが、当面、文学のフィールドで記事を掲載していきたいと思っています。但し、今後はもう少し肩の力を抜いて、やっていこうかなとも思っています。

No. 74 武田泰淳の「ひかりごけ」を読む(その2)

この作品を読んで、まず、読者の脳裏に強烈な印象を残すのは、第2部、すなわち洞窟のシーンではないでしょうか。登場人物が一人、また一人と死に、残った者がその肉を食べて生き延びる。言うまでもなく、人肉喰いに対する言いようのない嫌悪感というものは、現代に生きる日本人に共通する無意識であり、価値観です。それらに真っ向から挑むシーンが、ここで語られる。しかし、やがて私たち読者は、ある問いに向き合わされる。極寒の知床半島で、飢餓と向き合うという極限状況の中で、それは許されないのか? もし、自分だったらどうするだろう? 自らそう尋ねてみる読者の方もおられることと思います。そして、船長は「我慢している」と述べます。一体何を我慢しているのか、そんなことは分からないとも言います。当事者としては、確かにそうでしょう。空腹や寒さを我慢している。助かるあてのないことを我慢している。しかし、第三者である私からしてみれば、暖かい部屋で、コーヒーを飲みながら今、こうして原稿を書いている私の眼からすれば、根源的には、生き延びたいと願う本能と、人肉を食べることから生ずる嫌悪感との相克について、船長は我慢していたのだと思います。そんな船長の心情を察すると、簡単に彼を責めることはできない、という思いに行き当たります。

第3部の法廷におけるシーンでは、検事から容赦のない批判の言葉が船長に浴びせられます。そして船長は再び、「私は我慢しています」と述べる。この言葉は、第2部でも述べられているのですが、その意味は、少し変化しているように思います。もちろん、人間存在の矛盾や罪深さについて“我慢している”という意味では同じなのですが、法廷で述べられるこの発言には、極限的な状況を経験していない検事やその他の人々から裁かれるという理不尽さについても、“我慢している”という意味が付加されていると思うのです。

ここまでで、半分程度はこの小説を理解できたと思うのですが、ラストシーンで検事、裁判長、弁護士、傍聴人に至るまで、人々の首の後ろに光の輪が現われるということの意味は、まだ、分かりません。そこで、作家がこの作品に潜ませたストーリー・ラインを読み解く必要が生じます。そのきっかけは、第2部から始まるのです。八蔵が西川にこう述べる。「おめえの首のうしろに光の輪が見えるだ。(中略)昔からの言い伝えにあるこった。人の肉さ喰ったもんには、首の後ろに光の輪が出るだよ。緑色のな。うッすい、うッすい光の輪が出るだよ。何でもその光はな、ひかりごけつうもんの光に似てるだと」。

つまり、首の後ろに光の輪が現われるということは、その人が人肉を喰った、もう少し普遍化すると、その人が罪人であることを象徴しています。従って、ラストシーンで人々の首の後ろに光の輪が現われるというのは、それらの人々が罪人であることを意味している。では、明らかに人肉を喰ったことのない検事や裁判長が、どんな罪を犯したというのでしょうか。その意味を読み解くには、中学の校長がヒントになると思うのです。第1部から校長の発言を引用します。

「その船長は、仲間の肉を喰って、自分だけは丸々と太って、羅臼へやってきたんですからね。全く凄い奴がいますよ」
彼はそう言って、おかしくてたまらぬ風に、笑いを吹き出しました。

極限状況の中で苦悩した船長の心情について、この校長は何も理解していないんです。この校長には、想像力というものが不足していると思いませんか。だから作家は、第3部において、船長役を演ずる役者が、この校長に似ている必要があると述べているのだと思います。つまり、そんな無自覚な校長だって、その本質は船長と何ら変わらないのだと、武田泰淳は主張している。もう少し、普遍化してみますと、人肉喰いという集団の無意識が嫌悪する行為があって、しかし、やむを得ない状況の下、それを行ってしまった船長がいる。誰も、彼を否定することはできない。しかし、想像力が欠如した無自覚な人々が、船長を非難する。船長の全人格を否定する。もちろん、裁判の判決を書くのは裁判官ですが、その他の人々も心の中で、船長を断罪している。集団の無意識がそういう愚かなことを引き起こすんだ、そして、誰もがその加害者になり得るんだ、ということを武田泰淳は表現していると思うのです。

そして、この作品の最大のクライマックスは、エンディングではなく、第1部に描かれていると思うのです。“話し手”が校長に案内されて、“ひかりごけ”を見に行くシーンです。辺り一面に、普通の苔が生えている。それらの苔は、普段は光らない。しかし、何かのはずみで、光り出す。その光は、人肉を喰った人間の首の後ろに現れる光の輪と良く似ている。つまり“ひかりごけ”とは、罪深く、愚かな私たち人間を象徴している。作家の直観が、このシーンを生み出したとしか、言いようがありません。

武田泰淳の「ひかりごけ」は、新潮文庫で読むことができます。ご興味のある方は、是非、お読みください。

No. 73 武田泰淳の「ひかりごけ」を読む(その1)

前回の原稿で、「異類婚姻譚」という集合的無意識を背景とした、“鶴女房”という昔話を取り上げました。その延長線上で、もう少し新しい、集合的無意識を背景とした小説について検討しようと思ったのですが、そこで思いついたのが、表題の「ひかりごけ」だったという訳です。これは武田泰淳(1912~1976)の短編小説で、戦時中、難破船の船長が食人を行うという実際の事件を題材としています。この食人に対する嫌悪感というものは、普遍的で、集合的無意識に該当するのではないか、というのが私の見立てです。しかし、私の集合的無意識に対する解釈が拡大しつつあるのも事実で、言葉本来の意味を逸脱するかも知れません。そこで今後は、集団の無意識とか、集団の価値観と呼ぶことに致します。

さて、「ひかりごけ」ですが、これが当初の想定を超えて複雑で、難解なんです。様々な伏線が張られ、登場人物の発言は抽象化され、もしくは何かを象徴している。しかし前回同様、ストーリー・ラインに分解し、集団の無意識、作家の直観をキーワードにこの作品を解体することが可能ではないか。そういう気構えで、挑戦してみます。

この作品は、3部構成になっています。最初は、小説のスタイルで書かれており、話し手が羅臼を訪れ、この奇妙な事件を知るまでの経緯が記されています。そこで、事件の概要までが明らかにされます。その上で、事件の生々しさを排除するという目的で、また「上演不可能な戯曲」であるという前提のもと、第一幕が洞窟の中、第二幕が法廷のシーンという形で進行します。ストーリー・ラインを読み解くために必要最小限の要素をピックアップしたつもりなのですが、“あらすじ”が少し、長くなってしまったことはご容赦ください。

(あらすじ)
話し手は、9月に知床半島羅臼を訪れる。
中学の校長に案内され、“ひかりごけ”を見に行く。校長は「何の警戒心も反感も起こさせない、おだやかではあるが陰気でない人物」である。2人は「洞窟というよりは、奥に行くほど急にすぼまる、山腹のへこみ」へやって来る。「岩壁も地面も濡れて、水滴をしたたらせる。緑色のこけが、岩肌にも地面にも生えていますが、光る模様もない」ということで、2人はなかなか“ひかりごけ”を発見できない。あきらめかけたその時、「投げやりに眺めやった、不熱心な視線のさきで、見飽きるほど見てきた苔が、そこの一角だけ、実に美しい金緑色に光って」見える。結局、光の反射の加減や見る角度によって、苔が光って見えるのである。「何だ、みんなそうだったんですね」と校長が言う。そして帰り道、校長が“事件”について、語り出す。「その船長は、仲間の肉を喰って、自分だけは丸々と太って、羅臼へやってきたんですからね。全く凄い奴がいますよ」と言う。話し手は、校長に紹介されたS青年と会い、彼が編纂した「羅臼郷土史」を譲り受ける。その郷土史に、“事件”の記述があった。

大東亜戦争酣たりし昭和19年12月3日早朝、急務を負いし船団「暁部隊」は、知床経由、小樽港に向け根室港を出帆した」。郷土史の事件に関する記述は、このように始まっている。間もなく天候が急変し、嵐となる。船団は7隻~9隻で構成されていたが、その中の一隻、第五清神丸の機関部が故障し、難破してしまう。第五清神丸には、船長以下、7名の船員が乗っていた。海が荒れていて船を陸地に着岸させることができなかったので、まず、泳ぎの達者な青年が胴体にワイヤーを括り付け、陸地に辿り着き、追って他の船員もそのワイヤーにつかまりながら、陸地まで泳いで渡った。陸地に着いた一行は、励ましあいながら、歩き出し、山小屋に辿り着く。但し、何人の船員が小屋に辿り着いたのかは、判然としない。その小屋は、漁民が春はウニ、夏はコンブを採取するために宿泊し、冬は打ち捨てられているものだった。幸い、小屋の中には、マッチと手ごろな燃料が置かれていた。

船長が羅臼から21キロ離れたルシヤに姿を現したのは、航海から2か月後、昭和20年2月3日である。同年5月上旬、ウニ採集のため訪れた漁民が、リンゴ箱に詰められた人骨を発見し、事件が明るみに出る。船長の自白によれば、小屋に辿り着いたのは、彼と西川青年の二人だけであった。やがて、西川青年が死に、船長はその死体を食べた。しかし、「羅臼郷土史」の作者であるS君の「想像」は、異なっていた。S君によれば、西川青年と船長は、遂に発見されることのなかった3名の死体を食用に供し、最後に船長が西川青年を食べる目的で、殺害したとのこと。

戯曲の部 第一幕
登場するのは、以下の4名。
船長
船員西川
船員八蔵
船員五助

小屋は解体し、暖を取るための薪にしたため、一同は、洞窟の中にいる。
体力の弱った五助が「おらが死にたくねえわけはな。おら、おめえたちに喰われたくねえからだ」と述べる。間もなく五助は死亡し、船長と西川がその死体を食べる。八蔵は、生前の五助と約束したため、五助の死体を食べない。八蔵が西川にこう述べる。「おめえの首のうしろに光の輪が見えるだ。(中略)昔からの言い伝えにあるこった。人の肉さ喰ったもんには、首の後ろに光の輪が出るだよ。緑色のな。うッすい、うッすい光の輪が出るだよ。何でもその光はな、ひかりごけつうもんの光に似てるだと」。やがて、八蔵が死に、その死体を船長と西川が食べる。洞窟の中には、船長と西川の2名だけが残される。船長に殺されるのではないかという恐怖感から、西川は眠ることができない。西川に気持ちを尋ねられた船長は、次のように述べる。「おめえは自分で、何が一体せつねえだかわかったか、寒いのがせつねえだか、腹がへるのがせつねえだか、それとも仲間の肉を喰ったのがせつねえだか、助かるあてのねえのがせつねえだか、わかっか。わかるめい。わかるはずはねえだ。なあんもかんも入れまぜでせつねえだべ。何がせつねえのか、わかんねえくれえせつねえだべ。俺だってそうよ。俺だって、何を我慢してんのかわからねえくれえ、我慢してんのよ」。西川は、船長に喰われないよう海に身投げしようとするが、船長はこれを押しとどめ、殺害し、死体を食べてしまう。

戯曲の部 第二幕 法廷の場
脚注において、船長の顔が、筆者を洞窟に案内した、あの中学校長の顔に酷似している必要があると述べられている。
検事は、次のように述べる。「三名の被害者は、それぞれ程度の差こそあれ、人間的反省、人間的苦悩を示して死亡したのに反し、只一人被告のみは、最後まで、何ら反省も苦悩もすることなく生き残った。あまつさえ、犯罪発覚後も、平然としてその罪を後悔する様子が見えない」。検事に心情を述べるよう指示された船長は、こう述べる。「私は我慢しています」。以降、検事の尋問と船長の回答は嚙み合わない。やがて、船長はこう述べる。「あなた方と私は、はっきり区別できますよ。私の首のうしろには、光の輪がついているんですよ。よく見てください」。脚注に、こう記される。(検事の首のうしろに光の輪が点る。次々に、裁判長、弁護士、傍聴の男女にも光の輪がつく。互いに誰も、それに気づかない。)船長が、「見て下さい。よく私を見て下さい」といって、物語は終わる。