この作品を読んで、まず、読者の脳裏に強烈な印象を残すのは、第2部、すなわち洞窟のシーンではないでしょうか。登場人物が一人、また一人と死に、残った者がその肉を食べて生き延びる。言うまでもなく、人肉喰いに対する言いようのない嫌悪感というものは、現代に生きる日本人に共通する無意識であり、価値観です。それらに真っ向から挑むシーンが、ここで語られる。しかし、やがて私たち読者は、ある問いに向き合わされる。極寒の知床半島で、飢餓と向き合うという極限状況の中で、それは許されないのか? もし、自分だったらどうするだろう? 自らそう尋ねてみる読者の方もおられることと思います。そして、船長は「我慢している」と述べます。一体何を我慢しているのか、そんなことは分からないとも言います。当事者としては、確かにそうでしょう。空腹や寒さを我慢している。助かるあてのないことを我慢している。しかし、第三者である私からしてみれば、暖かい部屋で、コーヒーを飲みながら今、こうして原稿を書いている私の眼からすれば、根源的には、生き延びたいと願う本能と、人肉を食べることから生ずる嫌悪感との相克について、船長は我慢していたのだと思います。そんな船長の心情を察すると、簡単に彼を責めることはできない、という思いに行き当たります。
第3部の法廷におけるシーンでは、検事から容赦のない批判の言葉が船長に浴びせられます。そして船長は再び、「私は我慢しています」と述べる。この言葉は、第2部でも述べられているのですが、その意味は、少し変化しているように思います。もちろん、人間存在の矛盾や罪深さについて“我慢している”という意味では同じなのですが、法廷で述べられるこの発言には、極限的な状況を経験していない検事やその他の人々から裁かれるという理不尽さについても、“我慢している”という意味が付加されていると思うのです。
ここまでで、半分程度はこの小説を理解できたと思うのですが、ラストシーンで検事、裁判長、弁護士、傍聴人に至るまで、人々の首の後ろに光の輪が現われるということの意味は、まだ、分かりません。そこで、作家がこの作品に潜ませたストーリー・ラインを読み解く必要が生じます。そのきっかけは、第2部から始まるのです。八蔵が西川にこう述べる。「おめえの首のうしろに光の輪が見えるだ。(中略)昔からの言い伝えにあるこった。人の肉さ喰ったもんには、首の後ろに光の輪が出るだよ。緑色のな。うッすい、うッすい光の輪が出るだよ。何でもその光はな、ひかりごけつうもんの光に似てるだと」。
つまり、首の後ろに光の輪が現われるということは、その人が人肉を喰った、もう少し普遍化すると、その人が罪人であることを象徴しています。従って、ラストシーンで人々の首の後ろに光の輪が現われるというのは、それらの人々が罪人であることを意味している。では、明らかに人肉を喰ったことのない検事や裁判長が、どんな罪を犯したというのでしょうか。その意味を読み解くには、中学の校長がヒントになると思うのです。第1部から校長の発言を引用します。
「その船長は、仲間の肉を喰って、自分だけは丸々と太って、羅臼へやってきたんですからね。全く凄い奴がいますよ」
彼はそう言って、おかしくてたまらぬ風に、笑いを吹き出しました。
極限状況の中で苦悩した船長の心情について、この校長は何も理解していないんです。この校長には、想像力というものが不足していると思いませんか。だから作家は、第3部において、船長役を演ずる役者が、この校長に似ている必要があると述べているのだと思います。つまり、そんな無自覚な校長だって、その本質は船長と何ら変わらないのだと、武田泰淳は主張している。もう少し、普遍化してみますと、人肉喰いという集団の無意識が嫌悪する行為があって、しかし、やむを得ない状況の下、それを行ってしまった船長がいる。誰も、彼を否定することはできない。しかし、想像力が欠如した無自覚な人々が、船長を非難する。船長の全人格を否定する。もちろん、裁判の判決を書くのは裁判官ですが、その他の人々も心の中で、船長を断罪している。集団の無意識がそういう愚かなことを引き起こすんだ、そして、誰もがその加害者になり得るんだ、ということを武田泰淳は表現していると思うのです。
そして、この作品の最大のクライマックスは、エンディングではなく、第1部に描かれていると思うのです。“話し手”が校長に案内されて、“ひかりごけ”を見に行くシーンです。辺り一面に、普通の苔が生えている。それらの苔は、普段は光らない。しかし、何かのはずみで、光り出す。その光は、人肉を喰った人間の首の後ろに現れる光の輪と良く似ている。つまり“ひかりごけ”とは、罪深く、愚かな私たち人間を象徴している。作家の直観が、このシーンを生み出したとしか、言いようがありません。