文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 107 遊びとは何か(その7)/戦い始めた中世の遊び

厳密には、大型動物を追いかけて日々移動していた時代と、農耕を始めて定住し始めた時代の間に、中間的な生活形態があったようです。生活の糧は相変わらず狩猟、採集にありましたが、簡単な住居を構えてキャンプのような生活をし、必要に応じて移動する、というのがそのパターンです。

 

ここでは簡単に、農耕、牧畜を生業とし、定住し始めた時代を中世と呼ぶことにしましょう。

 

考えてみますと、“定住”するということは、人々の暮らしに劇的な変化をもたらしたはずです。まず、住居を作る技術が発達する。農作物は保存が可能だったので、食料に対する所有という概念が生まれる。ちなみに、日本の弥生時代には高床式の住居が作られましたが、これは床が地面から浮いているので、湿気を避けることができ、食料の保存に適していたと言われています。

 

保存されている食料や家畜という資産が生まれますと、その取り合いによって、部族間の争いが生じる。武力衝突を起こしますと、味方の側にも相当な被害が生じますので、好んで戦っていた訳ではないと思うのですが、飢饉のような状況が生じますと、武力による食料の争奪戦は不可避だったように思われます。こうなってきますと、他の部族、すなわち人間集団というものが、人々にとって、恐怖の対象となる。別の言い方をしますと、自然や動植物を興味の対象としていた古代に対し、人間が人間に興味を持ち始めたのが中世だと言えないでしょうか。

 

このような変化は、“遊び”の世界を一変させたのだと思います。では、個々の類型に従って、考えてみます。

 

競争系・・・人間同士で、競争する遊びが生まれた。その典型は、現代にも残っているスポーツです。競争するためには、ルールが必要で、この競争系の遊びと共にルールというものが生まれた。例えば、ヨーイドンと言ってから走り始めなければ、競争にならない。法律の原点は、遊びにあるという説まであります。また、多くのスポーツは、狩猟の際に要求された身体能力にルールを持たせて成立しているように思います。やり投げ、アーチェリー(弓道)などは、狩猟のための基本動作にルールを加えて、成り立っている。走る、投げる、跳ぶ、泳ぐなどの人間の基本的な身体能力は、農耕ではなく、狩猟において要求されたものだと思います。そして、これらの動作というのは、どう考えても単調な農作業よりも楽しい。そうしてみると、古代の仕事が、中世の遊びに変化したとも言えます。

 

ギャンブル系・・・ギャンブルが成り立つためには、負けた者が何らかの対価を支払う必要があります。従って、ギャンブルという遊びは、所有という概念が発生した後に生まれたものと思われます。

 

技能習熟系・・・家を作る、農機具を作るというところから、人々は技術を磨いていったものと思われます。そして、簡単な遊び道具を作るようになる。独楽やけん玉が生まれ、技能習熟系の遊びというものが発達したものと思われます。(但し、けん玉については、狩猟採集民が動物の骨で作ったのが最初だと言われているようです。)

 

ここまで見て来ますと、遊びというのも、その時々の社会環境に影響されながら、今日まで続いてきたことが分かります。ただし、そこに遊びの本質がある訳ではないように思うのです。歴史や政治や経済に影響を受けつつ、しかし、遊びを発明してきたのは、時の権力者ではなく、常に庶民の側だった。だから、遊びの世界というのは、平等なのかも知れませんね。中世という時代区分を考えますと、例えば士農工商などという階級制度があった。宗教の世界でも、神様に近い人が上で、遠い人が下の階級に置かれる。これらの階級制度に反して、遊びの世界というのは、開かれていて平等だと思うのです。確かに、何らかの財貨を持っていなければ、ギャンブルには参加できません。ルールを知らなければ、ゲームに加わることはできない。しかし、それらのハードルは、決して高くない。お殿様でも、商人でも、スゴロクをする時には、同じサイコロを振らなければならない。そこに、遊びの本質があるような気がします。誰でも、同じ条件で参加できる。それが遊びの本質ではないでしょうか。遊びを生み出してきた庶民の素朴さと優しさ。それが人々を惹きつけて止まない、遊びの魅力ではないかと思うのです。

No. 106 遊びとは何か(その6)/遊びの起源は古代にあり

いくつか視点を変えながら、“遊び”について考えてきましたが、やっとその輪郭が見えてきたように感じています。

 

結局、遊びの起源というのは、古代にある。我々ホモサピエンスの歴史を概観しますと、20万年前にアフリカで始まり、農耕と牧畜が開始されたのが1万年ほど前ですので、19万年、すなわち95%は、狩猟、採集を生業としてきた訳です。従って、多くの遊びや文化の起源も、この時代にあるんだと思います。日本に限って考えた場合でも、縄文人が日本列島に渡ってきたのは4~3万年前で、農耕文化を持ち込んだ弥生人の渡来は、わずか2300年前だと言われています。

 

ここでは大雑把に、狩猟、採集を生業としていた時代を“古代”と呼ぶことにします。

 

人間が何か、未知なるものと出会う。古代において、それは主に自然だった。そして、好奇心が触発された人間は、その未知なるものに対し、能動的に働きかけてみる。創意工夫を凝らして、なんとかそれを役立てる方法を探す。そして、遊びが始まったのだと思います。例えば、一本の木と出会う。なんとなく、蹴とばしてみる。枝を折ってみたりする。登ってみると、実がなっている。その実をちょっと齧ってみる。そういう生活態度は、狩猟、採集民が生きていく上で、必要不可欠だったように思うのです。

 

狩猟採集民は、部族同士で争わなかったので、人間という存在は、恐怖の対象にはならなかったのだと思うのです。だから、狩猟採集民は人間に興味を持たず、もっぱら動植物に興味を持っていた。第一に、動植物は彼らにとって、貴重な食料だった。また、彼らは動植物になぞらえて、様々な仮説を立て、世界を理解しようと努めていた。それは、民族の起源であったり、火の起源であったり、あらゆる自然現象に対して仮説をたてた。すなわち物語を作って、理解しようとしていた。彼らは、動物の所作や鳴き声を真似てみた。次に、動物の毛皮や鳥の羽を使って、みずからを飾り立ててみた。そうやって、動物にまつわる物語を演じていたのだと思われます。それが、体系化されると“祭祀”となり、宗教色を帯びてくる。

 

狩猟採集民は、ヤリ、吹矢、弓矢などの武器を作り出した他、船を発明し、貝殻などを用いた装飾品も作り出しています。それらの産物を作り出す原点には、遊びがあったことでしょう。

 

では、No. 102の原稿で列記致しました遊びの種類のうち、古代に誕生したと思われるものを挙げてみます。

 

自然享受系・・・自然の恵みを享受するタイプの遊びは、この時代に生まれたに違いありません。

 

物語系・・・前述の通り、民族の起源等に関する神話、民話が無数に存在します。

 

演劇系・・・祭祀において、動物に扮した古代人が、演劇のようなものを行っていたものと思われます。

 

美術系・・・1万5千年前に描かれた洞窟画が、フランスのラスコー洞窟で発見されています。

 

音楽系・・・様々な民族が独自のリズムと独自の音階を用いた民族音楽を発明しています。これは私の想像ですが、鳥の鳴き声などを真似るところから、歌が発生したのかも知れませんね。

 

トランス系・・・長時間踊り続ける、極度の苦痛を受ける、麻薬を使用するなどの方法により、古代人はトランス状態になっていたようです。

 

但し、古代人が良く遊んでいたかどうか、という点については、議論がありそうです。そもそも、狩猟、採集という行為は、それ自体が遊びの要素を持っている。例えば、弓矢で動物を射止める。私はやったことがありませんが、動物が可哀想だという点を除けば、これは随分楽しそうです。また、山野に分け入り、果実を採集する。これも楽しそうです。よって、この時代においては、仕事と遊びとが、まだ、遊離していなかったと言えるのではないでしょうか。従って、彼らの生業自体を遊びだと定義すれば、古代人程、遊んだ人類はいないと思うのです。いやいや、それは食料を確保するための仕事であって遊びではない、と理解すれば、古代人はあまり遊ばなかったことになります。そもそも、狩猟、採集自体が楽しいので、他に遊びを見つける必要が少なかったものと思われます。

No. 105 遊びとは何か(その5)/ 狩猟採集民の遊び

No. 102の記事で、遊びの種類について述べましたが、どうも種類が多く、まだ、本質が見えて来ないように感じます。ビー玉を例に取って考えますと、その構成要素は3つある。第一にビー玉という遊具、第二に地面の穴なり枠組みなどの場所。第三に、ルールというものがある。なるほど、遊びの本質は、任意に策定されたルールにあるのではないか。こう考えますと、野球も、サッカーもそうなんですね。野球のボールという遊具があり、野球場という場所があり、そしてルールがある。しかし、ルールのない遊びもある訳です。駒遊びというのは、駒が回るから楽しい。凧揚げというのは、凧が上がるから楽しい。それだけなんですね。

 

そんなことを考えながら「遊戯の起源」(文献1)を読んでいたところ、面白い記述に出会いました。まず、「悲しき熱帯」という本の中でレヴィ=ストロースは、ブラジルの狩猟採集民について、次のように述べています。

 

「ナンビクワラ族の子供たちは遊びを知らない。ときどき彼らは、藁を巻いたり編んだりして何かを作るが、それ以外の遊びといえば、仲間同士で取っ組み合いをしたり、ふざけたりするだけで、あとは大人を真似たような日々を過ごしている」。

 

これに対して、「遊戯の起源」の著者である増川氏は、次のように反論しています。

 

「遊びを知らないのでなく、ヨーロッパ人の視点から、「競争していない」ので、遊びと認識しなかったのであろう。実際に子供たちは猿や鶏の動作や鳴き声を真似して遊んでいたようである。(中略)その頃の狩猟民の間では、人と人との競争関係はなく、収穫は平等に分けあっていた」。

 

上記の説明は、以前、このブログに書きました私の考え方と一致するのです。すなわち、狩猟採集を行っていた時代、人類は縄張りというものを持たなかった。従って、人類同士で争うこともなかった。また、狩猟採集によって得られた食物は保存できなかったし、皆が生き延びていくため、食物は比較的平等に分配されていた。例えば、縄張りを持たないゴリラなどは、未だにそうやって暮らしている。やがて、人口が増加し、狩猟採集だけでは食料を賄い切れなくなる。そして、人類は農耕、牧畜を始める。この農耕とは、土地を占有することであり、動物の世界における縄張りと同じものを人類も持つことになった。そして、人間同士の戦いが始まる。

 

このように考えますと、戦ったり、競争したりする遊びというのは、人類が農耕作業を始めた後に生まれたのではないか、という仮説が成り立ちます。

 

ついでに申し上げますと、演劇系の遊びというのは、人間が動物の真似をするところから始まったのではないでしょうか。そこから、祭祀へと繋がっていったような気が致します。

 

(参考文献)

文献1:遊戯の起源/増川宏一平凡社/2017

No. 104 遊びとは何か(その4)/ それでもジャズは死なない

前回の原稿で、マイルス・デイビスが死去してから、ジャズは急速に衰退していったということを述べましたが、では、ジャズがその後どうなったのか、考えてみたいと思います。

 

統計上のデータがある訳ではありませんが、例えばCDの売上枚数、ジャズをやっているライブハウス、バー、クラブの軒数など、いずれも減少傾向にあることは、間違いないと思います。

 

マイルスが生きていた時代は、マイルスが引き起こす大きなムーブメントがあって、誰もがマイルスの新作を待ち望み、新作が出る度に評論家たちは色めき立って、賛否両論を繰り広げていました。1960年代の末頃からでも、そのムーブメントは、その都度、エレクトリック、ファンク、フュージョンなどと呼ばれていました。更に、マイルスの死後には、マイルスがラップと自らの音楽を融合させたアルバムが発売され、私などは度肝を抜かれたものです。

 

マイルスの死後、そのようなムーブメントは、起こっていない。

 

では、ジャズがなくなったかと言うと、そうではないと思うのです。例えば、私の自宅の近所にファミレスのような居酒屋のようなチェーン店があるのですが、BGM にはいつもジャズが流されている。それはもちろん、70年代にマイルスがやっていたような前衛的な音楽ではなく、ソフトなスタンダードジャズなのですが、そうは言ってもジャズであることに間違いはない。CDショップへ行くと、昔のジャズミュージシャンの作品が、3枚で2千円とかで売っていたりする。

 

一度、芸術の域まで高められた文化というのは、その後、衰退するけれども、ある程度の規模まで普及したものは、簡単には無くならない。但し、その文化の歴史の中で、前衛的であった部分というのはポピュラリティがないので、消えやすい。一方、芸術の域に達する前の、大衆文化の段階にあったもの、別の言い方をすると、その文化のベーシックなものが残りやすい。もしくは、そこに回帰していくのではないか。そんな風に思うのです。

 

このような仕組みで、文化というものは、その層を積み重ね、多様化し、生き続けていくのかも知れません。そしていつの日か、そうやって確立された文化の様式を打ち壊す天才が現われる可能性も、否定はできないように思います。但し、私が生きている間に、マイルスのような天才が再び現われる可能性はないと思いますけれども・・・。

 

ピークを過ぎた文化が、ベーシックなものに回帰してくということですが、このようなことを考えていますと、ローリング・ストーンズが2~3ヶ月前に発表したBlue & Lonsome がブルースを扱っていたのも、あながち偶然ではないような気がするのです。

 

 

 

 

 

 

No. 103 遊びとは何か(その3)/打ち捨てられたもの

今朝、少し遅い時間に目覚め、そして、突然ひらめいたのです。遊びとは、打ち捨てられたものから始まるのではないか。

 

例えば、こんな話があります。アメリカの黒人は、かつてブルースという音楽を発明しました。それが発展して、やがてロック・ミュージックが生まれた訳です。そして、ブルース・ギターの奏法の一つにボトルネックというものがあります。通常ギターを弾く時には、左手でギターの弦をネックに押さえつけて、右手で弦を弾きます。しかし、このボトルネックという奏法では、左手の小指などを割れた瓶の飲み口に差し込み、その瓶の飲み口の部分を弦の上でスライドさせるんです。すると繋ぎ目なく、音をスラーさせることができる。また、特にエレキギターでこの奏法を用いた場合には、太い音が出るんです。このボトルネック奏法が、ブルースに豊かな色彩を与え続けてきたことは、間違いありません。それどころか、その後のロックギタリストも、この奏法を踏襲しています。有名なところではエリック・クラプトンジェフ・ベックジミー・ペイジなど、皆この奏法を使っています。(ボトルネックの名手と言えば、個人的にはジョニー・ウィンターだと思いますが!)

 

さて、この奏法がどうやって生まれたかと言うと、それはアメリカの黒人の誰かが、酒場の片隅かどこかに打ち捨てられていた酒瓶を見て、まず、その飲み口に指を突っ込んでみた。そして、それでギターを弾いてみたとしか言いようがありません。色々な瓶を割って、試してみたのでしょう。割ったままでは危険なので、切り口をコンクリートか何かに擦りつけて丸みを持たせたりしたのだと思います。(ちなみに、今ではボトルネック奏法専用の器具が販売されています。)

 

そう言えば、ビー玉の名前の由来ですが、こんな説もあります。かつてビー玉はラムネの瓶に入れることを目的として生産されていた。そして、規格に合格したものをA玉と呼び、規格外の不良品をB玉と呼んでいた。このB玉が子供たちの遊び道具になった、というものです。

 

また、このブログでも何度か取り上げました文化人類学レヴィ=ストロースは、その著書「野生の思考」の中で、ブリコラージュということを述べている。どういうことかと言うと、まず、現代人は完成された規格品ばかりを用いているから、そこから生まれるものも完成されてはいるが、それ以上発展しない。だから、近代以降の文明は行き詰まってしまったのである。他方、未開人は身の回りにある“ありあわせ”の物を使って、何かを生み出そうとする。そこから生み出される物はいつまでたっても未完成であり、変化をし続ける。レヴィ=ストロースは、こういう文明批評を行った訳ですが、この“ありあわせの物”を使って何かを生み出すという行為をブリコラージュと呼んでいたように記憶しています。

 

ここまで考えますと、ある仮説に行きつきます。まず、“打ち捨てられたもの”若しくは身の回りにある“ありあわせの物”がある。そこから、遊びが生まれる。遊びが体系化され、普及すると、それが大衆文化となる。時には天才的な人が現われ、大衆文化を芸術の域にまで高める。そこまで行ってしまうと、それ以上の発展が望めず、その文化は衰退してゆく。

 

上記の仮説に従って、ジャズの歴史を考えてみます。

 

まず、アメリカ大陸にやって来た白人の軍楽隊があって、彼らが古くなったり、壊れたりした楽器を廃棄した。これを黒人が拾い集めて遊び始める。もともと楽器が壊れているので、正確な音が出ない。そのため不協和音が生じ、フォービートと呼ばれるリズムと相まって、初期のジャズがニューオーリンズで誕生する。やがて、ジャズは全米に広がり、大衆文化として普及する。するとマイルス・デイビスという天才が登場し、ジャズを芸術の域まで高めた。マイルスの演奏を聞くと、「ああ、もうこれ以上はないな」と多くの人たちが納得してしまった。1991年にマイルスが死去すると、その時からジャズは急速に衰退して行った。

 

上記の仮説を、箇条書きにしてみます。

 

1.打ち捨てられたもの

2.遊び

3.大衆文化

4.芸術

5.衰退

 

ビー玉から始めた今回のシリーズですが、もう少し続けてみましょう。

No. 102 遊びとは何か(その2)/遊びの種類

どうもビー玉のことが気になって仕方がありません。ネットで調べてみると、そもそもガラス玉というのはエジプトや中東の遺跡からも発掘されている。また、ポルトガル語でガラスのことをビードロと言うようで、これが変化してビー玉という呼び名が発生したという説もあります。更に、日本におけるビー玉遊びの起源は、平安時代にまで遡るとのことで、これはもう大変長い歴史があることが分かります。

 

そうしてみると、まず、ビー玉なるものが存在したんですね。人々はこの小さくて、綺麗なガラス玉を見て思った。なんとかして、これで遊べないものだろうか、と。転がしてみる。他のビー玉にぶつけてみる。そうこうするうちに、誰かが指で弾いてみた。すると、ちょっとこれは楽しい感じがする。そしてまた、別の誰かが地面に穴を掘って、そこを目指してビー玉を弾いてみる。これはなかなか面白いということで、様々な遊び方、ルールが発明されていく。前回の原稿への書き込みで、S. DENDAさんが、中部地方に伝わる遊び方を紹介してくださいましたが、こちらは地面に穴を掘らないんですね。これはちょっと、驚きでした。

 

ビー玉の遊び方には、特許も実用新案もない訳で、誰が何を発明したというのは、もう分かりませんが、強いて言えば、それは学者や研究者ではない。庶民と、その子供たちが発明したとしか言いようがありません。歴史の中に埋もれてしまった、名前も顔も分からない誰か。そんな人たちの創意工夫の積み重ねによって、ビー玉という遊びの文化が成立したんだと思うのです。

 

ちなみに、当時、私が住んでいた地域(千葉県)では、色付きのビー玉のことを“色ビー”と呼んでいました。また、“ガスビー”と呼ばれるものもあった。これは、子供が普通のビー玉をコンクリートとかアスファルトに擦り付けて、表面を傷だらけにしたビー玉のことなんです。こうすると爪で弾きにくくなりますし、見た目も綺麗ではない。ただ、子供が好奇心で作ってみたというだけのものです。また、何度が友達からビー玉をもらったような記憶もあります。当時の子供たちにとって、ビー玉には財産的な価値があった。それをプレゼントするということは、子供ながらに、その属するコミュニティの中で円滑な人間関係を構築しようと試みていたのだろうと思います。

 

さて、前置きが長くなりましたが、本題に入りましょう。遊びの種類というのは、無数にあるのですが、ロジェ・カイヨワ(1913~1978 フランス人)という人が、それを体系的に分類しようと試みたのです。その内容をちょっと、ご紹介致します。(文献1)なお、各項目は外国語で表されていますので、末尾に私なりの日本語を記載致します。

 

アゴン・・・すべて競争という形をとる一群の遊び。スポーツ競技、チェスなど。(競争系

 

アレア・・・遊戯者の力の及ばぬ独立の決定の上に成り立つ全ての遊び。ルーレット、バカラなど。(ギャンブル系

 

ミミクリ・・・架空の人物となり、それにふさわしく行動することによって成り立つ遊び。ままごと、兵隊ごっこなど。(演劇系

 

イリンクス・・・眩暈(めまい)の追求に基づくもろもろの遊び。一時的に知覚の安定を破壊し、明晰であるはずの意識をいわば官能的なパニック状態におとしいれようとするものである。(このイリンクスに関する具体例としては、宗教的な儀式とか、バンジージャンプのようなものが挙げられています。文化人類学の知識に照らしますと、これは祭祀によってもたらされる熱狂のことを指していると思われますので、「トランス系」と呼ぶことにします。そう言えば日本でも“失神遊び”というのが、流行したことがありました。)

 

しかし、遊びの種類というのはもっと沢山あると思うのです。ちょっと、私が思いつくものを以下に列挙してみます。

 

技能習熟系・・・特に競争を目的とする訳ではなく、単に技能を習熟させることが目的となっている遊び。けん玉、竹馬、一輪車など。

 

身体感覚系・・・体を移動させることによって得られる身体感覚を楽しむ遊び。ブランコ、自転車など。

 

自然享受系・・・自然を楽しむ遊び。つくし採り、山菜摘み、ガーデニングなど。

 

音楽系・・・音楽。アマチュア・バンド、カラオケなど。

 

物語系・・・いわゆる文学に加え、子供たちが作り出す“学校の怪談”など。

 

他にもあるかも知れませんが、大体、“遊び”の類型というのはこんな所ではないでしょうか。

 

(参考文献)

文献1: 遊びと人間/ロジェ・カイヨワ講談社学術文庫

No. 101 遊びとは何か(その1)/ビー玉

このブログは文化が生まれるプロセスを考える所から出発しました。No. 1からNo. 24におきましては、言葉から始まり、物語、呪術、シャーマニズムなどを積み上げ、やがて宗教に至るという歴史主義的な検討を行いました。そして、そのプロセスにおいて、文学、絵画、音楽などの芸術が生まれた。例えば、絵画の起源は、狩りの様子を描いた洞窟の壁画であって、これは実際の狩りが成功することを願って、つまり呪術の一様式として描かれたという説をご紹介しました。今でも、それはそうなんだろうと思うのですが、それだけでもないような気も致します。何か、文化を生み出す力の源泉とでも言いますか、原動力としての“遊び”があったのではないか。

 

“遊び”とは取るに足らないもので、顧みる価値などないのかも知れません。しかし、人間はその歴史を通じて“遊び”を愛してきた。勉強をしたり、働いたりするよりも、“遊び”の方が楽しいと感じてきた。そして、無数の遊びを考案してきたという事実があります。そうしてみると、遊びとは何か、一度考えてみる価値があるのではないか。そう思って、いつもの本屋へ出掛けたのですが、幸い、若干の参考文献が見つかりました。現時点で、私に何らかの確信がある訳ではありませんが、参考文献の力も借りながら、少し“遊び”について考えてみたいと思います。

 

ところで、私が初めて夢中になった遊びはビー玉でした。小学1年か2年の頃だったと思います。地面に直径数センチの穴を直線上に3つ掘る。それぞれの穴の距離は、2メートル弱だったように思います。遠い方からA、B、Cとしますと、まず、Cの手前に立って、Aを目がけてビー玉を放り投げます。穴から遠い方の人から、順にビー玉をはじいてAを目指します。

 

ビー玉のはじき方は、2通りありました。まず、右手親指と中指(爪の側)の間にビー玉を挟み、中指で押し出すというやり方が一つ。次に、ビー玉を右手中指(腹の側)と親指の間に挟んで、親指の爪ではじき出すというやり方もありました。こちらの方が、次第に主流になっていきました。さて、無事Aの穴に入れると、順にB、Cの穴を目指し、次にB、Aと戻って来る。つまり、一往復するんです。すると、そのビー玉は鬼になる。鬼になった後で、他の競技者のビー玉にぶつけると、そのビー玉が自分のものになる。負ければ自分のビー玉を取られてしまうので、それは結構、必死になって遊んだものです。

 

それにしても、良くできたルールだなと、今でも思います。

 

私が住んでいた地域で何故、ビー玉が流行ったかと言うと、ある日、誰かが団地の日陰になっている所に、3つの穴を掘ったんです。その大きさと言い、距離と言い、それはもう申し分のないものだった。そこに子供たちが集まるようになって、ビー玉が流行ったんです。そこは、子供たちにとって社交場のような場所でした。大体、ポケットにビー玉を2つか3つ忍ばせて、子供たちがやって来る。初対面の相手でも臆することなく「ビー玉やろう」と言って、遊び始める。子供というのは相手の名前なんて、聞かなくてもいい。また、遊んでいて相手の持っているビー玉を全部取り上げてしまうと遊べなくなる。仕方がないので、一度、取ったビー玉を相手に返して、また遊ぶ。そんなことをしていたような気がします。

 

しかし、雨も降れば、風も吹く訳で、やがて地面に掘った穴はその縁から崩れていったのです。そしていつか、子供たちはその場所に集まらなくなった。

 

さて、私を含め、遊んでいた子供たちはビー玉から、何かを得たでしょうか。残ったものは思い出だけでしょうか。まだ、その答えを述べるのは早計に過ぎるように思います。ただ一つ言えるのは、大人たちとは隔絶した世界が、そこにあったということです。学校へ行けば先生がいる。家へ帰れば親がいる。しかし子供たちは、ビー玉を通して、そんな大人たちに干渉されない自分たちだけの自由な空間を作り上げていた。こんなことも、遊びの効用かも知れません。