文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 161 記号で読み解く日馬富士関暴行事件

前回の原稿では、文化を4つのステップで考えてみましたが、これは時間の経過をベースにした見方ですね。一方、(記号+〇〇)というのは、ただ、現在生きている文化を類型化したものです。こちらの方が、単純で分かり易いかも知れません。

 

ところで、将棋の世界では羽生善治さんが永世7冠を達成されました。大変な偉業だと思います。羽生さんは一体、何手先位まで読んでいるのでしょうか。凡人の私には、想像もつきません。そう言えば将棋というのは(記号+ルール)だなあと思ったりします。また、羽生さんと違って、私はPCやタブレットで将棋を楽しんでいます。いくらやっても上達はしませんが、何度でも“待った”を掛けられる。王手飛車取りが掛かったりしますと、画面を消してしまいます。本当の将棋というのは、負けると大変悔しいものですが、将棋ソフトに負けても、あまり悔しくはありません。これは何かに似ています。少し前の原稿で、最近の回転寿司などでは、作り手の顔が見えにくくなったということを書きましたが、私の場合、将棋を指していても、相手がいないんですね。相手がいないから、負けても悔しくない。悔しくないから、あまり意味がない。意味がないから、上達しない。そういうことかも知れません。

 

記号とは何かというと、それだけで膨大な論議があります。当面、このブログでは「人間が認知するシグナルのようなもの」ということにしておきましょう。

 

また、意味とは何かと考えますと、これがまた抽象的で良くは分からないのです。言語学では、言葉が表す意味を細分化する試みがなされたようですが、未だ、結論には至っていない。このブログでは「実体と、記号と、自分との強いつながり」というニュアンスでこの言葉を使っております。

 

さて、(記号+〇〇)という見方をしておりますと、元日馬富士関の暴行事件なども、見えてくるものがあります。ワイドショーなどによりますと、概ね、経緯は次の通りだったようです。

 

1 1次会の席で、白鵬関が貴ノ岩関に説教をし、日馬富士関は貴ノ岩関をかばった。
2 2次会の席で、再び白鵬関が貴ノ岩関に説教をした。貴ノ岩関はスマホをいじった。日馬富士関は、平手で貴ノ岩関を殴った。
3 貴ノ岩関が日馬富士関をにらんだ。少なくとも、日馬富士関はそう感じ、リモコンで貴ノ岩関の頭部を殴り、負傷させた。
4 日馬富士関は後日記者会見の席で、貴ノ岩関を「弟弟子」であると発言している。

 

大体、こんなところでしょうか。してみると、日馬富士関は同じモンゴル出身の貴ノ岩関との強い関係を認識していた。すなわち、日馬富士関にとって貴ノ岩関は(記号+意味)という存在だったのではないでしょうか。しかし平手でなぐった際、貴ノ岩関がにらみ返して来たと日馬富士関は主張している。これが、貴ノ岩関が発した記号だったと思うのです。たったそれだけの記号によって、日馬富士関は理解したのだと思います。すなわち、自分はこれだけ大切に思っているのに、貴ノ岩関の方は、自分のことを何とも思っていない。そこで、切れてしまったのではないか。

 

そもそも、貴ノ岩関は日馬富士関の「弟弟子」には当たらないと思います。両者は、所属している部屋が違います。それを「弟弟子」と言うところに、日馬富士関の強いつながりを求める心情を感じます。なんだか、フーテンの寅さんに似ていますね。憎めない人なんですが、他人との強いつながりを求め過ぎてしまう。

 

そして、貴乃花親方が登場します。どうやら、貴乃花親方の相撲観というのは、日本の伝統に従っているようです。相撲というのは、単なるスポーツではない。元来、相撲は五穀豊穣などを願って、神様に祈りを捧げる儀式だった。すなわち、貴乃花親方の相撲観は(記号+意味)なんだと思います。対する白鵬の相撲観は、(記号+ルール)なのではないでしょうか。

 

本場所が終わって、一行は巡業に出ます。そこで白鵬が着ていたジャージの背中に“モンゴリアン・チーム”とプリントされていて、これまた物議を呼んだ訳ですが、これは(記号+アイデンティティー)ですね。

 

ところで、ワイドショーが取り上げる話題には、共通点があるように思います。ちょっと前には、小池劇場というのがありました。その前には、森友学園の籠池劇場というのもありましたね。多くの視聴者にとって、これらは身近な問題ではありません。すなわち、大した意味はない。だから、気楽に楽しめる。また、キャラが立っていると言いますか、個性的な人物が次々に登場して来るんです。また、「これからどうなって行くんだろう」というワクワク感もある。これはどうやら、エンタメの1ジャンルとして認めても良いのではないか。キャラクター(記号)が沢山出て来て、ストーリーを展開していく。(記号+ストーリー)でいかがでしょうか。

 

北朝鮮の問題も、頻繁に報道されてきました。これもかつては(記号+ストーリー)として、結構多くの人たちが楽しんでいた。ところが、ミサイルが日本の上空を通過した頃から現実味を帯びて来て、(記号+意味)に変わったような気がします。

 

No. 160  4つのステップで文化は説明できる?

前回までの原稿で取り上げました「文化進化論」という文献は、私と考え方が異なっておりましたが、それでも大変勉強になりました。また、文化を情報であると定義したのは、ある程度、研究対象を限定しないと科学的な検討ができない、という理由からだったものと推測します。

 

また、前回の原稿で、私の家にあるものは全て、何らかの機能を持っていると書きました。これはこれで事実なのですが、世の中には明確な機能を持っていない文化の産物というものもあります。1つには、てるてる坊主や折り鶴など、呪術的な行為の産物。2つ目としては、絵画や彫刻などの芸術作品。

 

さて、いろいろヤヤコシイ言葉が出て来て恐縮ですが、シンプルに考えますと文化というのは、たった4つのステップで説明することが可能なのではないか、ということに思い当たりました。すなわち・・・

 

Step 1: 私たちが生きている世界はどうなっているのか

Step 2: 私たちは何者なのか

Step 3: 私たちが世界とのつながりを求める試み

Step 4: つながりを求めた結果としての物質文化

 

では、簡単にご説明致します。

 

Step 1: 私たちが生きている世界はどうなっているのか

昔から今日に至るまで、この問題は人々の関心事であったはずです。古代人は、まず、言葉を発明して身の回りの自然に名前を付けた。すなわち、自然を記号化した。更に、その言葉を使って物語(神話)を作った。すなわち仮説を立てて、様々な自然現象を説明しようとした。その集大成のようなものが、旧約聖書だと思います。天地創造の物語ですね。これは、大区分としては、精神文化に該当します。また、現代人である我々からしてみれば、ちょっと荒唐無稽な印象を受ける訳ですが、これらの神話を作った人々の精神構造を考えますと、論理的な思考が働いていたのではないかと思うのです。今日におきまして、人間の関心事は拡大し、宇宙の探査に乗り出している。これも、長い目で見れば、同じような試みではないでしょうか。このStep 1を単純に表しますと、(記号+論理)ということになります。

 

Step 2: 私たちは何者なのか

これも人類にとっては、普遍的な課題だと思います。そこで、古代人は自分達をグループに分けた。1つには、トーテミズムがある。例えば、イワム族のオオトカゲグループのようなものができる。職業別の区分などもあります。例えば、「俺はオオトカゲグループの兵士だ」ということになれば、一応、彼のアイデンティティーが確立されます。大区分としては、これも精神文化ということになります。このStep 2を単純に表しますと(記号+アイデンティティー)ということになります。

 

Step 3: 私たちが世界とのつながりを求める試み

人間が、自分の内心をなんとか現実世界において、形にしたいと望むのは、自然なことです。そこで、最初に登場したのが呪術だと思うのです。「あの人だけは許せない!」などと思って、藁人形を作る。「明日は晴れてもらいたい」と思って、てるてる坊主を作る。折り鶴も同じですね。人の内心が形になって現れたもの。これが呪術の産物だと思います。呪術はやがて洗練されていき、芸術が産まれたのではないでしょうか。ゴッホの絵画には、ゴッホの願いが込められている。大区分で言いますと、これは表象文化だと思うのです。呪術、芸術に関する表象文化を簡単に記しますと(記号+意味)ということになります。人々の強い願望、それが意味だということです。

 

しかし、表象文化には、他の種類もある。いわゆるエンタメと呼ばれるジャンルです。エンタメの本質は、自分の知らない世界であったり、架空の世界を作り出すことではないでしょうか。1つには、スポーツなど、(記号+ルール)というパターンがあります。2つ目としては、例えばディズニーランドのような(記号+イメージ)というパターンも想定されます。

 

Step 4: つながりを求めた結果としての物質文化

これはもう、あまり説明の必要はないかも知れません。大区分としては、物質文化で、簡単に記しますと(記号+機能)ということになります。

 

とても1回の原稿では説明し切れませんが、現在私が考えております文化の構造というのは、上記の通りです。大区分としては、精神文化、表象文化、物質文化の3種類があって、それを少し細かくすると上記の通り4つのステップで説明できる。これを略号で一覧にすると次の通りとなります。

 

(記号+論理)

(記号+アイデンティティー)

(記号+意味)

(記号+ルール)

(記号+イメージ)

(記号+機能)

 

全部で6つですね。なんとか、形が見えて来ました。もう少し、記号論表象文化論を検討する必要がありそうですが。

No. 159 文化進化論とは何か(その2)

本文献における一つの山場は、進歩と進化という点にあるようです。

 

まず、進歩の方から。19世紀のアメリカにルイス・ヘンリー・モーガンという人類学者がいたそうで、この人は「あらゆる人間社会が経てきた、あるいは今後経ることになる、7つの段階を提示したそうです。それは、次のようなものでした。

 

野蛮な状態・・・低位、中位、上位

未開の状態・・・低位、中位、上位

文明社会

 

そして、欧米の社会こそが文明社会であって、他の地域は野蛮若しくは未開であると位置付けたのでした。このような考え方は、当時の人種差別主義や植民地主義に理論的な基礎を与えることとなります。20世紀に入りますと、このような考え方は嫌悪の対象となります。(レヴィ・ストロースが果たした役割というのも、この辺りだと思われます。) そして「今日、多くの人類学者や社会学者が、新たな文化進化論の構築に慎重なのは、それが、科学的に疑わしい、政治的動機を持つ19世紀の文化進化論とつながっていると誤解されているからだ」ということになります。

 

生物学における進歩の概念には、次の特徴があります。

 

1 獲得形質は、遺伝する。(例: 体を鍛えて筋肉を増強した人の子供は、筋肉質になる。)

2 生物は段階的に複雑さを増し、累進的に進歩していく。

 

上記の考え方は、ダーウィンとそれに続くネオ・ダーウィン的な人々によって、否定されます。ちなみにダーウィンは遺伝子の仕組みまでは理解していなかったそうで、この点はネオ・ダーウィンの人々が解明したそうです。ダーウィンの進化論は、変異、生存競争、遺伝の3要素で成り立っているそうですが、これに加えネオ・ダーウィンの人々は、進化について、次の特徴を指摘したそうです。

 

1 獲得形質は、遺伝しない。

2 変異は無目的に起こる。

 

そこで本文献では、問題に直面するのです。では、文化は進歩するのか進化するのか。本文献は、蒸気機関の例などを挙げ、文化が進歩する可能性を指摘しています。結論は曖昧で、次のように記されているのです。「文化進化は場合によっては意図的に導かれ、その点において生物の進化とは確かな違いがあるということを、受け入れる心づもりをしておくべきだ」。

 

そもそも、「文化の進化はダーウィニズムによって説明できる」というのが本文献の基本スタンスな訳で、「文化は進化ではなく、進歩する場合がある」という上記のコメントには、著者の並々ならぬ苦渋が感じられます。

 

そこで、私の所感を述べさせていただきます。そもそも、本文献においては文化を情報であると定義している。そこに問題があるのではないかと思うのです。文化とは、もっと複雑だと思うのです。例えば、精神文化と物質文化がある。そして、その中間に位置する文化領域がある。もしかすると、私が便宜上、中間文化と読んだものが、世間では表象文化と呼ばれているのではないか。(この点は、今後の課題です。)

 

例えば、物質文化について考えてみましょう。私の眼前のテーブル上には、文化的な物質が沢山あります。そして、驚いたことに、その全てが何らかの機能を持っているのです。例えば、腕時計、灰皿、ハサミ、テレビのリモコンなど。逆に言えば、私の家の中には、機能を持っていない物体は、1つもありません。物質文化と言いますか、文化的な産物と言った方が良いかもしれませんが、これらの本質の1つには、機能ということがある。しかし、それだけではない。それぞれの物体が、何らかのイメージと言うか、主張のようなものを持っている。それは、色彩、形状、大きさなどによって表現されているのです。例えば、私の腕時計はシチズンのEco-Driveというものです。決して高級ではありませんが、最先端の技術を使っているんだぜ、というような主張をしています。このように、文化的な産物というのは、機能とイメージ(暫定的にこう呼ばせていただきます)の2つの要素から成り立っている。そう考えますと、機能の方は確実に進歩している。他方、イメージ(色彩、形状、大きさなど)は、進化している。すなわち、いろんなパターンが無目的に製造され、消費者が選択したものが流行する、ということではないでしょうか。

 

精神文化と物質文化は、ある程度分かってきたような気が致します。あとは、表象文化が分かれば、私なりの文化論ができあがるような気がしています。

No. 158 文化進化論とは何か(その1)

前回の更新から少し間があいてしまいました。その間、私が何をしていたかと言いますと、片手にマーカーを握りしめ、例の文献を読んでいたのです。まだ、半分位しか読み終わっていないのですが・・・。例の文献とは、すなわち「文化進化論」というタイトルの本のことです。詳細は末尾に記載。以下、本文献と呼ぶことにします。まず、本文献の基本的なスタンスについて、まとめてみましょう。

 

1 生物学は様々な生物を研究しているが、その根底にはダーウィニズムとその後の遺伝子の研究成果という共通の基盤がある。よって、例えば鳥類の専門家と昆虫の専門家が意見を交わすことが可能となっている。もう少し広い視点で見れば、前世紀において、自然科学と物理学は格段の進歩を遂げたにも関わらず、社会科学の方は、文化の変化について語る統一的な理論を提供するに至っていない。

 

2 現在、社会科学においては、マクロレベルの分野とミクロレベルの分野に分断されていて、互いに連携していない。

マクロ・・・マクロ経済学、マクロ社会学歴史学文化人類学、考古学

ミクロ・・・ミクロ経済学、ミクロ社会学、心理言語学神経科学、心理学

 

3 本文献においては「文化とは、模倣、教育、言語といった社会的な伝達機構を介して他者から取得する情報である」と定義する。このように考えた場合、若干の例外はあるものの、文化の進化は原則的にダーウィニズムによって、説明可能である。

 

4 ダーウィニズムに立脚した文化進化論を確立することにより、社会科学の分野で、学術的な統合を図るべきである。

 

少し、私の印象を述べさせていただきます。本文献も指摘しているように、文化とは、私たちの考え方や行動に強い影響力を持っています。よって、そのカラクリが分かれば、私たちは新たな視点で歴史を振り返ることができたり、今後、文化がどのように進化していくのか、見通しを立てることが可能となるかも知れません。しかしながら、前回の原稿にも記しましたが、文化自体を研究対象とする学問は、現在、存在していないようです。本文献によれば、「文化とは曖昧なもので、学術研究の対象としてはそぐわない」と考えられてきたのが、その理由のようです。

 

文化系の私が言うのも恐縮ですが、既に遺伝子の研究も進んでおり、人間の脳の中でどのような信号がやり取りされているのかも、次第に分かって来ているのだろうと思います。これらの遺伝子や信号というのは、記号の一種なのではないでしょうか。そして、文化を構成している最小の単位も記号なのかも知れません。そうしてみると、ダーウィニズムと文化進化の間に、共通点や類時点があると想定することには、根拠があるように思います。

 

驚いたことに、生物進化と文化進化の関係については、既にダーウィンが指摘していたそうです。ダーウィンは、次のように述べたそうです。

 

好まれる言葉が生存競争を経て生き残っていくというのは、自然選択である。

 

(本文献)

文化進化論/ダーウィン進化論は文化を説明できるか/アレックス・メスーディ/NTT出版/2016

 

 

 

 

 

 

このブログの立ち位置

然したる構想もなく、行き当たりばったりで進めてきた本ブログではありますが、振り返ってみますと、文化を通して、人間集団について考えて来たような気がします。記号論を含め、未だ決着しない問題は多くありますが、何となく一区切りということで、今回はこのブログの立ち位置なり、進捗状況などを少し考えてみることにします。関係する学術分野につきましては、主として人間を集団として見るものと、個人の心的機能を中心に考えるものがあるように思います。一覧にしてみましょう。

 

<人間集団を対象とするもの>
文化人類学 → ポスト構造主義
哲学
社会学
(文化論)

 

<個人を対象とするもの>
心理学
記号論・・・表象文化論

 

まず、このブログは文化人類学から出発しました。“遊び”から始まる文化は、やがて宗教を生み、宗教が国家を誕生させた。この経緯については、それなりに解明できたように思っております。文化人類学の主たる学者はレヴィ=ストロースですが、彼の主張に満足できない人たちが、いくつかの分野で新たな論議を展開しています。この一連の人々の考え方は、“ポスト構造主義”と呼ばれています。しかし、正直に言いますと、未だ私はこの分野の文献をあまり読んだことがありません。その理由は2つあります。1つには、原語(フランス語)ですら難解な文章を日本語訳で読んで理解できるのか、ということです。2つ目としては、“ポスト構造主義”に関する解説書を見る限り、あまり私の興味を引く論議は見当たらなかったということです。よって、この分野はペンディングにしたいと思っています。

 

次に哲学ですが、これも私としては不案内な分野ということになります。しかし、哲学には長い歴史がある。まずは大雑把に歴史を振り返って、そこから興味の持てる哲学者が出てくれば、少し当たってみたいと思っています。とりあえず、カントとヘーゲルに興味があります。日本の歴史をどんなに振り返ってみても、民主主義という崇高な思想の原点は見えてきません。その起源は、アメリカの独立戦争にあるという学者もいます。例えば小林節氏は、次のように述べています。「アメリカは独立戦争に勝利した。そこで、周囲の者はジョージ・ワシントンに対し、あなたが新たな王様だ、と言った。しかしワシントンは、それでは今までと何も変わらない。我々は、王権によってひどい仕打ちを受けて来たではないか、と言って拒絶した。そしてワシントンは、選挙によってアメリカの初代大統領になった。これが民主主義の原点である」。他方、長谷部恭男氏は、民主主義の原点はフランス革命にあるとしている。宗教戦争があって、フランス革命が起こる。しかし、革命後も世の中は混乱した。そこにヘーゲルが出てくる。このあたりの経緯というのは、一度、把握してみたいと思っています。

 

社会学という学問もあります。私が知らないだけなのかも知れませんが、この学術分野においては、あまり新しい論議というのは生まれていないような気がします。

 

次に、カッコ付きの文化論。私が知る限りにおいて、文化学とか、文化論という学問は存在しません。困ったものです。それがないから、私はその周辺をウロウロしているようなものです。しかし今後は、「このブログこそが文化論だ!」という気概を込めて、この言葉を使わせていただこうかなと思っております。人間は文化の中に生まれ、文化と共に生き、その進化に参加するのだという点が、このブログの主張でもある訳です。例えば、「文化選択」ということがある。この言葉は私が発明したのですが、これから読もうとしている「文化進化論」という本の目次において、この言葉を発見しました。私の主張としては、文化というのは人間集団によって、常に選択されるか否かという状況に置かれている。選択された文化は生き続け、そうでないものは消えていく。(この点は、選択された“カップヌードル”と、消えていった“めんこく”の例で説明済みです。)時間の経過と共に文化は多様化する。よって、人間集団による選択肢は増え続ける。より多くの選択肢から文化を選択することになるので、長い目で見れば、文化というのは良い方向へ進化する。しかし短期的に見れば、課題は小さくない。例えば、現代に生きる私たちは、原発という物質文化を持っている。これを選択し続けるのか否か、それは私たちの双肩に掛かっているのだと思うのです。(ちなみに、私は核兵器原発も、選択すべきではないと考えています。)そもそも、文化論なる学術分野が存在しない中で、「文化進化論」という本があったということは、私にとっては驚きであり、今は、この本に期待しています。読んだ結果は、このブログで報告致します。

 

個人を研究対象とする学術分野としては、まず、心理学があります。私は、ユングを支持してきましたが、そのタイプ論については、少し違った考え方に至った訳です。タイプ論は、人間のタイプを思考、直観、感覚、感情の4つに分類するものです。これに対する私の考えは、人間は誰しも感覚から出発する。そして、思考タイプと感情タイプに分かれるのだ、という立場です。また、これらのタイプにつきましては、記号論から導いた人間の認知、行動に関する概念モデルから説明が可能だということに、最近、気づきました。

 

感覚というのは、「記号 → 反応」という簡単な仕組みになっている。例えば、ピコ太郎の動画を見て、子供が真似をする。こういう心的機能というのは、大人になっても持ち続けているのだと思います。

 

次に感情ですが、これは「実体 → 記号 → 意味 → 反応」という4段階で説明できます。

 

(感情タイプの例)
実体・・・赤ん坊。
記号・・・赤ん坊が泣く。(音声記号)
意味・・・赤ん坊が泣いている理由、赤ん坊と自分の関係などを考える。
反応・・・母親である自分が、授乳する。

 

感情タイプの人というのは、だから、人間なりモノの実体を良く見て、把握しているのだと思います。これが思考タイプとなると、実体が欠落してくる。思考タイプの人というのは、あくまでも記号、特に文字に依存して物事を認知している。記号を使うので、認知する範囲は広く、抽象概念なども良く理解できることになります。反面、現実的な対応力が弱い、とも言えます。

 

(思考タイプの例)
実体・・・なし
記号・・・マルクス主義の本を読む。(文字記号)
意味・・・共産主義に共鳴する。
反応・・・安保反対のデモに参加する。

 

最近は、記号が暴走していて、人々は“実体”と“意味”を見失っているのではないか、などと思ったのですが、現代においても感情タイプの人たちは、“実体”を良く認識されているのではないでしょうか。

 

私としては、一応、ユングは卒業かなと思っています。

 

しかし、現代社会において、感覚機能が勢力を拡大していることは間違いなさそうです。タイプ別に、受け取っている記号の種別を考えてみましょう。

 

感覚・・・画像
感情・・・現実から得られる視覚、聴覚情報
思考・・・文字

 

してみると、私の目からすれば未成熟に見える現代の若者たちというのは、“感覚”に依存しており、その理由は、テレビ、映画、ネット、ゲームなどの画像情報に接する機会が多いからだ、という仮説に行き当たります。

 

ここでは、簡単に“画像”と呼びましたが、先端的な学問分野として“表象文化論”というものがあります。表象/Representationとは、実体を再現=代行するものという意味で、具体的には絵画、写真、映画、彫刻、文学、建築などを指すようです。

 

なお、記号論については、パース、モリスなど、適当な文献があれば読んでみたいと思っています。

No. 157 消えた実体、意味の喪失

前回の原稿で、記号論に関する検討には一区切りつけるつもりだったのですが、そうもいかないような気がしてきました。記号論の前身である言語学まで含めますと、その歴史は古代ギリシャにまで遡るようです。またソシュールの後には、チャールズ・パース(1839~1914)という人がいて、複雑な理論体系を構築したようです。ちなみに、パースは「人は、記号である」というところまで行き着いたようです。何だか難しそうですね。更に、パースの後には、以前の原稿で「何かが記号であるのは, それがある解釈者によって何かの記号として解釈されるからである」という言葉を引用させていただきましたチャールズ・モリス(1903~1979)がいます。

さて、前回の原稿で提示致しました人間の認知、行動に関わる概念モデルですが、本当にそうだろうか、という疑問も沸いてきました。便宜上、再度、掲載致します。

 

実体・・・記号が指し示す事柄
 ↓
記号・・・物の機能、人の意図
 ↓
意味・・・価値判断。自分と記号、対象との関わり
 ↓
反応・・・行動、思考、心理的作用

 

まず、古代人が獲物に向かって石を投げるまでのプロセスを考えてみます。

 

実体・・・足元に“石ころ”が転がっている。
記号・・・“石ころ”だという言葉と同時に、その機能を理解する。
意味・・・自分と獲物の距離、“石ころ”の機能、自分が空腹であることなどを判断する。
反応・・・獲物に向かって、“石ころ”を投げる。

 

上記の場合、うまく当てはまっているようです。次に、伝統的なお寿司屋さんの例で考えてみましょう。

 

実体・・・寿司屋の大将
記号・・・熟練の技で握られた寿司、美しい皿、季節の花などの添え物
意味・・・大将の技、女将さんのもてなし。高額の支払いなど。
反応・・・満足感をもって、寿司を食べる

 

上記の場合も、うまく当てはまるようです。財布の心配さえなければ、ということではありますが・・・。では、回転寿司の場合は、どうでしょうか。

 

実体・・・無し
記号・・・パネルにタッチして、注文する。
意味・・・無し
反応・・・寿司を食べる

 

多くの場合、回転寿司では作っている人の顔は見えません。パネルにタッチして注文すると、寿司がおもちゃの電車に乗ってやって来るような店もあります。考えてみますと、このように「記号があって、それに反応する」という、ただそれだけで完結するケースは、決して少なくないような気がします。例えば、シューティング系のゲーム。記号としての敵が画面に現われ、それを攻撃する。マンガも同じだと思います。多くの場合、そこに実体と意味はありません。ピコ太郎の動画を見て、真似をして踊るイバンカさんの娘なども同じです。古い所では、怪談などもそうだと思います。そもそも、幽霊というのは実体がない。よって、怪談というのは作り話なんです。しかし、それを聞いて「キャー、怖い!」などと反応する。そもそも、エンターテインメントと呼ばれるジャンルの構造というのは、そういうことになっているのかも知れませんが、現代において、この傾向は確実に強まっている。

 

その理由を考えてみますと、一つには大量生産によって、商品やモノの作り手の顔が見えなくなったこと。二つ目としては、グローバル化に伴って、言語以外の記号(マーク、ロゴなど)が増えたこと。三つ目としては、ハイテク化、ネットの普及によって、現代人が触れる記号の総量が爆発的に増加した、ということが考えられます。結果として、実体と意味が失われ、ただ記号に反応するという人間社会が生まれつつある。

 

本当にそれでいいのか疑問を禁じ得ませんが、ここでいいとか悪いとか言っても、それこそ意味がないような気がします。ただ、この実体と意味の喪失という現象は、すぐそこまで来ている人工知能とバーチャル・リアリティによって、更に、急速に、確実に進展するでしょう。

 

最近、ネットに出ていたのですが、ある青年が、AKB系のアイドルに入れ込んで、貯金の1千万円を使い果たしてしまったそうです。アイドルというのは、記号です。少なくとも、記号の総体だと言えます。彼女たちは、芸名を付けて、歌い、踊り、笑顔を見せてメッセージを発信しています。それは虚像であって、現実の少女の姿ではありません。しかし、記号化されたアイドルに夢中になって、その青年は“意味”を考えることができなくなった。この場合の意味とは、自分と、そのアイドルの実体、そして記号として発信されるメッセージの相関関係のことです。その青年は、実体を見ることなく、意味も考えずに、ただ記号に反応してしまった。

 

しかし、そのアイドルの実体とは何か、という疑問もあります。一人の少女を分解していきますと、究極的には、それを記号で表わすことが可能なのかも知れません。彼女は言葉、すなわち記号によって考えています。彼女の好きなもの、嫌いなもの、身体的な特徴、これらも全て記号化することが可能でしょう。

 

このように考えますと、冒頭に引用しましたパースの言葉が、身に染みて来ます。

 

「人は、記号である」

No. 156 記号に関する試論

前2回の原稿(~基礎知識)では、極力私の意見は抑えて、一般に言われていることを忠実に記載したつもりです。しかし、どうもこれでは良く分からない。そこで今回は、私なりの記号についての考え方を記載させていただきます。

 

まず、ソシュールの理論の基礎は言語学、コミュニケーション体系にあるのであって、記号全般について検討するには適さないのではないか、ということです。例えば、言語学を野球に例えてみますと、いくら野球の研究をしたとしても、スポーツ全般のことは分からない。それと同じではないか。すなわち、“記号”というのは言語よりも範囲が広い。“意味”となると、更に対象範囲は拡大すると思うのです。だから、言語学をベースにいくら記号や意味について考えても、結論には至らないのではないでしょうか。

 

まず、No. 154の記事で紹介致しましたソシュールが前提とした“記号”の定義について、振り返ってみます。

 

記号   =  知覚される図形や音  +  意味
シーニュ =  シニフィアン     +  シニフィエ

 

そもそも、これが違っているのではないでしょうか。記号とは、上の図式でシニフィアンとして記載されている「知覚される図形や音」そのものであると考えた方が良い。何故ならば、“意味”という概念は、記号よりも広いからです。よって、シニフィアンこそが記号である、というところから出発してみたいと思います。(実際、学者の中にも、シニフィアンを記号と呼んだ人もいるようです。)私が、提示したいモデルは、次の通りです。

 

実体・・・記号が指し示す事柄
 ↓
記号・・・物の機能、人の意図
 ↓
意味・・・価値判断。自分と記号、対象との関わり
 ↓
反応・・・行動、思考、心理的作用

 

一目見て分かる通り、これは人間同士のコミュニケーションのみを対象とする概念モデルではありません。むしろ、人間が環境を認知し、行動に移すまでのプロセスを示していると言えます。少し、具体例を挙げてご説明致します。

 

私が歩いていて、交差点に差し掛かったとします。信号機が赤い色を表示しています。物理的に存在しているこの信号機が “実体”です。私は、「赤信号だ」という言葉を胸の中で呟きます。この赤信号という言葉が“記号”です。この記号は、対象である信号機の機能を意味しています。すなわち、「信号機とは、自動車や歩行者の通行を規制することによって、それらの通行の円滑化を図ると共に、安全を確保する」という機能を持っている訳です。そこで私は、今、交差点を横断するのは危険であるという“意味”を抽出します。そして、その意味に従って、私は立ち止まるという“行動”(反応)に出る訳です。

 

もう一つ、時計の例で考えてみましょう。まず、時計という物理的に存在している“実体”があります。時計の針が、夜の8時を指していたとします。これも“記号”ですね。私は、自分の置かれている状況と記号の関係などから“意味”を抽出しようとします。そう言えば、ビールが飲みたいな、飲んでもいい時間だな、と思う訳です。そこで、晩酌という“行動”(反応)を取ることになります。

 

人間同士の例も考えてみましょう。あなたは、バーで飲んでいます。隣に異性が座っています。この異性は、実在する人物という意味で“実体”ということになります。その異性があなたの膝に手を置いたとします。(この例、前にも使いましたね!)あなたは、その異性の行動に何らかの意図を感じます。従って、その異性の行動は、“記号”であることになります。あなたはちょっとドギマギしながら、あなた自身と、実体であるその異性と、異性のとった行動について考えるはずです。それが“意味”だと思うのです。例えば、あなたとその異性との関係が、今後、恋人同士に発展することをあなたが望んでいるような場合、あなたは異性の手の上に自分の掌を重ねるかも知れません。例えばあなたが既婚者で、そういうことは困る、という場合もあり得ます。この場合、あなたはさり気なく席を立つかも知れません。これが、“行動”(反応)ということになります。

 

ソシュール記号論の文献を何冊か読んで、そこから抽出した私にとっての“意味”が、上記の概念モデルであると言えます。現代の記号論というのは、もっと複雑で、記号の分類などを研究し続けていえる人も少なくないのだろうと思います。しかし、文化を考える立場から言えば、上記のモデルで一応の決着がついたような気がします。すなわち記号とは、物の機能や人の意図と深く結びついている。そして、人々は記号を通して、自分と外界とのつながり、すなわち意味を考えて来た。そういう歴史がある。記号なくして、人々は外界を理解することはできないし、外界と自らを結びつける意味を抽出することもできない。現代に生きる我々の場合は、既に、ほぼ100%の外界は記号化されている。他方、古代人の場合には、何か新たな実体に遭遇する度、それに名前を付け記号化すると共に、そこに意味を探してきたのではないでしょうか。例えば、夜空に稲妻が走る。しかし、彼らには意味が分からない。疫病が流行って、人がバタバタと死んで行く。その意味も分からない。イナズマとか、死とか、その現象に名前を付ける、すなわち記号化するところまではできても、その先の意味を見つけることができない。そんなところから、アニミズムが生まれたのではないでしょうか。

 

このように考えますと、前述の実体、記号、意味、反応という人間の認知、行動に関わるシステムは、人間が如何に文化を産み出してきたのか、ミクロで見た場合、その基本構造を示しているようにも思うのです。