文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

このブログの立ち位置

然したる構想もなく、行き当たりばったりで進めてきた本ブログではありますが、振り返ってみますと、文化を通して、人間集団について考えて来たような気がします。記号論を含め、未だ決着しない問題は多くありますが、何となく一区切りということで、今回はこのブログの立ち位置なり、進捗状況などを少し考えてみることにします。関係する学術分野につきましては、主として人間を集団として見るものと、個人の心的機能を中心に考えるものがあるように思います。一覧にしてみましょう。

 

<人間集団を対象とするもの>
文化人類学 → ポスト構造主義
哲学
社会学
(文化論)

 

<個人を対象とするもの>
心理学
記号論・・・表象文化論

 

まず、このブログは文化人類学から出発しました。“遊び”から始まる文化は、やがて宗教を生み、宗教が国家を誕生させた。この経緯については、それなりに解明できたように思っております。文化人類学の主たる学者はレヴィ=ストロースですが、彼の主張に満足できない人たちが、いくつかの分野で新たな論議を展開しています。この一連の人々の考え方は、“ポスト構造主義”と呼ばれています。しかし、正直に言いますと、未だ私はこの分野の文献をあまり読んだことがありません。その理由は2つあります。1つには、原語(フランス語)ですら難解な文章を日本語訳で読んで理解できるのか、ということです。2つ目としては、“ポスト構造主義”に関する解説書を見る限り、あまり私の興味を引く論議は見当たらなかったということです。よって、この分野はペンディングにしたいと思っています。

 

次に哲学ですが、これも私としては不案内な分野ということになります。しかし、哲学には長い歴史がある。まずは大雑把に歴史を振り返って、そこから興味の持てる哲学者が出てくれば、少し当たってみたいと思っています。とりあえず、カントとヘーゲルに興味があります。日本の歴史をどんなに振り返ってみても、民主主義という崇高な思想の原点は見えてきません。その起源は、アメリカの独立戦争にあるという学者もいます。例えば小林節氏は、次のように述べています。「アメリカは独立戦争に勝利した。そこで、周囲の者はジョージ・ワシントンに対し、あなたが新たな王様だ、と言った。しかしワシントンは、それでは今までと何も変わらない。我々は、王権によってひどい仕打ちを受けて来たではないか、と言って拒絶した。そしてワシントンは、選挙によってアメリカの初代大統領になった。これが民主主義の原点である」。他方、長谷部恭男氏は、民主主義の原点はフランス革命にあるとしている。宗教戦争があって、フランス革命が起こる。しかし、革命後も世の中は混乱した。そこにヘーゲルが出てくる。このあたりの経緯というのは、一度、把握してみたいと思っています。

 

社会学という学問もあります。私が知らないだけなのかも知れませんが、この学術分野においては、あまり新しい論議というのは生まれていないような気がします。

 

次に、カッコ付きの文化論。私が知る限りにおいて、文化学とか、文化論という学問は存在しません。困ったものです。それがないから、私はその周辺をウロウロしているようなものです。しかし今後は、「このブログこそが文化論だ!」という気概を込めて、この言葉を使わせていただこうかなと思っております。人間は文化の中に生まれ、文化と共に生き、その進化に参加するのだという点が、このブログの主張でもある訳です。例えば、「文化選択」ということがある。この言葉は私が発明したのですが、これから読もうとしている「文化進化論」という本の目次において、この言葉を発見しました。私の主張としては、文化というのは人間集団によって、常に選択されるか否かという状況に置かれている。選択された文化は生き続け、そうでないものは消えていく。(この点は、選択された“カップヌードル”と、消えていった“めんこく”の例で説明済みです。)時間の経過と共に文化は多様化する。よって、人間集団による選択肢は増え続ける。より多くの選択肢から文化を選択することになるので、長い目で見れば、文化というのは良い方向へ進化する。しかし短期的に見れば、課題は小さくない。例えば、現代に生きる私たちは、原発という物質文化を持っている。これを選択し続けるのか否か、それは私たちの双肩に掛かっているのだと思うのです。(ちなみに、私は核兵器原発も、選択すべきではないと考えています。)そもそも、文化論なる学術分野が存在しない中で、「文化進化論」という本があったということは、私にとっては驚きであり、今は、この本に期待しています。読んだ結果は、このブログで報告致します。

 

個人を研究対象とする学術分野としては、まず、心理学があります。私は、ユングを支持してきましたが、そのタイプ論については、少し違った考え方に至った訳です。タイプ論は、人間のタイプを思考、直観、感覚、感情の4つに分類するものです。これに対する私の考えは、人間は誰しも感覚から出発する。そして、思考タイプと感情タイプに分かれるのだ、という立場です。また、これらのタイプにつきましては、記号論から導いた人間の認知、行動に関する概念モデルから説明が可能だということに、最近、気づきました。

 

感覚というのは、「記号 → 反応」という簡単な仕組みになっている。例えば、ピコ太郎の動画を見て、子供が真似をする。こういう心的機能というのは、大人になっても持ち続けているのだと思います。

 

次に感情ですが、これは「実体 → 記号 → 意味 → 反応」という4段階で説明できます。

 

(感情タイプの例)
実体・・・赤ん坊。
記号・・・赤ん坊が泣く。(音声記号)
意味・・・赤ん坊が泣いている理由、赤ん坊と自分の関係などを考える。
反応・・・母親である自分が、授乳する。

 

感情タイプの人というのは、だから、人間なりモノの実体を良く見て、把握しているのだと思います。これが思考タイプとなると、実体が欠落してくる。思考タイプの人というのは、あくまでも記号、特に文字に依存して物事を認知している。記号を使うので、認知する範囲は広く、抽象概念なども良く理解できることになります。反面、現実的な対応力が弱い、とも言えます。

 

(思考タイプの例)
実体・・・なし
記号・・・マルクス主義の本を読む。(文字記号)
意味・・・共産主義に共鳴する。
反応・・・安保反対のデモに参加する。

 

最近は、記号が暴走していて、人々は“実体”と“意味”を見失っているのではないか、などと思ったのですが、現代においても感情タイプの人たちは、“実体”を良く認識されているのではないでしょうか。

 

私としては、一応、ユングは卒業かなと思っています。

 

しかし、現代社会において、感覚機能が勢力を拡大していることは間違いなさそうです。タイプ別に、受け取っている記号の種別を考えてみましょう。

 

感覚・・・画像
感情・・・現実から得られる視覚、聴覚情報
思考・・・文字

 

してみると、私の目からすれば未成熟に見える現代の若者たちというのは、“感覚”に依存しており、その理由は、テレビ、映画、ネット、ゲームなどの画像情報に接する機会が多いからだ、という仮説に行き当たります。

 

ここでは、簡単に“画像”と呼びましたが、先端的な学問分野として“表象文化論”というものがあります。表象/Representationとは、実体を再現=代行するものという意味で、具体的には絵画、写真、映画、彫刻、文学、建築などを指すようです。

 

なお、記号論については、パース、モリスなど、適当な文献があれば読んでみたいと思っています。