文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 170 再考、てるてる坊主

何の変哲もないある1日に、人はクリスマスだとかいって、意味を付与し、特異な行動をとる。昨年の末にはそんなことを考えていたのですが、年が明けますと、また、合理主義では理解のできない事柄が発生したのです。

 

まず、門松。きっと、これにも何らかの意味があるのでしょう。そして、しめ飾り。私は、マンションに住んでいますが、ドアにこれを飾っておられる方が、意外にも多いのです。初詣では、商売繁盛の神社に人々が殺到したようです。そうこう致しますと、今度は晴れ着の会社が倒産したとかで、大変な騒ぎになっております。振り袖というのも、経済合理性から言えば、理解が困難な代物です。21世紀になっても、こういう物事というのは、無くならない。

 

ちょっと、祭祀と呪術の関係を整理しておきましょう。

 

祭祀・・・・人間集団の幸福を願う儀式や祭り

白呪術・・・自分の幸福を願うもの

黒呪術・・・他人の不幸を願うもの

 

こうしてみますと、縁結びだとか商売繁盛というのは、白呪術だと言えるのではないでしょうか。日本は、未だに呪術大国である、と言いたくもなります。

 

さて、少し前の原稿で、私は「てるてる坊主というのは簡単なもので、記号+行動=意味 という図式で説明できる」と書いたのですが、ある寝付かれない夜、本当にそうだろうか、という疑問が沸いて来たのです。何か、そこには寂しげな感じが致します。朦朧とする意識の中で、ふと私は呪いの藁人形を連想したのです。まさか、そんなことがあるはずはない。しかし、東北のある地方では、こけし水子供養に使われていたという話もありました。これは深沢七郎の小説にそんな話があったのです。この3例は、いずれも人形が呪術に使用されるという点で、共通しています。

 

翌日、ネットで検索した所、てるてる坊主にもその起源となる神話の存在することが分かりました。まず、A説。昔の中国の話です。雨が降り続いて、人々は困っていた。すると天から声が聞こえた。「その美しい娘を差し出せば晴れにするが、差し出さなければ都を水没させる」そこで、人々は晴姫という少女を天に捧げたというのです。以後、晴姫を偲んで、てるてる坊主のようなものを軒先に吊るすようになった。次にB説。昔の日本で、雨が降り続き、困っていた。そこで、晴れにできるという評判のお坊さんが呼ばれて、祈祷が行われた。それでも雨は止まなかった。怒った殿様が、そのお坊さんの首を切り落としてしまう。その生首を布にくるんで吊るした所、翌日には晴れ間が広がった。

 

どちらも、悲惨な話です。A説の晴姫に関する神話は、子供を生け贄にするというものですが、同じような話は、確か旧約聖書にもありました。こちらは、すんでのところで、子供を殺さずに済んだのですが・・・。また、日本にも座敷わらしの民話が残っています。新しい建物を棟上げする際、男女一対の子供を人柱にした。そして、その子供たちが座敷わらしとなって出現した家は栄える、というものです。

 

A説、旧約聖書、座敷わらし。この3例は、子供を生け贄にするという点で共通しています。

 

国や地域が違っていても、どこか似たような話がある。これらは、私たち人類が共通して経験した過去の出来事であるとも言えますし、人類が共通して持っている普遍的な心的イメージであるとも言えるような気がします。そして、この心的なイメージというのは、想像以上に強いものであって、現代に生きる私たちの心の中にも生き続けているのではないか。

 

てるてる坊主の例で言えば、有名な童謡もありますね。実際にてるてる坊主を作って、軒先に吊るした経験を持つ人もおられることと思います。神話があり、童謡があり、経験がある。そんなことから、あるイメージが世代を超えて伝承されていく。こんな所にも、文化の本質があるような気が致します。

 

私は、宗教に関しましては消極的な立場を取っております。宗教には、お金が絡む。権力が絡む。そう思うのです。しかし、精神文化の本質は、どうやら宗教にあるのではない。それ以前の、人々の純粋な気持ちの中にある。宗教は否定できても、てるてる坊主という文化を否定することはできない。

 

余談になりますが、集団の利益を優先する祭祀というものがあって、例えば、棟上げ式で子供を人柱として殺してしまう。悲しんだ親が、密かに呪術を行う。そういう構図も考えられるのではないかと思うのです。だとすると、祭祀と呪術は、表裏一体の関係にある。そして、人々の悲しみを癒やすために、言ってみれば、祭祀と呪術の対立関係を緩和させるために、人々は神話を作ってきたのではないか。時間ができましたら、もう一度「遠野物語」を読んでみたいような気がしてきました。

No. 169 人工知能と文化(その2)

人工知能の発展段階につきまして、シンギュラリティということが論議の的になっているようです。技術というのは、右肩上がりに進歩して行く訳ですが、それは例えば毎年、倍の速度で発展を遂げる。最初は1の倍で2になりますが、その後は4、8、16、32という具合に進歩の速度が上がっていく。そうすると、どこかの段階で爆発的な発展を遂げ、人工知能が人間の知能を凌駕するに違いない。このタイミングがシンギュラリティ、技術的特異点と呼ばれているようです。それは2045年頃だろうという説がありますが、例えばSoftBank孫正義氏は、講演会で2030年頃ではないか、と述べていました。今から12年後ということになります。

 

しかし、コンピューターは既に私たちの暮らしを一変させています。そして、一部の機能におきましてコンピューターは、既に、人間の知能を越えている。例えば、チェス、将棋、囲碁の世界で、人間はコンピューターに勝てなくなった。将棋の例で言えば、24時間、延々とコンピューター同士で戦わせる。そして、そこから得られた情報をコンピューターに記憶させる。学習させると言った方が、正確かも知れません。そんなことをされては、いくら名人でも、人間が勝てるはずがありません。最近、若手の棋士は、コンピューターの指す手を勉強しているそうです。エクセルの表計算にしたって、ちょっと人間では勝ち目がありません。カーナビにしたって、既に私たちはコンピューターの指示に従って、行動しています。

 

既に、いくつかの分野において、シンギュラリティは現実化していると言えるでしょう。

 

SFっぽい話をすれば、やがて人類が人工知能に支配されるとか、いつか人類は滅びるが、人間の知性はデータ化され、ロボットの中で知性だけが生き続けるなんて話まであります。どうなるのか、それは誰にも分かりません。

 

ちょっと話を現実に戻しましょう。最大の問題は、仕事です。人工知能やロボットが普及しても、人間の仕事を奪うことはない、新しい仕事も生まれると主張している人たちもいます。しかし見たところ、このような主張をしているのは、人工知能やロボットで一儲けしようとしている人たちではないでしょうか。私は、人工知能やロボットの進展により、人間の仕事は、確実に減少すると思います。そして、それらに取って代わられる仕事というのは、必ずしも人間にとっての単純労働ばかりではないと思います。人間を中心に考えるのではなく、人工知能やロボットの観点から、考える必要がある。彼らにできる仕事であって、彼らのコストが人間を下回れば、もしくは彼らのパフォーマンスが人間を上回れば、その仕事は、彼らに取って代わられる可能性がある。そして、人工知能やロボットが行い易い仕事というのは、パターン化されていて、イレギュラーな処理、判断を要求されないもの、ということではないでしょうか。

 

この問題をほおっておくと、人工知能やロボットを導入できる大企業だけが、まず、生き残ることになる。しかし、大企業と言えども、消費者の購買力がなければ、成り立たない。しかし、失業者が溢れかえってしまうような社会では、消費も低迷する。従って、大企業と一般の消費者の双方が、共倒れしかねない。問題は、もうここまで来ているのではないでしょうか。そこで、先進諸国では、既にベーシックインカム論議がなされているようです。すなわち、人工知能やロボットに職を奪われて失業した人たちに、必要最小限の金銭を国が支払うということです。しかし、そんな制度を導入して、人々が生きがいを感じるだろうか、という問題もある。

 

いよいよ、資本主義も行き詰まってくるのでしょうか。

 

孫正義氏は、「今後、全ての産業は再定義されなければいけない」

と述べていましたが、私にしてみれば、人間社会のあり方こそ、再定義すべきだと思うのです。

No. 168 人口知能と文化(その1)

 

記号ということを考えておりますと、その現代的な意義は“人口知能”にあることに気付かされます。YouTubeなどで検索しておりますと、驚くべき話が次々に出て来る。例えば、人口知能の専門家がこんな話をしていました。

 

「表象というのは哲学において発生した考え方である。人間は複雑な概念については、その実体を凝縮して、あるイメージで捉える。このイメージが表象であり、表象を更に単純化したものがシンボルである。」

 

こういう話であれば、文科系の私にも良く分かります。

 

ところで、昨今、人口知能とかAIという言葉をよく聞くようになりました。あるシンクタンクが「今後、10年ないし20年の間に、現在人間が行っている仕事の半分は、人口知能に取って代わられるだろう」という予想を発表したのが、事の発端だったような気がします。私たちによって人口知能は、最早、他人事では済まされなくなった。

 

どうやら“人口知能”という用語に厳密な定義はないようです。最先端のコンピュータ技術、程度の意味で考えておけば良さそうです。人口知能が人間の脳の働きを行うとすれば、体の機能はロボットが担当します。面白いので、様々な画像を見ました。現在、世界中の大学や研究所が血眼になってロボットを開発しています。ふと気づいたのですが、それらのロボットの大半が、動物や昆虫を模倣している。ヒト型ロボットのヒューマノイドというのもありますが、その他にも犬、チーター、カンガルー、鳥、蝶、トンボ、アリなどの形状や機能を真似ているんです。現代に至ってもなお、人間はなんとか動物を真似しようとしている。これは、古代人と同じですね。

 

私の印象ですが、特定の目的をもって製造されたロボットというのは、かなりの水準になっている。例えば、工場で特定の作業を行うロボットの精度というのは、既に人間を超えているかも知れません。しかし、まだ人間にはロボットの使い道というのが、よくは分かっていない。今はまだ手探りの段階で、様々な可能性を試している。そんな気がします。それはあたかも、人間がロボットで遊んでいるように見えます。遊びながら、その使い道を考えている。

 

ロボットの究極の形というのは、何種類かあるのだと思いますが、その最たるものは“人間そっくりのロボット”ということだと思います。但しこの点、現在のロボット技術には、相当課題がありそうです。例えば、言語能力。誰でも、ロボットと会話してみたいと思う。そうできれば、楽しいに違いない。確かに現在のロボットは、簡単な音声認識、画像認識はできるようですが、人間に比べれば、まだまだ低水準だと言わざるを得ません。例えば、人間の子供であれば、リンゴという果物を実際に見ている。そして、これをリンゴというんだ、ということで言葉を覚えていく。他方、ロボットにはリンゴという果物が何なのか、その概念がない。従って、実体を教えた上で、リンゴという言葉を覚えさせる必要がある。そんなところにも、難しさがあるようです。また、会話を成立させるためには、一般常識が前提となってくる。しかし、この一般常識を人工知能に記憶させるのが、相当、大変なようです。従って、私たちがロボットと会話を楽しめる日は、まだ、大分先になりそうです。

 

ロボットも使い方一つで、その意味が違ってきます。いわゆる3K(汚い、キツイ、危険)の仕事をロボットがやってくれるのであれば、これは大助かりです。家事ロボット、介護ロボットなども歓迎です。しかし、ロボットが兵器に使用される可能性もある。と言いますか、既に先端的なミサイルは敵のレーダーに捕捉されないよう、低空を飛行し、予めプログラミングされた目標に向かって、確実に飛んでいくそうです。これを人工知能と呼ぶかどうかは別として、既に、先端的なコンピュータ技術が兵器に使用されていると考えていいでしょう。人類は、核兵器の開発を止めることができなかった。クラスター爆弾のような非人道的な兵器も使用されてきた。いつか、ロボットも戦争に利用されるようになると思います。しかし、敵国がロボットで攻撃してきた場合、これを防御するのもロボットということになりはしないか。すると、ロボット同士が人間を代理して戦争を行うことになる。してみると、戦争とは一体何なのか、という疑問も沸いてくる。そんな時代になるかも知れません。

 

クルマの自動走行の研究が進んでいますが、その際などに用いられている技術で、ディープラーニングというものがある。例えば、ブロック崩しなど、昔のテレビゲームを人工知能にやらせる。最初は下手なんですが、これを延々2時間もやらせると、いつの間にか上達している。すなわち、放っておいても、人口知能が自分で勝手に学習するというシステムが、このディープラーニングなんです。クルマを自動走行させる際、どうやって危険を回避させるか、個々の事例を人工知能に教え込ませるのは大変だ。であれば、実際に走りながら、人口知能が自ら学んでいくというシステムの方が、手っ取り早い。そこで、上記のゲームと同じように人工知能に“意味”を与える。例えば、どこにも衝突せずに走れたらポイントを獲得し、衝突した場合には減点する。すると、人口知能が危険を回避する方法を自ら学習していくんだそうです。何か、大変な時代がやってきそうな予感がします。

No. 167 ”記号密度”という考え方

 

大晦日には、新年のカウントダウンで、渋谷の交差点に若者が溢れかえったそうです。本日、1月2日には、初売りセールでデパートが賑わっているそうです。イスラエルでは水不足で、嘆きの壁に向かって雨乞いの儀式が行われているそうです。皆、“意味”を求めているんですね。かく言う私も、“意味”を求めて、このブログの記事を書いています。

 

さて、文化の進化というものは、なかなか見え難いものです。特に、人生経験の少ない若者たちにとってはそうでしょう。しかし、私のように61年も人間稼業をやっておりますと「世の中随分変わったものだなあ」などと思う訳です。何が変わっているのか。まず、精神文化はどうか。これは、1947年に日本国憲法が公布されて以来、その歩みを止めているように思えます。次に物質文化ですが、これは各々の文化物質が、その機能性を向上させ、各段の進歩を遂げた。この点、異論のある人はおられないでしょう。しかし、中間的な文化と言いますか、芸術・エンターテインメントの世界が、一番変わったような気がするのです。そして、この変化は人々のメンタリティをも変えてしまった。その理由を考えているうちに、“記号密度”という言葉を思いついたのです。

 

例えば、様々なデータをパソコンに記録させる際、そのボリュームが気になりませんか。テキストデータ(文字)であれば、気にする程のこともありません。しかし、これが画像(写真)になると、結構なボリュームになります。更に動画となりますとデータ量が多く、取り込み過ぎますとパソコンが重くなったりします。そしてパソコンという文明の利器は、明らかにそのデータボリュームを増加させる方向で進歩している。このパソコンの傾向と、中間的な文化の進化の傾向は、リンクしていると思うのです。

 

私たちは、より新鮮で、刺激的な記号を求めてきた。見慣れた風景、日常的に接している文化物質など、そこから私たちが強い刺激を受けることはありません。だから、人々は時として旅に出る。より刺激的な、記号を求めていると思うのです。次に、記号の量ですが、これも私たちは、より多くの記号に接することを望んでいると思うのです。この記号の質と量を表わす用語として、“記号密度”という言葉を使わせていただきたいと思うのです。これは、次の式で表現できます。

 

記号密度 = 記号の質 × 記号の量

 

例えば、まずラジオ放送があって、白黒テレビができる。やがて、カラーテレビが普及した。明らかに、記号密度が高まっている。更にゲームになると、そこに自らが参加することによって、記号がより刺激的なものとなる。このように考えますと、若者たちがゲームにハマってしまう理由が分かります。圧倒的に、記号密度が高いのです。

 

もちろん、本当にそれでいいのか、という気持ちが私にもあります。例えば、記号密度は低いけれども、人間にとって基本的な行為類型の一つに、文章を読む、話を聞くというものがあります。これはソシュールが指摘した通り、“線状性”を持っている。すなわち、あたかも一本の線のように、言葉が指し示す単一の意味を順に追っていく訳です。これは、記号密度が低い。しかし、そもそもロジックというのは、この線状性を有する言語表現でなければ、表現することができません。ロジックとは例えば「A = B、B = C、よってA = Cである」というようなものだと思うのですが、これは、写真や動画では表現できません。

 

線状性を持った言語表現の一つとして、小説があります。小説は必ずしも、ロジックを表現するものではありませんが、そこにはストーリーを語る視点というものがあります。これには一人称と三人称とがありますが、どちらの場合においても、ある状況の中で登場人物が何をどう感じて、どう行動するか、ということを追体験していく訳です。そのような体験を通じて、すなわち小説を読むことによって、人間は他人の心の中を垣間見ることができるのです。

 

私の場合は、もう50年も前に読んだ小説の影響を未だに受け続けています。例えば、それは石森延男氏が書いた「コタンの口笛」という作品であったりする訳です。これは、児童文学と呼ばれるジャンルの作品です。コタンというのは、アイヌの村のことで、主人公はアイヌ人の少女だったように記憶しています。その少女が和人から差別を受けたり、時には和人の優しさに接したりする。50年前の私はこの小説を読んで、人種差別は絶対にいけないことだと心に刻んだのでした。人の心を動かす揺るぎない小説の力というものが、ここにある。

 

今の子供たちは、このように優れた小説を読んでいるのでしょうか。だとすれば、こんなにイジメが問題になることもないのではないか。イジメ問題を解決する最善の策は、優れた児童文学を普及させることではないか。そんな風に思ったりもします。

 

また、現在の若者たちというのは、論理的な思考能力が低下しているのではないか。ロボットを東大の入試に合格させるというプロジェクトを遂行している人工知能の専門家がおられます。彼女はある時、簡単な日本語でも人口知能は思わぬ誤解をするということに気付いたそうです。そこで、中高生に同じ問題を与えたところ、中高生の中にも人口知能と同じミスを犯す者が少なくなかった。彼女は、こう言っていました。「人口知能よりも、人間を教育する方が先ではないかと思った」。

 

文章を読まない。だから、論理性が衰え、他人の気持ちを推し量る能力も低下している。そんな若者たちが、増えているのではないでしょうか。

 

問題は、こればかりではありません。仮に、人間が1分間に認知できる記号の数が、10だったとしましょう。そして、昭和世代の若者が暮らしていた環境は、現在よりも記号密度が低かった。すると、どんなことが起こるか。

 

昭和:・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・/記号密度が低い。好奇心は遠くまで
平成:・・・・・・・・・・/記号密度が高い。好奇心は身近で充足される

 

私などの世代は、記号密度が低かった。そして、身近な環境だけで好奇心を充足することができなかったように思います。そこで、ジョン・レノンだとかゴッホだとか、外国の偉人たちにも興味を持った。一方、記号密度の高い環境に暮らしている現代の若者たちは、身の回りだけで十分に好奇心が充足されているのではないでしょうか。言い換えれば、視野が狭くなっている。

 

前回の衆院選における投票率は、53%位だったと記憶しています。つまり、2人に1人は投票に行っていない。政治に意味を見出すことのできない人が、それだけいるということです。これは、若者に固有の傾向とは言えないかも知れませんが・・・。

 

私たちは、時間と空間の中に生きています。確かに現代の若者たちは、昭和世代に比べると、頻繁に海外旅行に出掛けたりします。これは、空間の移動ですね。従って彼らは、空間という意味では、幅広い視野を持っている。しかし時間とは、すなわち歴史だと思うのです。過去の歴史において、誰が、いつ、どこで、何を考えていたか。こういうことを知るためには、やはり本を読む、文章を読むのが一番だと思うのです。

 

“線状性”から離れ、記号密度を高め続けてきた結果、現代の若者たちは論理性、想像力において衰弱しており、視野も狭くなっている。これは“退化”ではないのか。それとも、私たちの尻尾が退化してなくなったように、退化も進化のうちなのでしょうか。

 

私がこのブログでどんなにボヤいた所で、上記の傾向に歯止めが掛かるはずはありません。これからも、芸術・エンターテインメントの分野は、記号密度を高める方向で進化していくでしょう。問題は、このような若者たちのメンタリティにおける“退化”の先に何が待っているのか、ということかも知れません。

No. 166 記号と文化

今回は、一つのテーゼを提出させていただき、その内容について考えてみることに致します。そのテーゼとは、次の一文です。

 

人は記号を通して意味を発見し、
 記号に働きかけて意味を創り出す。

 

ポイントとなる用語が2つ出て来ます。一つには“記号”であり、二つ目は“意味”です。これらの用語を定義づけることは大変困難ですが、私なりに向き合ってみたいと思います。

 

思うに記号とは、言葉、標識、音、色彩、形状、人間の表情や仕草、行動などであって、何らかの対象を代理して、人間によって認知されるものである。また、人間は特定の個人や人間集団、その他の事柄を記号によって認知しているのであって、記号とはそれらを識別するための手段である。

 

ちょっと、複雑ですね。簡単に言えば、記号とは何らかの対象を代理している。この対象とは、物質のみならず抽象的な概念なども含みます。いくつか例示してみましょう。

 

種別 - 記号   - 対象
言葉 - リンゴ  - 赤い果物
標識 - 道路標識 - 交通ルール
音  - サイレン - 非常事態の発生
色彩 - 赤信号  - 止まれという命令
形状 - 流線形  - スポーツカーの性能
表情 - 微笑む  - 楽しいという心理状態

 

次に“意味”とは何か。私は、この言葉をあまり抽象的に考えてはいません。例えば、何の変哲もないある平凡な1日がある。しかし、人間はこの1日にクリスマスという意味を付与する。そして、これは自分に関係があると思う人はプレゼントやケーキを買ったりする。他方、私には関係がないと思う人には、クリスマスは何の意味ももたらさない。こういうことではないでしょうか。すなわち、全ての記号が意味を持っている訳ではない。

 

例えば、本屋さんの本棚の前に立っているとしましょう。本の背表紙には言葉が書かれています。これらは、全て記号です。しかし、全ての本の背表紙が私たちに何らかの意味をもたらすかと言えば、そうではありません。例えば、背表紙に刻まれている文字が、あなたの知らない外国語だったとしましょう。この場合、その記号はあなたに何ら意味を持つことはありません。まず、記号がある。そして、その記号は、理解可能であるか、というフィルターに掛けられる。これが、ソシュールが言ったラング(言葉の意味や文法など)であり、パースが言った解釈思想だと思うのです。例えば、私にはクラシック音楽を理解するという素養がありません。従って、例えば喫茶店でそのような音楽が流れていたとしても、私の心が反応することはないのです。

 

私たちは、街を歩いていても、部屋の中に居ても、記号に囲まれて生活しています。私たちの周囲は、記号だらけです。しかし、その中から、まず理解できない記号というのは私たちの認知システムに入ってこない。そして、私たちは理解できる記号の中から、更に記号を選別していると思うのです。その記号は、自分に対し、何らかの価値をもたらすか。価値が認められれば、私たちはその記号に反応する。中には、赤信号など私たちに危険を知らせるような記号もあります。これも危険を回避できるという観点から言えば、このような記号にも価値があると言えそうです。

 

このように無数の記号の中から、まず解釈可能な記号を選別し、次に自分との関係で価値のある記号を抽出する。こうして選ばれた記号を通じて、私たちは“意味”を発見するのだと思うのです。冒頭に記したテーゼの前段は、ご理解いただけたでしょうか。

 

人は記号を通して意味を発見し、
 記号に働きかけて意味を創り出す。

 

では、後段に移りましょう。人間の衣食住に貢献する物質文化に意味を見つけるのは簡単です。文化物質というのは、全て、機能を持っている。だから、その機能が意味と同義だと言えます。ボールペンなら文字を書くことができる。コーヒーなら飲むことができる。しかし、衣食住だけで、換言すれば物質文化だけで、人間が生きてきた訳ではありません。なんとかして、不思議な自然現象を理解し、死者を悼み、病気や怪我などに対処する必要があった。そこで、人間は記号に働きかけて、意味を創り出してきた。記号論の立場からすれば、それが精神文化の本質だと言えるような気がします。では、例を挙げましょう。

 

人間は、自然現象などを理解するために、言葉という記号に働きかけ、“神話”を作り、意味を付与してきた。

(このブログでは長らく“物語”という言葉を用いてきました。神話とは、例えばギリシャ神話のように、実際、神々が登場する物語を指すのではないかと思ったからです。しかし、世間一般では、特に神々が登場しない物語も“神話”と呼んでいるようなので、この言葉を使うことにいたします。)

 

人間は、動植物を記号として用いることによって、集団のアイデンティティーを確立してきた。これが“トーテミズム”である。(オオトカゲ・グループなど)

 

人間は、何らかの願いを叶えるため、モノを記号化し、“呪術”を行ってきた。

 

呪術は、その後の宗教や芸術に大きな影響を及ぼしてきました。未だに占いなどは、流行っています。ここでは典型的な事例として、呪いの藁人形を検討してみます。

 

対象・・・殺したいほど憎い人
記号・・・藁人形。対象を代理する。
行動・・・五寸釘を刺す
意味・・・呪い

 

これは、次のように表記できそうです。

 

対象 + 記号 + 行動 = 意味

 

もともと、記号に意味はないのです。そこに上記のようなプロセスを経て、意味を付与している。ただ、全ての事例が上の図式に従っているとは言えません。てるてる坊主の場合は、もっと簡単です。

 

記号・・・てるてる坊主
行動・・・軒下に吊るす
意味・・・翌日の好天を願う

 

記号 + 行動 = 意味

 

このようにいくつかのバリエーションがあると思いますが、そこに登場するキーワードは、数個ではないかと思っております。

 

さて、神話、トーテミズム、呪術と来ましたので、先を続けましょう。

 

精神文化の一種で、“祭祀”ということがあります。これは祭りや儀式のことです。祭祀において人間は、自らを記号化していると思います。ファッションや刺青がその例です。記号化された人間が、神輿を担いだり、踊ったりする。祭祀を行うためには、これらがとても重要なんだと思います。祭りの時には大体、お揃いのハッピや浴衣を着ます。結婚式や葬式では、皆、正装しますね。

 

記号(服装) + 行動 = 意味

 

そして、今まで述べてきました神話、トーテミズム、呪術、祭祀などを体系化したものが、“宗教”ではないでしょうか。このように精神文化は、人間が創り出した意味に溢れている。

 

では、現代人は未だに意味を求めているのでしょうか。私は、そうだと思います。一見、意味のない若者の行動などを観察しますと、やはり、そこには意味がある。例えば、ハロウィン。多くの写真が示しているように、ハロウィンでは、友人たちが集まって、同じような格好をしています。ということは、同じような格好(記号)をして街を練り歩く(行動)ことによって、彼らは友情を確認しているんだと思います。

 

日馬富士暴行事件を繰り返し報道するワイドショー。視聴者は、記号化された登場人物の誰かに自らの立場を投影して、意味を感じているのだと思います。

 

このブログでは、古代と現代の奇妙な符号について、何度か述べて来ました。その理由も、分かるような気がします。すなわち、意味の体系である宗教が花盛りだったのは、中世です。古代においては、まだ、体系化の途中段階にあった。すなわち、古代人というのは、記号を通じて、意味を創り出す途上にあった。一方ダーウィン以降、宗教は下火となり、日本のような先進国の現代人は、宗教に強い意味を感じなくなった。すなわち、意味を失ったと言えるのではないでしょうか。だから、意味を見つけにくいという観点から、古代と現代には共通点がある。

 

古代・・・宗教が完成しておらず、意味を探していた。
中世・・・宗教が意味を提供していた。
現代・・・宗教が衰退し、意味が喪失した。

 

現代に生きる私たちにとっては、新たな意味を発見する、または新たな意味を創り出すことが課題だ、と言えそうです。

ちょっと雑談

前回の原稿に書き洩らしてしまいました。パースは、「人は、記号である」と述べましたが、このテーゼは正しいか。答えはNOだと思います。パース自身が、人間の心の中の現象について、3つのカテゴリーを示していますが、その中で記号が関係するのは第3次性だけだと述べています。すなわち、第1次性、第2次性において、記号が登場する余地はない。よって、記号であるのは第3次性だけだということになります。人は、記号なくして物事を認識したり思考したりすることができない。こういうテーゼであれば、もちろん私も賛成致します。

 

前回の原稿で本文献(パースの記号学)から、次の箇所を引用させていただきました。

 

「パースはつまり宇宙におけるいっさいの事象をカオスから秩序へ、偶然から法則へ、対立から統合への弁証法的習慣形成の過程において見る宇宙進化論者であり、その進化論には絶対精神へと止揚されるヘーゲル的な弁証法的精神進化の過程を思わせるものがある。」

 

私はヘーゲルについて詳しくありませんが、彼の述べた“絶対精神”というのは、キリスト教における“神”の概念に近いのではないかと推測しています。そうしてみると、ヘーゲルの“弁証法的精神進化の過程”というのも、実は、キリスト教的な発想が根底にあるのではないか。神がいるのだから良い方向に、すなわちカオスから秩序に向けて進化するはずだ、と考えたのではないか。そうしてみると、このような考え方に合理的な論拠があるのか、私は懐疑的にならざるを得ません。カントにしてもヘーゲルにしても、ダーウィン以前の人たちです。従って、彼らの文献なり思想を検討する際には、その点を割り引いて解釈する必要がありそうです。好意的な見方をしますと、彼らは宗教による思想上の制限を受けながら、なんとかそれを乗り越えようと格闘していたのかも知れません。カントとヘーゲルの影響を強く受けていたパースについても、同じことが言えると思います。

 

宇宙の話が出たついでに、現代物理学者の見解をちょっと紹介致します。かつて、宇宙は原子1個よりも小さかった。そこに全ての質量とエネルギーが集中していたように思いますが、本当のことは分かっていないようです。そして、138億年前にビッグバンが起こる。その時のエネルギーによって、宇宙は膨張し続けている。かつては、この膨張がやがて止まり、その後、宇宙は収縮するだろうと考えられていました。しかし、1998年に宇宙が膨張する速度は、昔よりも速くなっていることが分かった。このまま加速度的に膨張を続けていくと、いずれは冷たくなって、宇宙では何も起こらなくなってしまう。これをビッグフリーズと言うらしいのです。まあ、ご心配には及びません。ビッグフリーズが起こるのは相当先のことだと言われています。50億年後には太陽が燃え尽きるそうですので、多分、こちらの方が先でしょう。

 

ヘーゲル宇宙論よりも、私は、現代物理学の方を信じています。そして、朝目覚める度にこんな風に呟いてみるのです。「何てラッキーなんだろう。まだ、宇宙は凍り付いていない!」

 

ところでYouTubeを見ておりましたら、人口知能に関する討論番組をやっていました。宇宙の話よりも、こちらの方が現実的です。既にあちこちの分野で、人口知能やビッグデーターが活用されているようです。これはもう、回転寿司のシャリが機械によって握られている位で、驚いている場合ではなさそうです。ただ、人口知能と言いますか、コンピューターの仕組みに関する説明を聞いておりますと、何となく理解できるんです。そこで使われていた用語は、“記号”であり、“記号が指し示すもの”であり、“意味”であったりする訳です。この観点からすれば、パースの記号学は、先駆的な試みだったことが分かります。

 

また、私としてはパースの“記号過程”という考え方には、共感しております。すなわち、人間が何かを認知し、思考するプロセスを記号、記号が指し示すもの、そして、記号を解釈する素質、という3つの要素で考えた。但し、どうもパースは3という数字にこだわり過ぎていた。現象についても3つのカテゴリーで説明している。その理由は、ヘーゲル弁証法にあったのでしょう。(弁証法も3要素で成り立っています。)ただ、私は3という数字にあえてこだわる必要はないと思っています。認知、思考とくれば、その後に行動(反応)という概念を加えても良い。そうすると、概ね、このブログのNo. 156に記しました私なりの試論(実体、記号、意味、反応)とかなり近いものになります。これらにあと若干の概念を加えれば、概ね、文化の基本構造を説明できるような気もしています。

 

例えば、表象。ゴッホは向日葵など、現実に存在するものを描きました。しかし、ジャクソン・ポロックは現実に存在しないものを描いた。では、ポロックは何を描いたのか。それは彼の心的イメージであって、これを表象というのではないか。そんな見立てもしているのです。

No. 165 記号学のパースが面白い(その2)

パースは、「日常いつでも誰の心にも現われるもの」を現象と呼び、独自の現象学を提示しました。本文献には「現象学はただ、どんな仕方においてであれあるいはどんな意味においてであれわれわれの心に現われるいっさいのものを直接観察し記述し分析し、そこにいっさいの存在の最も普遍的一般的な原理を求めるものである」とあります。そして、パースは現象を3つのカテゴリーに分類したのです。そしてパースはこれらのカテゴリーを「単に論理的関係の概念としてだけではなく、それらを、あらゆる現象の基本的な存在様式として、または普遍的カテゴリーと考え」たのです。今回は、この3つのカテゴリーについて見ていきたいと思います。

 

第1次性
・例: Xは赤い
・例えば「アダムが最初に見た世界」。いかなる区別も立てず、新鮮で、自由で、生き生きしていて、すぐに消えてしまうもの。
・外からの強制もなく、法則にしばられることもなく、理性や思想の制約も受けず、それらのいっさいの関係から解放された自由で自発的な限りない多様性としてのものの在り方。
・記述することのできない未分化なものの在り方。

 

第2次性
・例: XはYを愛する。
・無限定的な第1次性が発展すると分化、2元的な対立が生まれる。
・典型的な概念としては、強制、闘争、衝突、抵抗、作用と反作用、事実、経験など
・現実的な事実の世界。
・例えば、突然の轟音にびっくりするなど、純粋に二極的な関係であるようなものの在り方
・現実性に理性はない

 

第3次性
・例: XはYにZを与える。
・例えば、コミュニケーションは、共通の言語などの媒介がなければ成立しない。このように媒介あるいは中間性の存在様式をパースは第3次性と呼ぶ。
・普遍的、一般的、法則的なものの在り方。
・第3次性とは、二つのものの間の媒介性または中間性を意味する。したがって、第3次性は何よりも記号の表意作用(representation)において、その特徴を顕著に現わす。

 

そして、第1次性、第2次性、第3次性はそれぞれ異なる独自の構造を有しており、第3次性を第2次性に、第2次性を第1次性に、それぞれ還元することはできない、ということになるのです。何か、とてつもない理論のような気がしますが、実はパースの上記の考え方は、ヘーゲル弁証法にヒントを得ています。

 

「パースがカテゴリーを三つに定めたのは多分にヘーゲルの「思想の三段階」 -定立、反定立、総合- から示唆を得ている。」

 

「パースはつまり宇宙におけるいっさいの事象をカオスから秩序へ、偶然から法則へ、対立から統合への弁証法的習慣形成の過程において見る宇宙進化論者であり、その進化論には絶対精神へと止揚されるヘーゲル的な弁証法的精神進化の過程を思わせるものがある。」

 

パースの思想の根底には、人間といえども自然が生んだものだ、だから最終的には自然界、宇宙を支配する法則に従うはずだ、という考え方があるようです。

 

そもそも出発点である“現象”とは、“心の中に現われるもの”だったはずで、そこから私なりに考えてみましょう。

 

まず、第1次性ですが、これは何の拘束も受けない混沌とした心理状態を指していると思います。私たちは“夢”において、このような心理状態を体験していると思います。また、精神病患者の夢と神話に出て来るイメージの関連から、ユングは元型という概念を導きました。そういう、混沌とした心の状態というのは、存在するのだろうと思います。ジャクソン・ポロックがその抽象絵画で表現しようとした世界も、この第一次性に関わるような気がします。

 

第2次性というのは、現実の、物的な世界のことだろうと思います。机の角にぶつかれば痛い。物質というのは、ある空間を独占的に占領しているのであって、そこを侵そうとすると衝突が生まれる。自然界においては、昼と夜、夏と冬などの2項対立があって、それは古代人が強く意識してきたことだろうと思います。現代人もクルマにぶつからないようにとか、無意識のうちにそのようなことには注意を払っている。現実的な2項対立の関係、それが第2次性ということだと思います。

 

第3次性において、初めて記号が登場します。それは媒介的で、中間的なものとして論じられています。この段階において、調和が生まれる。パースはそう考えていたんですね。ということは、記号が調和を生む。そういうロジックの大きな流れをイメージしていたのかも知れません。

 

それにしてもパースは、人間の心の中から自然界の構図まで、たった3つのカテゴリーで説明しようとしたんですね。それが正しいのかどうか、私には分かりません。ただ、その思想のスケールの大きさには感服せざるを得えないのです。