何の変哲もないある1日に、人はクリスマスだとかいって、意味を付与し、特異な行動をとる。昨年の末にはそんなことを考えていたのですが、年が明けますと、また、合理主義では理解のできない事柄が発生したのです。
まず、門松。きっと、これにも何らかの意味があるのでしょう。そして、しめ飾り。私は、マンションに住んでいますが、ドアにこれを飾っておられる方が、意外にも多いのです。初詣では、商売繁盛の神社に人々が殺到したようです。そうこう致しますと、今度は晴れ着の会社が倒産したとかで、大変な騒ぎになっております。振り袖というのも、経済合理性から言えば、理解が困難な代物です。21世紀になっても、こういう物事というのは、無くならない。
ちょっと、祭祀と呪術の関係を整理しておきましょう。
祭祀・・・・人間集団の幸福を願う儀式や祭り
白呪術・・・自分の幸福を願うもの
黒呪術・・・他人の不幸を願うもの
こうしてみますと、縁結びだとか商売繁盛というのは、白呪術だと言えるのではないでしょうか。日本は、未だに呪術大国である、と言いたくもなります。
さて、少し前の原稿で、私は「てるてる坊主というのは簡単なもので、記号+行動=意味 という図式で説明できる」と書いたのですが、ある寝付かれない夜、本当にそうだろうか、という疑問が沸いて来たのです。何か、そこには寂しげな感じが致します。朦朧とする意識の中で、ふと私は呪いの藁人形を連想したのです。まさか、そんなことがあるはずはない。しかし、東北のある地方では、こけしが水子供養に使われていたという話もありました。これは深沢七郎の小説にそんな話があったのです。この3例は、いずれも人形が呪術に使用されるという点で、共通しています。
翌日、ネットで検索した所、てるてる坊主にもその起源となる神話の存在することが分かりました。まず、A説。昔の中国の話です。雨が降り続いて、人々は困っていた。すると天から声が聞こえた。「その美しい娘を差し出せば晴れにするが、差し出さなければ都を水没させる」そこで、人々は晴姫という少女を天に捧げたというのです。以後、晴姫を偲んで、てるてる坊主のようなものを軒先に吊るすようになった。次にB説。昔の日本で、雨が降り続き、困っていた。そこで、晴れにできるという評判のお坊さんが呼ばれて、祈祷が行われた。それでも雨は止まなかった。怒った殿様が、そのお坊さんの首を切り落としてしまう。その生首を布にくるんで吊るした所、翌日には晴れ間が広がった。
どちらも、悲惨な話です。A説の晴姫に関する神話は、子供を生け贄にするというものですが、同じような話は、確か旧約聖書にもありました。こちらは、すんでのところで、子供を殺さずに済んだのですが・・・。また、日本にも座敷わらしの民話が残っています。新しい建物を棟上げする際、男女一対の子供を人柱にした。そして、その子供たちが座敷わらしとなって出現した家は栄える、というものです。
A説、旧約聖書、座敷わらし。この3例は、子供を生け贄にするという点で共通しています。
国や地域が違っていても、どこか似たような話がある。これらは、私たち人類が共通して経験した過去の出来事であるとも言えますし、人類が共通して持っている普遍的な心的イメージであるとも言えるような気がします。そして、この心的なイメージというのは、想像以上に強いものであって、現代に生きる私たちの心の中にも生き続けているのではないか。
てるてる坊主の例で言えば、有名な童謡もありますね。実際にてるてる坊主を作って、軒先に吊るした経験を持つ人もおられることと思います。神話があり、童謡があり、経験がある。そんなことから、あるイメージが世代を超えて伝承されていく。こんな所にも、文化の本質があるような気が致します。
私は、宗教に関しましては消極的な立場を取っております。宗教には、お金が絡む。権力が絡む。そう思うのです。しかし、精神文化の本質は、どうやら宗教にあるのではない。それ以前の、人々の純粋な気持ちの中にある。宗教は否定できても、てるてる坊主という文化を否定することはできない。
余談になりますが、集団の利益を優先する祭祀というものがあって、例えば、棟上げ式で子供を人柱として殺してしまう。悲しんだ親が、密かに呪術を行う。そういう構図も考えられるのではないかと思うのです。だとすると、祭祀と呪術は、表裏一体の関係にある。そして、人々の悲しみを癒やすために、言ってみれば、祭祀と呪術の対立関係を緩和させるために、人々は神話を作ってきたのではないか。時間ができましたら、もう一度「遠野物語」を読んでみたいような気がしてきました。