文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 214 第9章: 心的領域論(その7)

ゴーギャンの描く南海の孤島に生きる人々には、不思議な魅力を感じます。そして、その理由が、分かったような気がするのです。鍵は、ユングにあった。心理学者のユングと画家のゴーギャン。この2人には、共通点がある。ちなみに、ゴーギャンユングよりも28才年上ということになります。従って、ゴーギャンユングの著作を読んだ可能性は、ありません。ユングゴーギャンの絵画を見た可能性は否定できませんが、この2人に現実的な接点はなかったものと思われます。

 

さて、ゴーギャンの作品から、2点ほどピックアップしてみました。

 

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まず、右側の絵から。これはゴーギャンが1892年に描いた「かぐわしき大地」という作品です。なんという力強い肉体でしょうか。彼女の太ももから、つま先に至る豊満さ、そして、揺るぎない自信に満ちた眼差し。圧倒的な存在感です。彼女は、このブログの言葉で言えば、“空っぽ症候群”になど、陥ってはいない。ましてや、“序列亡者”になどなっていない。つまり、彼女は現代病に侵されていない。そんなこととは無関係に、彼女はもっと普遍的な真実を見つめている。そこに魅力がある。彼女を“イブ”と呼んで、差支えないでしょう。イブはその2本の足で、しっかりと大地を踏みしめている。

 

ユングは、プエブロ・インディアンの持つ「気品」に感銘を受けた。それは、彼らが持つ宗教的な信念の強さに由来するものであった。ゴーギャンタヒチの女性に、同じような魅力を感じていたに違いない。ここに、1つ目の類似点がある。

 

ユングは、分裂病患者の見る夢と、世界各地の神話に現われるイメージとの間に、共通点を見い出した。そして、これらのイメージを“元型”と呼んだ。神話の時代、すなわち古代から現代まで、脈々と流れ続けて来た人類に共通するイメージがあると考えた。元型にはいくつかの種類があって、代表的なものは、老賢人、グレートマザー、トリックスターなどがある。

 

(注:Wikipediaは、トリックスターについて、次のように説明しています。「神話や物語の中で、神や自然界の秩序を破り、物語を展開する者。善と悪、破壊と生産、賢者と愚者など、異なる二面性を持つのが特徴である。」)

 

さて、もう一度、ゴーギャンの「かぐわしき大地」をご覧いただきたいのです。ここに描かれているイブは、グレートマザーそのものではないでしょうか。

 

次に、写真の左側の絵について。これはゴーギャンが1902年に描いた「ヒヴァ・オア島の魔術師」という作品です。ゴーギャンが死ぬ前の年に描かれたものです。赤いマントを纏った魔術師、右下には不吉な何かを象徴するキツネと緑色をした想像上の鳥が描かれています。魔術というのは、呪術と同じ意味で考えて良いと思います。現代に生きる私などからすれば、魔術師というのはいかがわしい商売だと思うのです。しかし、この魔術師の瞳も、自信に満ちている。この魔術師は、元型の中の“トリックスター”に似てはいまいか。

 

すなわち、古代から現代にまで伝わる普遍的なイメージがあって、ユングはそれを元型と呼び、ゴーギャンはそれを描いてみせた。追求していたものは、同じだと思うのです。これが2点目の共通です。ユング分裂病患者の夢と向き合い、そしてゴーギャンは未開の地に自ら居住し、そして二人とも神話を研究しながら、古代のイメージを追求したに違いありません。ここに人間の、芸術の、そして文化の原点があると思います。

 

“象徴”ということについて、もう少し考えてみます。「かぐわしき大地」に描かれたイブは、安定、豊穣、生命のシンボルだと思いますが、この絵には不吉な予兆も描かれている。イブの肩口に掛けて、真っ赤な模様のようなものが見えますが、よく見るとこれは、深紅の羽を生やしたトカゲなんです。これも不吉な何かを表わしている。聖書におけるイブがリンゴの実を食べてしまったように、ゴーギャンの描くイブにも、それを脅かす存在が示されている。

 

「ヒヴァ・オア島の魔術師」においては、現実と虚構が対立しているように思えます。魔術師自身は、この絵の中では現実として描かれていると思うのですが、魔術というのは虚構でしかありえません。そして魔術師は、時に人々を惑わせ、時に人々の病を治療する。こう考えますと、一体何が現実で、何が虚構なのか分からなくなってきますが。

 

いずれにしても、人間の世界には、様々な対立軸がある。時間と空間、現実と虚構、男と女、確信と不安。挙げれば、切りがありません。すなわち、人間が生きている世界というのは、調和しておらず、そこはカオスだとも言える。そこで、それらの対立軸なり、不調和を何かによって、調和させる。それが“象徴”ということではないでしょうか。もちろん、ゴーギャンは、その絵画によって調和させようとした。そしてゴーギャンは、このことを原始芸術から学んだに違いないと思うのです。古代人の知恵が、ここにある。

 

上に記した事項は、弁証法によって解釈することも可能かと思われます。すなわち、定立があって、反定立がある。それがアウフヘーベン止揚)され、上位のレベルで総合される。

 

パースは、「広く宇宙全体が、あるいは宇宙に存在するいっさいのものが、カオスから秩序へ、偶然から法則へ、(中略)進化する」と考えていたようです。宇宙全体のことは私には分かりませんが、人間の世界ということを考えますと、少なくとも今後10万年位は、カオスのままではないかと思います。様々な対立があるからこそ、そこにエネルギーが生まれるような気がするのです。

 

最後に、ゴッホゴーギャンの人生について考えてみます。

 

ゴッホのメンタリティは、あくまでも共感を求める身体系と、絵画という物質系にあった。ゴッホは、あくまでもこの2つの領域で生きた。絵を描きながら、ゴッホは他の人の共感を求め続けた。家族も持ちたいと願っていた。そして、ゴッホにとって身体系の世界に通ずる人間は、弟のテオだけだった。確かにテオはゴッホを理解しようとしたし、ゴッホに共感していたに違いありません。しかし、ゴッホの絵は売れず、ゴーギャンゴッホに共感しなかった。ちなみに、ゴッホが耳を切り落としたというのも、身体系のメンタリティの顕われではないかと思います。そして、失意のうちにピストル自殺を図った。天才なるが故の不幸な人生だったのではないでしょうか。ゴッホの絵画を見直しますと、やはり、あの黄色い太陽には狂気を感じる。

 

一方ゴーギャンは、株式仲買人として競争系の世界で成功した。また、メット夫人との間に5人の子供も設け、身体系の世界でも充足していた。しかしゴーギャンは、運命に翻弄されながらも、双方の世界とメンタリティを捨て、画家という物質系の世界に入って行った。続いて、想像して絵を描くという想像系のメンタリティを獲得した。

 

Wikipediaによりますと、実際、ゴーギャンゴッホに“想像で絵を描け”と繰り返し主張したようです。そしてゴッホは、ゴーギャンの意見に従い、何度か想像上の絵を描いてみたのですが、うまくいかなかったそうです。思えば、ゴーギャンも酷なことをした。メンタリティの領域というのは、そう簡単に超えられるものではない。そのことをゴーギャンが知っていれば、ゴッホにそれ程強く意見することもなかったのではないか。ゴッホは、頭ではゴーギャンの意見を理解しようとしたものの、その意見を受容する想像系のメンタリティを持ち合わせていなかった。(ただ、ゴーギャンの名誉のために付け加えておきます。一般にゴーギャンゴッホを見捨てたと思われているようですが、実際には、ゴッホが自殺するまで、ゴーギャンゴッホとの文通を続けていたようです。)

 

ゴーギャンの晩年は、一見、みすぼらしいものだったようです。2度目のタヒチ行きを果たしたゴーギャンは、タヒチの近代化に失望し、更なる未開の地を目指しヒヴァ・オア島に辿り着いた。そして、不衛生で粗末な小屋の中で心臓発作を起こして死ぬ訳ですが、彼の死を看取ってくれる女性はいなかったそうです。

 

身体系と競争系を捨て、物質系(象徴)と想像系の世界を獲得したゴーギャン。彼にとって一番大切なものは、何だったのでしょうか。それは、絵画や木彫りなど、彼が生み出した芸術作品だったはずです。そして、明らかに彼は、自らの環世界を見事に構築した。彼は人間の生きる世界とその本質を認識し、それは確信に至っていたに違いないと思います。期せずして、ゴーギャンの遺作は、自画像となりました。視力も低下したゴーギャンは、眼鏡を掛けています。若かった頃の自画像とは違い、ここに描かれたゴーギャンには、活力が感じられません。しかし、眼鏡の奥から何かを見据える眼光に憂いはなく、そこには皮肉さや不吉な予兆もないのです。遂にゴーギャンは、未開の心を獲得したのだ。私は、そう思っています。

 

この章、終り

No. 213 第9章: 心的領域論(その6)

 

6.ゴーギャン

 

フランス人の画家のゴーギャン(Paul Gauguin, 1848-1903)が、どうも私の家に住み着いてしまったような、そんな気分です。当初は軽い気持ちで、ゴーギャンについて記載してみるつもりだったのですが、彼の作品や人生と向き合っているうちに、私の心の中でゴーギャンの存在は巨大化し、とても短い文章では語り尽くせないことが分かりました。ただ、ここでゴーギャンについて述べておかないと、私の「心的領域論」は完結できない。そのため今回は、無理を承知で、簡単に記載してみることにします。

 

まずは、彼の略歴を記してみます。

 

1848年(0才) 6月7日、パリに生まれる。
1849年(1才) 一家は、ペルーに移住。ここでゴーギャンは、古代ペルーの陶器に接する。この時点で、ゴーギャンの古代に対する興味が形成された。
1855年(7才) 一家は、フランスへ帰国。
1865年(17才) 見習い水夫となる。その後、世界周航に出る。
1868年(20才) 海軍に入隊。
1871年(23才) 海軍を除隊。株式仲買商に勤務する。以後、株式仲買人として、成功する。絵を描き始める。以後、日曜画家となる。
1873年(25才) デンマーク人のメット・ソフィエ・ガーズと結婚。以後、彼女との間に5人の子供をもうける。
1883年(35才) 勤務先に辞表を出し、プロの画家を目指す。
1888年(40才) アルルにて、ゴッホとの2か月の共同生活。ゴッホの耳切事
件後、パリに帰る。
1891年(43才) タヒチへ移住。
1893年(45才) 健康を害すると共に経済的に破たんし、フランスへ帰国。
1895年(47才) 娼婦との接触により、梅毒に感染する。2度目のタヒチへの移住。
1897年(49才) 愛娘、アリーヌが死去。「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」を制作。その後、自殺を図るも未遂に終わる。
1901年(53才) タヒチを去って、マルキーズ諸島のヒヴァ・オア島に移住。
1903年5月8日、心臓発作のため死去。享年54才。

 

まず、心的領域論の立場から、考えてみましょう。

 

25才で結婚したゴーギャンは、本人のメンタリティがどうであったかは別として、仕事(競争系)の世界と家庭(身体系)の領域に身を置いていた。ところがまず、35才で仕事を辞め、画家を目指す。画家というのは物質系(象徴)ということになります。次いで、43才になったゴーギャンは、単身、タヒチへ移住する。タヒチというのは、太平洋のほぼ真ん中に位置しますが、緯度はオーストラリアと同程度です。フランスからタヒチまでの旅は、2か月程度を要したようです。ゴーギャンは、タヒチに到着すると間もなく先住民の少女と同棲を始めます。ここら辺から、ゴーギャンにまつわる“悪役”のイメージが出来上がっているのでしょう。実際、ゴーギャンはその生涯を通じて、結婚や同棲を繰り返し、生活を援助してくれた恩人の妻を寝取るなど、その悪行は数え切れません。ただ、株式仲介会社を辞めたのは、当時、不況となり、辞めざるを得なかったというのが真相のようです。また、ゴーギャンタヒチからも正妻(メット)に手紙を送り、仕事が軌道に乗り次第、一緒に暮らそうと述べています。人間誰しも、複数の側面を持っており、ゴーギャンも例外ではなかったということでしょうか。ただ、ゴーギャンは人並外れて楽観的で、傲慢で、自信家だったことに間違いはなさそうです。画家としてやって行こうと決めた時にも、どうやら「画家というのは儲かるいい商売だ」と考えていたようです。ゴーギャンのこの楽観主義が、彼の破天荒な人生を導いたと言えそうです。

 

また、画家になったゴーギャンは、想像系のメンタリティを獲得していく。この点は、ゴッホとの比較で考えてみると分かり易いと思うのです。

 

ゴッホは、あくまでも共感を求める身体系のメンタリティと、画家として大自然に向き合う物質系のメンタリティを持っていた。しかし、ゴッホが想像系のメンタリティを獲得することはなかった。想像系がないということは、すなわち、ゴッホの作品には物語性がない、ということだと思います。もちろん、ゴッホが描いた麦畑の上空にはカラスが飛んでいる。これは不吉な何かを象徴していると思います。また、ゴッホの描いた向日葵(沢山のバージョンがありますが)は、咲き誇っているものばかりではなく、枯れているもの、種を宿しているものなどがあり、これらは人間の一生を暗示しているように思います。しかし、ゴーギャンのように、それらの象徴的な対象物を追求するという姿勢は、ゴッホにはなかったように思えます。つまり、ゴッホ印象主義だった。あくまでも自然に接し、そこから感じ取られる形を強調し、色彩を強化する。すなわち、印象に基づいて、自然をアレンジする。これが印象主義ですね。しかし、それでは印象主義と言っても、本質的には自然に依存している、リアリズムと同じではないか、という批判も出て来る。

 

これに対して、ゴーギャンは、自然界には実在しない、観念や象徴的なモチーフを追求し続けたと言えます。例えば、旧約聖書に出て来るイブ。アダムと一緒にリンゴを食べてしまった女性のことですが、彼女が姿を変容させながら繰り返し描かれる。その他にも、悪徳を象徴するキツネやカラス、死霊など、ゴーギャンはあくまでも想像上のモチーフを描き続けた。そこで、1891年にアルベール・オーリエという評論家が「絵画における象徴主義」という論文を発表し、ゴーギャンを絶賛したのです。やはり、ゴーギャンは“象徴”なんです。

 

ゴッホ・・・・・身体系、物質系・・・印象主義

ゴーギャン・・・想像系、物質系・・・象徴主義

 

ゴッホは画家になる前、宣教師のような仕事に就いていました。そして、医者も見放した重病人をつきっきりで看病し治癒に導いたとか、貧しい人に自分のコートをプレゼントしてしまったという美談があります。しかし、このゴッホの過剰な感情から、その仕事をクビになってしまう。ゴッホはあくまでも善人であろうとした。これに対して、ゴーギャンの中では、善と悪が交錯している。

 

では、そのようなゴーギャンのメンタリティがどこからやって来たのか、ということを考える訳ですが、その起源は、幼少時に日常的に接していた古代ペルーの陶器にあるように思います。このような原始芸術の中には、善も悪もない。原始芸術においては、人間の根源的なメンタリティが統合され、象徴されているのではないか。そして、ゴーギャンは、誰よりもそのことを知っていた。

 

ゴーギャンは、古代に注目した。そして、南海の孤島に伝わる神話を読み、自分の作品に反映させたのです。その方法に間違いはないと、私も思うのです。やはり、私たちのメンタリティのルーツは、古代にある。そして、古代の芸術や神話の中に、現代人が忘れてしまった何か、大切なものがある。その謎を解く鍵、ゴーギャンが追い求めていたのは、それだと思うのです。

 

この章、続く

No. 212 第9章: 心的領域論(その5)

 

5.閉鎖系の世界へ

 

分析心理学のユングは、アメリカのニューメキシコ州でプエブロ・インディアンに出会った。そこでユングは、初めて白人ではない人と話す機会を得たと述べている。(参考:ユング自伝2 ヤッフェ編 河合隼雄訳 みすず書房 1973)そして、インディアンの村長は、ユングに次のように語った。

 

「つまり、われわれは世界の屋根に住んでいる人間なのだ。われわれは父なる太陽の息子たち。そしてわれらの宗教によって、われわれは毎日、われらの父が天空を横切る手伝いをしている。それはわれわれのためばかりでなく、全世界のためなんだ。もしわれわれがわれらの宗教行事を守らなかったら、十年やそこらで、太陽はもう昇らなくなるだろう。そうすると、もう永久に夜が続くにちがいない」

 

続いて、ユングは次のように記している。

 

「そのとき、私は一人一人のインディアンにみられる、静かなたたずまいと「気品」のようなものが、なにに由来するのか分かった。それは、太陽の息子であるということから生じてくる。(中略)知識はわれわれを豊かにはしない。知識は、かつてわれわれが故郷としていた神秘の世界から、われわれをますます遠ざけてゆく。」

 

すなわち、ユングが出会ったプエブロ・インディアンは、気高く、気品に満ちているとユングは感じていた。そして、その理由が、彼らの宗教にあることをユングは理解したのである。彼らは、人類を代表している。そして、彼らが神と崇める太陽に祈りを捧げている。彼らが祈ることを止めれば、いずれ太陽は昇らなくなる。それだけ重要な役割を彼らは担っているのだ。だから、彼らには自信と誇りがあり、彼らは豊かな精神生活を送ることができていたのだ。

 

なんともスケールの大きな話です。プエブロ・インディアンの認識する世界、すなわち“環世界”は、宇宙にまで達していた。ユングは、彼らを羨ましく思うと共に、そういう確信を持てなくなった現代人の悲哀を述べている訳です。最早、そういう神秘的な仮説を、現代人が信じることはできない。

 

プログレッシブ・ロック系で、“キング・クリムゾン”というバンドがあり、バンドに詩を提供していたのはピーター・シンフィールドという人です。Confusion will be my epitaph (混沌こそ我が墓碑銘)という一節で有名なEpitaphという曲があるのですが、この曲の歌詞には、次の一節も含まれている。Knowledges are deadly friend。(知識とは人々に死をもたらす友人である)。ユングが言っていることと、同じだと思います。

 

どうやら、メンタリティということを考えますと、ここら辺に現代人の課題が見えて来る。このブログでは、“空っぽ症候群”と呼んで、ニートや引きこもりの人たちを批判的に見てきた訳ですが、彼らがそうなってしまったことには、現代的な理由がある。それは、今、世界的な規模で、特に先進諸国で、進行している現象だと思います。また、ビジネスの世界では、うつ病が蔓延している。これは本当に多くて、正確な統計は知りませんが、20人に1人位の割合で、罹患しているのではないでしょうか。

 

何十年か前に、こういう現象に危惧した人たちがいて、「プラグを抜け」ということが良く言われたようです。プラグとは電源のコンセントのことで、つまり、テレビばっかり見るな、ということだったようです。しかし、その後、ネットが登場し、事情は更に深刻になった。今風に言えば、スマホばっかり見てるんじゃない、ゲームばっかりやってるんじゃない、ということになる。

 

この問題を少し文化論の立場から見てみましょう。プエブロ・インディアンの“太陽を手伝っている”という発想は、想像系の中の融即律(未開の直観)ということになります。知識によって、そのような仮説が成立しなくなったということは、想像系の領域に影響を及ぼしていることを意味している。ということは、それ以前のアニミズムも成立しない。その後の“物語的思考”も成立しにくくなって来たのではないか。論理的思考は成立しますが、これは難解である上、環世界の構築には寄与しないような気がします。

 

<想像系>

アニミズム・・・成立しない
融即律・・・・・成立しない
物語的思考・・・成立しにくい
論理的思考・・・成立するが、難解で、環世界の構築には寄与しない

 

記号系から出発して、身体系へと進む。そこに留まっていられる人はまだいいと思うのですが、そこから先に進もう、確固とした環世界を構築しようとした場合、どこへ進めばいいのか。競争系には“序列亡者”が沢山いる。想像系も頼りない。このように考えますと、“空っぽ症候群”に陥った人たちの気持ちも、分かってきます。記号系へ戻ろうと思いたくもなる。

 

また、身体的な能力や美貌というのは、年令と共に衰えて来るので、身体系のメンタリティというのは、ある程度、若くないと維持しにくいのではないか。ここら辺に、中年期の心理的な危機の理由があるように思います。

 

消去法で考えますと、残るのは物質系ということになります。物質系の中の“機能”ではありません。それはもう、充足されている。かと言って、普通、ピラミッドや巨大な建物を作ること(空間表現)はできません。すると、残るは“象徴”ということになる。

 

もう一つ。私たちが認識できる時間や空間の範囲には、限度があります。従って、強固な環世界を構築しようとした場合、その世界には限定が必要だと思うのです。換言すれば、その世界は閉鎖的、閉鎖系の世界である必要がある。冒険小説、宝島の舞台は一つの島だった。ジャングル・ブックの舞台はジャングルの中だった。そういう閉鎖系の世界に生きているからこそ、“象徴”という文化やメンタリティが生きてくるのではないか。反対に、開放系の世界とは、ネットの世界や、都会での生活、グローバリズムなどということになります。これらの世界はどこまでも広がり、物は代替可能で、いや、人間すらも交換可能な世界だと思うのです。豊かな自然に囲まれた“田舎”に転居する人たちの気持ちが分かります。

 

さて、現代人の抱える大きな問題に直面してしまった訳ですが、この章の締め括りとして、ゴーギャンについて、検討してみたいと思っております。自ら南国の孤島に身を置き、絵を描き続けた彼の人生の中に、何かヒントがあるような気がするのです。

 

この章 続く

No. 211 第9章: 心的領域論(その4)

 

4.環世界

 

「環世界」というのは、元々は生物学上の用語だと思われますが、文化人類学においても使用されることがあります。正確な定義はちょっと分かりませんが、概ね「特定の人間や人間集団の認識が及ぶ範囲の世界」という意味だと思います。

 

例えば、幼稚園児にこう言ってみる。「君の知っている人や場所などを地図みたいに描いてごらん」。すると幼稚園児は、自宅、幼稚園、友人の家、父母の顔、いつも遊んでいる公園、もしかすると虫を発見した場所などを描くかも知れない。中年のサラリーマンであれば、自宅と会社、帰りに立ち寄る赤提灯などを描くのではないか。ペットを飼っている人であれば、動物病院を描き加えるかも知れない。国際派のビジネスパーソンであれば、世界地図のようなものを描くかも知れない。現代に生きる私たちの環世界というのは、大体、そんなものではないでしょうか。もちろん、子供の描く地図よりも、経験豊富な大人の描く地図の方が、その範囲は広くなる。しかし、広ければいいというものではない。

 

思えば、優れた小説や映画には、その登場人物にとっての環世界が生き生きと描かれている。昔読んだ冒険小説の「宝島」には、その島の様子が、そしてもちろん宝のありかが描写されていた。シートン動物記には、どんな場所で、動物がどのような行動を取るのか、その様子がありありと描かれていた。私の記憶が正しければ、傷ついた熊が温泉に入って療養するシーンがあった。(後年、私が温泉好きになった理由の一端が、ここにあるような気がします。)スタジオジブリが製作した「風の谷のナウシカ」などにも、登場人物にとって重要な意味を持つ場所や動物が、物語性とリアリティーをもって描かれている。

 

では、現代に生きる私たちの実生活なり、環世界というものは、上に記した小説や映画程、生き生きとし、私たちにとって“意味”があり、重要でしょうか。あなたの答えは、“ノー”ではないでしょうか、多分。現代という時代に生きることの困難さの理由が、ここにあると思うのです。

 

例えば、日本全国、無数に存在する“お地蔵さん”について、想像してみます。道端にお地蔵さんが立っていたからと言って、最近は足を止める人も少ないのではないでしょうか。しかし、思えばお地蔵さんをその場所に立てるためには、相当な苦労があったはずなのです。まず、岩場から適当な大きさの岩を切り出してくる。それを作業場まで運び、今度は、手作業で、お地蔵さんの形を掘り起こす。その作業だって相当なものですが、岩から形を掘り出すという技術を習得するだけでも、何年にも渡る修行が必要です。そして、出来上がったお地蔵さんを田んぼのあぜ道だとか、山の中腹まで運ぶ。そうすることによって、昔は何か、報酬が得られたのでしょうか。多分、そんなことはないと思うのです。お金のためではない。名誉や地位のためでもない。しかし、昔はお地蔵さんを立てるという労苦をいとわない石工の人たちが、沢山いた。では、彼らは何故、そうしたのか。

 

宗教的な理由でしょうか。確かに、それはあったかも知れません。しかし、仏教の教義などというものは、現代人である私にも良くは分かりませんし、例えば識字率だってそう高くはなかった江戸時代に、石工の人たちがそれを理解していたとは考えにくい。

 

では、何故、石工の人たちはお地蔵さんを立てたのか。私の想像ではありますが、それは石工の人たちが自らの環世界を構築するためだったのではないか、ということです。例えば、小川の向こうに山がある。その山には、名前すらない。しかし、その中腹には、自分の作ったお地蔵さんが立っている。それだけで十分、その石工にとっては、その山を認識する根拠になり得る。その山どころか、その石工が生きている世界そのものを認識することが可能になる。あの山の中腹には、俺の作ったお地蔵さんが立っている。あれを作る時には苦労したなあ、などと思いながら、山を見上げる。その山は、もう彼の手中にあると言っても過言ではない。

 

手応えがあり、リアリティーがあり、確固とした環世界というものは、そうやって構築されるのではないか。例えば、あの山には鬼が住んでいたとか、そういう民話も少なからずありますが、これらも人々がその山を認識する、すなわち環世界を構築するための手段だったのではないでしょうか。

 

ユング派の心理療法の手段として、今日でも使用されている「箱庭療法」というのがあります。30センチ四方位の箱に、砂を敷き詰める。その上に人間や動物、植物などのフィギュアを並べて、患者の心理的な世界を構築するというものです。これなども、患者の環世界を再構築する手段だと言えないでしょうか。

 

すなわち、身体系、想像系(アニミズム、融即律、物語的思考)、物質系(象徴、空間表現)の文化は、人間が他人や外界を認識する、すなわち環世界を構築するための手段として進化してきたのではないか、という気がするのです。

 

この章 続く

No. 210 第9章: 心的領域論(その3)

 

3.人生スゴロク

 

ネットで、こんな話を読んだことがあります。ゴルフ三昧の生活が夢だったAさんは、定年退職を機にゴルフ場の近くに転居し、永年夢見ていた生活を始めた。ところが、半年もするとゴルフをするのが苦痛になってしまった。一方、Bさんの夢は釣り三昧の生活だった。定年退職と共に海辺へ転居し、天気さえ良ければ、釣竿を持って出掛けた。そしてBさんは、末永く老後の生活を楽しんだというのです。

 

私には、その理由が分かるような気がします。役所でも会社でも、サラリーマンの世界というのは競争系なんです。そういう世界にどっぷりと漬かっている間は、同じ競争系のゴルフが楽しく感じられる。しかし引退して、日常的にそういう世界から離れると、次第に競争することに意味を見出せなくなる。現役時代であれば、会社に行ってスコアを自慢したり、新しく買ったドライバーの話をする相手がいる。しかし、引退してみると、そういう相手もいなくなる。そもそも、ゴルフのスコアがいくつだろうが、どうでも良くなる。それでもゴルフをしている間は、自分のみならず同じ組で回っている他のメンバーの分まで含めて、1ホール終わるごとにスコアを記録しなければならない。段々、そういうことに意味を感じなくなる。だから、ゴルフが楽しいどころか、難行、苦行になってしまう。他方、魚釣りというのは、物質系だと思います。広大な海があり、その下に広がる空間を感じながら、糸を垂れる。それだけで、楽しい。誰と競う訳でもない。だから飽きないのではないでしょうか。

 

このように、どの領域で生きるのかという問題は、私たちの人生において、重要な意味を持っていると思います。

 

さて、もう一度「文化とメンタリティの関係図」を思い起こしていただきたいのです。ここには、“人生スゴロク”の全体図が描かれているのです。

 

まず、人生というのは、記号系から始まる。音を聞き、光を感じるところから、個々の生命体の活動が始まる。やがて、嗅覚だとか、触覚も発達してくる。いわゆる五感という奴です。そして、五感によって、認知されるものが記号です。

 

次に、“人生スゴロク”は、身体系に進む。幼児期の話ですが、母親を始めとする大人たちの言葉を真似て、子供は言葉を覚えます。言葉によって、子供は自分の環境を理解し、自分の感情や希望を表現するようになる。言わば、人間の世界にデビューする訳です。本物のスゴロクと違って、人生スゴロクというのは、全員がここまでは同じように進むのだと思います。

 

しかし、ここから先が異なってくる。折角、身体系まで進んだにも関わらず、ゲームなどの記号系の世界に戻ってしまう人たちがいる。彼らはニートとか、引きこもりと呼ばれています。このブログでは、“空っぽ症候群”と呼んでいますが。

 

そして、記号系には戻らず、身体系の領域に留まる人たちも少なくありません。順調に成長し、やがて思春期を迎え、歌い、踊り、着飾り、おしゃべりをし、そして恋をする。結婚して、家庭でも築こうものなら、そこは本来的には融和的、集団的な場所であって、正に身体系の領域ということになります。ポール・マッカートニーに限らず、身体系に留まり続けるミュージシャンも、少なくありません。それはそれで、幸せな人生なのでしょう。私は、このタイプの人たちに文句を言うつもりはありません。但し、“記号系+身体系”だけでは、いかにも領域が狭い。例えば、専業主婦の人たちは、こういう世界に生きている訳ですが、家庭だけでは息が詰まる。競争系の領域は厳しいし、物質系というのは少しハードルが高い。そこで、ちょっとだけ想像系の領域に行くのだろうと思います。例えば、映画やテレビドラマを楽しむことになる。これらのエンターテインメントというは、ハードルが低い。事前の知識や、論理的な思考は必要ない。してみると、このタイプの人たちにとって、“優先領域”が身体系で、それを補足する領域が想像系ということになる。(以後、この補足的な領域を“補足領域”と呼びます。)

 

次に、記号系から身体系へと進んだ後、すぐに競争系に進む人たちもいる。このタイプにはスポーツエリートと学業エリートがいる。例えば、身体系の領域はそこそこにして、若くしてスポーツのエリート教育を受ける。若しくは、子供の頃から塾や家庭教師の指導を受け、学業エリートを目指す。このタイプの人たちにとっては、帰属する集団内の序列が重要な意味を持つ。極端に言えば、“序列亡者”になってしまう。日馬富士暴行事件というのがありましたが、この事件など、その典型だと思います。子供の頃から相撲の世界に入り、横綱にまで昇りつめた。横綱だから、一番偉い。そういう価値観があって、格下の者に暴行を加えた。相撲界では、暴力事件が頻繁に発生しますが、構造的な問題があると思います。

 

学業エリートも、結局は同じ傾向を持っている。財務省の前事務次官の福田氏が、テレビ朝日の女性記者に対しセクハラ発言を繰り返し、辞任するという事件があった。加えて、自民党の長老議員たちは、失言を繰り返している。いずれの問題も、想像力の欠如した“序列亡者”のなせる業だと思います。他人の権利を侵害し、世間に恥をさらし、晩節を汚す。私には、こういう人生が幸福だとはとても思えません。すると、人生のどこかのタイミングで、何かのきっかけをつかんで、想像系や物質系のメンタリティを獲得する、若しくはそれらの領域に属する文化に共感する力を身に付けた方が良いのではないか、と思えてくるのです。

 

ただ、どの領域で生きるのかという問題は、必ずしも個人の自由にはならない。もちろん、食べて行くためには、働かなければならない。多くの場合、会社や役所というのは、競争系の世界です。望んでいない場合でも、そういう世界に足を踏み入れざるを得ない。自殺者まで出した一連の事件で、財務省がどれだけ酷い組織であるのかということは良く分かりましたが、世間にはブラック企業というものも無数に存在している。家庭という身体系の世界で幸福に過ごしていた人も、ある日、離婚という現実に直面するかも知れない。若しくは、今回の西日本豪雨災害などによって、家を失い、食料や飲料水に困窮し、物質系の世界に投げ出されてしまうことだってある。

 

確かに、人生というのは不確実で、思い通りにはならない厄介なものです。それでも、現在の自分がどの位置にいるのか、どの方向を目指すべきなのか、自分や身近な人のメンタリティがどの領域に属しているのか、それを知っておけば、何かの役に立つに違いないと思うのです。

 

このブログに少しでも関心を持っていただいている方は、想像系の中の論理的思考というメンタリティを身に付けておられるはずです。従って、このブログをお読みいただいているあなたであれば、上記の判定は簡単にできます。すなわち、あなたや、あなたと近しい人が、何に関心を持っているのか。それをリストアップし、各項目がどの領域に属するかを判別すれば良い。すると、1つの“優先領域”と、1つまたは2つの“補足領域”が見つかると思います。但し、もしあなたの身の回りに“空っぽ症候群”や“序列亡者”の方がおられた場合、そのことを告げるには慎重であっていただきたい。彼らは、この考え方を理解できない、若しくは理解しても受け入れたくないと感じる可能性があるからです。

 

ところで、“人生スゴロク”と言うからには、“アガリ”はあるのか、という問題があります。結論から言えば、それは人によって異なる、ということになりますが、一般的な傾向について述べることは可能です。

 

現在、毎週月曜日に放送大学で「人格心理学」という講義が放送されており、私は毎週見ているのですが、そこで「40才が人生の中間地点である」ということを言っておられました。人生80年とすると、40才までは人格を拡張する時期であって、それを過ぎれば、今度は人格を閉じていく段階だと言うんですね。80を2で割ると40。単純な話ではありますが、ちょっと、ドキッとしませんか。私などは、完全に「人格を閉じる」段階に来ている訳で、そう言えば最近は、「欲しい物」よりも「捨てたい物」の方が沢山あります。そんな年令になってみて感じるのは、関係図の左側、すなわち身体系と競争系の文化やメンタリティというのは、未成熟に感じるということです。この点は、西洋と東洋で異なるかも知れません。アンチエイジングなどと言って、年を取っても身体的な能力やメンタリティは、あくまでも若く保つべきだ、と考える人たちがいます。西洋的な発想ですね。これに対して、年相応に詫びていく、寂びていく。それでいいんだというのが、東洋的な発想だと思います。私は、こちらの考え方に賛成です。すなわち、関係図の左側(身体系、競争系)を少しずつ整理し、右側(想像系、物質系)に落ち着いていく。「人格を閉じて行く」というのは、そういうことだと思います。

 

この章 続く

No. 209 第9章: 心的領域論(その2)

 

引き続き、前回の原稿に添付致しました「文化とメンタリティの関係図」に基づき、検討してみます。

 

まず、芸術と各領域の関係は、次のようになっています。

 

身体系・・・音楽
想像系・・・文学
物質系・・・美術

 

やはり、競争系の芸術というものは、存在しない。

 

次に、動物の心的領域について考えてみます。これは、記号系、身体系、競争系の3つであると言えそうです。動物も記号を通じて、外界を認知している。また、動物の行動を見ておりますと、互いの体を舐め合ったり、じゃれあったりしている。例えば、人間が猫を撫でていると、彼らは喉をゴロゴロと鳴らし、気持ち良さそうにしている。これは、融和的な関係を示していると思うのです。また、マウンティングに代表される競争系の行動も見られる。ライオンや野良猫のマウンティングというのは、かなり激しい。格上を主張する者が相手の背中にまたがり、相手の首筋を噛む。やられる方はたまったものではありません。激しく泣き叫ぶ場合もあります。また、インドではサルが人間を襲っている。サルの場合、餌を与えてくれるのは格下の者だという認識があるからだそうです。人が善意でサルに餌を与えると、サルの方は人間を格下だと認識する。そして、人間を背後から襲ったりする訳です。ペットの犬や猫は、家族の中で自分が一番下の序列に位置していると思っている。だから、飼い主には懐くし、逆らったりしない。しかし、例えばその家庭で新たに赤ん坊が生まれる。するとペットは、この赤ん坊を自分よりも格下だと認識し、噛み付いたりする場合があるようです。厳しい序列によって、動物の社会が成り立っていることが分かります。

 

反対の見方をすれば、想像系と物質系の領域は、人間に固有のものだと言えそうです。やはり、人間とその他の動物との間には、大きな違いがある。想像系のメンタリティは、ある程度、文字で書かれた文章を読まなければ育たないと思います。また、物質系の文化やメンタリティを獲得するためには、教育や経験が必要ではないでしょうか。例えば、古いオートバイをいじくり回すのが好きな人たちがいます。また、オートバイのエンジンの排気量を増加させる人もいる。結構、素人でもこういう改造は、できるようです。ボアアップと言います。私もやってみたいという気持ちはあるのですが、何をどうすればいいのか、さっぱり分からない。そういう知識なり能力を持っている人たちというのは、もしかすると工業高校を卒業しているのではないか。又は、整備士の資格を持っているのではないか。その他にも寿司職人とか、大工さんたちもかなり専門的な能力を持っている。それらの能力を身に付けるため、彼らは修行を積んでいる。やはり、教育ですね。物質系というのは、結構、ハードルが高い。

 

前回の原稿では、関係図を上下や左右に分割して考えてみました。これらの場合には、それなりに共通点がある訳で、相性が悪いとは言えない。例えば、左半分の身体系と競争系には、集団的(依存的)という共通項がある。反対に、想像系と物質系には個人的(自律的)という共通項がある。例えば、物質系のメンタリティを持った人が、お地蔵さんを作る。そして、想像系の人が、お地蔵さんにまつわる物語を作ったりする。

 

では、関係図の中で対局に位置する領域はどうか。まず、想像系と競争系ですが、この2つの領域には共通点がないばかりか、激しく対立しているものと思います。競争系における真実とは、序列であり、序列の最上位に位置する人が絶対的に正しいとされる。反対に、想像系(論理的思考)の場合は、合理性や整合性のある理論によって導かれる結論が、正しいということになる。この2つの領域に、妥協の余地はないように思います。

 

では、身体系と物質系はどうか。こちらは、左程、対立しない。例えば、物質系の人が楽器を作る。そして、身体系の人がそれを演奏する。物質系の人がおいしい料理を作って、皆がそれを食べる。どうも物質系の人は、誰とでもうまくやっていけそうです。

 

2.個人の心的領域

 

一人の人間の心の中を覗いて見ると、そこにも領域がある。そして、その領域は、一つとは限らない。いくつかの領域にまたがっていると考えた方が良いと思います。例えばある人は、時には音楽を楽しみ(身体系)、時には小説を読む(想像系)。気が向くと料理を作り(物質系)、会社に行けば序列闘争(競争系)に明け暮れる。そういうものではないでしょうか。しかし、私たちが持っているお金には限度がある。買い物をしようとする時、何かを選択し、何かを諦めなくてはならない。例えば、財布の中に3千円入っていたとして、本を買うかCDを買うか、決めなくてはならない。生活の中で自由になる時間にも、限度がある。限られた時間の中で何をするか、決めなくてはならない。そういう限定的な条件の中で、優先される心的な領域というものがある。これを以後、「優先領域」と呼ぶことにします。

 

そしてこの「優先領域」は、年令や環境、人との出会い、何かのきっかけなどによって、変化する。

 

例えば、暴走族(競争系)に入って暴走行為を繰り返していた少年が、ひょんなことから2級整備士の資格(物質系)を取得する。そして、彼の心の中で、物質系の領域が成長していく。

 

例えば、記号系の“空っぽ症候群”に陥っている少女がいる。彼女は、ゲームばかりやっていて、読むのはマンガだけだ。引き籠っていて、仕事はしていない。そしてある日、コスプレに興味を持ち、自らの身体を記号化し、そういう大会に参加してみる。そこで、ある少年と出会い、恋に落ちる。すると彼女の心の中で、身体系の領域が成長し始める。

 

もう少し複雑な例で、ジョン・レノンについて考えてみます。

 

まだ若かったビートルズの4人は、才能があるとは言え、ラブ・ソングばかりを歌い、恋をしていた。ジョージ・ハリソンがインドの宗教家に興味を持ったことに端を発し、最初の転機が訪れる。ジョージはインドの楽器、シタールを弾き、ビートルズの音楽はその幅を広げる。しかし、彼らが慕ったインドの宗教家がセクハラ事件を起こし、彼らは失望する。そんなこともあって、ポール・マッカートニーは音楽、すなわち身体系のメンタリティに固執するようになる。一方、ジョンの前にはヨーコが現れる。そもそも、ヨーコは前衛芸術家だった。彼女がしていたのは、時間と空間を融合させようとする試みだったのではないか。例えば、当時ヨーコは、ある空間を設定し、そこに自らの身体を置く。そして、観客に自分の服を切らせるというシュールなアクトを展開していた。ジョンの心は、これに反応した。2人は結婚し、ベッドインを敢行する。ホテルの部屋に一週間立てこもり、ベッドに入ったジョンとヨーコが記者会見を開き、反戦歌(Give Peace a Chance)を歌うというものだった。これは、身体系、想像系、物質系の3領域を融合させるものだった。現代人には理解することが困難な、融即律(未開の直観)に基づく行動だった。

 

身体系・・・ベッドが象徴する性的な関係。
想像系・・・ベトナム戦争に反対するという平和主義。反戦歌。
物質系・・・ホテルの一室という空間。

 

更に、ジョンとヨーコは、世界各国の政治的指導者にドングリ(物質系)を送ったりした。

 

ジョンの心的領域は、身体系から一挙に想像系と物質系に拡大したに違いない。一方、ポールはあくまでも身体系(音楽)の領域に留まろうとした。これが、ビートルズ解散の本質だと思うのです。

 

やはり、「文化とメンタリティの関係図」は、人間が生きている世界そのものを表わしている。そこには、私たちが生きている外界が記され、私たちの心の領域が示され、それらの結節点としての文化がある。これで全部なのか? 他の領域はないのか? という疑問の声が聞こえてきそうですね。しかし私は、これで全部だと思います。仮にロケットに乗って、宇宙に飛び出したとしても、この関係図の外に出ることはできません。宇宙と言ってもそこには時間と空間しかなく、人間は自らの身体を起点として、それらを認識しているに過ぎない。とても曖昧で、頼りなく、どこに行けばいいという普遍的な回答というものは、この図の中に示されていません。どこを目指せばいいのか、その答えは人それぞれに異なっているのだろうと思います。

 

この章 続く

No. 208 第9章: 心的領域論(その1)

 

1.概略

 

経験がメンタリティを生み、メンタリティが文化を誕生させる。すると、メンタリティというものは目に見えないけれども、人間の行動や文化的遺産などを観察することによって、その特質を推し測ることが可能である。そして、文化に5つの領域があるのだから、メンタリティにもそれらに対応した領域があるに違いない。これが、これから述べる心的領域論の前提です。

 

脳科学という学問はあります。そして、脳のどの箇所が、どういう働きをしているのか、それはある程度分かってきたようです。怪我などによって脳の一部が損傷すると、負傷者の行動に支障が出るからです。例えば、言語機能が低下する。すると、脳の損傷を受けた箇所が言語機能を司っていたことが分かる。しかし脳の仕組みや働きについて、本質的には、まだ何も分かっていない。

 

このブログでも人口知能の問題を取り上げたことがあります。技術者たちは、人口知能がいずれ人間の能力を超える。そういう臨界点、すなわちシンギュラリティが起こると言っています。一時期、この推測に私も愕然としたものです。しかし、例えば計算機能であれば、電卓だって、既に私の能力をはるかに超えている。このように一部の機能面においては、既にコンピューターが人間の能力を超えてはいるものの、人間のメンタリティの多様性、複雑さ、曖昧さについて、人口知能が再現できるとは思えません。人間には個性があり、喜怒哀楽がある。そして、人間のメンタリティは、新たな文化を生み出すというとてつもない能力を持っている。そういうメンタリティをコンピューターが再現できるとは、とても思えないのです。

 

さて、概略を説明させていただくには、前々回の原稿に添付した図を用いるのが良いと思います。同じものを再度、掲載させていただきます。

 

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まず、記号系は全ての領域に関連しているので、中央に記載しました。そして、身体系との記載の下に「現在」と書いてあります。これは、リズムについて検討した際、それは“現在”という時間を共有するための手段であるという発見があった。同じリズムに合わせて体を動かす、すなわち踊ることによって、共感が生まれる。そこに身体系の本質がある。そのように考えますと、身体系というのはどこまで行っても、「現在」に関わっていることが分かる。例えば、人は“会話”する。それを楽しむ人たちがいる。これも身体系だと思います。すなわち、口から発した言葉というのは、あくまでも瞬間のものであって、すぐに消えてしまう。その瞬間を共有している者だけが、それを理解できる。

 

次に想像系という記載の下に「過去」と書いてあります。そもそも、人間とは何を想像するのか、という問題がある。それは、少なくとも「現在」の出来事ではない。多くの場合、人は「過去」の出来事を想像している。私たちの祖先は、何者だったのか。例えば、ジョン・レノンは何を考えていたのか。ゴッホは何故、自殺したのか。全て、「過去」のことです。そして、この想像系の文化なりメンタリティというものは、文字によって記録されている。若しくは、絵画によって表現されている。稀に、「未来」を想像する人たちもいる。SF小説とか、近未来小説というものがある。これらも想像系という領域に含めて良いと思います。

 

物質系という記載の下には「空間」と書いてあります。物質系の文化については、機能、呪術、空間表現、象徴の4種類を挙げました。確かに、4種類ある。いや、もっとあるかも知れません。ただ、ここで私が注目したのは、「空間表現」なんです。全ての物質は、空間の中に存在していて、それは直接的には時間から切り離されている。ところで、人はどういう時に、空間を感じるでしょうか。それは、ピラミッドのような大きな物を見た時。もう一つは、建物の中に入った時ではないでしょうか。例えば、ヨーロッパの寺院や高級ホテルのロビーなど、広い空間の中に身を置いた時、人は空間を感じる。補足的に言いますと、人が大きな物を作るのは、空間を感じるためであって、小さな物、すなわちミニチュアを作るのは、「象徴」を目的としているように思います。

 

このような切り口で見た場合、人間のメンタリティは、文化を通じて、時間と空間を認識していることが分かる。

 

身体系・・・現在
想像系・・・過去(未来)
物質系・・・空間

 

記号系に上記3つの領域を加えますと、これで時間と空間を認識するという目的が達成されます。競争系は、不要である。私が、競争系を異端であると考える理由が、ここにあります。

 

記号系は除外して、図を上半分と下半分に分けて考えてみましょう。上半分、すなわち身体系と想像系は、融和的であることになります。身体系は共感を求める。想像系は、平和主義へとつながる。だから、融和的だということです。反対に、下半分の競争系は、他の集団と戦い、勝利しようとする。同じ集団の中では、序列闘争がある。これは支配的だと思います。また物質系にしても、森林を伐採し、石を切り出し、動物を殺し、食べる。こちらも支配的だと思うのです。

 

ところで、民族学者の折口信夫が面白いことを言っています。以下、引用。

 

折口は、人間の持つ比較の能力を、「類似点を直観する」ような「類化性能」と「咄嗟に差異点を感ずる」ような「別化性能」に分けている。そのうち、類化性能とは、表面的には違っているもののあいだに共通性や同質性を見出すような思考方法であり、他方で、別化性能とは、差異を基礎にして組み立てられる、A≠非Aという科学思考のベースにあるアリストテレス原理を含む思考方法のことである。折口にとって古代人の心は類化性能によって組み立てられていたのである。

 

参考文献:文化人類学放送大学教材/内堀基光 奥野克己/2014

 

この考え方を当てはめてみますと、私が融和的だとしている身体系と想像系のメンタリティは、類似点を見出そうとする類化性能であって、反対に競争系と物質系は、別化性能に基づくものと言えそうです。

 

今度は、上図を左右に分けて見てみましょう。左に記載した身体系と競争系は、集団的(依存的)ということになります。まず、身体系は他人との間に、共感を求める。歌う、踊る、着飾る、加えておしゃべりをするというのは、いずれも他人の存在を前提としています。すなわち、他人に依存している。多くの場合、他人とは人間の集団を意味している。とにかく、集まって、現在という時間を共有するんです。また、競争系のメンタリティも、まず、帰属集団ありき、ということになります。集団に帰属するから、その内部での序列という問題が出て来る。こちらも、集団に依存しています。

 

反対に、右半分を見てみましょう。想像系というのは、個人的なメンタリティだと言えます。まず、個人の頭の中で、何かを想像する。想像したことを文字や絵画に表わすという行為も、個人的な行動です。書かれた文字や絵画を読んだり見たりするという行為も、個人的なレベルで完結します。そこに集団的な要素はありません。物質系につきましても、機能や呪術は、病気を治したいとか恨みを晴らしたいなど、個人的な目的を持っています。また、自分一人がいれば、空間を認識したり、物に何かの象徴を感じたりすることができます。よって、想像系と物質系は個人的な営みであり、他人や集団に依存することがありません。すなわち、自律的だということになります。

 

この章 続く