文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 210 第9章: 心的領域論(その3)

 

3.人生スゴロク

 

ネットで、こんな話を読んだことがあります。ゴルフ三昧の生活が夢だったAさんは、定年退職を機にゴルフ場の近くに転居し、永年夢見ていた生活を始めた。ところが、半年もするとゴルフをするのが苦痛になってしまった。一方、Bさんの夢は釣り三昧の生活だった。定年退職と共に海辺へ転居し、天気さえ良ければ、釣竿を持って出掛けた。そしてBさんは、末永く老後の生活を楽しんだというのです。

 

私には、その理由が分かるような気がします。役所でも会社でも、サラリーマンの世界というのは競争系なんです。そういう世界にどっぷりと漬かっている間は、同じ競争系のゴルフが楽しく感じられる。しかし引退して、日常的にそういう世界から離れると、次第に競争することに意味を見出せなくなる。現役時代であれば、会社に行ってスコアを自慢したり、新しく買ったドライバーの話をする相手がいる。しかし、引退してみると、そういう相手もいなくなる。そもそも、ゴルフのスコアがいくつだろうが、どうでも良くなる。それでもゴルフをしている間は、自分のみならず同じ組で回っている他のメンバーの分まで含めて、1ホール終わるごとにスコアを記録しなければならない。段々、そういうことに意味を感じなくなる。だから、ゴルフが楽しいどころか、難行、苦行になってしまう。他方、魚釣りというのは、物質系だと思います。広大な海があり、その下に広がる空間を感じながら、糸を垂れる。それだけで、楽しい。誰と競う訳でもない。だから飽きないのではないでしょうか。

 

このように、どの領域で生きるのかという問題は、私たちの人生において、重要な意味を持っていると思います。

 

さて、もう一度「文化とメンタリティの関係図」を思い起こしていただきたいのです。ここには、“人生スゴロク”の全体図が描かれているのです。

 

まず、人生というのは、記号系から始まる。音を聞き、光を感じるところから、個々の生命体の活動が始まる。やがて、嗅覚だとか、触覚も発達してくる。いわゆる五感という奴です。そして、五感によって、認知されるものが記号です。

 

次に、“人生スゴロク”は、身体系に進む。幼児期の話ですが、母親を始めとする大人たちの言葉を真似て、子供は言葉を覚えます。言葉によって、子供は自分の環境を理解し、自分の感情や希望を表現するようになる。言わば、人間の世界にデビューする訳です。本物のスゴロクと違って、人生スゴロクというのは、全員がここまでは同じように進むのだと思います。

 

しかし、ここから先が異なってくる。折角、身体系まで進んだにも関わらず、ゲームなどの記号系の世界に戻ってしまう人たちがいる。彼らはニートとか、引きこもりと呼ばれています。このブログでは、“空っぽ症候群”と呼んでいますが。

 

そして、記号系には戻らず、身体系の領域に留まる人たちも少なくありません。順調に成長し、やがて思春期を迎え、歌い、踊り、着飾り、おしゃべりをし、そして恋をする。結婚して、家庭でも築こうものなら、そこは本来的には融和的、集団的な場所であって、正に身体系の領域ということになります。ポール・マッカートニーに限らず、身体系に留まり続けるミュージシャンも、少なくありません。それはそれで、幸せな人生なのでしょう。私は、このタイプの人たちに文句を言うつもりはありません。但し、“記号系+身体系”だけでは、いかにも領域が狭い。例えば、専業主婦の人たちは、こういう世界に生きている訳ですが、家庭だけでは息が詰まる。競争系の領域は厳しいし、物質系というのは少しハードルが高い。そこで、ちょっとだけ想像系の領域に行くのだろうと思います。例えば、映画やテレビドラマを楽しむことになる。これらのエンターテインメントというは、ハードルが低い。事前の知識や、論理的な思考は必要ない。してみると、このタイプの人たちにとって、“優先領域”が身体系で、それを補足する領域が想像系ということになる。(以後、この補足的な領域を“補足領域”と呼びます。)

 

次に、記号系から身体系へと進んだ後、すぐに競争系に進む人たちもいる。このタイプにはスポーツエリートと学業エリートがいる。例えば、身体系の領域はそこそこにして、若くしてスポーツのエリート教育を受ける。若しくは、子供の頃から塾や家庭教師の指導を受け、学業エリートを目指す。このタイプの人たちにとっては、帰属する集団内の序列が重要な意味を持つ。極端に言えば、“序列亡者”になってしまう。日馬富士暴行事件というのがありましたが、この事件など、その典型だと思います。子供の頃から相撲の世界に入り、横綱にまで昇りつめた。横綱だから、一番偉い。そういう価値観があって、格下の者に暴行を加えた。相撲界では、暴力事件が頻繁に発生しますが、構造的な問題があると思います。

 

学業エリートも、結局は同じ傾向を持っている。財務省の前事務次官の福田氏が、テレビ朝日の女性記者に対しセクハラ発言を繰り返し、辞任するという事件があった。加えて、自民党の長老議員たちは、失言を繰り返している。いずれの問題も、想像力の欠如した“序列亡者”のなせる業だと思います。他人の権利を侵害し、世間に恥をさらし、晩節を汚す。私には、こういう人生が幸福だとはとても思えません。すると、人生のどこかのタイミングで、何かのきっかけをつかんで、想像系や物質系のメンタリティを獲得する、若しくはそれらの領域に属する文化に共感する力を身に付けた方が良いのではないか、と思えてくるのです。

 

ただ、どの領域で生きるのかという問題は、必ずしも個人の自由にはならない。もちろん、食べて行くためには、働かなければならない。多くの場合、会社や役所というのは、競争系の世界です。望んでいない場合でも、そういう世界に足を踏み入れざるを得ない。自殺者まで出した一連の事件で、財務省がどれだけ酷い組織であるのかということは良く分かりましたが、世間にはブラック企業というものも無数に存在している。家庭という身体系の世界で幸福に過ごしていた人も、ある日、離婚という現実に直面するかも知れない。若しくは、今回の西日本豪雨災害などによって、家を失い、食料や飲料水に困窮し、物質系の世界に投げ出されてしまうことだってある。

 

確かに、人生というのは不確実で、思い通りにはならない厄介なものです。それでも、現在の自分がどの位置にいるのか、どの方向を目指すべきなのか、自分や身近な人のメンタリティがどの領域に属しているのか、それを知っておけば、何かの役に立つに違いないと思うのです。

 

このブログに少しでも関心を持っていただいている方は、想像系の中の論理的思考というメンタリティを身に付けておられるはずです。従って、このブログをお読みいただいているあなたであれば、上記の判定は簡単にできます。すなわち、あなたや、あなたと近しい人が、何に関心を持っているのか。それをリストアップし、各項目がどの領域に属するかを判別すれば良い。すると、1つの“優先領域”と、1つまたは2つの“補足領域”が見つかると思います。但し、もしあなたの身の回りに“空っぽ症候群”や“序列亡者”の方がおられた場合、そのことを告げるには慎重であっていただきたい。彼らは、この考え方を理解できない、若しくは理解しても受け入れたくないと感じる可能性があるからです。

 

ところで、“人生スゴロク”と言うからには、“アガリ”はあるのか、という問題があります。結論から言えば、それは人によって異なる、ということになりますが、一般的な傾向について述べることは可能です。

 

現在、毎週月曜日に放送大学で「人格心理学」という講義が放送されており、私は毎週見ているのですが、そこで「40才が人生の中間地点である」ということを言っておられました。人生80年とすると、40才までは人格を拡張する時期であって、それを過ぎれば、今度は人格を閉じていく段階だと言うんですね。80を2で割ると40。単純な話ではありますが、ちょっと、ドキッとしませんか。私などは、完全に「人格を閉じる」段階に来ている訳で、そう言えば最近は、「欲しい物」よりも「捨てたい物」の方が沢山あります。そんな年令になってみて感じるのは、関係図の左側、すなわち身体系と競争系の文化やメンタリティというのは、未成熟に感じるということです。この点は、西洋と東洋で異なるかも知れません。アンチエイジングなどと言って、年を取っても身体的な能力やメンタリティは、あくまでも若く保つべきだ、と考える人たちがいます。西洋的な発想ですね。これに対して、年相応に詫びていく、寂びていく。それでいいんだというのが、東洋的な発想だと思います。私は、こちらの考え方に賛成です。すなわち、関係図の左側(身体系、競争系)を少しずつ整理し、右側(想像系、物質系)に落ち着いていく。「人格を閉じて行く」というのは、そういうことだと思います。

 

この章 続く