1.アニミズム
まだ、文字を持つ前の人々には、分からないことだらけだった。例えば、地震、雷鳴、台風、日照りなどの自然現象が何故、起こるのか。それどころか、何故、一日には昼と夜があるのか。1年には何故、夏と冬があるのか。そして、人は何故死ぬのか。死とは何か。この問いに答えられる人はいなかったのだろうと思います。そこで、人々は、これらの得体の知れない現象に対し、頭を垂れるしかなかった。そして、霊魂だとか神様だとか、そういう自分たちよりも上位に存在する何者かの存在を想定したのだと思います。この漠然とした畏怖の感覚。これが、アニミズムだと思います。
2.融即律
融即律というのは、文化人類学の用語で、参考文献には、次のように説明されています。
「“融即”とは、原初の人間が持っていた心性のことである。(中略)レヴィ=ブリュルは、人間が動植物と同一視されるのは融即律に基づくものであり、それは前論理的な未開心性であると説いた。」
参考文献: 改訂新版 文化人類学/放送大学教育振興会/2014
確かに、人間と動物が会話するという神話や童話は、世界中にあるようです。北米の先住民族においては、個人単位で守護霊となる動物が決められている。そして彼らは、自らの守護霊となっている動物は、食べない。
「我々の祖先はバナナである」と言って、以後、バナナを食べることを禁じたイワム族のバナナ村長の話なども、同じです。
最初は誰かが、直観に基づいて、とんでもないことを言い出す。この直観が、宗教や芸術を生み出す原動力となってきたのだと思います。“未開の直観”と言った方が、分かり易いかも知れません。
3.物語的思考
“未開の直観”は個人的なものですが、それがやがて集団によって共有されていく。そういうプロセスがあるのだろうと思います。そして、“未開の直観”は地域的に広がり、世代を超えて伝承されていく。このように当初は口頭で伝承された物語が、神話や童話となる。例えば、日本の「桃太郎」や「鶴の恩返し」には地域的な広がりがあるし、いくつものバージョンがあります。
神話によって人々は、自然現象や人間の死を理解してきた。そこには人間の無意識が絡んでいて、神話には人を癒す力がある。
神話には合理的、論理的な根拠はありませんが、それは物事の因果関係などを説明するもので、一つの思考形態だと言って良いと思うのです。そこで、私は“物語的思考”という言葉を用いています。
4.論理的思考
庶民の間で自然に発生した神話は、科学にとって代わられたのではないでしょうか。今どき雷が鳴って「雲の上で雷様がタイコを叩いている」と考える人はいないと思います。
ただ、物語的思考を意図的に操作してきた人たちもいます。時の権力者ですね。大体、欧州の王権にしても、北朝鮮にしても、権力というのは世襲制なんですね。すると、その権力の正当性を庶民に納得させるために、権力者が、若しくは権力に擦り寄ろうとする者が、物語を作る。やがて、権力者側が作った物語の嘘を、見抜こうとする人々が現れる。
先鞭を付けたのは、哲学者だったのだろうと思います。そして、言語学、論理学、社会学、法律学、政治学、経済学など、論理的に思考するという文化が根付いた。
ただ、論理的に思考すると言っても、例えば1+1=2のように、単純に割り切れる問題は少ない。むしろ人権侵害という歴史的な事実があって、そこから想像力を働かせる。侵害を受けた人はどれだけ苦しかっただろうとか、加害者は何故、そのような行為を働いたのだろうとか、想像する。そこから、人権尊重という論理的な帰結が得られるのだろうと思います。
論理とは何かという問題もあります。もちろん、パースのアブダクションなど、複雑な説もあります。ただ、論理と言っても、大切なことは想像力と言葉ではないでしょうか。その意味で、論理的な思考というものも、歴史的には、アニミズムからずっと繋がっているのだと思います。
さて、記号系から始めて、競争系、身体系、物質系、想像系と5つの領域が出揃いました。では、これら5つの領域は、どういう関係にあるのでしょうか。図にしてみました。
この図については、第9章で解説させていただきますが、いかがでしょうか。各領域は、時には互いに協調し合い、また、ある場面では激しく対立している。そういう関係にあることが分かります。それにしても、人間って、こういう世界に生きていたんですね。
この章、終わり