文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

領域論(その12) 記号領域 / 奇妙な符号

 

領域論/主体が巡る7つの領域

原始領域・・・祭祀、呪術、神話、個人崇拝、動物

生存領域・・・自然、生活、伝統、娯楽、共同体、パロール

認識領域・・・哲学、憲法、論理、説明責任、エクリチュール

記号領域・・・自然科学、経済、ブランド、キャラクター、数字

秩序領域・・・

喪失領域・・・

自己領域・・・

 

上に記した一覧の通り、7つの領域のうち、4つの説明までたどり着いたことになる。そこでふと思い出したのが、ユングのタイプ論との関係なのだ。

 

カール・グスタフユング(1875-1961)はスイスの心理学者で、1921年にタイプ論を発表した。ユング、40才のときの思想である。そのポイントは、人間の心理的機能を思考、直観、感覚、感情の4種類に分類し、誰しもいずれかの機能をメインで持っていて、サブでもう1つの機能を保持するというもの。私は長くこの考え方に魅了されてきた。しかし、このブログを始めてから、少しずつ違和感を持つようになった。タイプ論の前提は、人間にはタイプがあるというものだが、本当にそうだろうか。これに対して私は、人間の心というのは次第に成長していく、というイメージを持っている。人間を集合的に見た場合、その歴史が積み重なると共に、人間の持つ文化や思想が堆積される訳で、それはあたかも積み木を重ねていくのに似ている。個人の心理も同じように、経験を積み重ねるにつれ、その機能を拡張していくのではないか。この「領域論」においては、そのような立場を採っている。

 

また、人間の心理は目に見えない訳で、それを相手にするよりも、人間の行動や、人間が作り出してきたものに注目した方が、より確実な見方ができるのではないか。この点、文化人類学無文字社会の人々の暮らしを観察したし、ミシェル・フーコーは現実に存在する精神病院や監獄を観察したのであり、その方が実際的だと思う。(但し、ユングは自ら深刻な精神疾患を有していたので、その治療に向かう、すなわち心理学に向かう必然性を持っていた。)

 

以上の理由により、ユングのタイプ論と私の領域論との間に関係性は存在しないはずなのだが、念のため4つの領域と思考、直観、感覚、感情とを対比してみると、驚くことに、これが見事に合致するのだ。

 

原始領域・・・直観

生存領域・・・感情

認識領域・・・思考

記号領域・・・感覚

 

簡単に説明しよう。直観とは、私が呪術との関係で述べた「超越的因果関係論」のことだと言って良いだろう。星座の動きと人間の運命を関連づける。人間の上半身と魚の下半身を結び付けて、人魚姫が生まれる。直観は、芸術的な発想を生むと言われている。

 

感情とは、好きになったり嫌いになったり、泣いたり怒ったりする精神の働きであって、これは生存領域の中で育まれるに違いない。

 

思考とは論理的な考え方であって、それは認識領域の中で発揮される。

 

記号を認知するのは人間の五感であって、これは感覚と言って良い。

 

私の領域論とユングのタイプ論が何故、このような類似性を帯びるのだろう。偶然だろうか。単に私がユングの影響を色濃く受けているからだろうか。そうではないような気がする。思考、直観、感覚などの言葉は、カントの純粋理性批判の中に登場するし、ユングはカントの影響を強く受けている。つまり、これらの言葉は哲学のメインストリームの中で、その解釈が育まれてきたのである。そして多分、私も哲学の影響を受けている。そのような関係にあるに違いない。

 

但し、人間の心の機能を考えた場合、その他にも「想像力」という重要な要素があるはずだ。この点、私は次のように説明することができる。原始領域を私は、祭祀、呪術、神話、個人崇拝の4段階に分類した。そして、直観は呪術に対応するもので、想像力は神話に対応する。双方とも原始領域に含まれるものだが、呪術と神話とでは、原動力となる心の働きが異なるはずだ。

 

呪術・・・直観

神話・・・想像力

 

タイプ論は、ユングにとっても1つの通過点に過ぎなかった。ユングの真骨頂が発揮されるのは、「集合的無意識」に関する主張である。ユング分裂病患者が見る夢と、神話に出てくるイメージとの間に共通するものを見出し、それを元型と呼んだ。元型には、老賢人、トリックスター、グレートマザーなど、いくつかの種類がある。そこからユングは、人類が時代や人種を超えて持っている普遍的なイメージがあるとし、それを「集合的無意識」と呼んだのである。

 

集合的無意識が存在するか否かと言えば、私は存在するのだろうと思う。では、何故、存在するのかという問題に行き当たるが、ユングはその理由を遺伝に求めた。私は、この点についても懐疑的だ。

 

原始領域のところで述べた通り、人類は、文化的に共通した歴史を持っているのだ。現時点でどの段階にあるかという点は、地域や民族によって異なる。しかし、いずれの場合においても、祭祀 → 呪術 → 神話 → 個人崇拝 という道筋があって、それを歩んでいるに過ぎない。そして、この共通する進化のプロセスの中から、集合的無意識が生まれるのではないか。進化のプロセスが同じなのだから、欧米人もアフリカ人も日本人も、似たようなイメージを心の奥底に持っていると考えるべきではないか。この点は、実は極めて重要な問題を孕んでいる。すなわち、人間は生まれてきた時点で、既に、何らかの因子を持っているのか、それとも生まれてくる時点で、その心は白紙なのか、という問題だ。私は後者の方だと考えている。

 

なお、ユングとその継承者たちが、膨大な数の精神疾患者の治療にあたってきたことは事実であって、私の彼らに対するリスペクトは変わらない。

 

(ご参考)

集合的無意識について説明した私の過去の原稿があるので、興味のある方はどうぞ。

 

ユング集合的無意識(その1)

https://www.bunkaninsiki.com/entry/2016/11/28/192313