きっと、狩猟・採集を生業としていた古代人は、現代人よりも幸せだったに違いありません。彼らは、食料となる動植物を追い求めて、移動を繰り返していました。守るべき資産など、ほとんどなかったのです。新たに発見した植物は、まず、食べてみる。山があれば、登ってみる。彼らの暮らしは、チャレンジに充ちていたはずです。
奪い合う資産がないから、彼らは平和に暮らしていた。狩猟で得られた獲物の肉は、集団の中で平等に分配された。そうでなければ、女子供が生きていけません。仮に、平等に分配しない集団があったとしても、そのような集団は、淘汰されたはずです。
そんな古代の集団の中に、序列というものは、ほとんど存在しなかったものと思います。例えば、イノシシやシカを狩る時には、共同作業が必要です。その作業は、その集団の構成員が共に生きていくために必要な作業だったのです。すなわち、彼らは運命を共にする“仲間たち”の集団だった。
集団だからと言って、理不尽な戒律のようなものは存在しなかった。移動を繰り返しているうちに、はぐれてしまう者もいたでしょう。年頃になった女性たちは、近親相関を回避するために、他の集団にプレゼントされたり、交換されたりしていました。すなわち、古代人が形成していた集団のメンバーは、フレキシブルに入れ替わっていたのです。そのように、絶えずメンバーが入れ替わる集団においては、厳しい序列制度というものは維持されません。
チャレンジングで、平和で、平等で、仲間意識に溢れていた古代人の暮らしは、人間が農耕・牧畜生活を始めた時に、失われてしまった。定住し、移動することを止めた人びとの意識は、内向的になったはずです。農耕作業においては、決して、宝くじに当たるような幸運に恵まれることはありません。豊作と言っても、それはアベレージの2割増しか、せいぜい3割増しの収穫が得られるに過ぎない。他方、台風などの自然災害、農作物に関する病気などによって、1年分の収穫が失われてしまうリスクは、常につきまといます。よそ者は、農作物を盗むかも知れない。動物だって、畑を荒らすに違いない。集団の構成員は固定化され、すなわち、序列によって統率されるようになる。息苦しく、排他的で、懐疑に充ちた防御的な暮らしが始まる。現代社会が抱える諸問題のルーツが、ここにあるのではないでしょうか。
ところで、古代人に特徴的なメンタリティは、“融即律”です。例えば、無文字社会に生きるある村長が、「我々の先祖は、バナナである」と発言した。このブログに度々登場するバナナ村長です。(過去の記事で、このバナナ村長はイワム族であると記載してしまいましたが、これは私の記憶違いでした。どの部族かは分かりません。バナナ村長はレヴィ=ストロースの「野生の思考」に登場します。)
融即律の特徴は、合理的な思考において決して結びつくことのない複数の概念が結合される、という点にあります。自分たちの祖先という概念と、バナナという概念は、通常結び付くことはない。当然ですね。
しかし、バナナ村長はこれら2つの概念を結合しているのです。このような心理的な動きは、時間の経過と共に、退化してきたのではないでしょうか。科学が進歩し、教育が充実して行くに従い、例えば、人間の祖先はサルであって、バナナではないという知識が共有化されて来た訳です。
融即律は、直観と言い換えても良いと思います。そして、現代においても、前衛芸術家を創作に向かわせる原動力となっている。例えば、ジョン・レノンは、各国の大統領や首相に対しドングリを送り、平和を訴えた。ドングリと世界平和。これも融即律だと思います。
そのような心の働きが、実は、山本太郎さんを突き動かしているのではないか。理不尽な法案の採決が行われた時、太郎さんは数珠を持って葬儀のような振る舞いをした。理不尽な法案と葬儀。ちょっと、普通では結びつきません。
「この国に足りないのは、金と愛だ!」
これは、街頭演説会における太郎さんの発言です。うまいことを言うものだなあと感心してしまいます。ただ、太郎さんの口からは、こういう言葉がポンポンと飛び出してくる。
「あなたを助けたいんです。どうしてかって? あなたを助けるとは、私を助けることなんです!」
こういう太郎さんの言葉に、聴衆はどんどん惹きつけられていく訳ですが、論理的に考えますと、ちょっと飛躍がある。「あなた」と「私」が混同されている。しかし、この混同は支持者の側にも伝染している。支持者のツイッターを見ますと、次々に、「太郎」を名乗る人たちが現われている。ポコポン太郎、まゆみん太郎、ラーラ太郎など多くの太郎さんがおられますが、MMT太郎と名乗っている人もいました。(きっと、経済にお詳しい方に違いない!)皆、太郎さんに強く共感を覚え、「私」と「太郎さん」を積極的に混同しているのだと思います。
こういう例は、他にもあって、少し前に“I am Kenji”というのがあったのは、ご記憶されているでしょうか。後藤健二さんというジャーナリストがイスラム国の捕虜になった。テロリストたちは、健二さんを殺そうとした。それに反対するメッセージとして、世界中で“I am Kenji”と書いた紙を持って撮影した自らの写真を、人びとがSNS上に拡散したんです。
更に古い話になりますと“星とレゲエの島”という小説がある。これは、私の兄の山川健一が書いたものです。レゲエミュージシャンのことをラスタマンと言うようですが、彼らは、“You and I”と言うところを“I and I”と言うらしい。ここにも、明らかに混同がある訳ですが、これらの混同は“融即律”であって、ここにこそ、論理では測れない大切な人類のメンタリティがあるのではないか。そして、そのようなメンタリティを体現しているのが、“れいわ新選組”なのだろうと思うのです。
今日までに発表されている候補者を一覧にしてみます。(敬称略)
山本太郎
蓮池徹・・・・(元)東電社員
安冨歩・・・・女性装の東大教授
木村英子・・・全国公的介護保障要求者組合・書記長 (他)
太郎さんは、この国に暮らす全ての人々のために戦っていますが、とりわけロス・ジェネ世代を救済するために政策を発表しています。
蓮池さんは、原発被害者を救済するために、東電と戦っています。
安冨さんは、息苦しさを感じている全ての人々のために、身を挺して戦っています。また、特別会計の闇をあばこうとして殺害された石井紘基氏の遺志を継ぐと発言しています。この人、ガチです。馬に乗って皇居を一周したいなどと言っていますが、これも典型的な融即律だと思います。
木村さんは、ご自身と同じような環境にある身体障害者の方々のために、行政と戦ってこられた方です。応援しましょう!
結局、農耕・牧畜を生業として、宗教などの中間集団を形成した“中世”という時代があって、この時代のメンタリティが、伝統的な“右派”を形成している。このメンタリティは、変化を望まず、視野は狭い。
長い間、上記の“右派”に対抗してきたのが、近代思想に基づく“左派”だと思います。しかし、日本には市民革命によって政権を倒した歴史、経験がなく、左派はほとんど右派に勝利することがない。
思えば、論理派を自認する私ではありますが、論理で人を感動させることはできません。人を感動させ、突き動かすのは、やはり“融即律”ではないか。最近、そんな風に思います。そして、この古代のメンタリティこそが、息苦しい現代社会を突破していく原動力になるのではないでしょうか。
「この国に足りないのは、金と愛だ!」
けだし名言。