文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 105 遊びとは何か(その5)/ 狩猟採集民の遊び

No. 102の記事で、遊びの種類について述べましたが、どうも種類が多く、まだ、本質が見えて来ないように感じます。ビー玉を例に取って考えますと、その構成要素は3つある。第一にビー玉という遊具、第二に地面の穴なり枠組みなどの場所。第三に、ルールというものがある。なるほど、遊びの本質は、任意に策定されたルールにあるのではないか。こう考えますと、野球も、サッカーもそうなんですね。野球のボールという遊具があり、野球場という場所があり、そしてルールがある。しかし、ルールのない遊びもある訳です。駒遊びというのは、駒が回るから楽しい。凧揚げというのは、凧が上がるから楽しい。それだけなんですね。

 

そんなことを考えながら「遊戯の起源」(文献1)を読んでいたところ、面白い記述に出会いました。まず、「悲しき熱帯」という本の中でレヴィ=ストロースは、ブラジルの狩猟採集民について、次のように述べています。

 

「ナンビクワラ族の子供たちは遊びを知らない。ときどき彼らは、藁を巻いたり編んだりして何かを作るが、それ以外の遊びといえば、仲間同士で取っ組み合いをしたり、ふざけたりするだけで、あとは大人を真似たような日々を過ごしている」。

 

これに対して、「遊戯の起源」の著者である増川氏は、次のように反論しています。

 

「遊びを知らないのでなく、ヨーロッパ人の視点から、「競争していない」ので、遊びと認識しなかったのであろう。実際に子供たちは猿や鶏の動作や鳴き声を真似して遊んでいたようである。(中略)その頃の狩猟民の間では、人と人との競争関係はなく、収穫は平等に分けあっていた」。

 

上記の説明は、以前、このブログに書きました私の考え方と一致するのです。すなわち、狩猟採集を行っていた時代、人類は縄張りというものを持たなかった。従って、人類同士で争うこともなかった。また、狩猟採集によって得られた食物は保存できなかったし、皆が生き延びていくため、食物は比較的平等に分配されていた。例えば、縄張りを持たないゴリラなどは、未だにそうやって暮らしている。やがて、人口が増加し、狩猟採集だけでは食料を賄い切れなくなる。そして、人類は農耕、牧畜を始める。この農耕とは、土地を占有することであり、動物の世界における縄張りと同じものを人類も持つことになった。そして、人間同士の戦いが始まる。

 

このように考えますと、戦ったり、競争したりする遊びというのは、人類が農耕作業を始めた後に生まれたのではないか、という仮説が成り立ちます。

 

ついでに申し上げますと、演劇系の遊びというのは、人間が動物の真似をするところから始まったのではないでしょうか。そこから、祭祀へと繋がっていったような気が致します。

 

(参考文献)

文献1:遊戯の起源/増川宏一平凡社/2017

No. 104 遊びとは何か(その4)/ それでもジャズは死なない

前回の原稿で、マイルス・デイビスが死去してから、ジャズは急速に衰退していったということを述べましたが、では、ジャズがその後どうなったのか、考えてみたいと思います。

 

統計上のデータがある訳ではありませんが、例えばCDの売上枚数、ジャズをやっているライブハウス、バー、クラブの軒数など、いずれも減少傾向にあることは、間違いないと思います。

 

マイルスが生きていた時代は、マイルスが引き起こす大きなムーブメントがあって、誰もがマイルスの新作を待ち望み、新作が出る度に評論家たちは色めき立って、賛否両論を繰り広げていました。1960年代の末頃からでも、そのムーブメントは、その都度、エレクトリック、ファンク、フュージョンなどと呼ばれていました。更に、マイルスの死後には、マイルスがラップと自らの音楽を融合させたアルバムが発売され、私などは度肝を抜かれたものです。

 

マイルスの死後、そのようなムーブメントは、起こっていない。

 

では、ジャズがなくなったかと言うと、そうではないと思うのです。例えば、私の自宅の近所にファミレスのような居酒屋のようなチェーン店があるのですが、BGM にはいつもジャズが流されている。それはもちろん、70年代にマイルスがやっていたような前衛的な音楽ではなく、ソフトなスタンダードジャズなのですが、そうは言ってもジャズであることに間違いはない。CDショップへ行くと、昔のジャズミュージシャンの作品が、3枚で2千円とかで売っていたりする。

 

一度、芸術の域まで高められた文化というのは、その後、衰退するけれども、ある程度の規模まで普及したものは、簡単には無くならない。但し、その文化の歴史の中で、前衛的であった部分というのはポピュラリティがないので、消えやすい。一方、芸術の域に達する前の、大衆文化の段階にあったもの、別の言い方をすると、その文化のベーシックなものが残りやすい。もしくは、そこに回帰していくのではないか。そんな風に思うのです。

 

このような仕組みで、文化というものは、その層を積み重ね、多様化し、生き続けていくのかも知れません。そしていつの日か、そうやって確立された文化の様式を打ち壊す天才が現われる可能性も、否定はできないように思います。但し、私が生きている間に、マイルスのような天才が再び現われる可能性はないと思いますけれども・・・。

 

ピークを過ぎた文化が、ベーシックなものに回帰してくということですが、このようなことを考えていますと、ローリング・ストーンズが2~3ヶ月前に発表したBlue & Lonsome がブルースを扱っていたのも、あながち偶然ではないような気がするのです。

 

 

 

 

 

 

No. 103 遊びとは何か(その3)/打ち捨てられたもの

今朝、少し遅い時間に目覚め、そして、突然ひらめいたのです。遊びとは、打ち捨てられたものから始まるのではないか。

 

例えば、こんな話があります。アメリカの黒人は、かつてブルースという音楽を発明しました。それが発展して、やがてロック・ミュージックが生まれた訳です。そして、ブルース・ギターの奏法の一つにボトルネックというものがあります。通常ギターを弾く時には、左手でギターの弦をネックに押さえつけて、右手で弦を弾きます。しかし、このボトルネックという奏法では、左手の小指などを割れた瓶の飲み口に差し込み、その瓶の飲み口の部分を弦の上でスライドさせるんです。すると繋ぎ目なく、音をスラーさせることができる。また、特にエレキギターでこの奏法を用いた場合には、太い音が出るんです。このボトルネック奏法が、ブルースに豊かな色彩を与え続けてきたことは、間違いありません。それどころか、その後のロックギタリストも、この奏法を踏襲しています。有名なところではエリック・クラプトンジェフ・ベックジミー・ペイジなど、皆この奏法を使っています。(ボトルネックの名手と言えば、個人的にはジョニー・ウィンターだと思いますが!)

 

さて、この奏法がどうやって生まれたかと言うと、それはアメリカの黒人の誰かが、酒場の片隅かどこかに打ち捨てられていた酒瓶を見て、まず、その飲み口に指を突っ込んでみた。そして、それでギターを弾いてみたとしか言いようがありません。色々な瓶を割って、試してみたのでしょう。割ったままでは危険なので、切り口をコンクリートか何かに擦りつけて丸みを持たせたりしたのだと思います。(ちなみに、今ではボトルネック奏法専用の器具が販売されています。)

 

そう言えば、ビー玉の名前の由来ですが、こんな説もあります。かつてビー玉はラムネの瓶に入れることを目的として生産されていた。そして、規格に合格したものをA玉と呼び、規格外の不良品をB玉と呼んでいた。このB玉が子供たちの遊び道具になった、というものです。

 

また、このブログでも何度か取り上げました文化人類学レヴィ=ストロースは、その著書「野生の思考」の中で、ブリコラージュということを述べている。どういうことかと言うと、まず、現代人は完成された規格品ばかりを用いているから、そこから生まれるものも完成されてはいるが、それ以上発展しない。だから、近代以降の文明は行き詰まってしまったのである。他方、未開人は身の回りにある“ありあわせ”の物を使って、何かを生み出そうとする。そこから生み出される物はいつまでたっても未完成であり、変化をし続ける。レヴィ=ストロースは、こういう文明批評を行った訳ですが、この“ありあわせの物”を使って何かを生み出すという行為をブリコラージュと呼んでいたように記憶しています。

 

ここまで考えますと、ある仮説に行きつきます。まず、“打ち捨てられたもの”若しくは身の回りにある“ありあわせの物”がある。そこから、遊びが生まれる。遊びが体系化され、普及すると、それが大衆文化となる。時には天才的な人が現われ、大衆文化を芸術の域にまで高める。そこまで行ってしまうと、それ以上の発展が望めず、その文化は衰退してゆく。

 

上記の仮説に従って、ジャズの歴史を考えてみます。

 

まず、アメリカ大陸にやって来た白人の軍楽隊があって、彼らが古くなったり、壊れたりした楽器を廃棄した。これを黒人が拾い集めて遊び始める。もともと楽器が壊れているので、正確な音が出ない。そのため不協和音が生じ、フォービートと呼ばれるリズムと相まって、初期のジャズがニューオーリンズで誕生する。やがて、ジャズは全米に広がり、大衆文化として普及する。するとマイルス・デイビスという天才が登場し、ジャズを芸術の域まで高めた。マイルスの演奏を聞くと、「ああ、もうこれ以上はないな」と多くの人たちが納得してしまった。1991年にマイルスが死去すると、その時からジャズは急速に衰退して行った。

 

上記の仮説を、箇条書きにしてみます。

 

1.打ち捨てられたもの

2.遊び

3.大衆文化

4.芸術

5.衰退

 

ビー玉から始めた今回のシリーズですが、もう少し続けてみましょう。

No. 102 遊びとは何か(その2)/遊びの種類

どうもビー玉のことが気になって仕方がありません。ネットで調べてみると、そもそもガラス玉というのはエジプトや中東の遺跡からも発掘されている。また、ポルトガル語でガラスのことをビードロと言うようで、これが変化してビー玉という呼び名が発生したという説もあります。更に、日本におけるビー玉遊びの起源は、平安時代にまで遡るとのことで、これはもう大変長い歴史があることが分かります。

 

そうしてみると、まず、ビー玉なるものが存在したんですね。人々はこの小さくて、綺麗なガラス玉を見て思った。なんとかして、これで遊べないものだろうか、と。転がしてみる。他のビー玉にぶつけてみる。そうこうするうちに、誰かが指で弾いてみた。すると、ちょっとこれは楽しい感じがする。そしてまた、別の誰かが地面に穴を掘って、そこを目指してビー玉を弾いてみる。これはなかなか面白いということで、様々な遊び方、ルールが発明されていく。前回の原稿への書き込みで、S. DENDAさんが、中部地方に伝わる遊び方を紹介してくださいましたが、こちらは地面に穴を掘らないんですね。これはちょっと、驚きでした。

 

ビー玉の遊び方には、特許も実用新案もない訳で、誰が何を発明したというのは、もう分かりませんが、強いて言えば、それは学者や研究者ではない。庶民と、その子供たちが発明したとしか言いようがありません。歴史の中に埋もれてしまった、名前も顔も分からない誰か。そんな人たちの創意工夫の積み重ねによって、ビー玉という遊びの文化が成立したんだと思うのです。

 

ちなみに、当時、私が住んでいた地域(千葉県)では、色付きのビー玉のことを“色ビー”と呼んでいました。また、“ガスビー”と呼ばれるものもあった。これは、子供が普通のビー玉をコンクリートとかアスファルトに擦り付けて、表面を傷だらけにしたビー玉のことなんです。こうすると爪で弾きにくくなりますし、見た目も綺麗ではない。ただ、子供が好奇心で作ってみたというだけのものです。また、何度が友達からビー玉をもらったような記憶もあります。当時の子供たちにとって、ビー玉には財産的な価値があった。それをプレゼントするということは、子供ながらに、その属するコミュニティの中で円滑な人間関係を構築しようと試みていたのだろうと思います。

 

さて、前置きが長くなりましたが、本題に入りましょう。遊びの種類というのは、無数にあるのですが、ロジェ・カイヨワ(1913~1978 フランス人)という人が、それを体系的に分類しようと試みたのです。その内容をちょっと、ご紹介致します。(文献1)なお、各項目は外国語で表されていますので、末尾に私なりの日本語を記載致します。

 

アゴン・・・すべて競争という形をとる一群の遊び。スポーツ競技、チェスなど。(競争系

 

アレア・・・遊戯者の力の及ばぬ独立の決定の上に成り立つ全ての遊び。ルーレット、バカラなど。(ギャンブル系

 

ミミクリ・・・架空の人物となり、それにふさわしく行動することによって成り立つ遊び。ままごと、兵隊ごっこなど。(演劇系

 

イリンクス・・・眩暈(めまい)の追求に基づくもろもろの遊び。一時的に知覚の安定を破壊し、明晰であるはずの意識をいわば官能的なパニック状態におとしいれようとするものである。(このイリンクスに関する具体例としては、宗教的な儀式とか、バンジージャンプのようなものが挙げられています。文化人類学の知識に照らしますと、これは祭祀によってもたらされる熱狂のことを指していると思われますので、「トランス系」と呼ぶことにします。そう言えば日本でも“失神遊び”というのが、流行したことがありました。)

 

しかし、遊びの種類というのはもっと沢山あると思うのです。ちょっと、私が思いつくものを以下に列挙してみます。

 

技能習熟系・・・特に競争を目的とする訳ではなく、単に技能を習熟させることが目的となっている遊び。けん玉、竹馬、一輪車など。

 

身体感覚系・・・体を移動させることによって得られる身体感覚を楽しむ遊び。ブランコ、自転車など。

 

自然享受系・・・自然を楽しむ遊び。つくし採り、山菜摘み、ガーデニングなど。

 

音楽系・・・音楽。アマチュア・バンド、カラオケなど。

 

物語系・・・いわゆる文学に加え、子供たちが作り出す“学校の怪談”など。

 

他にもあるかも知れませんが、大体、“遊び”の類型というのはこんな所ではないでしょうか。

 

(参考文献)

文献1: 遊びと人間/ロジェ・カイヨワ講談社学術文庫

No. 101 遊びとは何か(その1)/ビー玉

このブログは文化が生まれるプロセスを考える所から出発しました。No. 1からNo. 24におきましては、言葉から始まり、物語、呪術、シャーマニズムなどを積み上げ、やがて宗教に至るという歴史主義的な検討を行いました。そして、そのプロセスにおいて、文学、絵画、音楽などの芸術が生まれた。例えば、絵画の起源は、狩りの様子を描いた洞窟の壁画であって、これは実際の狩りが成功することを願って、つまり呪術の一様式として描かれたという説をご紹介しました。今でも、それはそうなんだろうと思うのですが、それだけでもないような気も致します。何か、文化を生み出す力の源泉とでも言いますか、原動力としての“遊び”があったのではないか。

 

“遊び”とは取るに足らないもので、顧みる価値などないのかも知れません。しかし、人間はその歴史を通じて“遊び”を愛してきた。勉強をしたり、働いたりするよりも、“遊び”の方が楽しいと感じてきた。そして、無数の遊びを考案してきたという事実があります。そうしてみると、遊びとは何か、一度考えてみる価値があるのではないか。そう思って、いつもの本屋へ出掛けたのですが、幸い、若干の参考文献が見つかりました。現時点で、私に何らかの確信がある訳ではありませんが、参考文献の力も借りながら、少し“遊び”について考えてみたいと思います。

 

ところで、私が初めて夢中になった遊びはビー玉でした。小学1年か2年の頃だったと思います。地面に直径数センチの穴を直線上に3つ掘る。それぞれの穴の距離は、2メートル弱だったように思います。遠い方からA、B、Cとしますと、まず、Cの手前に立って、Aを目がけてビー玉を放り投げます。穴から遠い方の人から、順にビー玉をはじいてAを目指します。

 

ビー玉のはじき方は、2通りありました。まず、右手親指と中指(爪の側)の間にビー玉を挟み、中指で押し出すというやり方が一つ。次に、ビー玉を右手中指(腹の側)と親指の間に挟んで、親指の爪ではじき出すというやり方もありました。こちらの方が、次第に主流になっていきました。さて、無事Aの穴に入れると、順にB、Cの穴を目指し、次にB、Aと戻って来る。つまり、一往復するんです。すると、そのビー玉は鬼になる。鬼になった後で、他の競技者のビー玉にぶつけると、そのビー玉が自分のものになる。負ければ自分のビー玉を取られてしまうので、それは結構、必死になって遊んだものです。

 

それにしても、良くできたルールだなと、今でも思います。

 

私が住んでいた地域で何故、ビー玉が流行ったかと言うと、ある日、誰かが団地の日陰になっている所に、3つの穴を掘ったんです。その大きさと言い、距離と言い、それはもう申し分のないものだった。そこに子供たちが集まるようになって、ビー玉が流行ったんです。そこは、子供たちにとって社交場のような場所でした。大体、ポケットにビー玉を2つか3つ忍ばせて、子供たちがやって来る。初対面の相手でも臆することなく「ビー玉やろう」と言って、遊び始める。子供というのは相手の名前なんて、聞かなくてもいい。また、遊んでいて相手の持っているビー玉を全部取り上げてしまうと遊べなくなる。仕方がないので、一度、取ったビー玉を相手に返して、また遊ぶ。そんなことをしていたような気がします。

 

しかし、雨も降れば、風も吹く訳で、やがて地面に掘った穴はその縁から崩れていったのです。そしていつか、子供たちはその場所に集まらなくなった。

 

さて、私を含め、遊んでいた子供たちはビー玉から、何かを得たでしょうか。残ったものは思い出だけでしょうか。まだ、その答えを述べるのは早計に過ぎるように思います。ただ一つ言えるのは、大人たちとは隔絶した世界が、そこにあったということです。学校へ行けば先生がいる。家へ帰れば親がいる。しかし子供たちは、ビー玉を通して、そんな大人たちに干渉されない自分たちだけの自由な空間を作り上げていた。こんなことも、遊びの効用かも知れません。

No. 100 深沢七郎の短編小説「白笑」を読む

ブログの更新、少し間が空いてしまいましたが、今回は、その言い訳から始めさせていただきます。

 

以前取り上げました村上春樹の小説には、経済的に裕福で、高学歴の美男美女が多く登場しましたが、正直に言いますと、私は辟易してしまったのです。あのゴッホが描いたのは、市井の郵便配達夫であり、馬鈴薯を食べる人たちだった。横光利一が「時間」という短編小説の中で描いたのも、宿代を払えずに夜逃げする旅芸人の一座だった。ドストエフスキーだって「貧しき人々」を書いている。やっかみ半分でそんなことを考えていますと、貧しく、浅はかで、それでいて、逞しく、優しい庶民を題材にした小説が頭に浮かんだのです。庶民と言えば、深沢七郎の「庶民烈伝」ですね。これは以前読んだので、早速本棚を探したのですが、ないのです。一部内容も覚えているので、必ずどこかにあるはずなのですが、何度探しても見つからない。ネットで調べてみると、今でも中公文庫で発売されていたので、本屋にも行ったのですが、「庶民烈伝」は置いていない。しかし、ここまでやる気になってしまうと、今さら他の作家に切り替える訳にもいかない。そこで、深沢七郎の他の短編小説を読み始めたのですが、いつの間にかその世界にはまってしまったのです。深沢七郎の毒気に当てられて、ノックアウトされてしまったと言った方がいいかも知れません。

 

近代の純文学というのは、作家がその直観を働かせて、集合的無意識やタブーに挑戦する訳ですが、深沢七郎の作品は特にその傾向が強いように思います。代表作である「楢山節考」では、姥捨てを描いていますが、今回私が読んだ作品の中には、間引きの問題を取り扱っている「みちのくの人形たち」という作品もありました。出産の時には、その村に代々伝わる屏風がある。間引きをする時には、その屏風を上下反対に立てて、その中で出産する。生まれてきた赤ん坊は、最初の泣き声を発する前に、タライに張った水に漬け、窒息死させる。避妊具が普及する前の時代だとは思うのですが、しかし、8回妊娠して、そのうち7回は間引きしたという例なども出て来ると、ちょっとぞっとします。昔、間引きの手伝いを繰り返していたお産婆さんが罪の意識にかられ、両腕を切り落としたという話も出てきて、強烈な違和感を覚えます。ちなみに、作品タイトルの「みちのくの人形たち」というのは、間引きされてしまった子供たちを慰霊するために作られた人形、という意味のようです。

 

それでは、表題の「白笑」(うすらわらい)の話に移りましょう。

 

<あらすじ>

源造の家には柿の木があったが、なるのは渋柿だった。隣の三太郎の家には、巨大な柿の木があって、実が良くなるので村でも評判だった。三太郎には21歳になる忠太郎という道楽息子がいた。忠太郎を少しは落ち着かせようと思った三太郎は、25歳になる隣村のおきくと見合いをさせ、やがて、2人の結婚が決まる。おきくの実家も裕福で、沢山の嫁入り道具が三太郎の家に運び込まれる。村人たちは、嫁入り道具が立派なことに嫉妬心を抱く。しかし9年前、源造が16歳のおきくを犯したことがあって、ある男がそのことを村中に言い触れ回ってしまう。やがて噂は、忠太郎の耳にも入る。祝言を上げた翌日、花婿の一族と花嫁の一族が呼び集められる。一同の前で忠太郎は、結婚の解消を申し出る。その理由については、おきくを指さして「それは花嫁が処女でなかったことであります」と告げる。問い詰められたおきくは「うそですよ、そんなことがあるものですか!」と否定する。なんとかその場は収まる。困り果てたおきくは、年上の源造に相談を持ち掛けるが、源造は土下座をして謝るばかりである。おきくは源造にも失望する。祝言から20日程たった頃、離婚が決まり、おきくは1人で実家に向かい、笛吹川に掛かる橋を渡っていた。その時おきくは「ふっふっふ」と笑ったのだった。

 

この作品、読み進めて行く途中までは、誰が主人公なのか分からないのです。読み終わってみると、ああ、おきくが主人公だったんだ、と腑に落ちる。それにしても、このおきくという女性には、不運が幾重にも振り掛かる。9年前の不運、嫁ぎ先が源造の家の隣だったという不運、プライバシーを公開されてしまったという不運。しかし、それでもおきくは、これから強く生きていくのだろうと感じました。そのことは、作品タイトル、「白笑」(うすらわらい)が暗示しているように思います。高らかに笑う訳ではない。クスクスと笑う訳でもない。つらい状況にありながら、それでも全てを飲み込んで、生きて行こうとする意志。それがこのタイトルの意味ではないでしょうか。女性というのは、と言うよりも、庶民って凄いなあと感じ入った次第です。

 

※ 「白笑」は、次の本に収録されています。

深沢七郎 楢山節考/東北の神武たち 深沢七郎初期短編集 中公文庫

No. 99 このブログ、平時のモードに戻します。

すっかり朝鮮半島情勢に振り回されてしまいましたが、問題は長期化すると思われますので、このブログは平時のモードに戻すことにします。

 

また、いくつかの検討課題が中途半端な状態になっていたように思いますので、今回は、それらの問題に決着をつけたいと思います。

 

まず、朝鮮半島情勢の緊迫化に伴い、政治について言及しましたが、私の考えは次の通りです。結局、人間社会というのは、「敵と味方を識別して、集団で闘うシステム」からなかなか脱却できないでいる。また、敵と味方を識別するのは、民族、宗教、イデオロギーの3つではないか。何とかそれらを乗り越えることはできないのか。そこで登場したのが、民主主義だと思うのです。民主主義は、人間集団の結束を求めない。そうではなくて、個人に自律的な思考を促し、政治家は選挙で選ぶのが良いと考えている。私たち日本人にとっては当たり前の話かも知れませんが、守り続ける努力が必要だと思うのです。民主主義が前提としているのは、ポピュリズムに陥らない個人の見識と、選挙における投票行動だと思います。よって、最低限、そこだけは守りましょうと、そう申し上げたいのです。現在の日本の状況を考えますと、宗教やイデオロギーに依存している政党は少なくないと思います。むしろ、その方が多い。しかし、右でも左でもない、新たな価値観を模索しようという動きもない訳ではありません。

 

次に、ディタッチメントという言葉によって象徴されるポストモダンのメンタリティについてですが、世界的に見ると、これは一部の先進国の、比較的裕福で、高学歴の人々に共通した心理状態ではないかと思います。村上春樹の小説は世界的に売れているので、そういうメンタリティを持った人たちというのは、決して少なくない。しかし、この傾向は長く続かないように思います。一つには、2001年に米国で発生した同時多発テロ。もう一つは、2011年に日本で発生した東日本大震災とそれに続く福島第一原発の事故。ディタッチメントだ、関与しないんだと言っても、否が応でも巻き込まれてしまう。

 

また、グローバリズムの終焉ということも申し上げましたが、これは現在、時代が大きく変わろうとしていることを意味していると思うのです。グローバリズムによって、様々な文化が相対化された。例えば、ある地域では誰もが信じて疑わないローカルルールというものがあった。それがグローバリズムによって、そうではないんだ、世界的にはこちらのルールが正しいんだ、という論議が巻き起こる。そして、無数の慣習や法律などが比較検討の対象となったのだと思います。しかし、アンチ・グローバリズムの動きが出てきて、ローカルルールの方がいいんだと主張する人たちが出て来る。その典型が、イスラム国ではないかと思います。これは回顧主義であって、過去に戻ろうとしているんですね。そんな動きを含めて、では何が正しいのか、分かりづらい時代になっていくのだろうと思います。一度生まれた文化というのは、なかなか消滅しない。そこで、古代、中世、近代、現代の各メンタリティというものが、交錯し始めている。そんな時代になったような気がします。今回の北朝鮮の問題にしても、米国のグローバリズムと、北朝鮮民族主義が激しくぶつかっている。もちろん、米国の方に理があるようには思いますが、では、どうして核兵器を持って良い国と、そうではない国があるのでしょうか。これって、ちょっと答えにくい質問ではないでしょうか。現代という時代が終わるとして、その次の時代を何というのか分かりませんが、便宜上、“ポスト現代”とでも言いましょう。ポスト現代は、多様性とリスクの時代になるような気がします。人類が未だかつて経験したことがない程多様で、多様であるが故にリスクに晒される時代。そう思うのです。そして、最大のリスクとは、核兵器であり、原子力発電所ではないかと思います。

 

また、エンターテインメントについても言及しました。情報量というのはタテ(時間)とヨコ(地理的範囲)に拡大を続ける一方です。よって、昔のビートルズのように、誰もが夢中になるムーブメントというのは起こりづらい。また、情報量の拡大と共に、文化はますます細分化されている。例えば、本屋に行って、1冊の本を買う。しかし、その本を読んでいる人というのは、昔に比べれば非常に少ないと思うのです。それは、人々が本を読まなくなったということもあるかも知れませんが、それ以上に本の種類が飛躍的に増加したことが原因となっている。例えば、あなたがあるバンドのファンになる。世間から見れば、もうそれだけで、あなたはオタクと呼ばれるかも知れない。そういう時代だと思うのです。しかし、近代的な意味での芸術というものがほとんど生み出されず、哲学や思想というものが成り立ちにくい現在において、私たちはどうすれば良いのか。そこで私は、オタクと呼ばれようがどうしようが、手の届く何かとの関係性を保ちながら、“遊ぶ”しかないように思うのです。多くの文化は、“遊び”の中から生まれたのですから。