文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 158 文化進化論とは何か(その1)

前回の更新から少し間があいてしまいました。その間、私が何をしていたかと言いますと、片手にマーカーを握りしめ、例の文献を読んでいたのです。まだ、半分位しか読み終わっていないのですが・・・。例の文献とは、すなわち「文化進化論」というタイトルの本のことです。詳細は末尾に記載。以下、本文献と呼ぶことにします。まず、本文献の基本的なスタンスについて、まとめてみましょう。

 

1 生物学は様々な生物を研究しているが、その根底にはダーウィニズムとその後の遺伝子の研究成果という共通の基盤がある。よって、例えば鳥類の専門家と昆虫の専門家が意見を交わすことが可能となっている。もう少し広い視点で見れば、前世紀において、自然科学と物理学は格段の進歩を遂げたにも関わらず、社会科学の方は、文化の変化について語る統一的な理論を提供するに至っていない。

 

2 現在、社会科学においては、マクロレベルの分野とミクロレベルの分野に分断されていて、互いに連携していない。

マクロ・・・マクロ経済学、マクロ社会学歴史学文化人類学、考古学

ミクロ・・・ミクロ経済学、ミクロ社会学、心理言語学神経科学、心理学

 

3 本文献においては「文化とは、模倣、教育、言語といった社会的な伝達機構を介して他者から取得する情報である」と定義する。このように考えた場合、若干の例外はあるものの、文化の進化は原則的にダーウィニズムによって、説明可能である。

 

4 ダーウィニズムに立脚した文化進化論を確立することにより、社会科学の分野で、学術的な統合を図るべきである。

 

少し、私の印象を述べさせていただきます。本文献も指摘しているように、文化とは、私たちの考え方や行動に強い影響力を持っています。よって、そのカラクリが分かれば、私たちは新たな視点で歴史を振り返ることができたり、今後、文化がどのように進化していくのか、見通しを立てることが可能となるかも知れません。しかしながら、前回の原稿にも記しましたが、文化自体を研究対象とする学問は、現在、存在していないようです。本文献によれば、「文化とは曖昧なもので、学術研究の対象としてはそぐわない」と考えられてきたのが、その理由のようです。

 

文化系の私が言うのも恐縮ですが、既に遺伝子の研究も進んでおり、人間の脳の中でどのような信号がやり取りされているのかも、次第に分かって来ているのだろうと思います。これらの遺伝子や信号というのは、記号の一種なのではないでしょうか。そして、文化を構成している最小の単位も記号なのかも知れません。そうしてみると、ダーウィニズムと文化進化の間に、共通点や類時点があると想定することには、根拠があるように思います。

 

驚いたことに、生物進化と文化進化の関係については、既にダーウィンが指摘していたそうです。ダーウィンは、次のように述べたそうです。

 

好まれる言葉が生存競争を経て生き残っていくというのは、自然選択である。

 

(本文献)

文化進化論/ダーウィン進化論は文化を説明できるか/アレックス・メスーディ/NTT出版/2016

 

 

 

 

 

 

このブログの立ち位置

然したる構想もなく、行き当たりばったりで進めてきた本ブログではありますが、振り返ってみますと、文化を通して、人間集団について考えて来たような気がします。記号論を含め、未だ決着しない問題は多くありますが、何となく一区切りということで、今回はこのブログの立ち位置なり、進捗状況などを少し考えてみることにします。関係する学術分野につきましては、主として人間を集団として見るものと、個人の心的機能を中心に考えるものがあるように思います。一覧にしてみましょう。

 

<人間集団を対象とするもの>
文化人類学 → ポスト構造主義
哲学
社会学
(文化論)

 

<個人を対象とするもの>
心理学
記号論・・・表象文化論

 

まず、このブログは文化人類学から出発しました。“遊び”から始まる文化は、やがて宗教を生み、宗教が国家を誕生させた。この経緯については、それなりに解明できたように思っております。文化人類学の主たる学者はレヴィ=ストロースですが、彼の主張に満足できない人たちが、いくつかの分野で新たな論議を展開しています。この一連の人々の考え方は、“ポスト構造主義”と呼ばれています。しかし、正直に言いますと、未だ私はこの分野の文献をあまり読んだことがありません。その理由は2つあります。1つには、原語(フランス語)ですら難解な文章を日本語訳で読んで理解できるのか、ということです。2つ目としては、“ポスト構造主義”に関する解説書を見る限り、あまり私の興味を引く論議は見当たらなかったということです。よって、この分野はペンディングにしたいと思っています。

 

次に哲学ですが、これも私としては不案内な分野ということになります。しかし、哲学には長い歴史がある。まずは大雑把に歴史を振り返って、そこから興味の持てる哲学者が出てくれば、少し当たってみたいと思っています。とりあえず、カントとヘーゲルに興味があります。日本の歴史をどんなに振り返ってみても、民主主義という崇高な思想の原点は見えてきません。その起源は、アメリカの独立戦争にあるという学者もいます。例えば小林節氏は、次のように述べています。「アメリカは独立戦争に勝利した。そこで、周囲の者はジョージ・ワシントンに対し、あなたが新たな王様だ、と言った。しかしワシントンは、それでは今までと何も変わらない。我々は、王権によってひどい仕打ちを受けて来たではないか、と言って拒絶した。そしてワシントンは、選挙によってアメリカの初代大統領になった。これが民主主義の原点である」。他方、長谷部恭男氏は、民主主義の原点はフランス革命にあるとしている。宗教戦争があって、フランス革命が起こる。しかし、革命後も世の中は混乱した。そこにヘーゲルが出てくる。このあたりの経緯というのは、一度、把握してみたいと思っています。

 

社会学という学問もあります。私が知らないだけなのかも知れませんが、この学術分野においては、あまり新しい論議というのは生まれていないような気がします。

 

次に、カッコ付きの文化論。私が知る限りにおいて、文化学とか、文化論という学問は存在しません。困ったものです。それがないから、私はその周辺をウロウロしているようなものです。しかし今後は、「このブログこそが文化論だ!」という気概を込めて、この言葉を使わせていただこうかなと思っております。人間は文化の中に生まれ、文化と共に生き、その進化に参加するのだという点が、このブログの主張でもある訳です。例えば、「文化選択」ということがある。この言葉は私が発明したのですが、これから読もうとしている「文化進化論」という本の目次において、この言葉を発見しました。私の主張としては、文化というのは人間集団によって、常に選択されるか否かという状況に置かれている。選択された文化は生き続け、そうでないものは消えていく。(この点は、選択された“カップヌードル”と、消えていった“めんこく”の例で説明済みです。)時間の経過と共に文化は多様化する。よって、人間集団による選択肢は増え続ける。より多くの選択肢から文化を選択することになるので、長い目で見れば、文化というのは良い方向へ進化する。しかし短期的に見れば、課題は小さくない。例えば、現代に生きる私たちは、原発という物質文化を持っている。これを選択し続けるのか否か、それは私たちの双肩に掛かっているのだと思うのです。(ちなみに、私は核兵器原発も、選択すべきではないと考えています。)そもそも、文化論なる学術分野が存在しない中で、「文化進化論」という本があったということは、私にとっては驚きであり、今は、この本に期待しています。読んだ結果は、このブログで報告致します。

 

個人を研究対象とする学術分野としては、まず、心理学があります。私は、ユングを支持してきましたが、そのタイプ論については、少し違った考え方に至った訳です。タイプ論は、人間のタイプを思考、直観、感覚、感情の4つに分類するものです。これに対する私の考えは、人間は誰しも感覚から出発する。そして、思考タイプと感情タイプに分かれるのだ、という立場です。また、これらのタイプにつきましては、記号論から導いた人間の認知、行動に関する概念モデルから説明が可能だということに、最近、気づきました。

 

感覚というのは、「記号 → 反応」という簡単な仕組みになっている。例えば、ピコ太郎の動画を見て、子供が真似をする。こういう心的機能というのは、大人になっても持ち続けているのだと思います。

 

次に感情ですが、これは「実体 → 記号 → 意味 → 反応」という4段階で説明できます。

 

(感情タイプの例)
実体・・・赤ん坊。
記号・・・赤ん坊が泣く。(音声記号)
意味・・・赤ん坊が泣いている理由、赤ん坊と自分の関係などを考える。
反応・・・母親である自分が、授乳する。

 

感情タイプの人というのは、だから、人間なりモノの実体を良く見て、把握しているのだと思います。これが思考タイプとなると、実体が欠落してくる。思考タイプの人というのは、あくまでも記号、特に文字に依存して物事を認知している。記号を使うので、認知する範囲は広く、抽象概念なども良く理解できることになります。反面、現実的な対応力が弱い、とも言えます。

 

(思考タイプの例)
実体・・・なし
記号・・・マルクス主義の本を読む。(文字記号)
意味・・・共産主義に共鳴する。
反応・・・安保反対のデモに参加する。

 

最近は、記号が暴走していて、人々は“実体”と“意味”を見失っているのではないか、などと思ったのですが、現代においても感情タイプの人たちは、“実体”を良く認識されているのではないでしょうか。

 

私としては、一応、ユングは卒業かなと思っています。

 

しかし、現代社会において、感覚機能が勢力を拡大していることは間違いなさそうです。タイプ別に、受け取っている記号の種別を考えてみましょう。

 

感覚・・・画像
感情・・・現実から得られる視覚、聴覚情報
思考・・・文字

 

してみると、私の目からすれば未成熟に見える現代の若者たちというのは、“感覚”に依存しており、その理由は、テレビ、映画、ネット、ゲームなどの画像情報に接する機会が多いからだ、という仮説に行き当たります。

 

ここでは、簡単に“画像”と呼びましたが、先端的な学問分野として“表象文化論”というものがあります。表象/Representationとは、実体を再現=代行するものという意味で、具体的には絵画、写真、映画、彫刻、文学、建築などを指すようです。

 

なお、記号論については、パース、モリスなど、適当な文献があれば読んでみたいと思っています。

No. 157 消えた実体、意味の喪失

前回の原稿で、記号論に関する検討には一区切りつけるつもりだったのですが、そうもいかないような気がしてきました。記号論の前身である言語学まで含めますと、その歴史は古代ギリシャにまで遡るようです。またソシュールの後には、チャールズ・パース(1839~1914)という人がいて、複雑な理論体系を構築したようです。ちなみに、パースは「人は、記号である」というところまで行き着いたようです。何だか難しそうですね。更に、パースの後には、以前の原稿で「何かが記号であるのは, それがある解釈者によって何かの記号として解釈されるからである」という言葉を引用させていただきましたチャールズ・モリス(1903~1979)がいます。

さて、前回の原稿で提示致しました人間の認知、行動に関わる概念モデルですが、本当にそうだろうか、という疑問も沸いてきました。便宜上、再度、掲載致します。

 

実体・・・記号が指し示す事柄
 ↓
記号・・・物の機能、人の意図
 ↓
意味・・・価値判断。自分と記号、対象との関わり
 ↓
反応・・・行動、思考、心理的作用

 

まず、古代人が獲物に向かって石を投げるまでのプロセスを考えてみます。

 

実体・・・足元に“石ころ”が転がっている。
記号・・・“石ころ”だという言葉と同時に、その機能を理解する。
意味・・・自分と獲物の距離、“石ころ”の機能、自分が空腹であることなどを判断する。
反応・・・獲物に向かって、“石ころ”を投げる。

 

上記の場合、うまく当てはまっているようです。次に、伝統的なお寿司屋さんの例で考えてみましょう。

 

実体・・・寿司屋の大将
記号・・・熟練の技で握られた寿司、美しい皿、季節の花などの添え物
意味・・・大将の技、女将さんのもてなし。高額の支払いなど。
反応・・・満足感をもって、寿司を食べる

 

上記の場合も、うまく当てはまるようです。財布の心配さえなければ、ということではありますが・・・。では、回転寿司の場合は、どうでしょうか。

 

実体・・・無し
記号・・・パネルにタッチして、注文する。
意味・・・無し
反応・・・寿司を食べる

 

多くの場合、回転寿司では作っている人の顔は見えません。パネルにタッチして注文すると、寿司がおもちゃの電車に乗ってやって来るような店もあります。考えてみますと、このように「記号があって、それに反応する」という、ただそれだけで完結するケースは、決して少なくないような気がします。例えば、シューティング系のゲーム。記号としての敵が画面に現われ、それを攻撃する。マンガも同じだと思います。多くの場合、そこに実体と意味はありません。ピコ太郎の動画を見て、真似をして踊るイバンカさんの娘なども同じです。古い所では、怪談などもそうだと思います。そもそも、幽霊というのは実体がない。よって、怪談というのは作り話なんです。しかし、それを聞いて「キャー、怖い!」などと反応する。そもそも、エンターテインメントと呼ばれるジャンルの構造というのは、そういうことになっているのかも知れませんが、現代において、この傾向は確実に強まっている。

 

その理由を考えてみますと、一つには大量生産によって、商品やモノの作り手の顔が見えなくなったこと。二つ目としては、グローバル化に伴って、言語以外の記号(マーク、ロゴなど)が増えたこと。三つ目としては、ハイテク化、ネットの普及によって、現代人が触れる記号の総量が爆発的に増加した、ということが考えられます。結果として、実体と意味が失われ、ただ記号に反応するという人間社会が生まれつつある。

 

本当にそれでいいのか疑問を禁じ得ませんが、ここでいいとか悪いとか言っても、それこそ意味がないような気がします。ただ、この実体と意味の喪失という現象は、すぐそこまで来ている人工知能とバーチャル・リアリティによって、更に、急速に、確実に進展するでしょう。

 

最近、ネットに出ていたのですが、ある青年が、AKB系のアイドルに入れ込んで、貯金の1千万円を使い果たしてしまったそうです。アイドルというのは、記号です。少なくとも、記号の総体だと言えます。彼女たちは、芸名を付けて、歌い、踊り、笑顔を見せてメッセージを発信しています。それは虚像であって、現実の少女の姿ではありません。しかし、記号化されたアイドルに夢中になって、その青年は“意味”を考えることができなくなった。この場合の意味とは、自分と、そのアイドルの実体、そして記号として発信されるメッセージの相関関係のことです。その青年は、実体を見ることなく、意味も考えずに、ただ記号に反応してしまった。

 

しかし、そのアイドルの実体とは何か、という疑問もあります。一人の少女を分解していきますと、究極的には、それを記号で表わすことが可能なのかも知れません。彼女は言葉、すなわち記号によって考えています。彼女の好きなもの、嫌いなもの、身体的な特徴、これらも全て記号化することが可能でしょう。

 

このように考えますと、冒頭に引用しましたパースの言葉が、身に染みて来ます。

 

「人は、記号である」

No. 156 記号に関する試論

前2回の原稿(~基礎知識)では、極力私の意見は抑えて、一般に言われていることを忠実に記載したつもりです。しかし、どうもこれでは良く分からない。そこで今回は、私なりの記号についての考え方を記載させていただきます。

 

まず、ソシュールの理論の基礎は言語学、コミュニケーション体系にあるのであって、記号全般について検討するには適さないのではないか、ということです。例えば、言語学を野球に例えてみますと、いくら野球の研究をしたとしても、スポーツ全般のことは分からない。それと同じではないか。すなわち、“記号”というのは言語よりも範囲が広い。“意味”となると、更に対象範囲は拡大すると思うのです。だから、言語学をベースにいくら記号や意味について考えても、結論には至らないのではないでしょうか。

 

まず、No. 154の記事で紹介致しましたソシュールが前提とした“記号”の定義について、振り返ってみます。

 

記号   =  知覚される図形や音  +  意味
シーニュ =  シニフィアン     +  シニフィエ

 

そもそも、これが違っているのではないでしょうか。記号とは、上の図式でシニフィアンとして記載されている「知覚される図形や音」そのものであると考えた方が良い。何故ならば、“意味”という概念は、記号よりも広いからです。よって、シニフィアンこそが記号である、というところから出発してみたいと思います。(実際、学者の中にも、シニフィアンを記号と呼んだ人もいるようです。)私が、提示したいモデルは、次の通りです。

 

実体・・・記号が指し示す事柄
 ↓
記号・・・物の機能、人の意図
 ↓
意味・・・価値判断。自分と記号、対象との関わり
 ↓
反応・・・行動、思考、心理的作用

 

一目見て分かる通り、これは人間同士のコミュニケーションのみを対象とする概念モデルではありません。むしろ、人間が環境を認知し、行動に移すまでのプロセスを示していると言えます。少し、具体例を挙げてご説明致します。

 

私が歩いていて、交差点に差し掛かったとします。信号機が赤い色を表示しています。物理的に存在しているこの信号機が “実体”です。私は、「赤信号だ」という言葉を胸の中で呟きます。この赤信号という言葉が“記号”です。この記号は、対象である信号機の機能を意味しています。すなわち、「信号機とは、自動車や歩行者の通行を規制することによって、それらの通行の円滑化を図ると共に、安全を確保する」という機能を持っている訳です。そこで私は、今、交差点を横断するのは危険であるという“意味”を抽出します。そして、その意味に従って、私は立ち止まるという“行動”(反応)に出る訳です。

 

もう一つ、時計の例で考えてみましょう。まず、時計という物理的に存在している“実体”があります。時計の針が、夜の8時を指していたとします。これも“記号”ですね。私は、自分の置かれている状況と記号の関係などから“意味”を抽出しようとします。そう言えば、ビールが飲みたいな、飲んでもいい時間だな、と思う訳です。そこで、晩酌という“行動”(反応)を取ることになります。

 

人間同士の例も考えてみましょう。あなたは、バーで飲んでいます。隣に異性が座っています。この異性は、実在する人物という意味で“実体”ということになります。その異性があなたの膝に手を置いたとします。(この例、前にも使いましたね!)あなたは、その異性の行動に何らかの意図を感じます。従って、その異性の行動は、“記号”であることになります。あなたはちょっとドギマギしながら、あなた自身と、実体であるその異性と、異性のとった行動について考えるはずです。それが“意味”だと思うのです。例えば、あなたとその異性との関係が、今後、恋人同士に発展することをあなたが望んでいるような場合、あなたは異性の手の上に自分の掌を重ねるかも知れません。例えばあなたが既婚者で、そういうことは困る、という場合もあり得ます。この場合、あなたはさり気なく席を立つかも知れません。これが、“行動”(反応)ということになります。

 

ソシュール記号論の文献を何冊か読んで、そこから抽出した私にとっての“意味”が、上記の概念モデルであると言えます。現代の記号論というのは、もっと複雑で、記号の分類などを研究し続けていえる人も少なくないのだろうと思います。しかし、文化を考える立場から言えば、上記のモデルで一応の決着がついたような気がします。すなわち記号とは、物の機能や人の意図と深く結びついている。そして、人々は記号を通して、自分と外界とのつながり、すなわち意味を考えて来た。そういう歴史がある。記号なくして、人々は外界を理解することはできないし、外界と自らを結びつける意味を抽出することもできない。現代に生きる我々の場合は、既に、ほぼ100%の外界は記号化されている。他方、古代人の場合には、何か新たな実体に遭遇する度、それに名前を付け記号化すると共に、そこに意味を探してきたのではないでしょうか。例えば、夜空に稲妻が走る。しかし、彼らには意味が分からない。疫病が流行って、人がバタバタと死んで行く。その意味も分からない。イナズマとか、死とか、その現象に名前を付ける、すなわち記号化するところまではできても、その先の意味を見つけることができない。そんなところから、アニミズムが生まれたのではないでしょうか。

 

このように考えますと、前述の実体、記号、意味、反応という人間の認知、行動に関わるシステムは、人間が如何に文化を産み出してきたのか、ミクロで見た場合、その基本構造を示しているようにも思うのです。

No. 155 記号論の基礎知識(その2)

前回の原稿で述べましたラングについて、ソシュールは、次のように述べています。

ラングは「言語能力の社会的所産であると同時に, 個々人におけるこのような能力の行使を可能にするために社会集団によって採用された, 不可欠な慣例の総体でもある」。(文献1)

 

また、ソシュールはラングの他にも個人的な声の質とか、個人的な言葉の選び方の傾向なども言語を考える上での重要な要素だと考え、これをパロールと名付けました。そして、ラングとパロールを合わせて考えることによって浮かび上がってくる言葉の全体的な姿をランガージュと呼んだのです。(文献2)

 

ランガージュ(全体的な姿)= ラング + パロール

 

以上の検討結果から、ソシュールは言語について、2つの原則を導き出しました。1つ目は、「言語記号の恣意性」ということです。これは、ある果物のことをリンゴと呼ぼうがアップルと呼ぼうが、その果物と呼び名の間には特段の原則はない。つまり、あるものをどう名付けようが勝手である、という意味です。2つ目は、「線状性」です。これは、言語を文字で表記した場合には、必ず一本の線のように並ぶ、という意味です。話し言葉にしても、人間は同時に2つの音素を発音することができませんので、それを文字にした場合には、必ず線状になります。なんだか、難しそうなことを色々述べて来た割に、これらの原則は、当たり前のことのように感じます。但し、ソシュールが評価されている理由は、言葉や言葉が意味する内容がいかに曖昧であるか、それを証明した点にあるものと思われます。

 

(余談にはなりますが、この線状性の問題については、次のような説もあります。「近代文明全体は活字の書体の線状モデルに支配されており、そして、われわれの現代世界が新しい形の感性の出現を体験しているのは, 多くの新しい(電子的, 視覚的)記号がもはや線状的にではなくて, 空間的・包括的にわれわれに到達しているからなのだ」。やはり、私たち人類は、新たな時代を迎えつつあるのかも知れませんね。)(文献1)

 

こうして振り返ってみますとソシュールは、コミュニケーションが成立するための条件など、言語学に興味を抱いていたことが分かります。しかし、私たちは言語によって、考えたりもします。必ずしも、言語はコミュニケーションだけを目的としたツールではありません。更に、私たちが生活していく上で、例えば横断歩道があり、信号機がある訳で、これらも記号として機能していることは明らかです。そこで、ソシュール以後の学者は、記号というものをもっと広い範囲で考え始めたようです。例えば、記号をその発信源別に考えてみますと、人間の他にも自然現象や動物も記号を発信している。このように記号を広く解釈するのが最近の傾向だと言われています。(文献1)このような発想を発展させますと、遺伝子の研究、動物記号論、動物の体内でのコミュニケーションを研究する内部記号論などに繋がっていくようです。

 

ところで、記号が表わすその“意味”とは、何でしょうか。この問題に関しましては、言葉が、特に文章となった場合、その意味は無限大に拡大します。よって、その意味がどういう体系になっているのか、これを万人が納得するような説明はなされていない、ということになっています。但し、単語の発音をその最小限の単位である音素に分解できたように、意味を最小限の構成要素(意味素)に分解することができれば、いずれは説明が可能ではないか、という説もあるようです。

 

現代の記号論におきましては、“機能としての記号”という問題も研究対象となっています。例えば、椅子がある。これは座ることができるという意味を持っている記号であるとも言えます。ファッションも、見方によっては、記号であると解釈できます。

 

例えば、あなたが気になる異性とバーで飲んでいたとしましょう。仮にその異性が、あなたの膝に手を置いたとします。この異性の行為をあなたの膝は、感知しています。このような異性の行為は、あなたにとって記号でしょうか。もし、あなたがそこに何らかの意味を読み取るのであれば、この異性の行為は記号である、ということになります。

 

チャールズ・モリス(1903~1979)という人の言葉を引用させていただきます。

 

「何かが記号であるのは, それがある解釈者によって何かの記号として解釈されるからである」。

 

(参考文献)
文献1: 記号論入門/ウンベルト・エコ/而立書房/1997
文献2: ソシュールのすべて/町田健/研究者/2004

No. 154 記号論の基礎知識(その1)

 

言葉も記号の一種なので、記号論記号学)は、言語学を含めた学術分野の一つだと言えます。しかしこれが相当、難解なんです。その理由は、この学問が相当長い歴史を持っているにも関わらず未だに完成されていない、という点にあるように思われます。記号論において、最も有名で多くの文献に登場するのは、スイス人言語学者であるフェルディナン・ド・ソシュール(1857~1913)だと思われます。しかしソシュールは、もう100年以上も前の人なんですね。だから、大変な功績を残したことは間違いないようですが、その後、いろいろ批判もされています。では、ソシュールを超えて、定説と呼ばれるに相応しい説を唱えた人がいるかと言えば、ちょっと見当たらない。加えて今日の記号論においても、解明されていない問題がある。例えば、意味の問題。「意味とは何かというのは現代の言語学でも非常に難しい問題で、誰もが認める意味の定義というのはまだ提出されていません」(文献1)更に、どの言語でも必ず時間の経過と共に変化することは分かっていますが、「現代言語学でも、コトバが変化する必然性の理由についての解明はできていません」(文献1)ということなんです。

加えて、抽象概念を扱っているせいか、言葉の定義が曖昧であるような印象も受けます。フランス語から日本語への翻訳の問題もあります。例えば、シニフィアンというフランス語が、“能記”と訳される。えっ、“能記”って何? 私などは、そう思ってしまいます。

そこで、今回の原稿では、記号論の基礎知識を、極力、分かり易く紹介したいと思います。

まず、記号とは何か、という話から始めてみましょう。記号とは、知覚される図形や音と、それらが指し示す意味から成り立っています。これを数式になぞらえてみます。なお、下段の表記は、フランス語です。

記号   =  知覚される図形や音  +  意味
シーニュ =  シニフィアン     +  シニフィエ

言葉には、話し言葉と書き言葉がありますので、“知覚される図形や音”の例としては、文字の“猫”(図形)と、発話される“ネコ”(音)があります。そして、これらのシニフィアンが、動物の猫を意味(シニフィエ)している。これが、記号だということになります。逆に言えば、意味を持たない図形や音は、記号ではないことになります。

ところで、同じ日本人でも言語に用いる音は、微妙に異なっているようです。方言を聞きますと、その傾向は顕著ですね。しかし、同じ日本人同士として会話が通じるためには、最低限、相手の人が発話した音が“ア”なのか“イ”なのか、判別できなくては困ります。そこでソシュールは、ギリギリ判別可能な発音の集合を“音素”として定義しました。例えば、日本語におきましては、英語のように“L”と“R”の発音を区別していません。よって、日本語においては、これらの発音は同じ“音素”に含まれることになります。他方、英語において、これらの発音は、別の音素に区分けされます。外国語を聞いたり話したりするのが難しいのは、そもそも使われている音素が違うからなんですね。ちなみに、日本語において使用されている音素は20個くらいで、英語だとその倍くらいあるそうです。日本人が英語を苦手とする理由は、覚えなくてはならない音素の数が多いからだ、とする説もあります。

次に、意味(シニフィエ)について考えてみましょう。そんなの簡単だ、と思われるかも知れません。では、日本語で“朝”と言った場合、あなたは何時から何時までの間を想定されるでしょうか。この答えは多分、人によってバラツキがあると思うのです。例えば、“花”と言っても、サボテンなどでは“花”のような“実”のようなものもある。このように、現実の世界には、境界が曖昧な事柄が多いのです。そこで、形容詞を使って“白い花”などと言ったりしますが、厳密に言えば白にも色々あります。従って、言葉によってある実態を100%正確に記述することは、不可能だと言わざるを得ません。

ところで、コミュニケーションを目的として言葉(記号)を使用する場合には、ある条件が必要となります。例えば、日本語で話しかけた場合、聞き手も日本語を理解できる能力を持っていることが必要となります。日本語を理解できるということの意味には、まず、個々の単語の意味が分からなければなりません。また語順など、文法的な知識も必要です。でも、それだけではないのです。例えば、Aさんがタバコに火を付けようとしました。そこでBさんが「子供がいるよ」と言ったとします。現代の日本人であれば、それは「子供がいるから、タバコを吸うのは止めてくれ」という意味だと理解するでしょう。しかし、昭和の時代であれば、子供がいようが女性がいようが、タバコを吸うことは許容されていました。フーテンの寅さんなどを見ますと、大人たちはどこでも平気な顔をしてタバコを吸っています。すると、昭和の時代に生きていた彼らには「子供がいるよ」と言っても、その真意は伝わらない可能性がある。そこでソシュールは、「ある個別言語を使うすべての人々が共通にもっている、同じ文が同じ事柄を表すようにするためのしくみ」を“ラング”と呼んだのです。

(参考文献)
文献1: ソシュールのすべて/町田健/研究社/2004

No. 153 記号の時代としての現代

 

少し話が遡りますが、どうも現代人の関心事は、“記号”にあるような気がしてなりません。また、現代という時代を読み解くために、私は便宜上、“中間文化”という概念を提示させていただきました。これは、精神文化と物質文化の中間に位置するという意味で申し上げたのですが、では、その中間文化の実質は何にあるのか。それは、“記号”ではないか、という発想があったのです。もしかすると、文化を分解していくと、その最小単位は“記号”に行き着くのではないか。だとすれば、“記号”が分かれば文化も分かる。そんな希望も抱いていたのです。

 

現代社会の街並みというのは、記号に溢れている。また、インターネットを開きまと、まずYahooだとかGoogleポータルサイトが表われると思うのですが、そこはほぼ100%、記号によって構成されています。そもそも、コンピューターというのは電子信号を利用して稼働している訳ですが、これも記号です。最近、ユルキャラなどと言われる着ぐるみが流行っていますが、これも記号ですね。

では、“記号”とは何か、という話になる訳で、今、私は「記号論入門」(文献1)という本を読んでいるのですが、75頁まで来たところで、未だに記号の定義についての説明が続いているのです。最も簡略に記載された記号の定義は、次の通りです。「他の何物かの代わりになる何物か」。これでは良く分かりませんが、この話は後日に譲ることにさせていただきます。

 

さて、このブログでは何度か、古代人と現代人の類似性について指摘させていただきましたが、古代人の関心事も現代人と同様に、記号にあったのではないかと思うのです。言葉という記号のシステムを作りつつあった古代人は、動物や植物に名前を付けていった。狩りに出かけた先で、オオカミの匂いを感じる。これは危険を意味している。これも記号の一種です。ある時、村の長老が「オオトカゲと巨大な蚊が結婚して生まれたのが、我々の祖先だ」と言うと、その部族はオオトカゲ・グループとして、他のグループと識別される。これがトーテミズムですが、この識別システムも、結局のところオオトカゲという記号に依拠している。

 

精神文化と言いますか、各時代の人々の関心事を考えてみましょう。古代人の関心事が、“記号”だとすると、中世の人々は想像力により記号を体系化し宗教を作った。やがて、ニーチェダーウィンが宗教を否定し、近代思想は民主主義という理想を掲げた。

 

古代・・・記号
中世・・・宗教
近代・・・民主主義 (国民主権基本的人権の尊重、平和主義)
現代・・・???

 

ここで言っている民主主義というのは、多様な人間同士、共に生きようとする近代の人々が生み出した思想のことです。しかし、いつまでたっても、理想的な民主国家というのは実現しない。例えば、最近アメリカの教会で銃の乱射事件があり、26人が死亡するという事件がありました。これに対してトランプ大統領は、「犯人は精神疾患を患っていたという情報がある。これは銃規制の問題ではなく、精神疾患の問題だ」と述べていました。私は、この大統領は、どこかの開発途上国の代表者ではないのか、と思ってしまいました。言うまでもなく、現代社会において精神疾患を患っている人間というのは、高い比率で存在する訳です。これをゼロにするのは、銃を規制するよりはるかに困難です。アメリカでさえ、こんなレベルにしかない。

 

宗教と民主主義を失った現代人には、何もなくなってしまった。いや、現代人は古代人と同じように、記号に向き合い始めたのではないか。そうだとすると、現代人は、新たなスタートラインに立っているのかも知れません。例えば、こんなイメージで捉えることができる。私の眼の前に螺旋状の階段がある。私の正面に古代人が立っていて、今、正に階段を上り始めようとしている。同じく、私の正面に現代人が見える。彼も同じ階段を上っている。しかし、現代人は古代人よりも3段階、上に位置している。

 

例えば、現代人は民主国家という全体像を示すジグソーパズルを並べている。しかし、それを完成させるために必要な、あと2つか3つのピースが見つからない。そんな風に考えることもできます。それとも、かつて近代思想が宗教を否定したように、民主国家という概念自体を否定し、更に上を行くような価値観が生まれるのかも知れません。

 

(参考文献)
文献1: 記号論入門 (記号概念の歴史と分析)/ウンベルト・エコ/而立書房