文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 67 小川国夫/葦の言葉(その1)

小川国夫(1933~2008)という小説家をご存じでしょうか。

小川氏は、1933年に静岡県藤枝市に生まれます。小さな宿場町だった藤枝市ではありますが、1879年頃教会が創立され、フランス人の宣教師がやって来ました。そんな環境もあって小川氏は1946年頃、終戦直後ということになりますが、カトリックの洗礼を受けます。1950年、小川氏は東大の国文科に入学しまが、在学中の1953年、フランスのソルボンヌ大学へ私費で留学します。慣れ親しんだ、若しくは尊敬していた宣教師の方々にフランス人が多かったのではないでしょうか。そんなこともあって、フランスを近しく感じていたのかも知れません。この頃、すなわち小川氏が20歳の頃ですが、重いノイローゼに掛かってしまったそうです。後年本人が述懐するに、ゴッホの絵に出てくる様な渦巻模様が見えたそうです。本人は、分裂病であったと自己診断しています。1956年、23歳の小川氏は帰国しますが、東大へは戻らず、執筆活動に入ります。1960年、都内にあった自宅を引き払い、生まれ故郷の藤枝市に移住します。1965年、32歳の時にデビュー作となる「アポロンの島」を執筆し、翌年頃から商業雑誌に登場します。1986年、53歳の時に「逸民」という小説で、川端康成文学賞を受賞し、以後、いくつかの賞を得ています。2008年、80歳で他界します。天寿を全うしたと言えるでしょう。

私が小川氏に興味を持ったきっかけは、ゴッホでした。まず、ゴッホに興味を持ったのです。そして、本屋へ行くとゴッホについて記した本があって、その作者が小川氏だった。そんな経緯だったように記憶しています。このブログでもしばしばゴッホが登場しますが、私のゴッホに関する知識の一部は、小川氏の文献に依拠しています。

 

f:id:ySatoshi:20170126193917j:plain

 

さて今回は、少し個人的な話にお付き合いください。

私は、早稲田大学の法学部に入ったのですが、法律に興味は持てず、ロックバンドに情熱を傾けていました。そうは言っても、ギターで飯を喰える訳がない。それは分かっていました。当時、ロックと私の間には、三つの壁が立ちはだかっていたのです。一つには、言葉の問題。私の憧れていたロックは、全て英語でした。2つ目には、地理的な問題。当時、ロックの本場はイギリスでしたが、私は日本を出たことすらありませんでした。3つ目には、世代の問題。ジョン・レノンミック・ジャガージミ・ヘンドリックスも、皆私よりも上の世代なんです。どうしても超えることのできない3つの壁。それにも増して、ギターの才能がないことは、自分が一番良く分かっていたのです。さりとて、サラリーマンになるのも嫌だった。そのように消去法で考えていくと、小説家になる以外、私にとって人生を切り開く道はない。大学に入りたての私は、そう思っていました。

そこで私は、ロックバンドを続ける傍ら、文芸サークルに加入しました。そこでは、同人誌を出し、読書会もやっていましたが、メインの活動は飲み会でした。そうこうするうちに、私は、文芸評論家の秋山駿(1930~2013)氏と面識を持つようになりました。(秋山さんは先生と呼ばれることを嫌っておられ、“さんづけ”で呼んでいましたので、このブログでもそうさせていただきます。)当時、秋山さんは「内部の人間」などの文芸評論を多く出版すると共に、群像などの文芸誌にも執筆されており、言わば現役バリバリの批評家だったのです。三島由紀夫に絶賛されたこともありました。まあ、私にとっては雲の上の存在だった訳です。そんな秋山さんですが、当時、早稲田の文学部で、非常勤講師をされていたのです。そこで、秋山さんが講義をしている教室に忍び込む。後ろの方に座って、講義が終わるのをじっと待つのです。講義が終わると、潮が引くように文学部の学生が教室を出て行きます。その流れとは反対に、やおら秋山さんの元に近づいて行って、「秋山さん、こんにちは!」と元気良く声を掛ける。この方法を私は、兄から教わったのでした。

早稲田での講義が終わると、秋山さんは次の仕事まで小一時間程、時間が空いていたんです。そこで、文学部の校舎を出て地下鉄東西線の駅に向かって歩いて行くと、途中にパブのような店がある。そこへついて行って、雑談をする訳です。そんなことが何回かありました。
「君、外は寒いだろう。だから、これが欲しくなるんだよ」
秋山さんがそう言って、ウイスキーの水割りを指さしたことがありました。いつも、ホワイトホースだったように記憶しています。確かに外は寒いけれど、温まるなら熱燗の方がいいのにな、とか思いながら、私も同じものを飲んでいました。

ある時、震えあがってしまったこともありました。
「君、“私”というのは不思議なもんだろう」
そう言われたのです。秋山さんが、“私”とは何かを考え続けておられることは知っていたのですが、実は私は、何がどう不思議なのか分かっていませんでした。もちろん「はい!」と元気良く言ってうなずきましたけれども。

こんなこともありました。一緒に東西線に乗っていた時のことです。混雑していて、二人とも立っていたのですが、私は三島由紀夫の「午後の曳航」について、質問したのです。
「君は、どう思うの?」
そう言われたので、私は自分なりの解釈を説明しました。すると秋山さんは、私の胸を指さしてこう言ったのです。
「君、それでいい!」
秋山さんは、にっこり笑って、竹橋かどこかの駅で降りて行かれました。もちろん私は、天にも昇る思いでした。すいません。ちょっと脱線し、自慢話になってしまいましたね。