文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

経験としての芸術

 

人間は実に多様なのであって、互い理解し合える人など、まず、いない。長年つきあった友人や恋人であっても、事情は変わらない。何故だろうと思う訳だが、理由の1つに経験の違いということがある。生まれた時代が違う。場所が違う。性の違いによっても、経験の差異は生じるだろう。

 

元々、持って生まれた性格のようなものもあるかも知れないが、その考え方を推し進めるとヒトラーの優性思想に繋がったりする。私はその立場を採るつもりはない。生まれた時点で能力や性格の差異があるのか、それは多分、現代の科学をもってしても、解き明かすことは不可能なのだと思う。

 

そこでシンプルに、経験が人格を形成すると考えるのが良いと思う。経験の多様性が、人格の多様性を生む。但し、ある程度の年令になると、自分の置かれた立場を自覚するようになる。そして、人は自らの立場をベースに価値判断を行うようになる。例えば、金持ちの家に生まれた子どもは、自民党を支持するようになる。

 

そうは言っても、人間の人格形成の基礎にあるのは、やはり経験だと思う。

 

経験には2種類あって、その1つ目は実体験である。これは、自分が現実世界において実際に経験することだ。私のような高齢者になると、それなりに多くの経験を積んでいる。しかし、それはあくまでも「私」が起点になっている訳だ。私の属性は、現代人であり、日本人であり、男である。そうしてみると、この実体験がいかに幅の狭いものであるか、理解することができる。世の中には、そうでない人の方が圧倒的に多いのだから。

 

経験に関するもう1つの類型は、追体験である。これは、自分以外の誰かが経験したことを後からなぞるというものだ。つまり、この追体験において私は、現代人ではなく、日本人でもなく、男でもない人の経験を学習することができる。そう考えると、追体験が人格形成に果たす役割の大きさを理解することができる。

 

そして、この追体験を可能とするもの、それが芸術だと言えよう。例えば私は、このブログにアイヌ文化のことを多く書いてきたが、その根底には、子供の頃に読んだ「コタンの口笛」(石森延男作)という小説がある。小説を読むと、その主人公に対する感情移入が生じる。小説を読んでいるとき、私は、和人から差別を受けているアイヌの少女になり切っていたのである。そしてこの追体験は、老齢に達した今も、私の記憶に残っている。私の人格の一部を形成していると言っても過言ではない。

 

私を魅了した最初の画家は、ゴッホだった。何かの雑誌の付録だったと思うが、「向日葵」の複製があって、私はそれを自室の壁に貼り、毎日眺めていた。興味が湧いて、画集も買った。画集の末尾には画家に関する解説文がついている。そこにはゴッホゴーギャンの物語が記されていた。ゴッホを捨てたゴーギャンは悪い奴だな、などと2人の人生に思いを馳せた。(注:ゴーギャンは最後まで、ゴッホに手紙を送り続けたのであって、本当は悪い奴ではなかった。)

 

音楽の世界で言えば、私は、マイルス・デイビスを尊敬している。何故かと言うと、マイルスは新しい音楽のスタイルを作っては、自らそれを否定し、更に新しい音楽を生み出し続けたからだ。生涯を通じて、前進することを止めなかった。過去の自分を超えることの難しさと大切さ、それを私はマイルスの人生から学んだのである。ちなみに私は、マイルスに関する伝記をあきれる程、持っており、その全てを通読している。私は黒人差別に反対の立場を採っているが、その理由は、私がマイルスの人生を追体験しているからである。そう言えば、ある黒人が書いた小説がきっかけとなり、黒人差別に反対する気運が生じたという話があった。

 

哲学の世界では、よく「利他」ということが言われる。「利他」とは利己の反対で、自分以外の誰かの利益を尊重しようというメンタリティのことだ。人々を利他に向かわせる原動力は、思想にはなく、芸術にある。

 

芸術とは、文明を構成する4要素、すなわち身体、「知」、権力、主体の中では、主体に属すると思う。民主主義は多数決で決まるので、結局、多くの人々が、その人格を向上させる以外に、改善の糸口はない。現在、特に権力者や、マジョリティを構成する大衆に、芸術の経験が不足している。

 

芸術には、世の中を直ちに変革する力はない。しかし芸術は、文明をその根底から揺り動かす本質的な力を持っている。そこに、わずかでも希望を見出すことはできないだろうか。

 

そう言えば、こんな話を聞いた。日本の童話がフランス語に翻訳され、同国の子供たちが読んでいるらしい。