文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 240 憲法の声(その7) ホッブズの平等論

 

忘れないうちに書いておきます。歴史主義的文化人類学で分かるのは、宗教までの文化でした。これは幾度となく、このブログに書いてきたことです。そして今、私が辿ろうとしている憲法の歴史というのは、宗教以後のことです。すると、両者を足すと、人間の歴史が見えてくるかも知れない。

 

しかし、今、私がすべきことは、ホッブズに関する話を前に進めることですね。

 

さて、ホッブズの時代、魔女狩りはヨーロッパ各地で頻繁に行われていました。文献10によれば、当時、魔女に掛けられていた嫌疑には、次のようなものがありました。

 

・赤ん坊を食べた。
・船を難破させた。
・農作物をダメにした。
安息日に箒に乗って空を飛んだ。
・悪魔と交わった。
・恋人である悪魔を猫や犬に変えた。
・普通の男性にペニスがなくなったと信じ込ませて性的不能に陥らせた。

 

魔女狩りは、まず、拷問から始まる。すると、魔女だとされた女性たちは、嫌疑を認める供述を始める。つまり、虚偽の自白をしてしまう。例えば、次のように。

 

「はい、その通りです。この前の安息日、私は箒に乗って空を飛んでしまいました」

 

そして、彼女たちは火炙りの刑に処せられる。これは、おかしい。と、ホッブズは考えた。ホッブズはまず、言葉の定義から始める。

 

影像/造影/想像・・・対象が除去されたり目が閉じられたりしたのちにも、われわれはなお、見られたものの影像(イメージ)を、われわれが見ているときよりもあいまいではあるが、保持する。ラテン人はこれを“造影”と呼び、ギリシャ人は“想像”と呼ぶ。これは、おとろえつつある感覚に他ならない。これは眠っているときにも、目覚めているときと同様に、見出される。

 

幻影・・・夢の中に現われたイメージ。

 

ホッブズは、リヴァイアサンの第1部第2章(造影について)において、次のように述べる。

 

“夢やその他の強い想像を、幻影および感覚からどのように区別するかについての、この無知が、(中略)今日では、妖精、幽霊、妖鬼について、および魔女の力について、粗野な人びとがもっている見解を、生じさせたのである。すなわち、魔女についていえば、私は、かれらの魔術がなにかほんとうの力であるとは考えないが、それでもかれらが、自分たちはそういう悪事ができるのだという虚偽の信念をもち、それとともに、もしできるならそれをしようという、意図をもつために、処罰されるのは正当だと考えるのであって、かれらの仕事は、技能または学問によりも、あたらしい宗教にちかいのである。”

 

このように述べて、ホッブズは魔女であるとの嫌疑を掛けられた女性たちの自白が虚偽のものであると主張したのです。このようなホッブズの分析は、後年の心理学に通ずるところがあるように感じます。

 

少し駆け足で、リヴァイアサンを見ていきましょう。

 

第3章: 影像の連続あるいは系列について・・・“思考”についての考察

 

第4章: ことばについて・・・“言語学”の原型のようなもの

 

第5章: 推理と科学について・・・論理学的考察

 

第6章: ふつうに情念とよばれる、意志による運動の、内的端緒について。およびそれらが表現されることば〔について〕・・・「勇気」「怒り」「確信」などの言葉に関する定義。国語辞典のような記述が続く。ホッブズは、言葉を定義することの重要性を説いている。(“人の論究が、定義からはじまらないときは、それは、彼自身のなにか別の瞑想からはじまり、以下略”とホッブズは第7章で述べている。)

 

第7章: 論及の終末すなわち解決について・・・論理学的検討。ホッブズは、“論究がことばにされて、語の定義からはじまり、その結合によって一般的断定にすすみ、さらにそれらの結合によって三段論法にすすむ、というばあいに、終末すなわち最後の合計は、結論と呼ばれる”と述べている。ルター、カルヴァンまでが聖書に基礎を置く“物語的思考”であったのに対し、ホッブズは明らかに“論理的思考”を宣言している。ここに思想史上の転換がある。

 

第8章: ふつうに知的とよばれる諸徳性と、それらと反対の諸欠陥について・・・ホッブズは、ここでも宗教的な霊感などを批判的に描写し、理性について、次のように述べている。“獲得された知力(私は、方法と指導によって獲得されたものを意味する)について言えば、それは推理(理性)のほかにはない。”

 

第9章: 知識の様々な主題について・・・・ホッブズは、知識には2種類あると言う。前者は、「事実についての知識」であり、後者は「ひとつの断定の他の断定への帰結についての知識」であって、後者は「哲学者において、すなわち推理をすると称する人にとって、必要とされる知識」であると言う。

 

このように論旨をまとめてみますと、ホッブズがいかに多くの分野に関心を示していたか、ご理解いただけると思います。もちろん、そういう時代的な背景があった。様々な学問はまだ未分化な時代だった訳です。しかし、ホッブズが自ら思考し、様々な難題に取り組んでいたことは明らかだと思うのです。それに比べ現代の学者というのは、自らの専門分野に閉じこもり過ぎているのではないか。憲法学と法哲学は異なると言い、心理学の分野はそれこそ何十にも分化している。現代の学者は専門分野における様々な学説について説明することに長けてはいるが、本当に自らの頭で発想し、考え、主張しているでしょうか。疑問がないとは言えません。

 

さて、ホッブズリヴァイアサンの第13章で、次のように述べます。

 

「人々は生まれながら平等である」

 

ルターの検討から本稿を始めた私としては、この言葉に感動を禁じ得ません。当たり前のことだと思われる方がおられるかも知れません。しかし、ホッブズの時代において、この考え方は当たり前ではなかった。ああでもない、こうでもないとホッブズは夜な夜な考え続けたに違いないのです。では、どういうロジックでホッブズが上記の結論に至ったのか、見てみましょう。ホッブズは言います。

 

“自然は人びとを、心身の諸能力において平等につくったのであり、その程度は、ある人が他の人よりも肉体においてあきらかにつよいとか、精神のうごきがはやいとかいうことが、ときどきみられるにしても、すべてをいっしょに考えれば、人と人とのちがいは、ある人がその違いにもとづいて、他人がかれと同様には主張してはならないような便益を、主張できるほど顕著なものではない、というほどなのである。”

 

ちょっと、ややこしい言い方ですが、つまり、人間の体力や知力には確かに差がある。しかし、その差は、優れている人が特権を主張できる程の差ではない、それ程には違わない、と言っているのです。ホッブズは更に続けます。慎慮は経験に基づく。経験は時間に比例する。そして、時間は全ての人々に平等に与えられる。簡単に言えば、慎慮とは「頭の良さ」のことで、これは経験によって培われるものだ。例えば、年長者は年少者よりも多くの経験を積んでいるのだから、それだけ知識が多くても当然である。そして、経験というのは生きてきた時間に比例するが、その時間というのは全ての人々に平等に与えられるものだ。従って、全ての人々は平等である、という結論になる。

 

上記のロジックが正しいのかどうか、ここでの検討は控えたいと思います。ロジックとしての正しさよりも、そこまで突き詰めて考えたホッブズに、私は敬意を表したいと思うのです。

 

文献10: 暴力の人類史(上)/スティーブン・ピンカー青土社/2015
文献11: リヴァイアサン(1巻~4巻)/ホッブズ岩波文庫/1954