文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 64 ジミ・ヘンドリックス/バンド・オブ・ジプシーズ(その1)

このブログのジャクソン・ポロック(No. 54)のところで、絵画を描く際のオートマティスム(自動記述法)について述べましたが、音楽の世界でも即興演奏というのがあります。意識を低下させて、もしくはトランス状態に持って行って、まさしく演奏する瞬間にフレーズを決める訳です。アドリブとか、インプロビゼーションとも言います。そうやって演奏されたフレーズにこそ、人間の魂が宿る。即興演奏は、主にジャズの世界で発展しましたが、ロック・シーンにも天才がいました。それが、ギタリストのジミ・ヘンドリックス(1942 ~ 1970)なのです。彼を知らないロック・ファンはいないでしょう。ちなみに、ジミは2011年のローリング・ストーン誌が行った「偉大なギタリスト100人」というランキングで、堂々の1位を獲得しています。ジミが死んでから41年もたっているのに、彼を超えるギタリストというのは、現れていないんですね。

さて、そもそも即興演奏などということが本当に可能なのか、という問題があります。1960年代の後半にクリームというバンドで延々とギター・ソロを繰り広げていたエリック・クラプトンが、インタビューに答えた映像が残っています。クラプトンは、いくつかの基本となる短いフレーズ(“リック”と言います)があって、それを組み合わせて弾くのがインプロビゼーションだ、と述べています。これは、ジャズの世界でも概ね、同じことが言えそうです。ミュージシャンなら誰でも、言わば手癖のようになっているお気に入りの短いフレーズがある。それらを組み合わせて弾く。なんだ、そういうことだったのかと、この映像を見た私はがっかりしたものです。

しかし、昔、ジミの演奏をコピーしようとした時のことなのですが、私はふと思ったのです。このキーでこの音っていうのは、あり得ないなと。どういうことかと言うと、音楽には音階というものがあって、その曲のキー(調)やコード(和音)に従って、使える音というのが決まるのですが、ジミのソロには音階を外れた音が含まれていた。私の知識が不足していたのかも知れませんが、その時は、確かにそう感じたのです。つまり、ジミは即興演奏を行う際に、音階にも、リックにも頼っていない。実際に、演奏の時々で、心に浮かんだフレーズを弾いているのではないか。

そんなジミの即興演奏の最高傑作は何かと言うと、それが1969年の大晦日から翌年の元旦に掛けて行われたライブ演奏で、バンド・オブ・ジプシーズというCDに収められているのです。中でも、“マシンガン”という曲が最高だということは、マイルス・デイビスがそう言っているので、間違いないでしょう。

 

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簡単に、ジミの生涯を振り返ってみましょう。

ジミは黒人とインディアンの混血で、サウスポーです。もう、これだけでロック・スターの素質がありそうですね。兵役にも行っていて、パラシュート部隊に配属されていたようです。除隊後もアメリカで、黒人のグループに入って音楽活動をしていました。すると、彼に目を掛ける人が現れて、イギリスに渡り、バンドを組みます。多分、アメリカでは黒人のミュージシャンしか見つからなかったのではないでしょうか。そして、黒人だけのバンドでは、マジョリティである白人に受けないという事情があったものと思われます。

1966年9月に渡英したジミは、早速オーディションを行います。白人のミッチ・ミッチェルがドラマーに、そして、同じく白人のノエル・レディングがベーシストに選ばれます。この3人で、エクスペリエンスというバンドを結成し、同年の10月から活動を開始します。ジミのステージには、ビートルズストーンズのメンバーのみならず、クラプトンやジェフ・ベックなども駆け付けたようです。もう、そういう連中がジミの演奏にはぶっ飛んでしまったんですね。クラプトンは泣きそうになるし、ジェフ・ベックは廃業しようかと考えたそうです。

そして、ポール・マッカートニーの強力な推薦を得て、ジミは1967年6月にカリフォルニア州のモンタレーで開催されロック・フェスティバルに出演します。この時、ステージ上でギターに火を付けたこともあって、ジミはアメリカでも一躍有名になります。但し、こういうのは有名になるためのパフォーマンスであって、音楽の本質には全く関係ないと思います。その後、ジミ自身、そんなパフォーマンスに嫌気が差して、ただ自分の音楽を聞いてもらいたいと考えるようになったようです。

No. 63 横光利一の短編小説/時間

人間社会の息苦しさの正体は、実は個人的無意識にあるのではないでしょうか。共感を求める。それが強く作用する場合には同調圧力となる。そして、圧力を受ける人間は、息苦しさを感じる。昼間のファミレスでは、リラックスした女性たちが延々と「だからどうということのない話」をしています。そして夜には、日本中の居酒屋でほろ酔い気分の男たちが、起承転結のない経験談を繰り広げている。そんなことを考えていると、なんだか人間嫌いになってきます。

今回は、そんな私が自戒の念を込めて、横光利一(1898~1947)の短編小説「時間」を紹介させていただきます。

<あらすじ>
旅芸人の一座が、安い旅館に長期宿泊している。しかし、一座の財布を握っていた座長が姿をくらましてしまう。その後も、故郷から送金を受けた者が、一人また一人と、旅館から逃げて行ってしまう。最後に男8人と女4人が残る。宿泊代は、日に日に膨らんでいくが、誰にもそれを払えるだけの資力はない。

一同相談し、これはもう夜逃げをする以外に手はない、との結論に至る。しかし、女の中の一人は重病人で寝たきりである。彼女を置いて逃げようとも考えるが、当の本人はどうしても連れて行ってくれと言う。

ある激しい雨の晩、一同は夜逃げを決行する。病人の女は、男が100歩ごとに交代で背負うことになる。背負われていない女が後ろについて、歩数を数える。傘は3本しかないので、皆がびしょ濡れになる。もともと、満足に食事をしていない彼らを空腹が襲う。やがて、男たちが口論を始める。そして、ある男が「お前はあの女が好きなのだろうが、彼女は既に別の男とできている」などと口走ってしまう。それを発端に、グループ内の恋愛関係が、次々に暴露される。男たちは、殴り合いの喧嘩を始める。女たちも、誰が誰の男を取ったと言い争いになるが、事実が明らかになるにつれ、関係があまりに複雑過ぎて、誰に対して何を怒ればいいのか分からなくなり、口論を止める。男たちも、体力を温存すべきことに気づき、喧嘩を止める。

やがて、崖の中腹に打ち捨てられた水車小屋を発見する。雨をしのぐために水車小屋に入るが、今度は寒さが一同を苦しめる。体を寄せ合って座るが、睡魔が襲ってくる。こんな時に眠ったら死ぬぞ、と誰かが言い、眠りそうになった者を他の者が叩き始める。しかし、叩いた本人も眠りそうになり、半分眠りに落ちた男女12人が、水車小屋の中で殴り合うという奇妙な光景が繰り広げられる。

やがて雨も止み、屋根の隙間から月明かりが差してくる。ある男が「ここは水車小屋だから、どこかに水があるはずだ」と言って、探しに出る。間もなく、崖を下ったところに湧き水を発見する。一同水を飲んで一息入れるが、未だ水車小屋の中に横たわっている病人がいることに気づく。男たちが被っていた帽子を重ねて、そこに水を入れ、病人の元に運ぶことにする。しかし、病人の元に到着するときには、水はほとんど漏れてしまっていて、チョロチョロと落ちるばかりである。11人の男女は、湧き水から水車小屋の間に並んで、バケツリレーのようにして、病人の元へと帽子の水を運び続ける。

ここで、小説は終わっています。

ここには滑稽で、浅はかで、わがままな人たちが描かれています。しかし最後には、そんな彼らに対して作者の優しい眼差しが注がれる。それにしても、横光利一、こんな作品がよく書けたものだなあと感心してしまいます。この作品には、ロジックでは決して説明し得ない何かが、表現されていると思うのです。

No. 62 ジェイムス・コットン/人生の王様

不思議なことに初めて聞くのに、無性に懐かしい感じのする曲ってありませんか? また、初めて行った場所でも、何故か懐かしい感じがする。そんな経験が、私にはあります。

私にとってそんな懐かしい感じのする曲の1つが、ジェイムス・コットンというブルースマンが演奏した“Fever”という曲なのです。ミディアム・テンポでマイナーの曲なのですが、とても胸が締め付けられる。前半では曲のテーマをジェイムスが力強く歌い上げます。後半になるとコーラス部分が繰り返されます。途中からコーラスがハミングに変わり、手拍子が加わります。やがて、楽器の音がフェイドアウトし、ハミングと手拍子だけになり、エンディングを迎えます。

歌詞はと言うと、こんな風に始まります。

お前は、俺がどれだけ愛しているのか分かっていない。
お前は、俺がどれだけ気遣っているのか分かっていない。

どうやら、普通のラヴソングのようですね。タイトルにもなっている“Fever”という単語は、直訳すると熱とか発熱という意味ですが、ドラッグを意味する黒人のスラングではないかと思って調べてみたのですが、そのような意味は見つかりませんでした。まあ、歌詞は別として、私はこの曲には、集団で厳しい労働につきながら歌っている労働歌のようなイメージがあります。

さて、ジェイムスに話を戻しましょう。彼は、1935年にアメリカで生まれた黒人です。まだ存命で、今年82歳になります。

彼は子供の頃からブルースに惹かれ、有名なミュージシャンにハモニカの手ほどきを受けたそうです。ちなみに、ブルースの世界ではハモニカのことをハープと言ったりします。ブルース・ハープ! これはとてもカッコイイんです。私も憧れて、何本か買って、練習したことがあります。とても小さなもので、穴は10個位しかありません。これを手のひらの中に隠すように持って吹きます。基本的なテクニックとしては、吸い込む時に唇をずらすんですね。すると音程が下がる。(これを確かベンディングと言ったように記憶しています。)ところが、穴の数が少ないので、音階全ての音が出る訳ではない。普通にドレミファを奏でることができないのです。従って、ブルース・ハープを吹く時には、演奏したいフレーズを考えるのではなく、ハープで吹けるフレーズを考えなければならない。とても不便な楽器なんです。私は、すぐに挫折しました。

そんなブルース・ハープをジェイムスはマスターします。そして、1957年、22歳になったジェイムスはマディー・ウォーターズという有名な人のバンドに加入します。多分、スラム街をほっつき歩いて、仕事を見つけてはハープを吹いて、日銭を稼いでいたのではないでしょうか。

そして、1974年、39歳になったジェイムスは、“100% Cotton”というアルバムを出します。これは、よくシャツについているタグに「木綿100%」という記載があったりしますよね。それに彼の名前をなぞらえたもので、ほとんど冗談のようなタイトルなのですが、これが彼の出世作となります。そして、冒頭に述べました“Fever”という曲は、このアルバムの最後に収められているのです。ミュージシャンとしては、遅咲きですね。苦労したに違いありません。

 

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私は、“Fever”のような曲を聞きたい一心で、ショップで見かけるとジェイムスのCDを買い続けました。結局、“Fever”のような曲はありませんでしたが、ジェイムスの作品にはどれも上質のブルースが詰め込まれていて、失望することもなかったのです。何よりも、彼の力強いボーカルと神業のようなハープを聞くことができる。

そしてある日、彼の“Deep in the Blues”というアルバムに出会います。この作品では、1曲目から驚かされました。ジェイムスの声が枯れているのです。どうもジェイムスは喉頭ガンを患ってしまったようなのです。しかし、その声の枯れ具合がブルースにぴったりなのです。死にそうな男が、壊れかけた喉を振り絞って、あたかも辛かった自分の人生を説くように、ブルースを歌う。一切の無駄をそぎ落としたようなハープにも、何か、究極の形を感じるのです。幸い、この作品でジェイムスはグラミー賞を受賞しました。1996年、ジェイムス61歳の作品です。

「ジェイムス、君は人生をブルースとブルース・ハープだけに捧げたんだね」
例えば、そう尋ねるとします。すると彼はこう答えるに違いありません。
「そうさ。でも俺の人生において、他にすべきことなんて、何もなかったのさ」

No. 61 心のメカニズム(その5)

前回の原稿で、ゴッホは“共感タイプ”で、ゴーギャンは“観念タイプ”であると書きました。ゴッホの方は、多分、皆様も納得していただけると思うのですが、ゴーギャンについて、何故、私がそのように考えるのか、ちょっと補足させていただきます。最大の理由は、彼の描く絵に、記号というか象徴のようなものが多く含まれているからなんです。例えば、黄色いキリストとか、何か意味深な登場人物とか動物が描かれている。特に、“我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々は何処へ行くのか”という作品は、観念に満ちています。作品の右端には赤ん坊が描かれ、中央では青年がリンゴの実を取ろうとしている。これは、アダムとイブの話を暗示している訳です。そして、左端には死を待つような老人が描かれている。作品のタイトルからしても、また、絵画の構成からしても、観念的なんです。

さて、今回はもう少し“心の課題”について考えてみたいと思います。どうも、いくつかのパターンがあるような気がするのです。

“共感タイプ”の人は、共感が得られない時に絶望してしまう、という例があります。ゴッホも、ジョン・レノンもそうだったと思います。時代も分野も違いますが、この2人は本当によく似ている。余談ですが、年上の女性が好きになってしまうところまで、同じなんですね。ゴッホも3番目の恋(10歳年上の女性)が実っていれば、あるいは・・・などと思ってしまいます。

次に“観念タイプ”の人ですが、こちらはちょっと複雑だと思うのです。時代背景や、育った環境にもよりますが、ある程度人間を歴史的に、また、集団として考えた場合、どうしても宗教の問題に突き当たります。そして、宗教を肯定した場合、その人は比較的高い確率で、心の課題に直面しないで済みそうです。一方、何らかの理由で、宗教を否定する、もしくは宗教に対して消極的な態度を取る場合、どうやら“心の課題”に直面してしまう確率が高いように思うのです。それは、人間にとって根源的な問い、すなわち、人間は何故生きているのか、人間が生きていることの目的は何か、という問いにぶつかってしまうからではないでしょうか。すると、実は、人間には存在理由も、人生の目的もない、という結論に達する。なんだ、人生には何の意味もないのだ、と思う訳です。すると、その人はニヒリストになります。

ドストエフスキーの“悪霊”という作品にも、そういう人物が描かれているんです。キリーロフという登場人物で、思いあぐねた結果、無神論者になります。そして、最後は自殺してしまうのです。嫌ですね。

しかしながら、このブログを振り返ってみますと、かく言う私も、ちょっとこのパターンに近いことに気づかされます。このブログの冒頭で、“文化の積み木シリーズ”を掲載致しまして、言葉から始まる文化の生成プロセスを分析した訳ですが、最終段階では、宗教という問題に直面してしまった。そして、自分としてそれを積極的に解するのか、消極的な態度を取るのか、迫られた訳です。観念というのは、言葉、すなわちロジックですから、こういう問題にぶつかると、どっちにするのか自分なりに答えを出さざるを得ない。これはもう、“観念タイプ”の習性なんです。そして、私は宗教に対して消極的な態度を取ることに決めました。すると、「文化の誕生」なんて、偉そうなタイトルでブログを立ち上げたにも関わらず、その検討結果が「全ての文化は幻想である」なんてことになりそうだった訳です。当時の原稿を読み返してみますと、逡巡している様子が見て取れます。そこで考えたのが、宗教だけが文化ではない、ということでした。文化には、もう一つ、芸術という大きな柱があるだろうと。

宗教を否定してニヒリズムに陥るというパターンは、ドストエフスキーの時代からある訳で、もしかすると近代以降の思想というのは、ニヒリズムがスタートラインなのではないかと、今ではそう思っています。ドストエフスキーがキリーロフを描いて、そこからニーチェにつながったとも言われているようです。

では、ニヒリズムの次にどうなるのか、ということですが、これにもパターンがあります。

パターン1: 虚無観に陥る。
パターン2: 人間には存在理由がないことを承知した上で、自分の人生を頑張る。
パターン3: 享楽主義者となり、何事も楽しければ良いと考える。

いかがでしょうか。実は私、上記の3パターン、どれも嫌なんです。折角の人生、虚無感に浸っているのはもったいない。高度成長期でもないし、今さら頑張りたくない。享楽主義というのも、実は、むなしいのではないか。そこで、今の心境と致しましては、宗教以外の文化、それを何と呼ぶべきか分かりませんが、それで遊ぶということなんです。この問題はまだ未消化でもあり、今回はまだ、確定的なことを述べるのは控えておきますが、もしかすると、これがこのブログの本当のテーマなのかも知れません。

No. 60 心のメカニズム(その4)

前回までの原稿で、人間の2つのタイプを定義しました。一つは、感覚から出発して、意識を獲得する。そして、個人的無意識を抑圧しながら、現実をあまりかえりみることなく、記号や観念の世界に埋没してしまうタイプ。このような人をこのブログでは“観念タイプ”と呼ぶことにしました。そして、心の課題を抱え込んで“直観”すなわち集合的無意識に至った人は、“観念タイプの芸術家”ということになります。音楽の世界では、マイルス・デイビスが代表例かと思います。ジャクソン・ポロックもそうではないでしょうか。あれだけ絵画を生み出すための方法論にこだわった訳で、彼の心の中は観念に満ちていたように思います。

もう一方のタイプは、同じく感覚から出発して、現実と良く向き合い、他者との間に共感を求める。但し、この共感関係が崩壊したり、コンプレックスが刺激されたりすると、個人的無意識が意識を凌駕する場合がある。このタイプの人を“共感タイプ”と呼ぶことにしました。そして、集合的無意識のレベルまで達した“共感タイプの芸術家”としては、まず、ジョン・レノンが思い浮かびます。同じくロック・ミュージシャンのジャニス・ジョップリンジミ・ヘンドリックスもこのタイプだと思います。

では、人間同士がいかに分かり合えないかという事例として、今回は、ゴッホゴーギャンの共同生活について考えてみます。

ゴッホ・・・・・共感タイプの芸術家
ゴーギャン・・・観念タイプの芸術家

まずゴッホ(1853~1890)ですが、どうも彼の恋愛経験は、悲惨を極めたようです。最初の恋はゴッホが二十歳の時で、下宿先の娘に求婚したのですが、「冷たく鼻の先であしらわれた」そうです。28歳になったゴッホは、2度目の恋をします。相手は従妹だったのですが、4歳の子供を持つ未亡人でした。なかなか会ってもらえず、とうとうゴッホは相手の家に押しかけます。そして、彼女の両親の前でランプの炎に手をかざして愛を誓うのですが、気絶した後、放り出されたそうです。今風に言うと、ストーカーですね。3度目の恋は、31歳の時で、相手はゴッホより10歳年上の女性だったそうです。しかし、家族に反対された彼女は、自殺してしまいます。これは、相当ひどい経験ですね。こういう経験が、個人のコンプレックスを生むことは、想像に難くありません。

一方ゴーギャン(1848~1903)は、株式仲買人をしながら、23歳から日曜画家として少しずつ絵を描き始め、25歳の時に結婚します。そして、35歳になったゴーギャンは、突如として、会社を辞め、画家を志すのです。本人としては、画家として食べていくことに勝算があったようですが、現実は厳しく、極貧生活が続きます。奥さんも大変な苦労をされたようです。

2人の共同生活は、1888年10月20日に始まります。

ゴッホは、画商をしていたテオという弟に経済的な援助を受け、アルルに一軒家を借ります。この建物の外壁は黄色だったそうです。ゴッホはここを「芸術家たちの楽園」を作るための拠点にしたいと考えていたようです。そんなある日、ゴーギャンが病気を患っていることを知り、ゴッホは彼を呼び寄せようと思います。一説によると、ゴーギャンは乗り気ではなかったのですが、ゴッホと共同生活をすれば、画商のテオが自分の絵も買ってくれるのではないかと考え、ゴッホの申し入れを受諾したとのことです。

1888年12月23日、二人の口論は熾烈を極めます。

私の想像ですが、ゴッホはあくまでもゴーギャンに共感を求めたのだろうと思います。自分と同じように感じて欲しい、自分を理解して欲しいと、ゴッホは切実に願った。ゴッホの性格からして、これは相当強く、ゴーギャンに接したものと思われます。一方、ゴーギャンにしてみれば、自分が築いてきた絵画に関するロジックについては、絶対的な自信を持っていた。ゴッホがどう考えようが、ゴーギャンにしてみれば、そんなことはどうでも良かったはずです。ゴーギャンは、共感など求めてはいなかった。ゴーギャンにとって大切なのは、自分のロジックだけだった。そして、口論については“観念タイプ”のゴーギャンの方が一枚上手だったはずです。

遂に、共感関係が瓦解したと感じたゴッホを彼の個人的無意識が支配し始める。詳細は分かりませんが、ゴッホゴーギャンを殺そうとしたそうです。そしてその晩、ゴッホは自らの耳を切り落とす。

あくまでも現実と自然に向き合ったゴッホ。その後、タヒチへ渡って未開の心を追求したゴーギャン。どちらも天才ですが、その心の領域は、全く違っていたと思うのです。

No. 59 心のメカニズム(その3)

少し、言葉の定義が必要かも知れません。現在、私が考えているのは、思考=意識、そして感情=個人的無意識 ということになります。ここから先は、極力、意識、個人的無意識という用語に統一しましょう。

また、個人的無意識は、共感を求める作用とコンプレックスの双方から成り立っている。この共感を求める作用というのは、自分の意見なり感覚なりに同意を求める、ということです。私はこう感じている、だから、あなたにも同じように感じて欲しい、ということです。男女間であれば(例外もありますが)、恋愛に発展する場合もある。悪い例では、同調圧力となる場合もありそうですね。有形無形の圧力となって、自分の、若しくは自らの属する集団の価値観や感じ方に同調するよう、圧力を掛ける。共感が生じている場合は、親密な人間関係を醸成します。しかし、ひとたびこの共感関係が崩壊すると、それは嫌悪感や憎しみに変化する。この作用のことを今後は、“共感システム”と呼ぶことにしましょう。

感情 = 個人的無意識 = コンプレックス + 共感システム

観念タイプの人にも、当然、個人的無意識はあります。人間ですから、人生経験を積むに従って、思い出したくないような出来事は起こります。そして、コンプレックスが生まれる。しかし、このタイプの人は、個人的無意識を抑圧して生きている。だから、個人的無意識が意識を凌駕することは滅多に起こらない。ある意味、システムとして見た場合、単純なのかも知れません。

一方、往々にして、個人的無意識が意識を凌駕してしまうタイプの人が存在します。チャート図の右のルートに該当する人です。このタイプの人を、便宜上、“共感タイプ”と呼ぶことにします。共感タイプの人は、その人のコンプレックスに抵触するような場面、または共感関係が棄損されたと感じられた場合、個人的無意識が意識を凌駕してしまう。ユング派の人は、女性にこのタイプが多いと考えておられるようですが、女性のみならず男性にもこのタイプが多い、というのが私の意見です。実際、昭和のガンコ親父、というのは無数に存在しましたよね。何か意見を言うと、「理屈を言うな!」と怒鳴って、チャブ台をひっくり返す。もしくは、家族に対して暴力をふるう。こういうのはサイテーだと思いますが、共感タイプだと思います。

以前、職場でこんなことがありました。2人の女性がいて、私が不用意にも一方の女性を褒めた時のことです。その直後、他方の女性が絶叫したんです。驚いて彼女の表情をうかがったのですが、青ざめているというか、茫然自失というか、そんな表情をしていました。そんなことをする女性ではなかったので驚きもひとしおでしたが、今にして思えば、私の言葉が彼女のコンプレックスを刺激し、彼女の個人的無意識が突如として意識を凌駕した。そうとしか、考えられません。その時は彼女自身、何故叫んでしまったのか、理解できなかっただろうと思います。幸い、時間と共に、落ち着きを取り戻しましたが。

皆様は、「男はつらいよ」(フーテンの寅さん)をご存じでしょうか。分かりやすいと思うので、共感タイプの代表選手として、寅さんに登場してもらいましょう。

寅さんは、本音では団子屋をやっているオジサン、オバサンに感謝していて、本来であれば自分が店を継がなければいけないと思っています。しかし、実際の職業はテキ屋です。そこに心のわだかまり、すなわちコンプレックスがあります。そして、隣の印刷工場の社長さんが、寅さんのコンプレックスを刺激するような発言をしてしまいます。すると、寅さんは激怒して、喧嘩になってしまう。

また、このドラマには必ずマドンナ役の女優さんが登場しますね。そして、彼女はだいたい「寅さんに会えて良かった」というようなことを言う訳です。喜んだ寅さんは、マドンナに惹かれていく。そして、団子屋の面々と食事を共にしたりして、共感関係が醸成されます。しかし最後は、マドンナに別の男が現れたりして、共感関係は一気に瓦解します。

ところで、個人的無意識が意識を凌駕する時というのは、上述のように突然やってくる場合が多いようですが、そうでない場合もあると思うのです。それは、リラックスしている時のことです。以前、テレビか何かで「女性は、だからどうということのない話をする」という説を聞いたことがあります。確かに、女性はリラックスしている時に、そのような話をする傾向があるようにも思います。例えば、こういうことがあった。だから、どうということはない。しかし、それは女性に特有のことではなく、共感タイプの男性にもその特徴が見受けられます。特に、お酒を飲んでいる場合です。ほろ酔い気分でリラックスする。意識が低下し、個人的無意識が首をもたげて来る。このような場合、彼の話に、起承転結はありません。話のオチもありません。いくつかの事例を挙げて、そこに共通する一般的な原則を述べるとか、そんなこともないのです。ただ、彼はひたすら自分の経験を述べるのです。聞かされる方はたまったものではないのですが。

いずれにせよ、共感タイプの寅さんが、愛すべき人物であることに疑いの余地はありません。

No. 58 心のメカニズム(その2)

まず、前回掲載致しましたチャート図の概要をご説明致します。

一つの前提として、人間の心というものは、経験などの外的要因に伴って、少しずつ発達していくのではないか、ということがあります。赤ん坊の状態を考えると、まず、感覚から出発する訳です。次に赤ん坊が何をするかと言うと、少しずつではありますが、言葉を覚える。この言葉によって状況を認識し、“思考”するという機能が、すなわち、意識ではないかと思うのです。更に、経験を積むに従って、他者とのつながりを求めると共に、心の中にわだかまりのようなものが生まれて来る。この、何か引っ掛かるもの、それがコンプレックスだと思います。コンプレックスとは、必ずしも劣等感だけを指す言葉ではありません。これら、すなわち共感を求める作用とコンプレックスによって、“感情”という機能が構成される訳ですが、これがすなわち、個人的無意識であろうと思うのです。誰しも、“思考”と“感情”という機能は有していますが、常に“思考”が優先して機能する人(チャート図の左側のルート)と、特定の場合において“感情”が“思考”を凌駕する人(チャート図の右側のルート)がいます。そして、解決することの困難な心の課題に直面する、別の言い方をすると心に圧力や衝撃が加えられると、人間の心的レベルは更に下降し、若しくは全体的に機能し、“直観”という作用に至る。このレベルが、集合的無意識だと思うのです。こう考えてみますと、ユングのタイプ論と分析心理学の双方を矛盾なく合体させることができると思うのです。

“感覚”と“直観”については、既にこのブログのNo. 43からNo. 48で述べましたので、今回は、“思考”と“感情”についてのみ考えてみます。

ところで、覚醒している間、すなわち眠っていない間、皆様の意識はどうなっているでしょうか。私の場合は、音楽が鳴っているか、そうでない時には言葉で何かを考えています。何故か、そうせざるを得ないんです。よく、座禅を組む時には心を無にしろと言いますが、ちょっと私にはできそうもありません。で、何を考えているかと言うと、大体、このブログに書いているようなことを考えている訳です。改めてそう考えてみますと、ちょっと異常な気もします。

このブログのNo. 3でもちょっと紹介致しましたが、記号論というのがある。人間は記号を通じて世界を認識し、思考しているという考え方です。そうだと思いますが、横断歩道を渡る時のことを例に、私は、人間は記号と現実の双方を見ている、と述べました。すなわち、路面に白色で描かれた横断歩道は記号ですし、信号機の色も記号です。しかし、記号だけでは心配なので、横断する前には実際に車が来ないか、左右を確認しますよね。これは、現実を直接見ていることになります。しかし、私のように四六時中、言葉で、しかもある程度抽象的なことばかりを考えているようなタイプの人間は、実はあまり現実を見ていないのかも知れない。そんなことを思っていると、最近、ショッキングな事例が2つありました。

数か月に1回、若い人との飲み会があります。私はいつも生ビールから始めて、日本酒に移行します。大体、それで終わるのですが、前回は飲み放題のお店だったのです。いい加減飲んだところでお店の人がやって来て、ラストオーダーの時間だと告げました。それじゃあ最後に何かもう一杯飲もうということになって、焼酎系のメニューを覗いていた時のことです。その時、隣に座っていた女性がこう言ったのです。「ウーロン杯ですか?」。その瞬間、私の意識は個人的無意識まで低下し、記憶を辿ったのですが、そう言えば数か月前にも同じような状況があって、その時、私は確かにウーロン杯を飲んだ。彼女は、そのことを覚えていたとしか、考えられない。これって、凄くないですか?

もう一つ。現役のサラリーマンだった頃、よく通ったクリーニングのお店がありますが、引退後はその必要もなくなり、かれこれ1年程、遠ざかっていました。しかし、オープンシャツが溜まってしまったので、先日、そのクリーニング店に行ったのです。お店の人は、多分、パートタイムで、曜日や時間帯によって代わります。お店に入るなり私は、1年もたってるので顔見知りの人はいなくなったんだなと思ったのですが、受付の女性が「ああ、山川さんですね」と言うのです。私の方は顔も覚えていなかったのに、その女性は私の名前まで憶えていた。これも、凄くないですか?

こんな話をして、私と同じように「それは凄いな」と思われる方は、もしかすると私と同じタイプなのかも知れません。一方、「そんなことは、往々にしてあり得る」と思う方は、多分、きちんと現実に向き合われているのではないか。

実は、ここに“思考”という機能の正体があるのではないでしょうか。言葉やその他の記号の世界に生きてる人は、現実をあまりよく見ていない。他人に対する感心が薄い。ロジックなどと言うと少し、偉そうに聞こえるかも知れませんが、ロジックとは、言葉そのもののことではないでしょうか。自分の知識や経験の中から一定の事柄を引っ張り出し、つなぎ合わせて、言葉で考える。これが、“思考”だと思うのです。ただ、“思考”と言うと偉そうに聞こえるかも知れませんので、このブログでは、このタイプの人を“観念タイプ”と呼ぶことに致しましょう。