文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 167 ”記号密度”という考え方

 

大晦日には、新年のカウントダウンで、渋谷の交差点に若者が溢れかえったそうです。本日、1月2日には、初売りセールでデパートが賑わっているそうです。イスラエルでは水不足で、嘆きの壁に向かって雨乞いの儀式が行われているそうです。皆、“意味”を求めているんですね。かく言う私も、“意味”を求めて、このブログの記事を書いています。

 

さて、文化の進化というものは、なかなか見え難いものです。特に、人生経験の少ない若者たちにとってはそうでしょう。しかし、私のように61年も人間稼業をやっておりますと「世の中随分変わったものだなあ」などと思う訳です。何が変わっているのか。まず、精神文化はどうか。これは、1947年に日本国憲法が公布されて以来、その歩みを止めているように思えます。次に物質文化ですが、これは各々の文化物質が、その機能性を向上させ、各段の進歩を遂げた。この点、異論のある人はおられないでしょう。しかし、中間的な文化と言いますか、芸術・エンターテインメントの世界が、一番変わったような気がするのです。そして、この変化は人々のメンタリティをも変えてしまった。その理由を考えているうちに、“記号密度”という言葉を思いついたのです。

 

例えば、様々なデータをパソコンに記録させる際、そのボリュームが気になりませんか。テキストデータ(文字)であれば、気にする程のこともありません。しかし、これが画像(写真)になると、結構なボリュームになります。更に動画となりますとデータ量が多く、取り込み過ぎますとパソコンが重くなったりします。そしてパソコンという文明の利器は、明らかにそのデータボリュームを増加させる方向で進歩している。このパソコンの傾向と、中間的な文化の進化の傾向は、リンクしていると思うのです。

 

私たちは、より新鮮で、刺激的な記号を求めてきた。見慣れた風景、日常的に接している文化物質など、そこから私たちが強い刺激を受けることはありません。だから、人々は時として旅に出る。より刺激的な、記号を求めていると思うのです。次に、記号の量ですが、これも私たちは、より多くの記号に接することを望んでいると思うのです。この記号の質と量を表わす用語として、“記号密度”という言葉を使わせていただきたいと思うのです。これは、次の式で表現できます。

 

記号密度 = 記号の質 × 記号の量

 

例えば、まずラジオ放送があって、白黒テレビができる。やがて、カラーテレビが普及した。明らかに、記号密度が高まっている。更にゲームになると、そこに自らが参加することによって、記号がより刺激的なものとなる。このように考えますと、若者たちがゲームにハマってしまう理由が分かります。圧倒的に、記号密度が高いのです。

 

もちろん、本当にそれでいいのか、という気持ちが私にもあります。例えば、記号密度は低いけれども、人間にとって基本的な行為類型の一つに、文章を読む、話を聞くというものがあります。これはソシュールが指摘した通り、“線状性”を持っている。すなわち、あたかも一本の線のように、言葉が指し示す単一の意味を順に追っていく訳です。これは、記号密度が低い。しかし、そもそもロジックというのは、この線状性を有する言語表現でなければ、表現することができません。ロジックとは例えば「A = B、B = C、よってA = Cである」というようなものだと思うのですが、これは、写真や動画では表現できません。

 

線状性を持った言語表現の一つとして、小説があります。小説は必ずしも、ロジックを表現するものではありませんが、そこにはストーリーを語る視点というものがあります。これには一人称と三人称とがありますが、どちらの場合においても、ある状況の中で登場人物が何をどう感じて、どう行動するか、ということを追体験していく訳です。そのような体験を通じて、すなわち小説を読むことによって、人間は他人の心の中を垣間見ることができるのです。

 

私の場合は、もう50年も前に読んだ小説の影響を未だに受け続けています。例えば、それは石森延男氏が書いた「コタンの口笛」という作品であったりする訳です。これは、児童文学と呼ばれるジャンルの作品です。コタンというのは、アイヌの村のことで、主人公はアイヌ人の少女だったように記憶しています。その少女が和人から差別を受けたり、時には和人の優しさに接したりする。50年前の私はこの小説を読んで、人種差別は絶対にいけないことだと心に刻んだのでした。人の心を動かす揺るぎない小説の力というものが、ここにある。

 

今の子供たちは、このように優れた小説を読んでいるのでしょうか。だとすれば、こんなにイジメが問題になることもないのではないか。イジメ問題を解決する最善の策は、優れた児童文学を普及させることではないか。そんな風に思ったりもします。

 

また、現在の若者たちというのは、論理的な思考能力が低下しているのではないか。ロボットを東大の入試に合格させるというプロジェクトを遂行している人工知能の専門家がおられます。彼女はある時、簡単な日本語でも人口知能は思わぬ誤解をするということに気付いたそうです。そこで、中高生に同じ問題を与えたところ、中高生の中にも人口知能と同じミスを犯す者が少なくなかった。彼女は、こう言っていました。「人口知能よりも、人間を教育する方が先ではないかと思った」。

 

文章を読まない。だから、論理性が衰え、他人の気持ちを推し量る能力も低下している。そんな若者たちが、増えているのではないでしょうか。

 

問題は、こればかりではありません。仮に、人間が1分間に認知できる記号の数が、10だったとしましょう。そして、昭和世代の若者が暮らしていた環境は、現在よりも記号密度が低かった。すると、どんなことが起こるか。

 

昭和:・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・/記号密度が低い。好奇心は遠くまで
平成:・・・・・・・・・・/記号密度が高い。好奇心は身近で充足される

 

私などの世代は、記号密度が低かった。そして、身近な環境だけで好奇心を充足することができなかったように思います。そこで、ジョン・レノンだとかゴッホだとか、外国の偉人たちにも興味を持った。一方、記号密度の高い環境に暮らしている現代の若者たちは、身の回りだけで十分に好奇心が充足されているのではないでしょうか。言い換えれば、視野が狭くなっている。

 

前回の衆院選における投票率は、53%位だったと記憶しています。つまり、2人に1人は投票に行っていない。政治に意味を見出すことのできない人が、それだけいるということです。これは、若者に固有の傾向とは言えないかも知れませんが・・・。

 

私たちは、時間と空間の中に生きています。確かに現代の若者たちは、昭和世代に比べると、頻繁に海外旅行に出掛けたりします。これは、空間の移動ですね。従って彼らは、空間という意味では、幅広い視野を持っている。しかし時間とは、すなわち歴史だと思うのです。過去の歴史において、誰が、いつ、どこで、何を考えていたか。こういうことを知るためには、やはり本を読む、文章を読むのが一番だと思うのです。

 

“線状性”から離れ、記号密度を高め続けてきた結果、現代の若者たちは論理性、想像力において衰弱しており、視野も狭くなっている。これは“退化”ではないのか。それとも、私たちの尻尾が退化してなくなったように、退化も進化のうちなのでしょうか。

 

私がこのブログでどんなにボヤいた所で、上記の傾向に歯止めが掛かるはずはありません。これからも、芸術・エンターテインメントの分野は、記号密度を高める方向で進化していくでしょう。問題は、このような若者たちのメンタリティにおける“退化”の先に何が待っているのか、ということかも知れません。

No. 166 記号と文化

今回は、一つのテーゼを提出させていただき、その内容について考えてみることに致します。そのテーゼとは、次の一文です。

 

人は記号を通して意味を発見し、
 記号に働きかけて意味を創り出す。

 

ポイントとなる用語が2つ出て来ます。一つには“記号”であり、二つ目は“意味”です。これらの用語を定義づけることは大変困難ですが、私なりに向き合ってみたいと思います。

 

思うに記号とは、言葉、標識、音、色彩、形状、人間の表情や仕草、行動などであって、何らかの対象を代理して、人間によって認知されるものである。また、人間は特定の個人や人間集団、その他の事柄を記号によって認知しているのであって、記号とはそれらを識別するための手段である。

 

ちょっと、複雑ですね。簡単に言えば、記号とは何らかの対象を代理している。この対象とは、物質のみならず抽象的な概念なども含みます。いくつか例示してみましょう。

 

種別 - 記号   - 対象
言葉 - リンゴ  - 赤い果物
標識 - 道路標識 - 交通ルール
音  - サイレン - 非常事態の発生
色彩 - 赤信号  - 止まれという命令
形状 - 流線形  - スポーツカーの性能
表情 - 微笑む  - 楽しいという心理状態

 

次に“意味”とは何か。私は、この言葉をあまり抽象的に考えてはいません。例えば、何の変哲もないある平凡な1日がある。しかし、人間はこの1日にクリスマスという意味を付与する。そして、これは自分に関係があると思う人はプレゼントやケーキを買ったりする。他方、私には関係がないと思う人には、クリスマスは何の意味ももたらさない。こういうことではないでしょうか。すなわち、全ての記号が意味を持っている訳ではない。

 

例えば、本屋さんの本棚の前に立っているとしましょう。本の背表紙には言葉が書かれています。これらは、全て記号です。しかし、全ての本の背表紙が私たちに何らかの意味をもたらすかと言えば、そうではありません。例えば、背表紙に刻まれている文字が、あなたの知らない外国語だったとしましょう。この場合、その記号はあなたに何ら意味を持つことはありません。まず、記号がある。そして、その記号は、理解可能であるか、というフィルターに掛けられる。これが、ソシュールが言ったラング(言葉の意味や文法など)であり、パースが言った解釈思想だと思うのです。例えば、私にはクラシック音楽を理解するという素養がありません。従って、例えば喫茶店でそのような音楽が流れていたとしても、私の心が反応することはないのです。

 

私たちは、街を歩いていても、部屋の中に居ても、記号に囲まれて生活しています。私たちの周囲は、記号だらけです。しかし、その中から、まず理解できない記号というのは私たちの認知システムに入ってこない。そして、私たちは理解できる記号の中から、更に記号を選別していると思うのです。その記号は、自分に対し、何らかの価値をもたらすか。価値が認められれば、私たちはその記号に反応する。中には、赤信号など私たちに危険を知らせるような記号もあります。これも危険を回避できるという観点から言えば、このような記号にも価値があると言えそうです。

 

このように無数の記号の中から、まず解釈可能な記号を選別し、次に自分との関係で価値のある記号を抽出する。こうして選ばれた記号を通じて、私たちは“意味”を発見するのだと思うのです。冒頭に記したテーゼの前段は、ご理解いただけたでしょうか。

 

人は記号を通して意味を発見し、
 記号に働きかけて意味を創り出す。

 

では、後段に移りましょう。人間の衣食住に貢献する物質文化に意味を見つけるのは簡単です。文化物質というのは、全て、機能を持っている。だから、その機能が意味と同義だと言えます。ボールペンなら文字を書くことができる。コーヒーなら飲むことができる。しかし、衣食住だけで、換言すれば物質文化だけで、人間が生きてきた訳ではありません。なんとかして、不思議な自然現象を理解し、死者を悼み、病気や怪我などに対処する必要があった。そこで、人間は記号に働きかけて、意味を創り出してきた。記号論の立場からすれば、それが精神文化の本質だと言えるような気がします。では、例を挙げましょう。

 

人間は、自然現象などを理解するために、言葉という記号に働きかけ、“神話”を作り、意味を付与してきた。

(このブログでは長らく“物語”という言葉を用いてきました。神話とは、例えばギリシャ神話のように、実際、神々が登場する物語を指すのではないかと思ったからです。しかし、世間一般では、特に神々が登場しない物語も“神話”と呼んでいるようなので、この言葉を使うことにいたします。)

 

人間は、動植物を記号として用いることによって、集団のアイデンティティーを確立してきた。これが“トーテミズム”である。(オオトカゲ・グループなど)

 

人間は、何らかの願いを叶えるため、モノを記号化し、“呪術”を行ってきた。

 

呪術は、その後の宗教や芸術に大きな影響を及ぼしてきました。未だに占いなどは、流行っています。ここでは典型的な事例として、呪いの藁人形を検討してみます。

 

対象・・・殺したいほど憎い人
記号・・・藁人形。対象を代理する。
行動・・・五寸釘を刺す
意味・・・呪い

 

これは、次のように表記できそうです。

 

対象 + 記号 + 行動 = 意味

 

もともと、記号に意味はないのです。そこに上記のようなプロセスを経て、意味を付与している。ただ、全ての事例が上の図式に従っているとは言えません。てるてる坊主の場合は、もっと簡単です。

 

記号・・・てるてる坊主
行動・・・軒下に吊るす
意味・・・翌日の好天を願う

 

記号 + 行動 = 意味

 

このようにいくつかのバリエーションがあると思いますが、そこに登場するキーワードは、数個ではないかと思っております。

 

さて、神話、トーテミズム、呪術と来ましたので、先を続けましょう。

 

精神文化の一種で、“祭祀”ということがあります。これは祭りや儀式のことです。祭祀において人間は、自らを記号化していると思います。ファッションや刺青がその例です。記号化された人間が、神輿を担いだり、踊ったりする。祭祀を行うためには、これらがとても重要なんだと思います。祭りの時には大体、お揃いのハッピや浴衣を着ます。結婚式や葬式では、皆、正装しますね。

 

記号(服装) + 行動 = 意味

 

そして、今まで述べてきました神話、トーテミズム、呪術、祭祀などを体系化したものが、“宗教”ではないでしょうか。このように精神文化は、人間が創り出した意味に溢れている。

 

では、現代人は未だに意味を求めているのでしょうか。私は、そうだと思います。一見、意味のない若者の行動などを観察しますと、やはり、そこには意味がある。例えば、ハロウィン。多くの写真が示しているように、ハロウィンでは、友人たちが集まって、同じような格好をしています。ということは、同じような格好(記号)をして街を練り歩く(行動)ことによって、彼らは友情を確認しているんだと思います。

 

日馬富士暴行事件を繰り返し報道するワイドショー。視聴者は、記号化された登場人物の誰かに自らの立場を投影して、意味を感じているのだと思います。

 

このブログでは、古代と現代の奇妙な符号について、何度か述べて来ました。その理由も、分かるような気がします。すなわち、意味の体系である宗教が花盛りだったのは、中世です。古代においては、まだ、体系化の途中段階にあった。すなわち、古代人というのは、記号を通じて、意味を創り出す途上にあった。一方ダーウィン以降、宗教は下火となり、日本のような先進国の現代人は、宗教に強い意味を感じなくなった。すなわち、意味を失ったと言えるのではないでしょうか。だから、意味を見つけにくいという観点から、古代と現代には共通点がある。

 

古代・・・宗教が完成しておらず、意味を探していた。
中世・・・宗教が意味を提供していた。
現代・・・宗教が衰退し、意味が喪失した。

 

現代に生きる私たちにとっては、新たな意味を発見する、または新たな意味を創り出すことが課題だ、と言えそうです。

ちょっと雑談

前回の原稿に書き洩らしてしまいました。パースは、「人は、記号である」と述べましたが、このテーゼは正しいか。答えはNOだと思います。パース自身が、人間の心の中の現象について、3つのカテゴリーを示していますが、その中で記号が関係するのは第3次性だけだと述べています。すなわち、第1次性、第2次性において、記号が登場する余地はない。よって、記号であるのは第3次性だけだということになります。人は、記号なくして物事を認識したり思考したりすることができない。こういうテーゼであれば、もちろん私も賛成致します。

 

前回の原稿で本文献(パースの記号学)から、次の箇所を引用させていただきました。

 

「パースはつまり宇宙におけるいっさいの事象をカオスから秩序へ、偶然から法則へ、対立から統合への弁証法的習慣形成の過程において見る宇宙進化論者であり、その進化論には絶対精神へと止揚されるヘーゲル的な弁証法的精神進化の過程を思わせるものがある。」

 

私はヘーゲルについて詳しくありませんが、彼の述べた“絶対精神”というのは、キリスト教における“神”の概念に近いのではないかと推測しています。そうしてみると、ヘーゲルの“弁証法的精神進化の過程”というのも、実は、キリスト教的な発想が根底にあるのではないか。神がいるのだから良い方向に、すなわちカオスから秩序に向けて進化するはずだ、と考えたのではないか。そうしてみると、このような考え方に合理的な論拠があるのか、私は懐疑的にならざるを得ません。カントにしてもヘーゲルにしても、ダーウィン以前の人たちです。従って、彼らの文献なり思想を検討する際には、その点を割り引いて解釈する必要がありそうです。好意的な見方をしますと、彼らは宗教による思想上の制限を受けながら、なんとかそれを乗り越えようと格闘していたのかも知れません。カントとヘーゲルの影響を強く受けていたパースについても、同じことが言えると思います。

 

宇宙の話が出たついでに、現代物理学者の見解をちょっと紹介致します。かつて、宇宙は原子1個よりも小さかった。そこに全ての質量とエネルギーが集中していたように思いますが、本当のことは分かっていないようです。そして、138億年前にビッグバンが起こる。その時のエネルギーによって、宇宙は膨張し続けている。かつては、この膨張がやがて止まり、その後、宇宙は収縮するだろうと考えられていました。しかし、1998年に宇宙が膨張する速度は、昔よりも速くなっていることが分かった。このまま加速度的に膨張を続けていくと、いずれは冷たくなって、宇宙では何も起こらなくなってしまう。これをビッグフリーズと言うらしいのです。まあ、ご心配には及びません。ビッグフリーズが起こるのは相当先のことだと言われています。50億年後には太陽が燃え尽きるそうですので、多分、こちらの方が先でしょう。

 

ヘーゲル宇宙論よりも、私は、現代物理学の方を信じています。そして、朝目覚める度にこんな風に呟いてみるのです。「何てラッキーなんだろう。まだ、宇宙は凍り付いていない!」

 

ところでYouTubeを見ておりましたら、人口知能に関する討論番組をやっていました。宇宙の話よりも、こちらの方が現実的です。既にあちこちの分野で、人口知能やビッグデーターが活用されているようです。これはもう、回転寿司のシャリが機械によって握られている位で、驚いている場合ではなさそうです。ただ、人口知能と言いますか、コンピューターの仕組みに関する説明を聞いておりますと、何となく理解できるんです。そこで使われていた用語は、“記号”であり、“記号が指し示すもの”であり、“意味”であったりする訳です。この観点からすれば、パースの記号学は、先駆的な試みだったことが分かります。

 

また、私としてはパースの“記号過程”という考え方には、共感しております。すなわち、人間が何かを認知し、思考するプロセスを記号、記号が指し示すもの、そして、記号を解釈する素質、という3つの要素で考えた。但し、どうもパースは3という数字にこだわり過ぎていた。現象についても3つのカテゴリーで説明している。その理由は、ヘーゲル弁証法にあったのでしょう。(弁証法も3要素で成り立っています。)ただ、私は3という数字にあえてこだわる必要はないと思っています。認知、思考とくれば、その後に行動(反応)という概念を加えても良い。そうすると、概ね、このブログのNo. 156に記しました私なりの試論(実体、記号、意味、反応)とかなり近いものになります。これらにあと若干の概念を加えれば、概ね、文化の基本構造を説明できるような気もしています。

 

例えば、表象。ゴッホは向日葵など、現実に存在するものを描きました。しかし、ジャクソン・ポロックは現実に存在しないものを描いた。では、ポロックは何を描いたのか。それは彼の心的イメージであって、これを表象というのではないか。そんな見立てもしているのです。

No. 165 記号学のパースが面白い(その2)

パースは、「日常いつでも誰の心にも現われるもの」を現象と呼び、独自の現象学を提示しました。本文献には「現象学はただ、どんな仕方においてであれあるいはどんな意味においてであれわれわれの心に現われるいっさいのものを直接観察し記述し分析し、そこにいっさいの存在の最も普遍的一般的な原理を求めるものである」とあります。そして、パースは現象を3つのカテゴリーに分類したのです。そしてパースはこれらのカテゴリーを「単に論理的関係の概念としてだけではなく、それらを、あらゆる現象の基本的な存在様式として、または普遍的カテゴリーと考え」たのです。今回は、この3つのカテゴリーについて見ていきたいと思います。

 

第1次性
・例: Xは赤い
・例えば「アダムが最初に見た世界」。いかなる区別も立てず、新鮮で、自由で、生き生きしていて、すぐに消えてしまうもの。
・外からの強制もなく、法則にしばられることもなく、理性や思想の制約も受けず、それらのいっさいの関係から解放された自由で自発的な限りない多様性としてのものの在り方。
・記述することのできない未分化なものの在り方。

 

第2次性
・例: XはYを愛する。
・無限定的な第1次性が発展すると分化、2元的な対立が生まれる。
・典型的な概念としては、強制、闘争、衝突、抵抗、作用と反作用、事実、経験など
・現実的な事実の世界。
・例えば、突然の轟音にびっくりするなど、純粋に二極的な関係であるようなものの在り方
・現実性に理性はない

 

第3次性
・例: XはYにZを与える。
・例えば、コミュニケーションは、共通の言語などの媒介がなければ成立しない。このように媒介あるいは中間性の存在様式をパースは第3次性と呼ぶ。
・普遍的、一般的、法則的なものの在り方。
・第3次性とは、二つのものの間の媒介性または中間性を意味する。したがって、第3次性は何よりも記号の表意作用(representation)において、その特徴を顕著に現わす。

 

そして、第1次性、第2次性、第3次性はそれぞれ異なる独自の構造を有しており、第3次性を第2次性に、第2次性を第1次性に、それぞれ還元することはできない、ということになるのです。何か、とてつもない理論のような気がしますが、実はパースの上記の考え方は、ヘーゲル弁証法にヒントを得ています。

 

「パースがカテゴリーを三つに定めたのは多分にヘーゲルの「思想の三段階」 -定立、反定立、総合- から示唆を得ている。」

 

「パースはつまり宇宙におけるいっさいの事象をカオスから秩序へ、偶然から法則へ、対立から統合への弁証法的習慣形成の過程において見る宇宙進化論者であり、その進化論には絶対精神へと止揚されるヘーゲル的な弁証法的精神進化の過程を思わせるものがある。」

 

パースの思想の根底には、人間といえども自然が生んだものだ、だから最終的には自然界、宇宙を支配する法則に従うはずだ、という考え方があるようです。

 

そもそも出発点である“現象”とは、“心の中に現われるもの”だったはずで、そこから私なりに考えてみましょう。

 

まず、第1次性ですが、これは何の拘束も受けない混沌とした心理状態を指していると思います。私たちは“夢”において、このような心理状態を体験していると思います。また、精神病患者の夢と神話に出て来るイメージの関連から、ユングは元型という概念を導きました。そういう、混沌とした心の状態というのは、存在するのだろうと思います。ジャクソン・ポロックがその抽象絵画で表現しようとした世界も、この第一次性に関わるような気がします。

 

第2次性というのは、現実の、物的な世界のことだろうと思います。机の角にぶつかれば痛い。物質というのは、ある空間を独占的に占領しているのであって、そこを侵そうとすると衝突が生まれる。自然界においては、昼と夜、夏と冬などの2項対立があって、それは古代人が強く意識してきたことだろうと思います。現代人もクルマにぶつからないようにとか、無意識のうちにそのようなことには注意を払っている。現実的な2項対立の関係、それが第2次性ということだと思います。

 

第3次性において、初めて記号が登場します。それは媒介的で、中間的なものとして論じられています。この段階において、調和が生まれる。パースはそう考えていたんですね。ということは、記号が調和を生む。そういうロジックの大きな流れをイメージしていたのかも知れません。

 

それにしてもパースは、人間の心の中から自然界の構図まで、たった3つのカテゴリーで説明しようとしたんですね。それが正しいのかどうか、私には分かりません。ただ、その思想のスケールの大きさには感服せざるを得えないのです。

No. 164 記号学のパースが面白い(その1)

私たちは何者なのか。この問いに応えるために、まず、言葉とは何かを考える人々が登場したのだろうと思います。人間は肉や野菜を食べるし、夜には眠る。しかし、これらの行動は、他の動物も同じです。では、人間の特徴とは何か。誰もが思い浮かべるのは、人間が言葉を使って物事を考え、コミュニケーションを取るということではないでしょうか。そうしてみると、目には見えない人間の心の中もきっと言葉に溢れているに違いない。そして、言語学という学問が成立する。しかし、よくよく考えてみると、人間が何かを認知し、何かに反応する際、そのきっかけとなるのは言葉だけではない。例えば、ドアをノックする音を聞いて、私たちは誰かの来訪を知る。雷鳴を聞くと恐怖感を抱く。従って、言葉という概念をもう少し広げて考えた方が良いのではないか。そこで、“記号”という考え方が生まれた。

 

アメリカ人のパース(Charles Sanders Peirce 1839-1914)は、現代記号学の創設者の一人であると共に、哲学者、論理学者、数学者、物理学者、科学者でもあったと言われています。

 

さて、今回の原稿では、主に「パースの記号学/米盛裕二/勁草書房/1981」(以下「本文献」といいます)を参考にさせていただきます。本文献を読みますとパースも大変な人物だったことが分かりますが、負けず劣らず、著者である米盛氏の力量にも感服致しました。河合隼雄氏が日本にユングを紹介したように、米盛氏が日本にパースを紹介したと言われています。学者の仕事というのは、こうあるべきなんだと納得した次第です。

 

本文献によりますとパースの前半生は、幸福なものだったそうです。名門ハーバード大学を卒業し、広く学会で活躍した。しかし、彼の偏屈な性格が災いし、永年求め続けていた大学教授のポストに就くことはできず、48才にして隠遁生活に入った。以下、本文献から引用させていただきます。

 

「後半生はあらゆる職を失って貧困と孤独と病苦のなかで過ごした不運な人であったと言われています。(中略)そして、最後の数年間は一文なしの極度の窮乏と不治の病に苦しみながら、それでもなお最後まで、出版の当てのない難解な学説を書きつづけ、莫大な手稿を遺して、1914年4月19日に世を去った。」

 

偏屈で、孤独で、貧乏で、年老いたパースの顔が思い浮かびます。そして、パースの死後20年がたち、やっとパースの論文集が刊行されたそうです。こういう話に接しますと、何故か親近感を覚えてしまいます。この点はおくとしても、私はソシュールよりもパースの方が面白いと思います。

 

ところで、以前の原稿でパースが「人は、記号である」と述べたことに触れました。この点、パースのロジックは次のようなものだったようです。

 

われわれは記号を使わずに思考する能力を持たない。全ての思想は記号である。
全ての思想は記号であるという事実と、人間の生活は思想の連続であるという事実から、ゆえに人間は記号であるということが証明できる

これを図式にしてみましょう。

 

思想(A)=記号(B)
人間(C)=思想(A)
よって、人間(C)=思想(A)

 

これは論理学上の“演繹”でしょうか。論理的に破たんはしていませんが、本当にそうかなと思われる方が多いことと思います。結論は急がず、先に進みましょう。

 

パースの記号学においては、“記号過程”という概念が提唱されています。パースは「われわれの認識と思考を本質的に『記号過程』としてとらえ」ていたのです。“私たちが記号を通じて何かを認識し思考するプロセス”が記号過程である、と言い換えても良いと思います。そしてパースは、記号過程は次の3つの要素から成り立っていると考えました。

 

(1)記号として働く何かある性質をもったもの
(2)その記号が表意する対象
(3)記号とその対象を関係づける解釈思想

 

上記の3要素は三位一体となっていて、一つでも欠けた場合に記号過程は成立しないとパースは言っています。もう少し、中味を見ていきましょう。まず、(1)については、とりあえず、“記号”であると考えて良さそうです。(2)については、「表意」とは何かという問題があります。この点、本文献の著者である米盛氏は、次のように解説しています。

 

「表意する」とは目のまえにあるものによって目の前にないものに言及すること

 

そうしてみると、例えば「昨日、パスタを食べた」という発言があった場合、目の前にないものとはパスタであり、発言に含まれるパスタという言葉が記号であることになります。よって、(2)で言及されている対象というのも、この場合、パスタであることになります。しかし、この発言を聞いた人は、そのパスタがどんなものだったのか、すなわち味付けがどうで、茹で加減がどうで、ということまでは分かりません。そこでパースは、「記号のうちにその姿を現わす限りのことしか」認識することができない、と述べています。例えば、雷鳴が響く。私たちは、雷だ、怖いなと感じる。しかし、私たちは雷の実体を認識することはできず、音として聞こえる雷鳴、すなわち記号が表わす範囲内のことしか認識できないということです。そこでパースは「存在と記号は同義であり、存在はすなわち記号であり思想である」と述べるのです。これはとても観念的な考え方だと言えます。

 

そして、(3)の解釈思想についてですが、これは「記号が記号であるためにはそれを記号として解釈し使用するなんらかの解釈思想が存在しなければならない」と説明されています。すなわち、単語の意味や文法など、日本語を理解する素養を持った人でなければ、日本語を理解することはできません。そのような記号を解釈するために必要な、話し手と聞き手に共有されているルールのようなものが“解釈思想”であることになります。これは、ソシュールが述べた“ラング”という概念に近いものと思われます。

 

注)本文献におきましては、上記の“解釈思想”という用語と“解釈内容”という用語が用いられています。これら2つの用語は、厳密には意味が異なるようにも思われます。英語表現は、次の通りです。

解釈思想・・・the interpretative thought of a sign
解釈内容・・・interpretant

 

いずれに致しましても、パースの記号過程という概念は、簡単に次のように記すことが可能かと思われます。

 

(1) 記号
(2) 記号が指し示す対象
(3) 解釈者が記号を理解するために要求される素質

 

そして、パースは次のように述べるのです。

 

「すなわちすべての認識と思考は記号過程であり、記号過程は本質的に連続的過程である」

No. 163 カント以降の思想家たち

 

箱根の組木細工を見て物質文化の存在を確信した私は、精神文化と物質文化の中間辺りに、もう一つ文化があることを直観したのでした。そして、それは一般に表象文化と呼ばれているものではないか。そこまで来たのですが、では表象とは何か、手っ取り早く分かる文献はないかと探したのですが、ない。それは長い思想史の中で、哲学的な論題として語られてきたようだ。そして、この問題はカントにまで遡る。よし、ではカントの純粋理性批判を読もう。ということで、私は筑摩書房が出版している石川文康氏が翻訳している版を上下巻ともに購入したのでした。上下巻を合計すると9100円(税別)もしたのです。これは何としても、読破しなければならない。そう勢い込んで読み始めたのですが、難しい。マーカーで線を引きながら読むのですが、どうも頭に入って来ない。後戻りして読み返してみる。ノートを取りながら読んで見る。何故、分からないのか。そうだ、単語の意味が分からないのだ。ということで「哲学中辞典」(知泉書館)(税別5200円)を買ってみました。これは便利! そして、言葉の意味を確認しながら純粋理性批判を読んでおりますと、こんな文章に行き当たったのです。

 

「認識が対象に直接関係するのは直観を通してであり、手段としてのあらゆる思考が向かう先も直観である。」

 

「ある対象が観念能力に及ぼす作用は感覚である。」

 

これって、どこかで聞いた話に似ている。直観、思考、感覚。そうです。これにあと感情を加えると、正にユングのタイプ論になるのです。まさかと思って、夜中に古い本を取り出して見たのですが、やはりそうでした。ユング自伝 I (みすず書房)に、次の記述があったのです。

 

※ 文中の「彼」とは、ショーペンハウアーを指しています。

 

「私は彼をもっと徹底的に研究することを余儀なくされ、次第に彼とカントとの関係に感銘をうけるようになった。私はそれゆえ、この哲学者の著作、中でも『純粋理性批判』を読み始め、それは私を難しい思索に陥らせた。(中略)(カントは)より大きな啓示を私に与えたのであった。」

 

すなわち、ユングはまずショーペンハウアーに興味を持った。そして、ショーペンハウアーが、カントから影響を受けていることを知る。そしてユングはカントの「純粋理性批判」を読み、それはユングにとって、啓示を受ける程の出来事だった訳です。まさか、分析心理学のユングが、カントから影響を受けていたとは、知りませんでした。

 

カント → ショーペンハウアー → ユング

 

一方、記号学のパースは、カント哲学の権威として知られています。そしてパースは、ヘーゲルからも影響も受けています。

 

カント → ヘーゲル → パース

 

何だか、学問の分野を超えて、つながっているんですね。してみると、ある思想家を考える時、その人の系譜みたいなものを考えると、理解が進むような気がします。まずは、一覧にしてみましょう。生年順で並べてみます。

 

カント           哲学       1724 ~ 1804
ヘーゲル          哲学       1770 ~ 1831
ショーペンハウアー     哲学       1788 ~ 1860
ダーウィン         進化論      1809 ~ 1882
パース           記号学      1839 ~ 1914
ニーチェ          哲学       1844 ~ 1900
ソシュール         言語学      1857 ~ 1913
ユング           分析心理学    1875 ~ 1961
柳田国男          民俗学      1875 ~ 1962
今西錦司          自然学      1902 ~ 1992
レヴィ=ストロース     文化人類学    1908 ~ 2009
ミシェル・フーコー     ポスト構造主義  1926 ~ 1984
リチャード・ドーキンス   進化生物学    1941 ~ 存命

 

こうしてみると、ちょっと面白いですね。ユング柳田国男が同じ年に生まれている。皆さん、大体長生きしているようです。レヴィ=ストロースの101才が最長でしょうか。自殺したニーチェは、享年56才のようです。

 

思想家と呼ぶのはちょっと違うかも知れませんが、ダーウィンも入れてみました。その前と後とで宗教観が違っているのではないか、と考えたからです。カントもヘーゲルも、神の存在を信じていたようです。ダーウィン以前の時代のことですから、当然のことだったのでしょう。進化論の関係では、ダーウィンがいて、孤高の存在としての今西錦司がいる。そしてダーウィニズムは、リチャード・ドーキンスに継承された。ドーキンス無神論者になったのも頷けます。

 

文化人類学的な系譜を見てみますと、生まれた年で言えば、民俗学柳田国男が最初ということになります。

 

構造主義を軸に見ますと、まず、ソシュールがいた。ソシュールと言えば「一般言語学講義」というのが有名ですが、これは彼の著作ではありません。これは、ソシュールの死後、ソシュールの講義を受講した学生のノートなどをベースに再現されたものです。ソシュールの着眼点を受け継いだのが、構造主義と呼ばれたレヴィ=ストロースです。しかし、レヴィ=ストロースに反対する人も少なくありませんでした。アンチ構造主義、アンチ・レヴィ=ストロースの人たちが沢山いて、ポスト構造主義と呼ばれるようになった。ミシェル・フーコーもその一人です。この人も表象について語っているので、リストに入れてみました。

 

ソシュールの専門は、記号論と呼ばれる場合もあります。しかし、ソシュール記号学のパースとの交流はなかったようです。2人とも、世間から評価を得たのは、死後のことなのです。パースの論文集は、死後20年たってから公表されました。

 

いずれに致しましても、哲学、論理学、言語学記号学、心理学、進化論、文化人類学などは、その根底で繋がっている。

 

仮に、全部をひっくるめて「思想」と呼ぶことにしましょう。思想というのは、必ずしも、ある方向に向かって一直線に進歩してきたのではないように思います。それは、あたかもダーウィンが唱える自然選択のようであり、無方向にいくつも芽が出て、多くの賛同を得たものがその後に継承されていく。そんな気がします。

No. 162 箱根の組木細工

 

このブログの開始当時、私は、文化と科学を対立概念として捉えていました。「文化は科学に敗北したのか」という原稿も書いております。その後私は、言葉、呪術、祭祀、宗教などの精神文化に関する検討を終えました。そして、ぼんやりと「精神文化というのは目に見えないのが特徴だが、例外的にそこから派生する呪術の産物(藁人形、テルテル坊主、折り鶴など。今後は「呪術物」と呼びます)や芸術作品というものがある」と考えていたのです。そんなある日、テーブルの上にあった楊枝立てが目に止まったのです。

 

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これは、私が箱根に遊びに行った時に購入したものです。埃が入らないので、気に入って使っています。さて、問題はここからです。これは文化だろうか? この楊枝立ては、目に見えているし、触ることだってできる。しかし、呪術物ではないし、芸術作品でもない。確かに木材を丁寧に組み合わせてあって、綺麗な感じがします。しかし、芸術作品とは違う。何が違うのだろう? そうか、芸術作品とは違って、これには楊枝を保管しておくという機能がある。では、これは文化の産物だろうか。少なくとも、科学の産物ではないような気がする。

 

そこで、私はある仮説を立ててみました。この楊枝立ては目に見えているが、このモノ自体が文化なのではなく、その作り方が文化なのだ。そう考えますと、作り方というのは目に見えないので、一応、当時の私のロジックに合致するように思えます。

 

しかし、仮に作り方が文化だとすれば、例えばゴッホの絵は文化ではなく、ゴッホの絵の描き方が文化である、ということになります。では、ゴッホの描いた“向日葵”と“麦畑”の描き方がどう違うのか、説明できるだろうか。もちろん、そんなことはできません。やはり、芸術の本質というのは、その作品にある。

 

このように考えた結果、私は初めて“物質文化”の存在を認識したのでした。

 

その後、ネットで調べてみますと“物質文化”という概念が一般に存在することを知りました。しかし、そこには「物質文化は、芸術作品などを含む」という記載があったのです。そんな馬鹿なことがあるだろうか。例えば、壊れた傘を捨てるように、あなたは誰かがあなたのために折ってくれた千羽鶴を捨てることができるでしょうか。物質文化の産物(今後は、「文化物質」と呼びます)というのは、その機能が失われた時に価値をなくす。しかし、呪術物や芸術作品の価値というのは、機能にその本質がある訳ではない。本質の異なる2つの要素を同じカテゴリーに分類した場合、そこから導かれる結論も間違っているに違いありません。

 

そうしてみると、精神文化、物質文化とあって、もう一つ、第三の文化カテゴリーというものを想定せざるを得ないということに気付いた訳です。更にネット検索を続けますと“表象文化”というものが見つかった。私には、これが第三の文化類型であるように思えるのです。しかし、“表象”(representation)とは何かというのが、なかなか分からない。どうやら、この“表象”とは哲学用語で、その起源はカントにあるようなのです。ということで、カントの純粋理性批判を読んでみることにしました。ボリュームのある本なので通読できるか、自信はありませんが・・・。

 

余談ですが、昨日、「パースの記号学」という本を読み終えました。追って、感想などを記します。