文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 181  1次性についての要約書

1次性から3次性まで、同じ評価項目を設定し、記述してみることにします。なお、1次性から3次性までの関係ですが、同一人物の心の中で、時に協調し、時に対立しているような気がします。それは、社会の中でもそれぞれの文化がそのような関係にあるのと同じだと思います。しかし人によって、それぞれの心的領域が優先、劣後の関係にあると考えるのが自然ではないでしょうか。1次性と呼ぶ心的領域が広い人、反対に3次性の領域が広い人などがおられる。では、以下に記載します。なお、今後、2次性、3次性につきましても、同じ評価項目で、原稿をアップする予定です。

 

動物との関係: 真似る

 

興味の対象: 人間と動物

 

古代の文化種別: 歌う、踊る、着飾る

 

文化の進展プロセス: 歌い、踊ることを中心として、祭りが始まる。祭りは、周辺住民とのコミュニケーションの場となり、次第にその規模を拡大していく。同じ歌を歌う、同じリズムに合わせて踊る。そこから共感が生まれ、集団の結束力が強化される。集団は家族、血縁集団など、比較的小規模なものから始まるが、その後、部族、民族などの規模を経て拡大していく。なお、歌う、踊る、着飾るという行為を見た場合、古代から現代に至るまで、本質的な変化は見られない。

 

現代における文化類型: 祭り。エンターテインメント。歌謡曲やポップスなど。オリンピックなどのスポーツ大会。地上波のテレビ番組。週刊誌。政治的には、集団主義民族主義国家主義など。

 

性的な意味合い: 歌う、踊る、着飾るという行為は、セックスアピールの意味合いが強い。

 

思考形態: 自ら思考するというよりは、他人の作り出した“物語”を信仰する傾向が強い。

 

宗教との関係: 宗教の信者になり易い傾向がある。

 

経験と情報: 集団的な経験を尊重する。祭りに参加するためには、地理的に近い必要がある。よって、情報の伝達は地理的な制約を受ける。

 

心理タイプ: 感情

 

現代社会における人口比率: マジョリティが、この類型に属する。

 

現代政治における投票傾向: 自民党公明党などの与党に投票しやすい

経験と思考

先日、長年顔見知りだった方々に、焼鳥屋へ連れて行っていただきました。メンバーは50代で寡黙な男性と、同じく50代で饒舌な女性。私を含めて3人です。そして、お酒が回るにつれ、女性が身の上話を始めたのです。聞けば、息子さんが2人おられたのですが、うち1人が若い頃に亡くなられたとのこと。すっかり酔って、店を出た時のことでした。その女性が私にこう尋ねてきたのです。

 

「山川さん、神様っていると思う?」

 

ちょっとセンシティブな話題ですし、飲むのは初めての方なので躊躇したのですが、私はこう答えました。

 

「俺は、いないと思うよ。天国や地獄なんてものも、存在しないと思う」

 

後段の天国や地獄の下りは、ジョン・レノンのイマジンからの引用です。こういう、一瞬の判断を迫られた時、ジョンはやはり、頼りになります。すると、女性はこう言ったのです。

 

「そうだよね。神様なんて、いないよね。いたら、私の息子が死ぬようなことはなかった」

 

私は何度も大きく首を縦に振ったのですが、続ける言葉が見つかりませんでした。

 

さて、彼女は個人的な経験に基づいて、「神は存在しない」という大変な思想に至った訳です。なるほど。経験と思考との間には、密接な関係がある。

 

そうしてみると、心的領域論には修正が必要かも知れません。すなわち、私は「2次性」と呼んでいる心の領域が関心を示すものが「物と経験」であると考えてきたのですが、経験は1次性や3次性にも関係している。少なくとも上記の例におきましては、明らかに「経験」が3次性の領域に影響を及ぼしている。

 

そこで、経験とは何かと考えてみますと、これにもいくつかの種類のあることが分かります。まず、1次性に関わるのが「集団的な経験」ではないか。例えば昭和の暴走族は、一緒に暴走行為を繰り返すことによって、すなわち「集団的な経験」を経て、友情を育んでいました。暴走族の1人が、こう述べていました。

 

「俺は暴走族やって良かったと思っているよ。だって、そこで本当の友達ができたから」

 

この発言も、かなり本質を突いているように思います。人は、同じ経験を積むことによって、親和的な関係を築く。経験の先に、人間がいるのだと思うのです。これは、人間と動物に興味を持つ1次性の特質ではないでしょうか。日本の政権与党が、オリンピックに力を入れるのも分かります。これは、国民にとって「集団的な経験」となり得るため、結束力を強める効果が期待できる。

 

次に、物語的思考というのも、実は、3次性ではなく1次性の産物ではないかと思えてきました。物語的思考というのは、その典型は聖書にある訳ですが、同じような例は、日本にも沢山あります。例えば、こんな話があります。昔、日本が日照りに見舞われた。そこで、殿様が最澄に雨乞いを命じた。最澄は雨乞いの儀式を執り行ったが、雨は降らなかった。困った殿様は、空海に同様の命令を下した。空海が雨乞いの儀式を行うと、今度は、雨が降ったというのです。もちろん、こんな話は事実ではありません。しかし、空海を支持する人たちにとっては「だから空海の方が偉いんだ」という主張の論拠になり得る。こういう物語的な思考というのは、集団の結束力を強めるに違いありません。これも1次性ではないか。現代の企業におけるブランド戦略にも、この物語的思考が利用されています。創業者や伝説的な商品に関する物語を強調して、顧客や従業員に対しアピールする。例えば、カルロス・ゴーン氏が日産に来て最初にやったのは、フェアレディーZという日産の伝説的な商品を復活させることでした。また、日産は三菱自動車を買収しましたが、再びゴーン氏は、同社の伝説的な商品であるランエボ(ランサー・エボリューション)を復活させたのです。(エンジンはフランス製だったようですが・・・) このように、物語的思考というのは、現代にも生きている。そこに論理性はありません。この思考形態というのは、どうも3次性とは決定的に異なる。1次性であると考えるべきではないか。

 

次に2次性における「経験」とは、物と自然に関わる経験だと言えないでしょうか。物に関わる魚釣りにしても、陶芸にしても、自然との深いつながりがある。また、バイクに関しましても、その愛好家には2種類あることが分かります。最初の類型は暴走族で、彼らはバイクという物(2次性)と、仲間との友情(1次性)に関心を持っている。他方、中高年のライダーは、山や海などの自然を目指して走る。こちらは、純粋に2次性だけのメンタリティであると解釈できます。

 

そして、3次性においては、冒頭に記した例のように個人的な経験がベースになる。

 

このように考えますと、集団的な経験に準拠する1次性と、個人的な体験に準拠する3次性が対立する理由も納得できます。

 

誠に混乱してしまい、申し訳ありません。整理する意味で、予め評価項目を定め、1次性~3次性まで、それぞれを今後の原稿でまとめ直してみたいと思います。

動物を真似る、食べる、敬う

放送大学文化人類学の講義(第8回)を見ておりましたら、インドには蛇の真似をした踊りがあるとのこと。やはり、ダンスというのは、動物の真似をするところから始まったに違いない。

 

ところで、前回の原稿では、3次性の歴史的な変遷について述べました。アニミズムに始まり、論理的思考に至る4つのステップです。そうしてみると、他の1次性、2次性についても、歴史的な変遷と言いますか、その起源があるに違いない。この点について考えてみた結果、表題の通り、人間の動物との関わり方が3種類あって、それが各々人間の心的領域(1次性~3次性)に対応しているのではないか、という思いに至りました。では、早速ですが一覧にしてみましょう。左から順に、区分、動物との関わり方、典型的な文化形態、興味の対象、特徴を記します。

 

1次性・・・真似る・・・祭祀・・・人間と動物・・・身体的
2次性・・・食べる・・・呪術・・・物と経験 ・・・物理的
3次性・・・敬う ・・・神話・・・概念と論理・・・概念的

 

まず、1次性の“真似る”ですが、これは人間の歌とダンスが動物を真似る所から始まったという見方に基づいています。歌とダンスは、参加メンバーが一定のリズムに合わせて歌い、踊らないと成立しない。やがて人々は集まり、祭りが開催されるようになる。その集団のスケールは、段階を経て大きくなる。このブログにかつて「集団スケールと政治の現在」という原稿をシリーズで掲載しましたが、集団のスケールは最終的には国家規模にまで至る。やはり、この1次性という心的領域にも長い歴史があることになります。

 

次に2次性の“食べる”ですが、言うまでもなく人類は動物を食べ続けてきた。人類はかなり昔から狩猟に用いる武器を発明し、使用してきたのです。ヤリがあり、弓矢があり、そこから人類と“物”の深い関係が始まったのではないでしょうか。動物の毛皮は衣服となる。そして、例えばラスコー洞窟の壁画のように、人類は狩りの成功を願い、呪術という文化を生む。呪術はやがて科学となり、貨幣なるものが発明され、経済活動が活発となる。私がかつて、このブログで「物質文化」と呼んだ領域は、この2次性に他なりません。

 

そして、3次性の“敬う”ということですが、人類はかなり以前から動物を崇めて来たのです。日本の稲荷神社がキツネを祀っているように、宗教の前段階で動物信仰があったに違いありません。宗教によって、例えばブタを食べてはいけないとか、牛は食べるな等、禁食にかかる戒律がある訳ですが、これらも動物信仰に起源があるのだろうと思います。このように、人類は動物に感謝し、頭を垂れて来た。これが、アニミズムですね。

 

やはり、人類の動物に対する態度が3種類あって、それぞれが独自の文化を生んだ。その文化は、そのまま人間のメンタリティを構成してきたのではないか。この考え方に従えば、現代人のメンタリティまで説明することができる。

 

1次性から3次性までの心的領域は、時に調和し、時に対立してきた。例えば、フラメンコというのは、常に女性が踊り、男性がギターなどの楽器を演奏していますね。これが逆だと、やはりしっくり来ません。踊るというのは、1次性の典型です。そして、楽器という“物”を演奏するというのは、2次性だと言えそうです。この例では、1次性と2次性が見事に調和している。現代の捕鯨問題も理解できます。クジラを食べて何が悪い、という日本の主張は2次性で、クジラは食べるなという主張は3次性です。この例では、2次性と3次性が激しく対立しています。

 

キリスト教を例にとって考えますと、まず、讃美歌、聖歌などの音楽がある。また、黒人教会では伝統的にゴスペルが歌われてきて、これが後世のポップ・ミュージックに多大な影響を与えたと言われています。これが1次性ですね。次に、十字架やキリストの像がある。教会という物理的な建物も重要な役割を果たしてきた。これが2次性。そして、聖書がある。これが3次性ということになります。

 

仮に、キリスト教のように3つの要素を兼ね備えたものを宗教と呼ぶとすれば、現代日本の仏教や神道は、宗教と言えない。これらは、呪術だと思います。商売繁盛や、良縁、安産、交通安全などを祈願する。そして、その証としてお札やお守りをもらったりする。

 

では、この心的領域論をユングのタイプ論と対比させてみましょう。

 

1次性・・・真似る・・・感情
2次性・・・食べる・・・感覚
3次性・・・敬う ・・・思考(直観)

 

やはり、対応していると思います。感情というのは、基本的に人間が人間や動物に対して持つ心の働きではないでしょうか。他方、感覚というのは、主として人間が“物”に反応する作用ではないかと思います。おいしいとか、心地よいなど。

 

男女の違いについても、説明できます。1次性が女性的で、2次性が男性的だと言えます。歴史的な事実として、男は狩りに出かけ(2次性)、女は子育てをしてきた(1次性)。ただ、文化人類学的に見ても、性というのは不確かなものであって、入れ替わることが頻繁に起こります。

 

更に、1次性の祭祀は昼間の文化で、3次性の神話は夜の文化だとも言えそうです。

 

どうやら、アイディアの段階としては、私の心的領域論は、これにて完成したようです。これで、文化も、人間のメンタリティも全て説明できる。(多分!)

 

この立場から、現代日本の状況を見てみましょう。まず、地上波のテレビ。これは9割が1次性だと思います。とにかく、人間と動物にしか興味がない。オリンピックをはじめとしたスポーツ番組など。CMもそうですね。人間も動物も登場しないCMというのは、見たことがありません。残る1割の大半は、グルメ番組などの2次性に関わるもので、3次性に関する番組というのは、それこそ放送大学が放映している位のものです。新聞広告で、ある女性誌の目次を見たのですが、これは100%、1次性だけでした。他人の恋愛、不倫、健康問題など。男性週刊誌なども同じです。とにかく、水着姿の女性の写真が多い。これも1次性です。1次性のメンタリティというのは、とにかく他人に共感を求める。これが、しばしば度が過ぎて、強要となり、息苦しさを生む。フィギュアスケートの羽生選手を追っかけているオバサンたちも沢山いるようですが、彼女たちの心的領域には、1次性しかないのではないかと思ってしまいます。子育てをしている間はいい。しかし、子供はいつか巣立っていく。それでも、彼女たちはひたすら人間と動物に興味を抱き続ける。すると、羽生選手を追っかけるか、他人の噂話をする位しか、することがなくなるのではないか。1次性、これが口うるさく、息苦しい世間というものの正体だと思います。

 

選挙における投票行動も分かります。

 

1次性・・・自民党公明党に投票
2次性・・・投票しない無党派層
3次性・・・論理的な野党に投票

 

人間というのは、1次性から始まるものの、物と出会って2次性を獲得し、本を読んで3次性に至る。(そうあって欲しいと私は願っています。)しかし、3次性を獲得した高齢者は、死んでいきます。そして、その代わりに赤ん坊が生まれて、また、1次性から始まる。だから、いつまでたっても、人間の社会というのは進歩しない。

人が論理的思考に至るまで

心的領域論の続きで、少し考えたことを記します。今回は私が3次性と呼んでいる領域がどのように生まれたのか、考えてみます。

 

ちょっと復習しますと、3次性の領域は、「概念と論理」に関心を持ち、その文化的な起源は「神話」ということになります。私が考えている3次性の歴史的な経緯は、次の通りです。

 

1. アニミズム
2. 融即律
3. 物語的思考
4. 論理的思考

 

上記の4つのステップを総称して、「神話的思考」と呼ぶのが良さそうです。

 

アニミズムと融即律については、既に述べましたので、今回の原稿では、3の「物語的思考」と4の「論理的思考」について考えてみます。

 

まず、物語的思考に論理性はあるのか、という問題がありますが、結論から言えば、あると思うのです。誰もが知っている童話「桃太郎」を例に考えてみましょう。

 

桃太郎は、何故、鬼退治に出掛けたのか。これは、鬼が悪さをして村人を困らせていたからですね。次に、サル、イヌ、キジの3匹の動物は、何故、桃太郎について行ったのか。それは、桃太郎がキビ団子を分け与えたからです。更に、桃太郎は何故、鬼を成敗することができたのか。その理由は3つあります。まず、鬼が酒盛りをしていて油断していたということ。また、3匹の動物がそれぞれの特徴に従って、多様な攻撃を加えたということもあります。すなわち、サルは引っかき、イヌは噛み付き、キジは突っついたのです。そして、桃太郎はわんぱく小僧で、喧嘩に強かった。これらの点を考えますと、3段論法とまではいかないまでも、この童話には論理性がある。少なくとも、原因と結果の間の因果関係がきちんと説明されている。これが、物語的思考における一つの典型ではないでしょうか。

 

しかし、物語的思考には、抽象的な概念というものが登場しないんです。すなわち、ある言葉があって、それを定義しなければ伝わらないような事柄、すなわち概念は登場しません。

 

次に、物語的思考との対比で、論理的思考とは何か考えてみましょう。

 

我が国の民法で代表的な条文に709条があります。出だしだけ抜粋してみます。

 

民法709条  故意または過失によって、他人の権利を侵害した者は(以下略)

 

たったこれだけの文章の中に、いくつもの概念が登場します。まず、「故意」「過失」「権利」「権利侵害」などを挙げることができます。実務上、特に問題となるのは「過失」です。これは更に、「損害の発生が予見可能であるにも関わらず結果回避義務を怠った場合に過失が認定される」と説明されます。ここでも、新たな概念が出てきます。すなわち、「予見可能性」とか「結果回避義務」とは何か、ということになる訳です。これらも概念です。

 

このように考えますと、抽象的な概念を用いずに、半ば仮説のような形でストーリーを作るのが物語思考であって、複数の事例をベースに概念を用いてロジックを作るのが論理的思考だと言えるのではないか。

 

桃太郎の例で言えば、桃太郎が勝利してハッピーエンドで終わる訳ですが、もう少し柔軟に考えますと、桃太郎が鬼に敗北する可能性だってある。そういう事例を沢山集めてみる。そして、それではどうするのが一番いいのか、ということを考える。これが、論理的思考ではないでしょうか。桃太郎が勝ったり、負けたりする。それでは、鬼と話し合って共存する方が良いのではないか。すると、共存するためのロジックが必要となり、人間と鬼との権利義務関係の調整が必要となる。そして、概念が生まれる。

 

すなわち、物語的思考というのは個別的であり、個人的であり、歴史的な経験に基づいていないと言えそうです。他方、論理的思考というのは、集団的であり、歴史的な経験に基づいている。従って、論理的思考は物語的思考よりも数段複雑だと思います。

 

現代の社会でこの論理的思考に基づく文化というのは、法律学政治学、経済学、社会学などを挙げることができます。どれも複雑で、難しい。他方、現代の社会で物語的思考に基づく文化の典型は、文学と宗教ではないでしょうか。

 

前記の通り、論理的思考というのは難しい。例えば、現在の日本において、何歳位になれば論理的思考能力を持つことが可能になるでしょうか。もちろん、置かれた環境や個人差はありますが、平均的に言えば、二十歳でも難しいような気がします。もっと言えば、現在の日本において、論理的思考能力を持った人というのはどれ位いるでしょうか。多めに見積もっても30%程度ではないかと感じます。何故かと言えば、この問題は、選挙における投票行動に直結していると思うからです。大体、論理的な主張を行っている野党の得票率が30%位ではないでしょうか。また、そのような政党の活動に積極的に参加しているのは、人生経験を積んだシルバー世代の方々が多い。反対に、若い世代が安倍政権を支持している。

 

森友学園問題、加計学園問題、準強姦事件、スパコン問題、裁量労働制などが現在、日本の政治シーンにおいて問題視されていますが、どの事例も簡単ではない。関係する概念に照らして、事実を評価しなければ、正しい意見は持てない。そして、これらの問題の本質を理解できない若い人たちが、安倍政権を支持しているのではないか。そう思えて、なりません。裁量労働制に関する政府案が了承されれば、残業代カットのターゲットとなるのは若い世代だと思うのですが・・・。

Damselさんからの詩的なコメントについて

思い起こせば、私がこのブログを始めたのは、2016年の7月でした。間もなくDamselさんからコメントをいただき、Damselさんが運営されているブログに私のブログのリンクを貼っていただけることになったのです。以来、今日に至るまで、Damselさんのブログをご覧になり、そこからリンクを経て私のブログへ訪れてくださる方が多くいらっしゃいます。Damselさんには、感謝の言葉もありません。

 

このブログで最初に扱ったのは、歴史主義的(時間の流れに従って見る)文化人類学的な考察だった訳です。しかし、そのような見方をしますと、文化の終着点は宗教であるという結論になってしまう。これは当初私が予想していなかったもので、大変困ってしまった訳です。そこで、「天国も地獄もない」と歌うImagineを思い出し、ジョン・レノンに関する原稿をシリーズで掲載し始めたのでした。するとDamselさんからコメントを寄せていただき、聞けばDamselさんもジョンを敬愛しており、しかもジョンが射殺された現場であるニューヨークのダコタ・ハウスまで行かれたとのこと。これには、びっくりしました。以来、どこか私に似ている所があるような気もして、興味深くDamselさんのブログを拝見してまいりました。

 

ブログを拝見する限り、Damselさんという方は、キリスト教に造詣が深く、ブライアン・ジョーンズと、エスプレッソと、Fujifilm X 100Fというカメラをこよなく愛している。

 

ちなみに、ブライアン・ジョーンズとは、ローリング・ストーンズの初代リーダーで、ストーンズはブライアンが作ったバンドだったのです。ブライアンとミックとキースの3人は、汚い安アパートに同棲し、3年やってダメだったら諦めようと話していたそうです。ブライアンは楽器の才能に恵まれ、ギターの他にもシタールやハープ(ハモニカ)を演奏します。ちょっと曲名は忘れてしまいましたが、ブライアンのブルースハープは、黒人の大御所にも引けを取りません。と言うか、私としては、世界一のハーピストだと思っております。また、最近になって、ストーンズのルビー・チューズデイという曲でブライアンがリコーダーを吹いている姿を見たのですが、これも衝撃でした。彼は本当に、楽器の才能に恵まれていた。しかし、ストーンズはその後、ミックとキースが曲を書き始める。そして、バンドの主導権も徐々に彼らに移っていく訳です。そんな折、決定的な事件がモロッコで起こるんです。モロッコにはブライアンと彼の恋人だったアニタ・パレンバーグとキースの3人で行ったのです。しかし、そこでアニタがブライアンを裏切る。彼女はキースとできてしまったのです。そして、アニタとキースはブライアン一人をモロッコに残し、帰国してしまう。

 

ありあまる音楽的な才能をもてあましていたこともあって、ブライアンはドラッグに溺れていきます。ストーンズの映画、ロックンロール・サーカスの頃には、一応ギターを持って立ってはいますが、ほとんど演奏できないような状態だったようです。そして、なんとかストーンズを前進させるべきだと考えたミックとキースは、ブライアンをストーンズから除名しました。その直後、ブライアンは非業の死を遂げる。自宅のプールに浮かんでいたのです。ちなみに、ブライアンの自宅の過去の所有者は「熊のプーさん」の原作者だったそうです。

 

ちょっと話が脱線してしまいました。まだ、ご覧になったことのない方は、是非、Damselさんのブログを訪れてみてください。アドレスは、次の通りです。

 

1023.blog.so-net.ne.jp

 

さて、私の昨日の記事にDamselさんからとても詩的なコメントをいただきました。私なりにお返事のようなものを書いてみたいと思います。

 

まず、前段の記載については、多分、私の考え方と同じだと思うのです。世界はただ「ある」だけで、そこに意味はない。世界にも寿命があって、世界はやがて消え去る。まず、太陽が燃え尽き、その後も宇宙は膨張し続けて密度が限りなく希薄となり、凍りつき、消える。人類が生まれた理由も、人類に「課せられた最終目的」もない。私もそう思っております。

 

かつては聖書が説明していた事柄も、ダーウィンが「種の起源」を書き上げ、ニーチェが「神は死んだ」と宣言し、合理的には信じられない時代になった。

 

一言で言えば、ニヒリズムということではないでしょうか。多分、Damselさんも私も、ニヒリストということになると思います。では、現代のニヒリストは、どの道に進むべきなのかと言うと、いくつかの選択肢が示されているように思うのです。まず、レヴィ=ストロース。かれは野生の、と言いますか未開の精神に戻れ、と主張しているようです。次に、科学的な事柄は理解した上で、それでもキリスト教などの宗教に帰依すべきだという考え方。しかし、時計の針は戻せないというのが私の立場です。

 

さて、人類にも、私たち個人にも、存在理由も目的もない。そのことを前提として、どう生きていくかということが問題だと思うのですが、私の記号原理という考え方におきましては、もともとないものではあるけれども、意味を発見せよ、意味を創出せよ、ということになります。大半の人たちは、人生において宝くじにも当たらないし、オリンピックの金メダルにも縁がない。ノーベル賞を受賞することもない。だから、大した意味など、発見できない。それでもいい。

 

次に、私の心的領域論ですが、これは人の心の領域を1次性~3次性に分類するものですが、これはどうやら人間の心の発展段階を示唆している。最近、そう思うようになりました。誰もが1次性から出発する。そして、2次性を経て、3次性に到達する。私だって、若い頃はロック・ギタリストだった訳で、概念や論理とは無縁の生活をしていました。1次性、すなわち身体性の世界に生きていた訳です。やがて、経験を経て”物”に出会った。そして、概念と論理の世界、すなわち3次性の領域に突入する。身体の衰えと同時に1次性の領域は、いつの間にか衰退していた。そんな気がします。そこで、2次性に回帰すべきではないか、と今は考えています。順序を並べてみましょう。

 

1次性 → 2次性 → 3次性 → 2次性(回帰)

 

何か、私の人生は、上の図に示したような経路を辿っているような気がするのです。そこにどんな意味があるのかと問われると、私も困るのですが。

 

特に3次性というのは、概念と論理の世界ですから、その思考対象は自分自身よりも社会的な事項、政治的な事項に向きがちです。しかし、世の中というのは、矛盾と馬鹿馬鹿しさに充ちている。もうそんなことには疲れた。そう思った人が、換言しますとそれなりに心身ともに疲れた人が、帰っていく領域。それが、物と経験の世界ではないかと。

 

私は時折、Damselさんを羨ましく思っています。ご自宅にエスプレッソを精製する機械をお持ちですよね。そして、フィルターなどを交換され、その機械をピカピカに磨き上げる。そういう”物”と向き合う時間というのは、素晴らしいのではないでしょうか。やがて作業を終え、抽出したエスプレッソを飲む。コーヒーカップの底に、きっと人生の意味が潜んでいる。

 

いつだか、Damselさんのブログでは、聖母マリア様の像の写真が掲載されていました。私は、これも2次性だと思います。像がマリア様を象徴している。こういう像を大切にするというのも、素晴らしいことだと思います。

 

とても回答にはなっていませんね。すいません。感想まで。いつも有難うございます!

文化人類学 テレビ講座お知らせ

地上波のテレビで、放送大学というチャンネルがあるのはご存知でしょうか。

 

現在、シリーズもので20時45分から「文化人類学」の講座が放映されています。放送日は、曜日に関わらず毎日のようです。本日は第8回です。私は、なるべく見るようにしております。文化人類学にご興味のある方には、お勧めです。

 

また、同じく地上波でEテレというのがあります。これは多分、以前のNHKの教育テレビだったと思います。しばらく前に「100分で名著 レヴィ=ストロース 野生の思考」という番組が放映されていました。録画を再度眺めていたところ、面白い話がありました。

 

レヴィ=ストロースはかつて、哲学を専攻していたそうです。そして、大学の研究室で例えば「アプリオリな認識とは、どのように可能なのか」というようなことを考えていたそうですが、嫌になったそうです。そして、転機が訪れ、文化人類学に出会い、そこから彼の人生は開けてきた。彼の著書「悲しき熱帯」にそういう記述があるそうです。

 

この「アプリオリな認識」というのは、経験に基づかない純粋な認識という意味で、これは純粋理性批判の中でカントが主張していることだと思われます。しかし私たちには、経験から離れて何かを思考するということが本当に可能なのでしょうか。これは正に哲学的な命題である訳ですが、そういう観念的なことを考え続けることに意味があるのでしょうか。何だか、カントの純粋理性という考え方は、私の文化論にはあまり関係がないような気がしてきました。

 

それよりも、私にとってはイワム族の話の方が余程、面白い。イワム族の話、まだ読んでいない本が1冊あるのです。

No. 180 命名、心的領域論

昨日から、ミック・ジャガーのソロアルバムを聞き続けています。アルバムタイトルは、Goddes in The Door Wayというもので、中でもDancing in The Starlightという曲が、頭にこびりついて離れません。たった一曲のロックナンバーが、人生の全てを教えてくれているような気がします。

 

さて、前回のシリーズで述べてまいりました1次性から3次性にいたる人間心理と文化に関する説ですが、これを心的領域論と命名させていただくことにしました。これと記号原理の2つの論理で、私の文化論の骨子は固まったように感じております。表象文化についての検討は終えていませんが、多分、明確なロジックというものはないのではないか。人間の持つ心的イメージを具現化したものが表象文化と呼ばれているのだと思いますが、それでは文化に関する意味ある解体がなされているとは言えない。私の心的領域論の方が、正確に人間と文化を分析している。僭越ではありますが、今は、その確信に似たものがあります。

 

簡単に振り返ります。

 

1次性というのは、人間の身体性に関わる心の領域であって、そこには性や暴力、非論理性が秘められている。この心的領域を反映したのが、祭祀である。人はこの心的領域に駆られて、歌い、踊る。そして、人間集団の中で自らの位置を獲得するために、人は着飾り、化粧をし、時には入れ墨を施す。人はこのように、自らを記号化することによって、他人との関係性を模索しているのだと思います。この1次性という心的領域は、人間の動物的本性に由来しているものであって、生命力そのものを司っているに違いない。

 

2次性という心的領域は、人が外界と幸福な関係を持とうとするところに本質がある。人は、長い歴史の中で経験を通じて、物と親和的な関係を持つ術を学んだのだ。その一つには、物に願い込めるという文化形態があって、これが呪術である。次に、物に何かを象徴させるということもある。何かを象徴させた物を大切にすることによって、人は心の平安を得る。物との関係で言えば、遊びもこの心的領域に属しているに違いない。

 

3次性という心的領域の起源は、死者に対する恐れにあったはずだ。それがアニミズムであり、これを契機に人は思考するようになった。様々な自然現象や、自分達の生い立ちなど、人々は考え続けた。そして、融即律という直観に依存する思考方法に至る。これが更に進化し、人々は神話を生み出す。神話というものは、一見、無茶苦茶なように見えて、その底流には論理がある。その論理構造にチャレンジしたのが、レヴィ=ストロースだった。但し、物語性によって思考しようとする習性は、現代にも生きている。例えば、現在、オリンピックのニュースで持ちきりですが、そこには必ずと言って良いほど、メダリストたちの物語がついて回る。前回のオリンピックではメダルを逃した選手が、いかに立ち直って今回の成果につながったか。怪我をどのように克服したのか。これらの情報というのは、実は、事実だけを述べているものではない。神話的な手法によって、人々はメダルの意味を理解しようとしているに違いない。

 

現代にも生きているとすれば、それは「神話的思考」と呼ぶよりも「物語的思考」と呼んだ方が適当かも知れない。実は3次性に関して、お詫びがあります。当初の原稿で、私は「誰もが3次性を持っている」と述べてしまいましたが、前回の原稿では「誰もが3次性を有している訳ではない」と記載しました。正確に言えば、多分、誰もが3次性という領域を持っている。ただ、それは融即律であったり、物語的思考である場合がある。それらを越えた純粋論理を有している人は、少ないという意味です。

 

純粋論理という言葉も、本当は「純粋理性」と言いたいところです。とにもかくにも、純粋理性批判を読んだ上で、この言葉を使わせてもらいたいと思います。

 

1次性から3次性までの心的領域があって、それぞれの領域を作動させるのが記号原理だと考えれば、論理が整合すると思います。

 

ところで、ユングの分析心理学では、(表層)意識、個人的無意識、集合的武意識の3層構造によって人間心理が説明されています。私の心的領域論の1次性は、集合的無意識に、2次性は個人的無意識に、それぞれ類似しているようです。そして、(表層)意識は、私の説では記号原理に取って代わります。すると、心的領域論の3次性について、ユングは述べていないことなりそうです。そう言えば、ユングは神話を集合的無意識との関係で位置付けていました。

 

なお、記号学のパースに対する最大の批判は、「生涯を通じて、体系的に考えることができなかった」点だと言われています。体系がないとは、あの時に述べられたことと、今回述べられたことが矛盾している、ということだと思います。この批判は、このブログにもそのまま当てはまります。体系がない・・・。

 

日々の思索の過程をそのまま記載してきたので、そのような結果になるのは当然のことです。しかし、公式のものだけでも、180本もの原稿を掲載してきた訳で、記号原理と心的領域論なる考え方に到達したのも事実です。読者の皆様には、寛容なご判断をお願いする次第です。

 

さて、些細なことでも構わないので「意味」を発見しろ、または「意味」を創出しろ、というのが記号論のメッセージでした。そして、2次性への回帰を目指せというのが、心的領域論の主張です。

 

私自身、今後、「意味」を探しに出掛けるか、2次性への回帰を目指すのか、それとも記号論と心的領域論を統合した「文化論」の完成を目指すべきなのか、思いあぐねています。よって、しばらくブログの更新は休むことにさせていただきます。ただ、何らかの心境の変化が生じた場合には、このブログで報告させていただきます。

 

有り難うございました。