文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

動物を真似る、食べる、敬う

放送大学文化人類学の講義(第8回)を見ておりましたら、インドには蛇の真似をした踊りがあるとのこと。やはり、ダンスというのは、動物の真似をするところから始まったに違いない。

 

ところで、前回の原稿では、3次性の歴史的な変遷について述べました。アニミズムに始まり、論理的思考に至る4つのステップです。そうしてみると、他の1次性、2次性についても、歴史的な変遷と言いますか、その起源があるに違いない。この点について考えてみた結果、表題の通り、人間の動物との関わり方が3種類あって、それが各々人間の心的領域(1次性~3次性)に対応しているのではないか、という思いに至りました。では、早速ですが一覧にしてみましょう。左から順に、区分、動物との関わり方、典型的な文化形態、興味の対象、特徴を記します。

 

1次性・・・真似る・・・祭祀・・・人間と動物・・・身体的
2次性・・・食べる・・・呪術・・・物と経験 ・・・物理的
3次性・・・敬う ・・・神話・・・概念と論理・・・概念的

 

まず、1次性の“真似る”ですが、これは人間の歌とダンスが動物を真似る所から始まったという見方に基づいています。歌とダンスは、参加メンバーが一定のリズムに合わせて歌い、踊らないと成立しない。やがて人々は集まり、祭りが開催されるようになる。その集団のスケールは、段階を経て大きくなる。このブログにかつて「集団スケールと政治の現在」という原稿をシリーズで掲載しましたが、集団のスケールは最終的には国家規模にまで至る。やはり、この1次性という心的領域にも長い歴史があることになります。

 

次に2次性の“食べる”ですが、言うまでもなく人類は動物を食べ続けてきた。人類はかなり昔から狩猟に用いる武器を発明し、使用してきたのです。ヤリがあり、弓矢があり、そこから人類と“物”の深い関係が始まったのではないでしょうか。動物の毛皮は衣服となる。そして、例えばラスコー洞窟の壁画のように、人類は狩りの成功を願い、呪術という文化を生む。呪術はやがて科学となり、貨幣なるものが発明され、経済活動が活発となる。私がかつて、このブログで「物質文化」と呼んだ領域は、この2次性に他なりません。

 

そして、3次性の“敬う”ということですが、人類はかなり以前から動物を崇めて来たのです。日本の稲荷神社がキツネを祀っているように、宗教の前段階で動物信仰があったに違いありません。宗教によって、例えばブタを食べてはいけないとか、牛は食べるな等、禁食にかかる戒律がある訳ですが、これらも動物信仰に起源があるのだろうと思います。このように、人類は動物に感謝し、頭を垂れて来た。これが、アニミズムですね。

 

やはり、人類の動物に対する態度が3種類あって、それぞれが独自の文化を生んだ。その文化は、そのまま人間のメンタリティを構成してきたのではないか。この考え方に従えば、現代人のメンタリティまで説明することができる。

 

1次性から3次性までの心的領域は、時に調和し、時に対立してきた。例えば、フラメンコというのは、常に女性が踊り、男性がギターなどの楽器を演奏していますね。これが逆だと、やはりしっくり来ません。踊るというのは、1次性の典型です。そして、楽器という“物”を演奏するというのは、2次性だと言えそうです。この例では、1次性と2次性が見事に調和している。現代の捕鯨問題も理解できます。クジラを食べて何が悪い、という日本の主張は2次性で、クジラは食べるなという主張は3次性です。この例では、2次性と3次性が激しく対立しています。

 

キリスト教を例にとって考えますと、まず、讃美歌、聖歌などの音楽がある。また、黒人教会では伝統的にゴスペルが歌われてきて、これが後世のポップ・ミュージックに多大な影響を与えたと言われています。これが1次性ですね。次に、十字架やキリストの像がある。教会という物理的な建物も重要な役割を果たしてきた。これが2次性。そして、聖書がある。これが3次性ということになります。

 

仮に、キリスト教のように3つの要素を兼ね備えたものを宗教と呼ぶとすれば、現代日本の仏教や神道は、宗教と言えない。これらは、呪術だと思います。商売繁盛や、良縁、安産、交通安全などを祈願する。そして、その証としてお札やお守りをもらったりする。

 

では、この心的領域論をユングのタイプ論と対比させてみましょう。

 

1次性・・・真似る・・・感情
2次性・・・食べる・・・感覚
3次性・・・敬う ・・・思考(直観)

 

やはり、対応していると思います。感情というのは、基本的に人間が人間や動物に対して持つ心の働きではないでしょうか。他方、感覚というのは、主として人間が“物”に反応する作用ではないかと思います。おいしいとか、心地よいなど。

 

男女の違いについても、説明できます。1次性が女性的で、2次性が男性的だと言えます。歴史的な事実として、男は狩りに出かけ(2次性)、女は子育てをしてきた(1次性)。ただ、文化人類学的に見ても、性というのは不確かなものであって、入れ替わることが頻繁に起こります。

 

更に、1次性の祭祀は昼間の文化で、3次性の神話は夜の文化だとも言えそうです。

 

どうやら、アイディアの段階としては、私の心的領域論は、これにて完成したようです。これで、文化も、人間のメンタリティも全て説明できる。(多分!)

 

この立場から、現代日本の状況を見てみましょう。まず、地上波のテレビ。これは9割が1次性だと思います。とにかく、人間と動物にしか興味がない。オリンピックをはじめとしたスポーツ番組など。CMもそうですね。人間も動物も登場しないCMというのは、見たことがありません。残る1割の大半は、グルメ番組などの2次性に関わるもので、3次性に関する番組というのは、それこそ放送大学が放映している位のものです。新聞広告で、ある女性誌の目次を見たのですが、これは100%、1次性だけでした。他人の恋愛、不倫、健康問題など。男性週刊誌なども同じです。とにかく、水着姿の女性の写真が多い。これも1次性です。1次性のメンタリティというのは、とにかく他人に共感を求める。これが、しばしば度が過ぎて、強要となり、息苦しさを生む。フィギュアスケートの羽生選手を追っかけているオバサンたちも沢山いるようですが、彼女たちの心的領域には、1次性しかないのではないかと思ってしまいます。子育てをしている間はいい。しかし、子供はいつか巣立っていく。それでも、彼女たちはひたすら人間と動物に興味を抱き続ける。すると、羽生選手を追っかけるか、他人の噂話をする位しか、することがなくなるのではないか。1次性、これが口うるさく、息苦しい世間というものの正体だと思います。

 

選挙における投票行動も分かります。

 

1次性・・・自民党公明党に投票
2次性・・・投票しない無党派層
3次性・・・論理的な野党に投票

 

人間というのは、1次性から始まるものの、物と出会って2次性を獲得し、本を読んで3次性に至る。(そうあって欲しいと私は願っています。)しかし、3次性を獲得した高齢者は、死んでいきます。そして、その代わりに赤ん坊が生まれて、また、1次性から始まる。だから、いつまでたっても、人間の社会というのは進歩しない。