文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

今、この国で起きていること

先月、駅前にあった「串揚げ屋」が閉店してしまいました。とても美味しかったのと、いつ行っても満席ということはなかったので、私はしばしば通って、時には昼間からビールを飲んでいたのです。そういうお客は少ないということもあって、店員さんも私の顔は覚えてくれていたようです。

 

ある日、お店でビールを飲んでいると女性の店員さんがやって来て、言いました。

 

「実は、今週いっぱいで、閉店することになりました。今まで、本当に有難うございます。お客様には、いつも美味しそうに召し上がっていただいて、私たちの励みになりました」

 

突然のことだったので、どう返答して良いか分からず、私はこう尋ねたのです。

 

「するとこの先、このお店はどうなるの?」

 

「私たちには、分かりません」

 

私は、余計なことを聞いてしまったのです。少し動揺したせいもあって、私は、生ビールをもう一杯注文したのでした。

 

「いつもより、一杯多いですね。有難うございます」

 

にっこり笑って、店員さんはそう言ったのでした。彼女は、私が飲むビールの杯数まで憶えてくれていたんですね。そう思うと、妙に悲しくなってしまった。

 

その「串揚げ屋」さんが何故、繁盛しなかったのか、理由は明らかでした。ランチが千円だったのです。今の日本人にとって、ランチ千円は高過ぎるのだろうと思います。それとなく周辺のお店を見てみると、どこも850円以下なんです。

 

昨年の末頃には、アメリカン・ステーキのお店も閉店してしまったのです。ステーキだから、決して安くはない。しかし、和牛と違って、びっくりする程高くはないのです。それでも、今の日本人にとって、ステーキは高級品なのでしょう。この時は、勘定を済ませて店の外に出た私を女性の店員さんが追いかけて来て、閉店する旨を知らせてくれたのでした。彼女は、その後の就職先が決まっていないと言って、不安気な表情をしていました。

 

幸い私には、千円のランチや、たまにはアメリカン・ステーキを食べる位の経済力があります。しかし、それらのお店が無くなってしまっては、元も子もありません。すなわち私は、私一人だけで幸せになることはできない。社会全体が幸せにならなければ、そこに生きる個人の幸福も実現しない。いい年になって、そういう当たり前のことを実感している次第です。

 

但し、私たちは、世界中の人々と共に幸福になることは困難だと思います。例えば、北朝鮮の一般国民は、現在、大変な労苦に直面している。しかし、私たち日本人が彼らの幸福に貢献することは、極めて困難です。仮に彼らの幸福を願うのであれば、現在の独裁体制を打破する必要があります。では、そのために戦争をするのか。それはできません。人道的な観点から、恵まれない国々に援助をすることは大切です。しかし、そういう例外的な事項を除いて、まず私たちが考えるべきことは、日本国民の幸福ではないでしょうか。

 

滑ったり転んだりしながら、このブログでは様々なことを検討してまいりましたが、どうやら、人間が幸福になるためのモデルのようなものを提示できそうです。

 

まず、人間には「知りたい」、「認識したい」という本能に近い欲求がある。そして、かかる認識に基づいて、自律的に思考する必要がある。更に、この思考は、一つ所に留まることなく変化し、更新されていく必要がある。私はそう考えるので、この自由を制限する宗教とイデオロギーには、賛成できない。

 

そして個人は、セクハラ、パワハラ、DVなどが蔓延する集団ではなく、開放系の中間集団を構成すべきだ。その一例として、次の写真を掲載させていただきます。山本太郎さんはいつも「自分には、ほぼ肖像権はありません」と言っているので、著作権上の問題はないと思います?! それにしても、凄い人だかりです。

 

f:id:ySatoshi:20190619185547j:plain

 山本太郎事務所 ツイッターより 2019年6月16日 広島パルコ前にて

 

そして、自律的に思考する個人が、立憲主義、民主主義に基づく国家を形成する。国民はバカなので、民主主義は成り立たないという意見もあるようですが、そう結論づけるのは、まだ早い。

 

自律的に思考する個人 - 開放系の中間集団 - 民主国家

 

ところで、私が何故“れいわ新選組”に注目しているかと言えば、それは、滅多に起こらない社会現象だと思うからです。人間の歴史というのは、とてつもなく悲惨な出来事があって、その後に動く。例えば、欧州では宗教戦争という血で血を洗うような出来事があった。何しろ、殺し合いの末、ドイツの人口は3分の1に減ってしまったのです。このように悲惨な出来事があって、トマス・ホッブズジョン・ロックという思想家が生まれた。そして、彼らの思想を受けて、フランス革命が起こり、アメリカの独立戦争へとつながる。

 

日本で言えば、2011年に東日本大震災が起こり、津波で多くの人が流された。そして、福島原発の事故が続いた。これは、原発3基が同時にメルトダウンするという、人類史上、例を見ない出来事で、人々の不安を掻き立てた。これらの悲惨な出来事に触発されたのが、太郎さんなんですね。そういう関係にある。

 

そして、偉大な政治家というのは、エリート層からは生まれにくいという事情もある。東大を卒業して、財務官僚になっているような人たちは、序列のことばかりを考えるようになる。むしろ、太郎さんのような不良少年だった人間が、大きな仕事をするんです。

 

最後は、人間力だと思います。例えば、経済の専門家がMMTについて理路整然と語ったとしても、誰も感動はしない。太郎さんよりも経済に詳しい学者など、掃いて捨てる程いるに違いありません。しかし、彼らには、大衆に寄り添う優しさや、聴衆の心を揺さぶる情熱を持ち合わせてはいない。

 

このように考えますと、“れいわ新選組”という社会現象は、上に記したような諸条件が充足された結果、発生したものだと言える。これは、控えめに言って百年に一度あるかないか、そういう現象だと思うのです。

 

僭越ながら、日本人の皆様に申し上げたい。今、私たちは、そういう歴史的な現象を眼前に見るチャンスに恵まれているのです。“れいわ新選組”を支持するかどうかは別として、今、何が起こっているのか、これから何が起こるのか、それは見ておいた方が良いと思います。

 

追記)太郎さん、今日は新宿ですね。

人が進化系の文化に参加するまで

藤井聡氏は、アメリカでMMTを提唱したステファニー・ケルトン教授を招聘し、7月16日に東京で国際シンポジウムを開催するそうです。なかなか、やりますね。詳細は、「令和ピボットニュース」というサイトにて。

 

マンガの「私立Z学園の憂鬱」が、刊行されるそうです。作者の方は印税を「あしなが基金」に寄付されるそうです。やはり、世の中にはお金より大切なことがある。

 

さて、近頃、漠然と「認識せよ」、「文化に参加せよ」といったことを考えて参りましたが、一応、その考えに決着が着いたように思いますので、以下に報告させていただきます。

 

大切な何かを認識して、文化に参加するまでの概念モデルです。

 

1. 記号
  人間は、五感を通じて“記号”を認識する。

 

2. 情報
  “記号”は単独で、若しくは複数が組み合わさって、“情報”を構成する。

 

3. 知識
  “情報”が記憶されると、それは“知識”となる。

 

4. 観察
  人は日々の生活を通じて、若しくは経験を通して、自分が持っている“知識”を

  更新していく。

 

5. 疑問
  時として人は、驚くべき事実を発見する。その事実は、その人が保有し、更新

  して来た知識とは異なり、又は知識の範囲を超えるものであって、人は“疑問”を

  持つ。

 

6. 思考
  人は、疑問を解決しようとして“思考”する。

 

7. 原理の発見
  思考の結果、運が良ければ、人は新たな“原理”を発見する。“原理”とは、複数の

  事例に共通して現われる傾向のことである。

 

8. 思想
  発見した“原理”に準拠すれば、近未来を予測することが可能となる。すると、

  進むべき方向が見えてくる。そして、どちらの方向に進むべきなのか、物事

  はどうあるべきなのかという意見が生まれる。この意見が、すなわち“思想”

  である。

 

9. 表現
  思想を持った人は、これを“表現”し、誰かに伝えようとする。

 

10. 進化系の文化に参加する
  “表現”された“思想”は、時として人々の共感を呼び、文化的なムーヴメントを

  引き起こす。これは、新たな仮説や発明に基づくものであって、文化の進化に

  寄与しようとするものであり、退行や現状維持を企図する“退行系の文化”では

  ない。

 

 項目だけ、列挙してみます。

 

1. 記号
2. 情報
3. 知識
4. 観察
5. 疑問(驚くべき事実の発見)
6. 思考
7. 原理の発見
8. 思想
9. 表現
10. 進化系の文化に参加する

 

上に記した概念モデルは、ある意味、人がとても幸福になるパターンだと思います。一生懸命考えたって、原理を発見できるとは限りません。思想を表現したからと言って、誰かがそれに共感する保証もありません。

 

別の見方をしますと、学校で教えてくれるのは、3番の“知識”までではないか。疑問があれば、それに答えるのが教育でもあります。すると、そこで完結してしまうメンタリティというものを想定することができる。例えば、東大卒のエリート官僚は、その先の“疑問”に進む必要がない。むしろ、“疑問”を持つことは、自らのキャリアにとってマイナスとなる。逆に、情報弱者と呼ばれるインターネットに接続できない人たちも、そこで止まってしまうのではないか。知識があって、それを更新はする。しかし、自ら疑問を持つに至る程の情報に接していない。ネトウヨと呼ばれる人たちも、同じだと思います。彼らはネット環境に順応し、ある程度、経済的に恵まれていて、社会の現状に対し疑問を持つ必要がないのではないか。但し、文化には参加したいという強烈な欲求を持っていて、飽きもせずヤフーのコメント欄に書き込みをしている。そう考えますと、疑問を持たず現状維持を希求する人びとというのも、実は、あまり幸せではないような気がします。貧乏人のやっかみかも知れませんが・・・。

 

他方、上記のステップをフルコースで疾走中の人もいる。例えば、立憲民主党から立候補予定のおしどりマコさん。彼女にとっての「驚くべき事実」とは、福島第一原発の事故だった。そこから彼女の“思考”が始まり、彼女は“原理を発見”する。そして彼女は、被害者救済を徹底すべきだ、原発を再稼働してはならないという“思想”を持つに至り、政治の世界に参加しようとしている。大変だとは思いますが、私のロジックからすれば、マコさん、結構幸せなのではないか。

 

れいわ新選組を立ち上げた山本太郎さんも同じです。私などは、わずかばかりの寄付をさせていただき、幸せのお裾分けに預かったりしている。

 

世間では、夫婦で老後に2千万円の貯蓄が必要だと金融庁が発表し、大騒ぎになっていますが、違和感を禁じ得ません。まず、金融庁は2千万円の他に家のリフォーム費用等が必要になると言っているのであって、それらを合計すると不足額は3,660万円になります。更に、検討のモデルとされる夫婦は恵まれた経済環境にあって、夫は厚生年金に加入している。国民年金に加入されている方々は、更に不足額が膨らみます。嫌な話ばかりで恐縮ですが、年金の支給額は「マクロ経済スライド」によって、今後、減額されそうですし、経団連は「最早、終身雇用は無理」と言い出し、退職金の額も減少している。

 

最早、日本の社会、経済システムは成り立たない所まで来ている。日本という国家は、今、存亡の危機に晒されている。消費税を廃止する位では、収拾がつかない。私は、そう思いますけれども。

二重構造

前回、「開放系の中間集団」というタイトルで記事を書きましたが、この問題がどうも気になります。ここら辺に閉塞感漂う現代社会の打開策があるのではないか。

 

中高年のケースを含めて、現在、“ひきこもり”の問題が再度、クローズアップされていますが、これだけ中間集団が疲弊して来ると、引きこもりたいと思う人が増えるのは当然の帰結だと思います。要は、既存の中間集団とは関わりたくないということです。

 

しかし、人間にはいくつか本能のようなものがある。それは食欲だったり、性欲だったりする訳ですが、これらの身体的な本能とは別に、もう少しメンタルな部分での強い特性があると思うのです。一つには、何かを知りたい、認識したいという欲求。例えば、山があったら登ってみたいと思う。島が見えれば、行ってみたいと思う。そういう根源的で知的な欲求というものを人間は持っている。人は常に、自分がどういう場所にいるのか、認識しようとしている。そこは、安全な場所なのか、それとも交差点の真ん中なのか。このような事柄を認識するということは、それは生存確率にすら影響する訳で、本能の一種であると言っても過言ではない。

 

もう一つ。それは、文化に参加したいと希望するという特性です。文化とは空気のようなものではありますが、人は文化に対し、積極的に関与したいと望んでいる。太古の時代から、祭りがあればそこに参加し、何か人が作り出した物があれば、模倣して、同じようなものを作ってみる。こちらもその歴史の長さに鑑みれば、人間の持つ根源的な欲求だと言える。

 

何を隠そう、私がこのブログをやっている理由も、そこにある。何かを認識したいと思って、本を読み、YouTubeを見たりしながら、記事を書いている。そして、文化に参加することを願って、記事をブログに掲載し続けている訳です。経済活動とは、無縁です。このブログをやったからと言って、1円の収入もありません。しかし、カネ儲けが目的ではないから、それだけ純粋だとも言えるような気がします。

 

YouTubeとかツイキャスなどで、山本太郎さんの動画を拝見しておりますと、画面の右側にチャットが表示される場合があります。それはもう沢山の人が、書き込んで来る。そして、結構皆さん、必死に何かを伝えようとされている。書き込みが殺到すると、文章は順繰りに上の方へ移動し、あっと言う間に見えなくなってしまう。それでも、多くの人がそこに参加しようとしている。皆、文化に参加しようとしている。私には、そう見えます。

 

つまり、何かを認識しようとすること、文化に参加しようとすること、この二つの知的な欲求は、身体的な本能と肩を並べるほど、人間にとっては強い欲求だと言えるのではないか。他にもあるかも知れません。もう少し、考えてみます。

 

それにしても、日本の政治状況が、ここまで複雑だとは思ってもみませんでした。そこには、歴史的な経緯があり、MMTなどの新しい理論があり、心理学が絡み、嘘がある。

 

f:id:ySatoshi:20190611200844j:plain

源頼朝伝説 注)本文とは関係ありません。

 

最近、ネットで読んだ記事に驚くべきものがありました。日本の病院では、なかなかポックリとは死なせてもらえません。体のあちこちにチューブを差し込まれ、薬漬けにされるケースだってある。これにも理由があって、死にそうな老人というのは、医師と製薬会社にとっては利益の源泉だというのです。仮に医療過誤があったとしても、医師の側は「寿命です」と言えば訴訟リスクを回避できる。医療費は保険で処理できるので、取りっぱぐれもない。だから、日本の病院はなかなか死なせてくれない。そして、このシステムを維持するために、日本医師会や製薬会社は自民党に政治献金を行っている、というのです。本当かどうかは分かりませんが、Wikipediaによれば、日本医師連盟自民党を支持しています。私は、できればポックリと逝きたいのですが・・・。

 

小泉元首相が、最近は脱原発を主張している。流石に現役総理時代の悪行を反省しているのか、と思っていたのですが、別の見方もあるようです。すなわち、脱原発に舵を切った場合、廃炉ビジネスが生まれる。自然エネルギーの開発にも同様のことが言えます。その利権を狙っているのではないか、という説がネット上では囁かれています。本当のことは、本人に尋ねてみないと分かりませんが。

 

疑い始めるとキリがないのですが、憲法改正問題も浮上してくる。私の読みとしては、自民党の本音は憲法問題を重視しておらず、ただ、保守票を確保するためのポーズで憲法改正を主張しているだけだ、というものです。しかし、ネット上では、その先の徴兵制復活を目指しているという見方もあるようです。こちらも真実は分かりませんが、確かにその可能性を否定し切ることはできないように思えて来ます。

 

どうやら私は、「お人好し」に過ぎていたのではないか。

 

そこで、前回の記事で言及致しました、「連合」についてもネットで調べてみました。連合とは、経団連の“労働部”であると主張する記事もありました。むしろ、ネットの世界で連合は、経団連とほぼ同一に語られている。表向きは労働組合ですが、事実上、大企業の利益を目指している。だから、消費税の増税自民党に頼み込んだりする訳ですね。

 

私としては、旧同盟系の労組は国民民主党を支持し、旧総評系の労組が立憲民主党を支持していて、2つには違いがあると思っていたのです。しかし、主として官公庁の労組だった総評系ではありますが、国鉄は民営化されJRとなった訳だし、総評系が支持していた社会党も、今はありません。してみると、旧同盟系と旧総評系との間に、昔ほどの相違点は存在しないのではないか。だとすると、現在の国民民主党立憲民主党の間にも、大した違いはないことになります。(両党とも、連合と政策協定を結んでいます。)

 

そのような仮説を前提に、国会中継や政策を見てみますと、腑に落ちる所が少なくありません。日本の政治というのは、どうやらアメリカによる軍事と経済に関わる支配と、大企業による経済的な支配という2重構造になっているのではないか。図にしてみましょう。

 

アメリカによる支配(軍事面、経済面)
 → 自民党
 → 官僚組織

 

大企業による支配(経済面)
 → 経団連 → 自民党
 → 連合  → 立憲民主党 国民民主党
 → マスメディア → 国民

 

上記の仮説に従えば、立憲民主党や国民民主党は、自民党とは戦っても、その上にある経団連に象徴される大企業の悪口は言わない。大企業にとって都合の悪いことは、主張しない。具体的には、例えば「法人税増税せよ」とは言わない。「消費税を減税せよ」とも言わない。これらの事柄を正面切って主張しているのは、れいわ新選組共産党ではないでしょうか。そのように考えますと、共産党という政党、迫害と弾圧に耐え、よく今日まで頑張ってきたものだと感心してしまいます。私は、共産主義には反対ですが・・・。

開放系の中間集団

驚くべきニュースがありました。5月31日に時事通信社が配信した記事です。「消費増税の着実実施を=連合が自民に要請」というものです。記事によれば、同日、連合の相原事務局長が、自民党の岸田政調会長に対し、今年10月に予定されている消費税増税の着実な実施を求めた、ということです。連合が係る事項を要請した理由は、社会保障の持続可能性を重視する立場から、とのこと。

 

ちょっと待って欲しい。前回税率を上げた際は、増税分のわずか16%しか社会保障の充実には充てられなかったのではないか。残る84%の大半は、国の借金の返済に使われたのではなかったか。そもそも連合とは、労働者の権利を守るのがその使命ではないのか。そうであれば、本来、連合が主張すべき事項は、消費税の減税と法人税増税ではないのか。連合は、テーブルの下でケイ団連と手を握っているのではないか。そう疑わざるを得ません。

 

そして、立憲民主党と国民民主党は2018年11月30日に、連合と政策協定を結んでいる。ということは、両党とも、緊縮財政、増税派であるとみなさざるを得ません。私は、国民民主党には最初から期待していなかったので腹も立ちませんが、「立憲よ、お前もか!」と言いたくなってしまいます。更に、本年5月29日には市民連合が仲介する形で、野党5党派の間で政策協定が取り交わされていますが、ここには消費税増税派の野田佳彦氏も加わっている。すなわち、今年10月の増税には反対するが、少し景気が上向けば増税しても良いということなのでしょうか。

 

この点共産党の幹部は、今年10月の増税には反対で、その先は5%への減税、更には消費税廃止を目指すと述べています。

 

“れいわ新選組”が立ち上がって、一番困っているのは、立憲民主党ではないでしょうか。そもそも、同党の支持者というのは、比較的政治に関心のある層だった。しかし、山本太郎さんの街頭演説会などによって、消費税と法人税の関連など、実態が明らかになりつつある。MMTに関する論議も活発化している。一部の情報によりますと、立憲の内部からも消費税は廃止すべきであるという意見が出始めている。しかし、立憲の幹部は一向にMMTに関する論議に応じる様子がない。

 

今年の参院選に向けて、各党は政策を発表しつつある。しかし、立憲民主党は“立憲ビジョン2019”として発表するとは言っているものの、未だ、それは公表されていない。同党のホームページを見る限り、具体的な経済政策というのは、ほとんど皆無に等しい。どうしたいのか、ということは述べられていますが、どのように実現するのか、その“How”がないのです。

 

私の立憲民主党に対する最終的な評価は、同党の経済政策が発表されるまで、留保することにします。期待はせずに、それを待つことにしましょう。ただ、1億2千万人の国民を乗せた日本丸が沈没しそうだという危機的な状況にあるのに、野党第一党の主要政策が「選択的夫婦別姓制」というのはあり得ないと思いますが、いかがでしょうか。

 

さて、このブログでは、個人と国家との中間に位置する集団を“中間集団”と呼んでいます。私の記憶では、この言葉は憲法学において使用されているものです。思えば、世の中の不正や人権侵害の多くは、この“中間集団”という位相において発生している。列挙してみます。

 

・家庭・・・DV
・学校・・・イジメ
・地域別集団・・・村八分など
・職業別集団・・・新規参入障壁/カルテル
・会社・・・セクハラ、パワハラ
・労組・・・政治活動の強制
・省庁・・・省益を優先し国益を損なう
・宗教団体・・・思想的迫害、経済的収奪
・民族団体・・・ヘイトスピーチ

 

もちろん、世の中には個人の犯罪や、国家犯罪としての戦争ということもあります。しかし、上の一覧を見るといかがでしょうか。中間集団に属すると、ろくでもないことが起こる。現代社会において、中間集団が弱体化されてきた理由の1つが、ここにある。

 

更に困ったことには、個人が国家という位相の集団に参加するには、やはり中間集団の存在が欠かせないということです。例えば、テクノロジーがもっと発達すれば、国民がPCやスマホを使って瞬時に投票できるようになるかも知れません。しかし、YesかNoかを決定するだけで、政治が動く訳ではありません。やはり、そこには論議が必要になる。そして、全ての国民があらゆる論議に参加することは不可能です。すると、自分と同じような考え方をしている人間の集団を支持することによって、政治に参加するのが良かろうということになります。政党政治ですね。但し、この政党政治というものは、政治家だけで成り立つものではありません。そこには、当然、支持者の存在が不可欠となる。政治家と支持者を一つの集団として考えた場合、これを政治集団と呼ぶことにしましょう。

 

政治家 + 支持者 = 政治集団

 

この政治集団をどのように運営すべきか、どうあるべきなのか。そこにイジメやセクハラがあってはならないし、思想や良心の自由も確保されるべきです。しかし、そんな中間集団というものは、存在し得るのか。

 

アメリカには、昔、黒人教会というものがあった。これはかなり自由な集団だったと思うのですが、社会学的に言えば、これは特段の目的を持たない集団(ゲマインシャフト)だったと思います。では、目的を持つ集団(ゲゼルシャフト)でありながら、自由で平等な中間集団というものは存在したでしょうか。私は、実例を知りません。

 

しかし、今、その可能性を探っているのが、“れいわ新選組”という政治集団ではないかという気がします。“れいわ新選組”には、誰でも参加できます。寄付をすれば、それはもうりっぱな支持者ということになります。お金がなくても、ボランティアとして登録できる。もっと言えば、心の中で応援するだけでも良い。そして、脱退するのも自由です。気が変わったら、別の政党に投票すればいい。“開放系”とでも言いましょうか、出入り自由なんですね。ここら辺は、宗教政党とは、全く異なる。平等か、という問題もありますが、太郎さんの街頭演説会を見ますと、老若男女、様々な人びとが聞き入っている。時折、拍手をしたりする。手を挙げれば、誰でも発言のチャンスがある。かなり、平等だと思います。

 

ただ、私のような年代になりますと、いろいろなことを考えてしまうのも事実です。今はまだ、小さな集団です。政治家は太郎さんと蓮池透さんしかいません。しかし、徐々に人数が増えて来ると、政治家の間で序列を付ける必要が出て来るに違いありません。その時に至ってもなお、自由と平等を確保することができるのか。そこが課題ではないでしょうか。

 

いずれに致しましても、“れいわ新選組”というのは、壮大な社会実験だと思います。

”れいわ”の時代の国家主義

昨日は、山本太郎事務所が主催する「財務省の前で愛を叫ぶ(肉球)」という集会があり、YouTubeで拝見致しました。最初は手作り感満載で、どうなることかと思ったのですが、次々に登壇される参加者の方々のスピーチは、とても興味深いものでした。老若男女、様々な方々が登壇(トラックの荷台)され、それぞれの思いを語る。緊張のあまり足が震え、声が上ずってしまう人もいましたが、それでも皆、勇気を奮って、自分の思いや決して楽ではなかったそれぞれの人生について、語られました。

 

集会のネーミングもさることながら、集会のあり方自体が新しい。政治の世界では決してスポットライトの当たることがなかった普通の人々が、突然マイクを握って、何かを主張する。そして、その模様がリアルタイムで全国に流れる。私などは、手を挙げる人がいないのではないか、と心配していましたが、最初から最後まで、発言を求める人が途切れることはありませんでした。日本人はカラオケによって、マイクを持つことに抵抗感がなくなってきたのか、日頃から発言する機会に恵まれないのか、それとも司会の太郎さんのパーソナリティがそうさせたのか。

 

また、皆様は「私立Z学園の憂鬱」というマンガをご存知でしょうか。「消費増税反対botちゃん(ほぼ中の人)」という方が作成されたものですが、ネット上で公開されています。これはお勧めです。是非、お時間のある時にご覧になってください。アフレコ付きの動画も公開されています。気軽に楽しめて、日本の権力構造について理解できるという優れものです。作者がどのような方なのか分かりませんが、本当によく調べている。推測ですが、この方、無報酬で制作されているのではないか。

 

では、本題に入りましょう。MMTを含めて、もう少し広い範囲で国家の経済を考えてみました。そこで、アベノミクスや、その他の主張の特徴を考えてみたいと思います。シンプル志向の私としては、再び、簡単な図を作ってみました。

 

f:id:ySatoshi:20190522185757j:plain

まず、アベノミクスから。これは銀行が保有する国債を日銀が購入する。買いオペと呼ばれる施策です。日銀が国債を購入するということは、資金は反対に日銀から銀行へ流れることになります。そこで、銀行が“国民経済”と記した領域、すなわち個人や企業に資金を貸し出せば、経済が循環して良い結果を生む。ところがいくら買いオペを実行しても、銀行から“国民経済”に資金は流れなかった。何故かと言うと、個人消費が伸びず、企業は先行きへの懸念から設備投資を渋っているからです。結局、買いオペによって銀行へ流出した資金が、死に金となっている。但し、ダブついた日本円は円安を生み、一部の輸出大企業に利益をもたらした。これが、日銀が行った金融政策だった。

 

次に、政府と“国民経済”の関係を見てみましょう。かねてより、企業が支払うべき法人税は減税を繰り返し、反面、消費税率は上昇の一途を辿っている。すると、企業の供給力は過剰となりますが、肝心な個人の購買力は下がる一方です。働き方改革だか何だか知りませんが、労働者の約4割は非正規雇用となり、また、実質賃金も低下している。そんなことで、個人消費が伸びるはずがありません。供給力が過剰なので、当然、物の値段も上がらない。だからデフレなんですね。それがもう、20年以上も続いている。これが民主党政権の時代から現在の安倍政権までが行ってきた財政政策だと思います。その意味では、旧民主党と現在の自民党とは、同罪ではないでしょうか。

 

次に、MMTを支持する立場の人は、何を主張しているのか。まず、政府と日銀の関係ですが、買いオペなどを実施した結果、政府に対する最終的な債権者は日銀となる訳ですが、この債務(借金)は返済する必要がない。仮に、帳簿上数字が残っているのが気になるというのであれば、政府紙幣を発行して、借金を返済してしまえば良い。(大西つねき氏などが、そう主張している。)また、日銀が買いオペを実施する、すなわち金融緩和を実施することに問題はない。しかし、政府の財政政策(税金と財政支出)が問題だ。そもそも、“国民経済”(個人と企業)が保有する通貨の総量、すなわちマネーストックを管理することが大切だ。マネーストックが不足すればデフレとなり、反対に過剰になればインフレとなる。従って、インフレターゲット(現在、日銀は2%にしていますが、4%位までは大丈夫だという説もある)に達するまでは、マネーストックを増やすべきだ。そのためには、減税と共に財政支出を増やす必要がある。“消費増税などとんでもない”ということになります。

 

但し、MMTを支持する立場でも、右派と左派とでは、財政支出の考え方が異なるようです。まず右派ですが、自民党西田昌司議員は、新幹線を作れと言っている。また、藤井聡氏は国土強靭化計画を提唱した。私は、これらの立場に疑問を持っています。それでは、ゼネコンが儲かり、昔の利権政治に逆戻りではないかと思うのです。

 

一方、左派でMMTを支持している太郎さんは、消費税を廃止すると共に、現在困窮している人々を救済せよ、と言っている。例えば、奨学金の返済に困っている若者たちがいるので、その返済はチャラにせよ、と言っている。この点、私なりに少し考えてみました。多分、永年に渡り苦労を重ねて、奨学金を完済したばかり、という人もおられるでしょう。そういう人たちにしてみれば、自分は恩恵を受けることができない訳で、こういう施策には反対されるかも知れません。しかし私は、こういう風に考えてみる。例えば、大きな船に沢山の人が乗っている。その船は沈没しそうだ。そこへ小さな救命ボートが駆け付ける。一度に全ての人を救うことはできない。では、誰をも救ってはいけないか。そうではないと思います。一度に救える人数は、例えば5人位かも知れません。しかし5人ずつでも、何度でも往復しながら、乗員を救出すべきだと思うのです。

 

ところで、上に示した図を見ておりますと、良くできた仕組みだなあと思いませんか? MMTに従い、政府の財政政策と日銀の金融政策を組み合わせて、“国民経済”におけるマネーストックの量を管理する。そして、健全な経済発展を遂げていく。これが本来、国が行うべき経済政策だと思います。それが、“れいわ”の時代の国家主義というものではないでしょうか。ここで私が“国家主義”という言葉を用いる理由は2つあって、1つには反グローバリズムという意味です。2つ目としては、さりはさりとて中間集団のレベルまでブレイクダウンしてしまっては、元も子もない。それは反対だ。すなわち、中間集団よりも大きく、グローバルよりは小さい、国家という規模の集団を中心に物事を進めていくべきだ、という意味です。

 

しかし、現実はそうなっていない。誰が悪いのか。この点は、前述の「私立Z学園の憂鬱」において、詳細に説明されている。ケイ団連も悪い。しかし、それは単なる中間集団に過ぎない。この問題の背後には、もっと大きな力が働いているに違いない。

 

「私立Z学園の憂鬱」にも出て来ますが、財務省にたてつくと、まず、国税庁の税務調査が入る。これは、財務省の外局に国税庁が位置付けられているからで、国税庁財務省から分離すべきだ、という意見がある。そこまでは、私も理解できます。しかし、財務省側からの反撃は、それにとどまらない。不倫や援助交際などのスキャンダルが出て来るらしい。こういうスキャンダルを暴露するには、尾行するプロの関与が欠かせないのではないか。それは、国税庁の仕事ではないと思います。日本のお役所の中には、そういうことを専門にやる組織が別にある。

 

財務省にしても、そこに働く日本人が、省益のためだけに永年に渡って国民を騙し続けるなんてことがあるでしょうか。この点も私は、はなはだ疑問に思います。やはり、そこにはアメリカからの圧力が存在すると考えた方が自然ではないでしょうか。

 

消費税の問題は、単に税率を8%から10%に上げるかどうかという問題にとどまらず、掘り下げて行くと、安倍政権のみならず、過去の民主党政権の責任問題が浮上する。更に掘り下げると、日本の対米従属という問題に行き当たるのではないか。

 

仮に安倍政権が増税を見送り、8%に据え置くという判断を下した場合、民主党政権の流れを汲む立憲民主党と国民民主党は、そこで矛を収めるに違いない。一方、減税又は廃止を訴えているれいわ新選組は、追及を継続することになる。太郎さん、パンドラの箱に手を掛けてしまったのでしょうか?

 

そして昨日、新党「オリーブの木」の設立記者会見が開催されたのです。これがまたとてもユニークな政党で、簡単に言うと「もう、右も左も関係ないんだ!」というもので、その政策の1番目に「対米自立」を掲げている。私の知る限り、過去にこんな政党はなかった。いずれに致しましても、今、とても大切なことが進行しているのではないか。

自民党の憲法改正案

ここの所、ブログの更新が滞っております。日常生活における些事に翻弄されているのがその主因ではありますが、少し考えをまとめるのに時間を要しているのも事実です。憲法とは、やはり複雑なものだと改めて感じております。

 

そこで、今回は比較的簡単なトピックということで、自民党改憲案について述べることにしました。憲法論の本筋からは離れますので、通し番号無しの非公式原稿とします。

 

まず、自民党は下野している時期、2011年に憲法改正草案というものを出しています。これは、自民党の支持団体である日本会議に擦り寄るような内容で、まるで中世に時計の針を戻すようなものでした。あまりに酷い内容だったので、その後、自民党内からも批判が上がり、事実上、これを取り下げた経緯があります。

 

しかし、安倍政権としては、何とか日本会議等の支持を失いたくはない。今年の7月には参議院選挙だってある。そこで、自民党が出して来たのが9条2項を残し、3項に自衛隊を明記するという案だった訳です。(追加の条文として9条の2を設けるという説もあります。)その具体的な文案は、野党が憲法審査会の開催を拒否していることから、未だ明らかにはなっていないと思います。(ネットで検索してもヒットしません。もし、既に公開されているようであれば、ご容赦ください。)

 

安倍政権の改憲案の骨子は、上記の9条問題に加え、緊急事態条項、教育無償化の3点であると言われています。順に検討します。

 

まず9条の問題から。そもそも、9条の2項で「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と定められているのに、日本は自衛隊を保持している。こういう、それこそ哲学的な問題から出発する訳です。そこで自衛隊違憲かどうかという問題が持ち上がります。この問題に決着をつけるための方法としては、裁判を起こして裁判所に判断してもらう、という方法が考えられます。実際、憲法81条は、次のように規定しています。

 

第81条(最高裁判所の法令等審査権)
最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。

 

国会が憲法に違反するような法律を制定した場合、国民は最高裁に対し、その無効であることの判断を求めることができる。最高裁のこのような権限を「違憲立法審査権」と呼びます。しかし現実問題としては、そうなっていない。最高裁は高度に政治的な事項については、審査しないのです。従って、例えば2015年に制定された安全保障関連法(別名、戦争法)は違憲ではないのか、という理由で訴えたとしても、最高裁はかかる申し立てを受理しないのです。このように、高度に政治的な問題について、最高裁は判断しなくていいんだという立場を統治行為論と言います。統治行為論の論拠としては、そもそも国会議員というのは主権者である国民によって選ばれている。他方裁判官というのは、内閣によって指名されているに過ぎない。(憲法6条2項)従って、国民主権の原理からして、国会が定めた法律を裁判官が覆すのは良くない、という考え方です。実際アメリカでは、議会の定めた法律を裁判所がことごとく否定し、混乱したというケースもあるそうです。ちなみに私は、統治行為論に反対で、最高裁はあくまでも憲法81条に基づき、違憲立法審査権を行使すべきだと思っております。それをしないということは、憲法尊重擁護義務(憲法99条)違反だと思います。

 

加えて、法律ができただけでは、最高裁としては判断をしない。何か、具体的な問題が起こらないと審査をしない、という原則もあるようです。

 

従って、2015年の安全保障関連法(戦争法)が成立したからと言って、最高裁は何も判断しない。こういう現実はおかしい、最高裁違憲立法審査権を行使すべきだ、と考える人たちは、それでは憲法裁判所を作るべきだと主張しており、私はこの立場に賛成です。

 

さて、それでは現実問題として、憲法に関わる法的な問題は誰が判断しているのか。それは内閣法制局長官ということになります。このように、一応権利を持っている人が解釈することを有権解釈と言います。すなわち、内閣法制局長官が有権解釈を行う。これが日本の実態なのです。

 

戦後長い間、内閣法制局は9条に関する有権解釈として、「日本は、個別的自衛権は有するが、集団的自衛権は有さない」との見解を述べてきました。従って、2015年の戦争法、失礼、安全保障関連法は集団的自衛権を認める内容だったので、内閣法制局長官は当然、違憲であると述べる義務を負っていたのです。ところが、そう考えていた内閣法制局長官は更迭され、安倍政権にゴマを擦っている人が新たにその職に就いたのでした。そして、そのゴマ擦り長官は、従来の見解を覆し、集団的自衛権をも認めるとの判断を下したのでした。

 

ちなみに、このゴマ擦り長官は、その後、顔面神経痛になったという話もあります。良心の呵責に苛まれたのかも知れませんが、私には、そのようには見えません。

 

ちょっと話が脱線します。集団的自衛権とは、国連憲章(51条)においても認められている。だから、日本だって集団的自衛権を持っていいんだ、という意見もあるようです。しかし元来、集団的自衛権とは、複数の小国が一致団結して、大国からの侵害に備えようというものです。それと、日本が超大国であるアメリカと手を組むというのは、話が別です。私は、日本が個別的自衛権を持つということに賛成しますが、集団的自衛権は持つべきではないと考えています。

 

話を元に戻しましょう。2015年に制定された戦争法でした。この法律によって、日本は地球の裏側まで行って、米軍を助ける、すなわち戦争に参加することが可能となっている訳です。このように極めて危険な状態にある現状において、憲法自衛隊を明記するのは、極めて危険であると言わざるを得ない。これが反対理由の1つ目です。

 

自民党改憲案に反対する理由の2つ目は、自衛隊というのは軍隊な訳で、仮に自衛隊憲法に書き込むのであれば、合わせて自衛隊をどうコントロールするのか、こちらの規定も盛り込むべきだと思うのです。一般に言われているのは、文民統制(シビリアン・コントロール)という考え方ですね。現在も過去も軍人ではなかった人が、軍隊をコントロールすべきだ、という考え方です。加えて、国会の承認手続も厳格に規定すべきだと思います。自民党改憲案には、これがない。

 

3つ目の理由としては、9条2項との関係です。3項で自衛隊を明記するということは、2項を無効化する、もしくは2項に例外を設けることになります。これでは、憲法がますます分かりづらくなってしまう。一体、日本とはどういう国家なのか。

 

自民党改憲案の2番目のポイント。これは緊急事態条項を設けるということですが、これは自衛隊の明記よりも、更に危険なものです。すなわち、大地震などの災害が発生した場合であって、かつ衆議院の解散時期などが重なった場合、政治の空白を作る訳にはいかない。このような場合には、総理大臣が緊急事態を宣言し、宣言が解除されるまでの間、内閣が立法権司法権をも保持する、というものです。これは、ナチスが使った手口と同じだという理由で、批判されています。とんでもない条項案なのです。言うまでもなく、そんな必要はどこにもありません。万一、そういう事態が生じた場合には、一時的に参議院が決議をすれば良いだけの話なのです。実際、憲法の54条2項には、次のように定めています。

 

第54条2項
衆議院が解散されたときは、参議院は同時に閉会となる。但し、内閣は、国に緊急の必要があるときは、参議院の緊急集会を求めることができる。

 

自民党改憲案の3つ目のポイントは、教育の無償化です。この発案者は、維新の会だったと思います。自民党としては、維新の会のご機嫌を取るために、この点を改正案に盛り込んだと言われています。論評するまでもありませんが、こういうことは法律で定めればいい。教育の無償化と言ってもその範囲はどうするのか、財源はどうするのか、細部を詰める必要があります。そういうことは、なかなか改正できない憲法に書くのではなく、法律を制定すれば足りる。

 

以上の理由から、私は、自民党改憲案には反対なのです。

 

それにしても、自民党改憲案は筋が悪い。悪すぎる。自民党も本気でこれを通そうと思っているのか、はなはだ疑問です。どうやら、日本会議をはじめとする自民党支持層を引き留めておくために、便宜上、憲法を改正すると言っているに過ぎない。そんな気がします。

 

蛇足ながら、日本の三権分立について、述べておきたいと思うのです。先に述べた統治行為論に加え、裁判官というのは内閣によって指名される。別の言い方をしますと、裁判官というのは、内閣に人事権を握られている訳です。従って、内閣に都合の良い判決を下す傾向が強いと言わざるを得ません。国会と言っても、その多数派が内閣を構成する訳で、その内閣が裁判官に対する人事権を持っている。すなわち、内閣が、特にそこのトップである総理大臣が持つ権限が強すぎる。そこに権力分立という理想は、体現されていない。日本において、三権分立は機能しない。それが現実だと思います。

No. 252 憲法の声(その19) 宗教と憲法

 

ホッブズは、人間の能力には大差がないから、人は皆平等だと考えました。しかし、そうでしょうか。本当は、能力に差があったとしても、人は平等なのではないか。

 

最近問題となっている人権侵害の事例というのは、その根源に“平等”という意識の欠如があるのではないか。セクハラ、パワハラ、Domestic Violence、外国人技能実習生に対する差別、全てそうだと思うのです。順に言いますと、男が偉い、上司が偉い、父親が偉い、日本人が偉い、という意識が根底にある。すなわち、問題の根源は人間の内心にある。この人間の内心に関わる問題について、例えばロックは明確に平等を説いた。しかしそれは、ロックが宗教家だから、そうできたのではないか。

 

一方、我が国の憲法なり法律なりというものは、国民の内心にまでは踏み込まない。そもそも、憲法が保障する自由には、“権力への自由”と“権力からの自由”とがあって、人間の内心というのは、“権力からの自由”に該当します。よって、思想、良心、信教などについては、自由が保障されている。そこには、国家権力が手を付けないんだ、ということになっている。それはそれで、素晴らしいことだと思います。私自身が何をどう考えているのか、そういうことに国家権力に介入して欲しくはない。誰もが、そう思う。しかし、何らかの権力が人々の内心に介入しない限り、セクハラ等の事象はなくならない。

 

人びとの内心にまで入り込む宗教。そして、そこまでは入り込まない憲法と法律。

 

どちらが正しいのか。もし、完全に正しい宗教というものが存在するのであれば、その正しい宗教によって人々の内心をコントロールすることにより、問題は解決できる。しかし、そのような完全に正しい宗教というものは、人類史上、存在したためしがない。すると、人々の内心には立ち入らない憲法や法律というシステムの方が、まだましだということになる。

 

では、頻発する上記のような問題に、私たちはどう対処すれば良いのか。正確には記憶しておりませんが、何かの本で、こんな話を読んだことがあります。昔、白人は何の疑問も持たずに黒人を奴隷として酷使していた。しかし、ある黒人奴隷が自らの境遇を小説に書いたというのです。それを読んだ白人たちは、やっと自らの過ちに気付いた。小説というのは、人々の内心に入り込む。少し青臭い言い方をしますと、村上春樹のように意味の分からないポストモダンの小説ではなく、本当は起承転結があって、人々の心を揺さぶる小説が求められているのではないか。

 

別の方法としては、憲法とは別に、日本人の心に響く平等を訴える宣言のようなものを作るという方法もある。アメリカには独立宣言があり、フランスには人権宣言がある。何か歴史的な出来事と関連づけて、例えば“日本・人権宣言”のようなものを作るという方法だってある。馬鹿馬鹿しい論議だと思われるかも知れませんが、例えば、8年前の3月11日に、日本は大変な災害と原発の事故を経験した。1945年には広島と長崎に原爆を投下された経験だってある。こういう史実に基づいて、反原子力兵器、反原発に関するステートメントを出す。そうすれば、日本は他国から尊敬される国になるはずです。残念ながら、自民党政権がやっていることは、その真逆ですが・・・。(日本は核兵器不拡散条約に加盟せず、東日本大震災の後にも原発を輸出しようと躍起になってきました。ことごとく失敗したようですが)

 

もう少しハードルは高いと思いますが、憲法の前文を書き換える、という方法だってある。現在の日本国憲法の前文は、敗戦直後に書かれたということもあって、平和主義中心の記述となっています。それはそれで意味のあることだとは思いますが、もう少し、人権保障、自由、平等ということについて触れてもいい。例えば、今から国民レベルで論議を開始して、10年後の改正を目指すとか。しかし現実には、こういう論議というものが、一向に出て来ない。このようなことも、憲法学者の怠慢ではないかと思ってしまう理由の1つです。

 

ただ、こういうことを言いますと、憲法学者の側からは「現実はそんなに甘くない!」という反論の声が上がりそうです。敗戦後70年余、憲法学会における最大のテーマは9条にあった。憲法学者は、真面目に勉強をすればするほど、反戦という方向に向かった。戦争はいけない、9条を守れ、ということで護憲派というグループができた。そこで、護憲派 vs 改憲派の戦いが始まる。改憲派の中心的な勢力は、戦前の国家神道体制に戻そうという勢力で、自民党がこれを後押ししてきた。そして、長く自民党政権が続き、護憲派は危機感を募らせた。憲法論議を行なえば、日本を戦前の体制に戻すことになってしまう。よし、ここは改憲論議を封印しよう、ということで、憲法学者を含め憲法の話はなるべくしない、という暗黙の了解ができてしまったというのです。

 

そういう間隙を突いて、自衛隊憲法に明記しようという(私に言わせれば極めて危険な)改憲論議が持ち上がっている。