文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

スリスリ猫の花ちゃんと私の認識論

このブログで検索を掛けてみますと、私が初めて野良猫に触ったのは、2018年4月だったことが分かります。あれから2年。

 

YouTubeで猫動画を見ておりますと、次第に猫の気持ちが分かってくる。すると、猫がとても身近に感じられるようになるのです。全ての記号や文化には、それを解釈する能力が必要です。解釈できなければ、私たちはそれらの記号や文化との間に関係性を構築することができません。パースが言った解釈思想(interpretative thought of a sign)とは、そのことを示している。つまり、猫を好きになるか否かという分岐点は、猫の気持ちを理解できるかどうか、という点にある。

 

すっかり猫好きになってしまった私ではありますが、猫を飼うことはできません。居住しているマンションでは、ペット禁止になっているのです。それに、最近はキャットフードの質が向上しており、猫の寿命も延びている。かつては10年程度だったそうですが、最近は20年以上生きる猫も少なくない。つまり、仮に今から子猫を飼ったとすると、猫より私の寿命の方が先に尽きてしまう可能性が高い訳です。それでは、猫に申し訳ない。

 

でも、猫と触れ合ってみたい。そうだ、野良猫がいる。

 

あるコンビニがあって、その裏の駐車場の更にその奥に、野良猫の生息地があるのです。なんとか近寄ろうとしてみるのですが、野良猫は警戒心が強く、逃げてしまう。そうだ、餌を与えてみよう。最初は食べ残しのパンなどを与えてみたのですが、猫たちはそれを食べない。どうしたものだろうかと思案する日々が続いたのですが、ある日、コンビニの棚の一番下に、キャットフードが置かれていることに気付いたのでした。それを与えてみると、野良猫たちは夢中になって食べた。

 

これは面白いということで、キャットフードを与え続けていると、やがて一匹の野良猫が、私になついて来たのです。彼女には家もなければ、戸籍もない。しかし、折角この世に生を受けて、懸命に生きているのであって、きっと誰かにそのことを知ってもらいたい、認識してもらいたいと思っているに違いない。そう思った私は、彼女に花ちゃんという名前を付けることにしたのです。

 

花ちゃんは、私を見かけると寄って来て、スリスリと体を擦り付けてきます。すると、彼女の体毛が私のジーンズにべったりと張り付いてしまうのです。真冬の今は左程でもありませんが、春先の換毛期には、帰宅後、掃除機で取り除かなければならない程なのです。

 

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スリスリ猫の花ちゃん

一般に、猫がスリスリをするのは、その対象に自らの匂いを付けている、すなわちこれは自分のものだと主張するのが目的だと言われています。従って、花ちゃんは私を独占したいと思っている。そういう解釈が成り立ちますが、花ちゃんの場合は、停車中のクルマや電信柱のようなものにまで、スリスリをするのです。体が痒いのではないだろうか、などと思ったりする訳ですが、本当のことは分かりません。

 

ところで、花ちゃんは私が好きなのか、私が持って来るキャットフードが好きなのか。そんなことも考える訳です。キャットフードが私と花ちゃんの間を介在しているとも言えます。

 

私 - キャットフード(介在物) - 花ちゃん

 

また、花ちゃんにしてみれば、最初に登場するのは私であって、その後にキャットフードにありつくことができる。すると、花ちゃんにしてみれば、私はキャットフードを表象する記号なのかも知れません。

 

花ちゃん - 私(記号) - キャットフード

 

いずれにせよ、花ちゃんは私とキャットフードの双方を区別して認識していないのではないでしょうか。多分、どちらも好きなのだと思います。

 

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キャットフードを食べる花ちゃん

立ち去ろうとする私に、花ちゃんがついて来てしまうことが何度かありました。そのため最近は、花ちゃんがキャットフードに夢中になっている間に、ひっそりと立ち去ることにしています。ちょっと切ない別れなのです。

 

ところで、ジャック・デリダの「エクリチュールと差異」ですが、苦戦しています。これはとても難しい。まだ諦めてはいませんが。

文化認識論(その20) 記号から論理へ

最近、このブログの更新が滞っているにも関わらず、アクセス件数が増えています。不思議に思って、「アクセス先ページ」というところをクリックしてみますと、以下の2つの記事にアクセスが集中していることが分かりました。どちらもグーグルなどの検索エンジンで、ヒットするようになっているようです。

 

1つ目は、これ。

No. 159 文化進化論とは何か(その2)
http://ysatoshi.hatenadiary.jp/entry/2017/12/03/190446

 

「文化進化論」というアレックス・メスーディの文献に関する紹介記事がいくつかあって、その1つにこのブログの記事がリストアップされている。この本のサブタイトルは「ダーウィン進化論は文化を説明できるか」となっています。確かに魅力的なコピーです。しかし、私の意見としては、文化には5つの領域があり、進化論で説明できるものと、直線的に進歩するものとがある。例えば、ファッションだとか食品など、人々の好みによって選択されるものがあり、これらは進化する。他方、自動車の性能や時計の精度などは、確実に、直線的に進歩する。

 

この本、通読はしていませんが、私の「文化領域論」の方が優れているのではないか。我田引水で恐縮ですが、「文化とメンタリティの領域図 Version 2」を以下に添付しておきます。ちなみに、この図を円形で囲うと「曼荼羅」(マンダラ)のようになります。つまり、これは一つの世界観を示している。ユング精神疾患で苦しんでいる時期に、絵を描いていたそうで、それが後になって「曼荼羅」に近似していたことが分かったという話もあります。なお、この図では「記号系」の説明が欠落しています。いつか、Version 3を作りたいと思っています。

 

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アクセスが集中しているもう一つの記事は、次のものです。私がこれを書いたのは、このブログを始めた直後の2016年8月。現代人も、呪術に興味があるようです。そして、現代は古代に似ている。実は、そういう説もあるようです。この問題についての結論は、もう少し先送りしたいと思います。

 

No. 15 救済手段としての呪術
http://ysatoshi.hatenadiary.jp/entry/2016/08/04/202751

 

なお、このブログのボリュームですが、原稿用紙換算で3千枚を超えてしまいました。これは少し整理する必要がある。自分でも何を書いて、何を書いていないのか、分からなくなって来ました。そこで、ブログの右端の一番下になりますが「カテゴリー」を表示することにしました。まだ作業中ですが、ここをクリックすると関連する記事の一覧が表示されます。

 

ところで、新型肺炎の問題ですが、大変なことになってしまいました。

 

いつでも、私たちが最初に接するのは、記号です。例えば、ツイッターを通じて、現地の動画が配信される。例えば、人々が殺到する病院内の様子が動画に収められている。解説の文字を見る。武漢、病院、コロナウイルスなどの言葉に接する。そして、私は、その動画が映し出しているのが、新型肺炎に苦しむ現在の武漢の状況だと理解することができる。

 

すなわち、複数の記号によって、情報が構成されている。

 

いくつかの情報を検索するうちに、今度は、時間の経過に沿った因果関係を理解することになる。例えば、中国は春節で、多くの観光客が日本を訪れた。彼らを乗せたバスの運転手さんやガイドさんが、コロナウイルスに感染した。

 

他にも、こんな因果関係を知ることになる。武漢に在住している日本人を救出しなければならない。日本政府が動いた。専用機を飛ばして、国民を日本に連れ帰った。連れ帰った日本国民については、感染の有無を確認する必要がある。とりあえず、どこかに宿泊させなければならない。ところが、宿泊施設が不足し、数人の相部屋での宿泊となった。これでは、感染していない人まで、感染するリスクを負うことになる。そんな馬鹿な!

 

いくつかの因果関係を語るストーリーに接していると、そこから概念を抽出することができる。ウイルス、感染経路、隔離、治療、パンデミックなどの概念を知ることになります。

 

これらの概念を組み合わせると、そこに原理を発見することができる。例えば、今回のように人から人へ感染する場合、感染者を隔離しないと、ウイルスが伝播するという原理を発見することができる。現在、中国へ渡航すると、コロナウイルスに感染するリスクが高い、ということも原理だと思います。

 

複数の原理を組み合わせると、論理が生まれる。例えば、現在、日本政府が緊急に取り組むべき課題は、日本国内における感染の防止であり、パンデミックの阻止である。そのための方策として、中国からの渡航客を制限する必要がある。武漢から連れ帰った日本人については、早急に感染の有無を確認できるようなツールを確保する必要がある。何故ならば、日本国内でのパンデミックを絶対に阻止しなければならないからだ。

 

こうして、論理というものが生まれる訳です。何故、そう考えるのか、何故、そのように行動するのか。人がこれを説明できる唯一の手段は、論理だと思う訳です。人間が何かを認識するための最小単位の要素は、記号です。そして、人が論理に至ることのできる記号は、言葉しかない。私たちは、言葉と共にある。だから、もっと言葉を大切にしなければならない。

 

1. 記号
2. 情報
3. 因果関係
4. 概念
5. 原理
6. 論理

 

しばらく前の話ですが、国会で立憲民主党の杉尾議員が安倍総理を追及していました。すると安倍総理は自分の席から「共産党!」というヤジを飛ばしました。これは、上記の認識論からすると、杉尾議員の発言を安倍総理は情報として受け取った。そして、記号として「共産党!」という言葉を発したということになります。これでは、見知らぬ人を見てワンワンと吠える番犬と同じではないでしょうか。

 

私は、そのような人が日本の総理大臣を務めているという事実に直面し、とても悲しくなります。しかし、そのような人を総理大臣に選んでいる日本国民がいるということを考えますと、もっと悲しくなるのです。

 

上記の通り、私は、原理を発見することはできると考えています。換言すれば、私は近代主義者である、ということになるかも知れません。但し、これ以上。ポストモダニズムを批判する前に、彼らの意見も聞いてみたいと思っています。彼ら、すなわちポストモダニストの代表格は、ジャック・デリダではないでしょうか。そして、彼の代表作は「エクリチュールと差異」だと思います。とても難解でしょうけれども、読んでみたいと思っています。その結果は、また、このブログで報告させていただきます。

 

文化認識論(その19) 構造主義、ポスト構造主義、ポストモダン(その3)

ポスト構造主義は、1966年にデリダアメリカにおける講演で、レヴィ=ストロースを批判した所から始まりました。そして、1979年にフランスの哲学者であるリオタールが、「ポストモダンの条件」という本を出版します。その中でリオタールは、次のように述べます。(文献5)

 

- 近代においては、学問は「真理」に近づくものであって神話を語ることとはちがうと信じられてきた。しかしいまでは、複数の異質な知があるのであって学問が特権的地位をもつわけでもない、とだれもが感じている。西洋近代は、学問が発展し真理へ近づくことによって人間性と社会の在り方もますます進歩していくという「大きな歴史の物語」を掲げていたが、そのような真理と進歩の物語を信じた近代はもう終わったのである。-

 

リオタールの上記の言説がポストモダンの立場表明となったようです。そして、ポストモダンは、建築をはじめとする芸術文化の領域における機能主義的モダニズムからの離脱をもたらした。そして、思想的にはポスト構造主義と同義であると解釈されています。(文献6)

 

ポストモダンという思想的な潮流が生まれた背景としては、次の3要素が考えられています。(文献5)

 

1. 第1次・第2次世界大戦の衝撃
2. マルクス主義の失敗
3. 西洋中心主義に対する批判

 

リオタールが述べた「大きな歴史的物語」という言葉の意味が、今一つはっきりしないように思いますが、これは多分、ヘーゲルマルクスの思想を指しているのだろうと思います。

 

さて、ここからは少し私の推測や考え方を記してみたいと思います。

 

ポストモダン以降、思想家がいなくなった訳ではありません。しかし、その興味の対象は拡散していく。一つにはレヴィ=ストロースが神話の構造を明らかにしようと試みたことと関係があると思うのですが、文章を読んで、そこから構造を解析しようとする動きが生まれる。例えば、ロラン・バルト構造主義の思想家ですが、文芸批評に向かった。バルトは「作者の死」ということを言っていて、文芸作品の作者が誰で、その人がどういう人だったのかということには、意味がないと考えた。構造主義で考えますと、人間というのは社会的な制約の中で思考している訳で、文芸作品も例外ではない。してみると、文芸作品のテクスト(言語記号によって構築される記号体。テキストデータと同じような意味だと思います。)が重要になって来る。そして、このテクストを解析しようとして文学に向かう潮流が生まれる。

 

同じようにテクストを解析しようとして、マルクス資本論に取り組んだのが、アルチュセール。あまりに重い課題に取り組んだアルチュセールは、やがて精神を病み、奥さんを殺してしまったそうです。

 

また、ポストモダンから、ジェンダー論に向かう人たちも出てきた。これも言語学記号論との関係があって、言語による認識はカテゴリーごとに区別をするところに特徴がある。だから、男だ、女だという言語的な問題に遡って考えなければ、ジェンダー間の差別は解消されない。そう言えば、英語圏ではかつて結婚している女性を未婚女性と区別して、ミセスと言っていましたが、近年は、区別せずにミズと言いますね。なるほど、時代的には近代に該当する記号学のパースが、今日においてもその影響力を失っていないことの理由が分かります。

 

すなわち、ポストモダンと一口に言っても、その研究対象は思想のみならず、建築、文学、記号論ジェンダー論などへと拡大した訳です。

 

但し、ポストモダン(=ポスト構造主義)というのは、あくまでも「No!」と言っているに過ぎない。たった一つの真理など、存在しないよ。人間は進歩などしないよ。機能中心主義もダメだよ、といった具合に。つまり、「ではどうすればいいのか」という解決策を提示していない。その結果、「どうせ考えたって分かることなんて、何もないのさ。だったら、考えるなんて面倒なことは止めてしまおう」ということになる。

 

ざっくり言いますと、1980年頃から今日に至る約40年間、思想は停滞し、人間の頭の中は空っぽになった。ただでさえ愚かな大衆は、ますます愚かとなり、人間の認識能力は絶望的に低下した。科学的技術は進歩したものの、先進諸国における国民の知能は低下し、世界的な規模で、政治や経済、そして文化が危機に瀕することとなった。一部の人たちは、なんとか出口を探そうともがいている。しかし、未だにその糸口は見つからない。「大衆の反逆」(オルテガ)の訳者である寺田氏は、次のように表現している。

 

- すなわち現在こそまさに大衆化社会のどん詰まりである、と。大衆化社会の成熟と言わず、なぜどん詰まりと言ったかといえば、それを成熟、完成、終末と呼ぼうが「どん詰まり」はどう気取ろうとどん詰まりには違いないからである。-

 

文献4の著者である橋爪氏は、次のように述べています。

 

- 日本人に必要なのは、ポストモダンじゃなくて、むしろ、自前のモダニズムだと思う。

(中略)思想なしでも、体制は十分しっかりやっている。これからも、やっていくだろう。いまどき思想をもつなんて、人生の足手まといになるだけだ。近代主義はもう、なしですまそう。戦後思想を屑払いに出そう。既成の権威やしがらみと関係なく、自分たちの考えたいこと、気に入ったことだけを考えていけばいいじゃないか。こういう密かな思いが噴き出して、ポストモダンが人びとに迎えられたような気がする。

(中略)なるほどポストモダンもいいだろう。しかし、いくらこれまでの思想に関係ありません、という貌(かお)をしてもそうは問屋がおろさない。

(中略)だからポストモダンに行くのではなく、あべこべにもういちど近代主義にさかのぼっていくというのも面白いんじゃないだろうか。 -

 

上記の指摘は、大変示唆に富んでいると思います。日本は、産業面では近代を経験していますが、思想面では未だに「近代」を経験していない。だから、憲法の意味さえ理解できていない。ただ、思想面での歴史を考えますと、他国においてもいくつかのパターンがあるように思います。そして、古代から現代までの思想史をフルコースで経験しているのは、実はヨーロッパだけではないか。

 

ヨーロッパ・・・古代、中世、近代、現代

 

日本には近代がない。そして、共産主義も宗教と同じようなものだと解釈すると、中国にも近代がない。

 

日本、中国・・・古代、中世、現代

 

アメリカにはインディアンという古代文化を体現する人々がいますが、マジョリティである白人たちは、古代文化を持っていない。ただ、独立戦争を経ているので、近代の経験はある。

 

アメリカ・・・中世、近代、現代

 

なお、私の意見としては、近代思想のホッブズ、ロック、ルソーらの社会契約論の基盤は、キリスト教に負うところがある。宗教的な差異があって、日本人がこれを理解するのは、難しいのではないか。そして私が思うのは、古代から現代に至るまで、全ての思想史を背負って、総合性を目指した新たなアプローチが必要ではないか、ということなのです。そして、それが文化論であるべきではないかと思うのです。

 

なるほど、近代思想が考えたように人間の社会というのは「進歩」しない。しかし、私たちの社会は変化し続けている。この変化というのは、「進化」ではないのか。そう考えたのが「文化進化論」(文献2)です。

 

確かに文化とは何か、それを定義することは困難だ。しかし、文化という切り口で何かを考えることはできないか。そういう問題を提起しているのが、文献1です。

 

統計的な手法を用いて、人々の価値観や文化の変化を分析することが可能ではないか。そう考えたのが、文献3ということになります。

 

そして、素人ながら私は、文化の領域は5つあるという説を考え出した。

 

これらの動きというのは、実は、どこかでつながっているような気がします。ポストモダンの思想家たちは様々なジャンルに挑戦してきた訳ですが、そういう方法とはまるで異なる方法で、文化という現象をとらえようとする動きがある。ポイントは、総合性だと思います。科学のように細密な区分を設けない。認識方法としては、記号によって分解しない。

 

例えば、象という動物を記述してみましょう。

 

1. 象は大きい。
2. 象の鼻は長い。
3. 象には牙がある。

 

どれも正しい。従って、真理は複数ある。但し問題は、いずれの記述によっても象の全体が見えてこないところにある。但し、象という動物は実際に存在する。すなわち、真理は存在する、と私は思う訳です。

 

忘れないように、オルテガの言葉を引用しておきます。

 

- 私は私と私の環境である。もしこの環境を救わないなら私をも救えない。-

 

そう言えば、オルテガニーチェの影響を受けていたという説があるようです。

 

(参考文献)
文献1: 文化とは何か/テリー・イーグルトン/松柏社/2006
文献2: 文化進化論/アレックス・メスーディ/NTT出版/2016
文献3: 文化的進化論/ロナルド・イングルハート/勁草書房/2019
文献4: はじめての構造主義橋爪大三郎講談社現代新書/1988
文献5: はじめての哲学史竹田青嗣 西研(編)/有斐閣アルマ/1998
文献6: 哲学中辞典/尾関周二他編/知泉書館/2016

 

文化認識論(その18) 構造主義、ポスト構造主義、ポストモダン(その2)

少し話は前後しますが、サルトル実存主義についても、少し述べておきましょう。第二次世界大戦中、フランスはナチスドイツに占領されていました。戦後、フランスはパリの開放に酔いしれたそうです。しかし、ナチスドイツの悪行の数々や、広島と長崎に投下された原爆とその被害などに関する情報が出回り始めると、次第に「人類の希望」について語ることが無意味に思われてきた。そういう、厭世的な時代の雰囲気を巧みに取り上げ、人間は「自由であることを宣告されている」と主張したサルトルが脚光を浴びることになりました。人間としての存在を考える、人間には選択の自由がある、と考えるのが実存主義だと思います。

 

私の若かりし頃、実存主義という言葉はとても流行っていました。近代の日本文学も、実存主義的な傾向を帯びていたように思います。

 

例えば、ジャングルの中で集団からはぐれた若い米兵と遭遇する。彼を撃つか否か。そういう決定的な条件において、迫られる決断というものがある。(俘虜記/大岡昇平)船が難破し、食料の枯渇した極限状況において、人肉を食してでも生き延びるか否か、そういう悲劇もある。(ひかりごけ武田泰淳)これらの作品に接する時、読者は「自分だったらどうするのか」という問いに直面せざるを得ない。

 

つまり、実存主義や近代の日本文学においては、「私」ということが重要視されていたのだろうと思います。

 

他方、分析心理学のユングは、自ら統合失調症を患う。そして、「私」と向き合いながら、自らの心の中に普遍的なイメージのあることを発見していく。それが元型であって、集合的無意識という概念に結実する。(ユングは、レヴィ=ストロースよりも少し前なので、分類上は「近代」ということになるでしょうか。)

 

それが構造主義レヴィ=ストロースになると、「私」というものが登場しない。彼はいきなり、人間を集合体として見ているように思います。神話研究における彼の態度は、神話を作り出した個々人にはまるで注意を払っていない。もともと、神話というのは語り継がれるものであって、特定の個人が創作するものではない。ちょっと、まとめてみましょう。

 

実存主義/近代日本文学 ・・・ 個人(私)に注目
分析心理学/ユング ・・・・・ 個人(私)から出発し、集団に至る。
構造主義・・・・・・・・・・・ 個人には注目せず、集団のみに関心を寄せる。

 

実際、レヴィ=ストロースはその主著である「野生の思考」において、徹底したサルトル批判を行っています。そして世間は、実存主義ではなく、構造主義に軍配を上げたのでした。

 

文献5は、次のように述べています。

 

- これらの(構造主義の)思想家に共通してみられるのは、戦後の実存主義に対抗しながら、人間の自由な決断によっては左右されない要素、そのような決断そのものを可能にする条件、決断が生み出されるメカニズムなどを、主体としての人間とは別な場所に探そうとする傾向である。構造主義とは、主体の概念を否定しながら、人間についての新しい考察を可能にした方法だったと言えるだろう。-

 

この点、文献4にはレヴィ=ストロースの思想を称して「集合的な思考」であるという一節があります。ユングの「集合的無意識」に対するレヴィ=ストロースの「集合的な思考」。何故か、感慨深い感じがします。

 

ここまで来ますと、現代思想構造主義において決着を見たと言いたくなりますが、果敢にもジャック・デリダが異議を申し立てる。文献4によれば、デリダレヴィ=ストロースに対する批判の骨子は、次のようなものだそうです。

 

人間を主体として世界の中心に置き、言語は主体の自由になる、という思想がある(フッサール現象学)。しかしそれはパロール話し言葉)を中心に考えるから、そうなるのであって、むしろエクリチュール(書き言葉)について考えるべきである。エクリチュールには、主体の自由にならない“物質性”があって、主体の目の届かないところでも、壊れないで存在している。このことを頭に入れると、人間が主/言語が従、ではなくて言語が主/人間が従、と言わなければならない。レヴィ=ストロースは、文字は後から社会に持ち込まれたと見るようだが(後成説)、それでは、言葉がもともと持っているエクリチュールの働きを見ないことになる。

 

確かに、レヴィ=ストロースの方法論は、パロール話し言葉)に注目したソシュールから拝借しているので、デリダの主張にも一理あるように思います。ただ、文献4の著者である橋爪氏は、デリダによるレヴィ=ストロースに対する批判は当たらない、と考えている。

 

このデリダを筆頭格として、ミシェル・フーコー、ジル・ドゥールーズが、ポスト構造主義の3人衆と呼ばれているようです。ポスト構造主義の主張について、文献5は次のように述べています。

 

- 構造主義は、さまざまな現象から“隠された構造”を取り出すというのがうたい文句だが、その現象の扱い方はかなり恣意性を許すものだ。そのため、千差万別の構造についての解釈が登場し、さまざまな論者がこれこそ“隠された構造”だと言いあうような傾向が現れることになる。
(中略)ポスト構造主義における最大の思想的源泉は、ニーチェである。
(中略)ポスト構造主義の社会理論が、現代社会をいわば自動増殖する支配のシステムとして描き出したことはよく知られている。しかし、この像は社会批判の観点は保障するけれど、いかに社会を変革しうるかについての原理論を提出できないうらみがあった。-

 

上記の通り、ポスト構造主義に対する評価は、色々あるようです。私自身はまだ、デリダフーコーの著作を読んでいないので、論評することができません。

 

まずはギリシャ哲学があった訳で、以下に流れを記してみます。

 

ギリシャ哲学
啓蒙思想
ドイツ観念論
実存主義
構造主義
ポスト構造主義

 

(参考文献)
文献1: 文化とは何か/テリー・イーグルトン/松柏社/2006
文献2: 文化進化論/アレックス・メスーディ/NTT出版/2016
文献3: 文化的進化論/ロナルド・イングルハート/勁草書房/2019
文献4: はじめての構造主義橋爪大三郎講談社現代新書/1988
文献5: はじめての哲学史竹田青嗣 西研(編)/有斐閣アルマ/1998
文献6: 哲学中辞典/尾関周二他編/知泉書館/2016

 

文化認識論(その17) 構造主義、ポスト構造主義、ポストモダン(その1)

ご案内の通り、このブログでは様々な文化について述べてきたわけですが、「文化学」という学問は存在しない。このことは、ある側面で言えば、私にイクスキューズを与えて来た。すなわち、仮に私が間違ったことを述べたとしても、それを批判する理論も学者もいないのです。これは気楽にやって行けると思っていたのですが、ここに来て、書籍のタイトルに「文化」の2文字を付した本が、出版されている。先日購入した「文化とは何か」という本を含めて、初版の出版年順に並べてみます。

 

文献1: 文化とは何か/テリー・イーグルトン/松柏社/2006

文献2: 文化進化論/アレックス・メスーディ/NTT出版/2016

文献3: 文化的進化論/ロナルド・イングルハート/勁草書房/2019

 

このことは、単なる偶然か、それとも何かを意味しているのでしょうか? 「文化とは何か」について、私はまだ読了していませんが、訳者あとがきのこんな一文が、妙に気になったのです。

 

- (前略)本書は直接的には用をなさない本であろうが、(中略)いま自分がどこに位置しているかについて、本書はこのうえなく的確に教えてくれるだろう -

 

確かに、私が読み進めた範囲においても「私がどこにいるのか」、示唆に富んだ記述が多く見受けられたのです。そして、既読の他の文献の記述をも総合すれば、現代において文化について語ることの意味を考えることができるのではないか、と思うに至ったのです。そのためには、駆け足で思想の歴史を振り返ることになります。

 

まず、「啓蒙思想」と呼ばれる潮流があった。これは主にイギリス人とフランス人が巻き起こした思想だった。主な思想家は、次の通り。

 

・トマス・ホッブズ(イギリス)
ジョン・ロック(イギリス)
・ルソー(フランス)

 

ホッブズとロックについては、このブログの「憲法の声」というシリーズ原稿において、記述した通りです。日本国憲法の起源については、上記の3人を読めば分かります。)

 

次に、「ドイツ観念論」というのが出て来る。代表的な思想家は、カントとヘーゲルです。カントの代表作である純粋理性批判は、膨大で、大変難解な文献ですが、これを手短にまとめている記述がありましたので、以下に抜粋します。(文献4)

 

- 問題は、認識を個々人が行うところにある。私の認識は私のもの、あなたの認識はあなたのもの、でしかない。だから、真理は一つなのだが、それを認識しようとしたとたんに、めいめいが勝手な真理の「像」を描いてしまうことになる。しかもそれは、避けられないことなのだ。
 では、まったくどうしようもないかというと、そうでもない。というのは、人間には生まれついての認識の枠組み(先験的カテゴリー)というものがあって、それがみんなに共通しているからだ。空間や時間がそうなのだが、よい例がユークリッド幾何学である。誰だって、三平方の定理は正しいと思うだろう。(中略)だから、みんなの認識を持ち寄って議論すれば、その結論は、当たらずとも遠からず、ぐらいの線はいくはずである。 -

 

これは卓越した要約だと思います。今更ながら、納得してしまいます。

 

ヘーゲルについては、その主張の骨子を表わす要約というのは、見つかりませんでした。「歴史の進行は理性の本性に則って必然的な方向をもつ、といった決定論的な歴史観」(文献5)とだけ述べておきましょう。ただ、ヘーゲル支持者の側からは、この点についても誤解であるとの主張があるようです。いずれにせよ、後年ヘーゲルマルクスキルケゴールニーチェなどから批判されたようです。そして、後述するポスト構造主義者たちからも批判されることになります。

 

啓蒙思想ドイツ観念論ヘーゲルまでを「近代思想」と呼んで良いと思います。近代思想は、キリスト教の影響を受けつつ、そこからの段階的な脱却を目指していたところに特徴があるように思います。また、真理というのは一つだけあって、人間の理性の力を信頼しようという雰囲気もあったように思います。

 

そして、レヴィ=ストロースが登場し、構造主義としての現代思想が幕を開ける。レヴィ=ストロースについてはこのブログで繰り返し述べて来ましたので、ここでは構造主義の「構造」とは何か、という点に絞って記載します。レヴィ=ストロースが主張した「構造」について、文献4は数学や遠近法との関連を述べた上で、次のように解説しています。

 

- 視点が移動すると、図形は別な形に変化する(射影変換される)。そのときでも変化しない性質(射影変換に関して不変な性質)を、その図形の一群に共通する「骨組み」のようなものといういみで、<構造>とよぶ。<構造>と変換とは、いつでも、裏腹の関係にある。<構造>は、それらの図形の「本質」みたいなものだ。が、<構造>だけでできている図形など、どこにもない。<構造>は眼に視えない。その意味で、抽象的なものだ。-

 

例えば、円錐形の物体があったとします。これを真上から見れば、円に見える。真横から見れば、三角形に見える。そして、そのどちらの認識も正しい。すなわち、真実は一つではないことになる。近代思想がニュートン力学に対応していたとすると、現代思想アインシュタイン相対性理論に対応すると言えるかも知れません。文献4には、次のような記載もあります。

 

- 公理を自明のものと考えれば、証明や論証の結果は“真理”にみえる。しかし、そうみえるのは、ある知のシステムに閉じ込められているくせに、そのことに気付かず、それを当たり前と思っているからじゃないか。-こういう反省がおこってきて、当然なのだ。
 こういう反省は、数学や自然科学の内部にとどまらず、当然、社会科学や思想全般にも波及していく。ヨーロッパの知のシステムは、“真理”を手にしていたつもりで、実は“制度”のうえに安住していただけではないか。こんな疑問を、もっとも深刻なかたちでつきつけることになるのが、ほかならぬ構造主義だ。-

 

レヴィ=ストロースが残した最大の仕事は、神話の研究だった。そして、彼は上に述べた「構造」という考え方から神話を研究したのです。一つの神話を取り上げるのではなく、似たような神話をかき集める。そしてその神話群において、変化する要素と、固定されている要素を分けて分析し、その神話群における構造を明らかにした、と言われています。レヴィ=ストロースは、その結果、未開の部族の認識がヨーロッパ人のそれに劣らぬ構造を持っていると主張したのです。こうして、ヨーロッパ中心主義や植民地主義を批判した訳です。

 

こうなってくると、勢い、「未開の部族」や「原始主義」に対する憧れのようなものが生ずる。文献1は、次のように述べています。

 

- エキゾチック趣味は二十世紀にモダニズムのなかの原始主義的傾向というかたちで再浮上する。この原始主義は近代の文化人類学の成長と手をたずさえてきた。-

 

そう言われると、文化人類学から始めて、古代の文化を礼賛してきた私のような立場は、そうなのかも知れないと思ったりする訳です。

 

この話、まだ続きます。


(参考文献)
文献1: 文化とは何か/テリー・イーグルトン/松柏社/2006
文献2: 文化進化論/アレックス・メスーディ/NTT出版/2016
文献3: 文化的進化論/ロナルド・イングルハート/勁草書房/2019
文献4: はじめての構造主義橋爪大三郎講談社現代新書/1988
文献5: はじめての哲学史竹田青嗣 西研(編)/有斐閣アルマ/

文化認識論(その16) 積み残したいくつかの論点

起承転結を意識して、それなりの分量で記述したいと思うことと、そこまではいかない小さな論点というものがあるようです。しかし、この小さな論点の中にも重要な問題が含まれている場合があるように思います。今回は、現時点で積み残しとなっているいくつかの論点について、述べることに致します。

 

まず、前回の原稿で紹介致しました「文化的進化論」という文献ですが、この文献が指摘しているポイントは「文化的な争点ではなく、99% 対 1%を対立軸とした政治状況を作るべきだ」という点にあります。この「文化的争点」とは、例えば妊娠中絶の可否だとか、同性婚の可否、LGBTの人権問題などを指しているように思えます。そのような争点で戦っているのが、現在のアメリカにおける政治状況である、と筆者のイングルハートは考えている。しかし、緊急性の高い争点は、そこではない。あくまでも貧富の格差であって、そこにスポットライトを当てるべきだ。そして、問題の本質を誰もが認識できるようにすれば、民主主義の下では必ず99%が勝てる。

 

この指摘は日本の政治状況にも、そのまま当てはまるのではないでしょうか。確かに様々な対立軸があって、どれも重要ではあります。しかし、最も重要なのは富をいかに分配するか、貧富の格差をいかに解消していくか、という点にある。そして、この問題に直結するのは、税制であり、実質賃金の上昇であり、雇用形態だ、ということになる。消費税は撤廃し、法人税を元の税率に戻す。実質賃金を上げる。非正規労働という雇用形態を見直す。残業代はちゃんと払う。そういう取り組みが、重要だということになると思います。

 

この点、実はイングルハートと同じことを経済学者の松尾匡氏も述べている。松尾氏によれば、マルクスの主張には正しかったこともそうでなかったこともあった。ただ、現状は99% 対 1%の戦いになっていて、これはマルクスが述べた階級闘争と同じだ、ということになる。

 

この問題、繰り返しになりますが、最も率直に取り組もうとしている日本の政党は、“れいわ新選組”だと、私は思います。立憲民主や国民民主ではない。彼らは、税制について正しい認識を持っていない。

 

日本の現状に照らして言えば、「右翼と左翼は戦うな」ということではないでしょうか。右と左が戦うと、本当の争点が見えなくなる。上と下で、99% 対 1%で、階級闘争をおこなうべきだ、ということではないでしょうか。

 

2番目の論点として、Basic Income(以下「BI」)という問題がある。これはシンギュラリティがやって来て、ほとんどの仕事をAIがこなし、人間は仕事を失う。そうであれば、国民全員に月々、一定額を支給すれば良い、という考え方のことです。但し、イングルハートはBIに否定的な見方を示しています。人間の中には、仕事に人生の意味を見出すような人が少なくない。仕事をせず、ただ金銭をもらっても、生きがいを見つけられない人がいる、というのです。山本太郎さんもBIには、否定的な見方をしています。日本の状況を見ていると、仮にBIを導入すると、政府は「金を渡しているのだから、後は自己責任で」と言い出しかねない。困っている人それぞれに対して、例えば安価で住宅を提供するとか、きめの細かい施策が必要だと太郎さんは言っている。

 

BIと言ってもいくつかのパターンがある訳で、新自由主義者が主張するBIというのは、大体、月々7万円程度を支給するというものです。しかし、それと同時に雇用保険も年金も廃止してしまえ、というもの。月々7万円で、暮らしていけますか? 私は無理です。そんなBIなら、現状の方がまだましだと思います。

 

3番目の論点。イングルハートは、私たちに残された時間は18年だと述べている。日本の場合を考えますと、例えば、日米FTAの問題がある。これは今年の4月から交渉が開始され、年内に妥結するリスクがある。原発だってある訳で、大地震がやって来ないという保証はどこにもありません。日本に限って言えば、18年もの猶予期間は残されていないように思います。にもかかわらず、約半数の国民が政府を支持している。これはもう絶望的です。

 

そもそも「進化論的近代化論」によれば、人間の価値観は生育期に決定されるのであって、その後の変化は少ないとのこと。従って、人間集団を見た場合、その集団の価値観が変化するためには、世代交代が必要であって、そのためには概ね40年は掛かる。更に、オルテガに言わせれば、大衆の愚かさは、死ぬまで治らない。

 

すると、私たちが助かる道は、2つしかないように思うのです。そもそも文化というのは、生物の進化に似ているという説に従えば、18年以内に日本で文化の「突然変異」を起こすという道。2つ目は、他国で、特にアメリカの政治状況の変化に期待するという道。ちなみに、今年の11月に予定されているアメリカの大統領選ですが、マイケル・ブルームバーグという元ニューヨーク市長が民主党から立候補するようで、トランプに勝つのではないかという下馬評がある。ただ、このブルームバークに日本が期待できるかと言う点は、悲観的な論調が多い。

 

4番目の論点。オルテガのヨーロッパ中心主義は時代遅れで、既に、その意味を失っている。これは、時間の経過とともに生じた現象だと言えると思うのですが、ただ、オルテガは私の認識論に通ずるようなことも言っているのです。これは、「大衆の反逆」の中のある注釈なのですが、抜粋してみます。

 

(5) 精神の自由、すなわち知的能力は、伝統的に分離しえなかった諸概念を分解する能力によって計られる。概念を分解するのが、それらを融合するよりもずっと大変であることは、ケーラー(1887~1967。ドイツの心理学者。主著『類人猿の知能試験』)がチンパンジーの知能の検査で証明している。人間の悟性は、いまほど分解する能力をもったことはない。

 

私は、現代人の認識方法を「記号分解」と命名し、記号を用いて物事を分解して認識する点に特色があると述べてきた訳で、この考え方と上記のケーラーの説は一致しています。このような記述に出会ったことは、私にとって重大な発見で、心強く思うものです。また、オルテガは特に科学者に対する批判の中で、専門化が進み過ぎて、全体を見失っているという批判を加えています。つまり、総合性を回復させるべきだ、と主張しているのです。この点も、私の主張に合致します。

 

オルテガについて、もう少し調べてみたい。特に、その主著である「個人と社会」という本は、読んでみたいと思って本屋に行ったのですが、「その本は、既に流通していない」とのことでした。その後、オルテガ全集の中で「個人と社会」を収録している巻だけ購入できないか、と問い合わせたのですが、オルテガ全集自体、既に絶版になっているとのこと。残念!

 

5番目の論点。そもそも、上に記したような絶望的な状況下にあって、それでも政治について述べることにどれだけの意味があるのか。最近は、絶望のあまりツイッターやブログを止めてしまう人も少なくないようです。気持ちは、良く分かります。この点、現時点では、社会契約論から、次の箇所を抜粋させていただきます。

 

- 自由な国家ジュネーヴの市民として生まれ、主権者たる人民の一員として、私の発言が公共の政務においてどんなに微力であろうと、投票権をもつというだけでも、政務を研究する義務を負わされている。-  ルソー

 

文化認識論(その15) 私たちに残された時間

結論から言いますと、私たちに残された時間は、あと18年です。これは、私が主張していることではなくて、アメリカの政治学者であるイングルハートが「文化的進化論」(文献1)という本の中で述べているのです。文献1には「あと20年」と記されていますが、この本が執筆されたのは2018年で、既に、それから2年が経過している。よって、18年ということになります。

 

何も、地球が消滅するとか、太陽が爆発するとか、そういう話ではありません。地球上に暮らす普通の人々が、普通の幸せを追求できる社会を維持するためには、あと18年以内に人類が正しい決断を下す必要がある、ということなのです。

 

文献1はかなりボリュームのある本なので、その一部のみを紹介致します。そもそもこの本は、以下の世界的な調査結果に基づき執筆されています。

 

・世界価値観調査
・ヨーロッパ価値観研究

 

調査の期間は、1981年から2014年で、調査の対象となった国は105か国に及ぶそうです。膨大なデータを下に、統計的な処理を加えて、分析している。よって、これは科学と呼べるものだろうと思います。但しオルテガは、科学者というのは専門分野に閉じこもりがちで、彼らこそ「大衆的人間」だと指摘しており、私もその意見に賛成です。よって、この本に書かれていることが本当に正しいのか否か、それは自ら吟味して、判断する必要があるように思います。

 

まず、文献1は「進化論的近代化論」について述べています。概要は、次の通り。

 

1)人間の価値観は主に生育期に決定され、その後の変化は少ない。

 

2)生育期に自らの生存が脅かされていると感じた人は、自らの生存を維持するために必要な「物質主義的価値観」を持ちやすい。人間の生存を脅かす事柄とは、飢餓、疫病、戦争などである。

 

3)「物質主義的価値観」は、以下の傾向を持つ。
・宗教を重視する。
出生率は高い水準で維持される。
・集団内の規範が尊重される。
・よそ者を排除する。
・強力な指導者を求める。

 

4)生育期に自らの生存に不安を感じなかった場合、その人は、「脱物質主義的価値観」を持ちやすい。

 

5)「脱物質主義的価値観」は以下の傾向を持つ。
・脱宗教化(世俗化)が進む。
出生率が低下する。
・男女平等、LGBTへの理解などが促進される。
・暴力行為の発生率が下がる。
・国のために戦おうという意欲が減退する。
・環境問題への意識が高まる。
・よそ者や新しい意見に寛容になる。

 

生存に対する安心感のレベルは、人間の生育期に影響を及ぼすので、社会、経済環境の変化が生じてから、人々の価値観に変化を及ぼすまでには、タイムラグがある。すなわち、新たな社会環境が発生してから、その環境下で価値観を育んだ人が成人するためには、20年が必要で、更に、新しい価値観を持った人々が社会で影響を持つようになるためには、更なる時間が必要となる。例えば、第2次世界大戦が終結したのが1945年で、戦後生まれの人が成人したのは1965年。ただ、この時点では戦後生まれの人は少数派でしかないことになります。

 

また、人々の価値観の変化は、上記のような「生存に対する安心感のレベル」だけで決まるものではなく、各国や地域に根差した文化の影響がある。これらの文化は、一度その方向性が決まると、ひたすらその方向に向かおうとする性質(経路依存性)があるので、変化し難い。

 

「進化論的近代化論」の概要は、以上の通りです。確かにそういうことはあるかも知れないと、私も思います。この説によれば、世代によって価値観が異なる理由を説明することができます。なお文献1によれば、マルクスマックス・ウェーバーなどの古典的近代化論においては、科学的知識が普及すれば、宗教的価値観が低下すると考えられていた。しかし、実際にはそうなっていない。あくまでも「生存に対する安心感のレベル」が向上した場合に、世俗化が進む。

 

また今日、世界の政治、経済に対してその存在感を増している中国なども、いずれ民主化されるのではないか、との期待を持つことができます。例えば、「脱物質主義的価値観」を持つ世代が、やがては中国の政権の中枢に進出して来る。それらの人々は、自ら民主主義的な価値観を持っている訳で、その方向に持って行こうとするに違いない。

 

すなわち、世界中の子供や若者たちの「生存に対する安心感のレベル」を向上させれば、やがて、世界は平和になる。そう思う訳ですが、世界はそう簡単ではない。

 

文献1によれば、第2次世界大戦終結後、大国間における戦争は発生しておらず、世界各国において、経済的な発展があった。ところが、1980年代になるとイギリスのサッチャーアメリカのレーガン(そして、日本の中曽根)らが新自由主義を推進し始めた。その結果、グローバリズムとも相まって、格差の拡大が始まり、貧困層が拡大した。すると、人々の価値観が退化し、すなわち「物質主義的価値観」が復古し、ナショナリズムと排外的な政策を標榜する政党が登場するようになった、というのです。

 

そこで、富める1%と99%の戦いが始まる。しかしながら、状況を正しく認識していない人々が、例えば、アメリカではトランプに投票してしまう。文献1は、独裁主義的なポピュリスト政党への支持層について、「年長世代、低学歴者、男性、信仰を持つ層、民族的多数派」に集中していると述べています。

 

そして、人工知能が社会や経済を席捲する時代がやって来る。シンギュラリティ(技術的特異点)については、既にこのブログで述べた通りです。すると、格差は更に広がる。これ以上格差が拡大し、人々の仕事がなくなれば、普通の人々が普通に生きていくことが困難となる。このような事態を回避できるのは、政府の力をもってする以外に道はありません。政府、すなわち国家の力をもって、富の再分配を行う以外に方法はないのです。99%の人々が、状況を正しく認識して、正しく行動する以外に、危機を回避する方法はない。

 

文献1は、次のように述べています。

 

「必要なのは、現在の主な経済対立がこの99%対1%であると認識することに尽きる。」

 

(参考文献)
文献1: 文化的進化論/ロナルド・イングルハート/山﨑聖子(訳)/勁草書房/2019