前回の原稿で、物語的思考については、認識の及ぶ範囲が狭く、それでは追いつかない程ヨーロッパ人の視野が広がったため、論理的思考方法が生まれたのではないか、ということを述べました。しかし、一方、現代人である我々は、心を癒すために物語的思考、閉鎖系の世界を構築することに尽力している。例えば、子供たちは童話を読み、大人はサスペンスドラマなどの娯楽を求めている。心身症を罹患した人々は、箱庭療法によって、その治癒を目指している。このことは一体、何を意味しているのでしょうか。可能性としては、2つあるのではないか。1つ目としては、元来、人間の認識方法として論理的思考というのは、負担が大きいということ。経験の少ない子供たちにとって、それは困難な思考方法である。2つ目の可能性としては、複雑化した現代社会においては、論理的思考をもってしても、最早、世界を認識することが困難になりつつある。仮にどちらかの理由が、若しくは双方の理由が正しいとすると、人間の認知・認識方法の限界が、そこら辺にあるのかも知れない。
物語的思考・・・認識できる範囲が狭い・・・心理的負担は小さい
論理的思考・・・認識できる範囲は広い・・・心理的負担が大きい
さて、1632年にイングランドで生まれたジョン・ロックは、例えば、次のような疑問を持っていたそうです。
“もし自然科学のばあいのように、だれも疑うことのできない真理が発見されれば、宗教や政治や道徳についても人びとは争わないはずだ。それではいったい真理とはなんなのか。人間はどうすれば真理を認識することができるのか。(中略)ロックはそもそも人間はどれだけ真理を認識する能力があるのかという、いちばん根本的な問題から出発しなおさないと、いきなり道徳や宗教の問題にとびついても結論はでてこないということにきづいた。”(文献12)
どうやら、ロックは私と同じようなことを考えていたらしい。否、それは反対で、私がロックと同じようなことを考えているのかも知れません。上記の引用箇所は、“認識論”の本質であって、ロック以降の思想家たちによる考察が、その後、延々と続くことになる。
先を急がず、まずはロックが生きた時代の出来事、すなわちピューリタン革命とその後の名誉革命について、史実を追ってみましょう。何しろ、この2つの革命の後、世界で初めての近代民主国家が誕生したと言われているのですから。とてもややこしい話なので、末尾に年表を付けておきます。
文献1には、ヘンリ8世が「議会の支持のもとに国王をイギリス教会の首長とする国教会をうちたて(1534年)、つぎのエドワード6世のもとでようやく教義の面でもプロテスタントが採用された」と記されています。これが、イングランドにおける当初の宗教改革だった訳です。
しかしながら、イングランドの宗教改革には、ローマ法皇の影響を排除するという政治的な目的が秘められていた。そのため、その実態はカトリック式の教義を採用するなど、中途半端なものだった。そして、もっとピュアな教会を作るべきだと考えたピューリタンの人々が立ち上がった。これがピューリタン革命の起源だと思われます。このピューリタン(清教徒)と呼ばれる人々はカルヴァン主義で、ストイックに聖書の教えを実践していた。反面、政治的にはかなり過激な集団だった。ここに、3面的な当事者関係が成立する。
カトリック・・・ローマ教会。当時、フランスでは、カトリックが支配的だった。
イングランド国教会・・・形式的にはプロテスタントだが、改革は不十分。
プロテスタント・・・ピューリタン(清教徒)、カルヴァン主義。
更に事態を複雑にしたのは、マグナカルタ以来、脈々と引き継がれてきたイングランド固有の議会制だった。王権の強化をたくらむ国王派は、概ね、国教会又はカトリックを支持し、議会派はプロテスタントを支持していた。1628年、議会派は時の国王、チャールズ1世に対し、“権利の請願”を行う。これはマグナカルタ同様、国王の権利を制限しようとするものだった。議会派は特に、国王が新たに徴税する際には、議会の承認を得るよう求め、チャールズ1世も、一度はこれを認めた。しかし、チャールズ1世は前言をひるがえし、翌1629年に議会を解散してしまう。以後、11年間に渡って、イングランドの議会は開催されず、国王による独裁政治が続く。
そんな最中、ロックが生まれる。ロックの家系は、先祖から相続した土地を保有していた。裕福ではなかったが、貧困層という訳でもなかった。両親はプロテスタントで、ロックもルターやカルヴァンの信仰を引き継いだ。ホッブズの信仰心がはなはだ怪しかったのに比べ、ロックは生涯を通じてキリスト者であった。
1639年、国王はスコットランドとの対戦に必要な戦費を徴収する必要に迫られ、しぶしぶ議会を招集する。議会派の中の急進派は、それまでの国王の横暴に対し“大抗議文”を出して、国民にその支持を訴えた。国王側がこれを拒否し、1642年に武力衝突が勃発した。これが、50万人に及ぶ死傷者を出したと言われるピューリタン革命勃発の経緯である。
革命勃発から7年が経過し、革命派(議会派)が勝利を収める。1649年、国王チャールズ1世は、ギロチンによる公開処刑を受ける。これは、当時の人々にとっても、かなりショッキングな事件だった。革命派は、少しやり過ぎではないのか。そういう雰囲気が国民の間に醸し出されたこともあり、以後、政権を取った革命派は穏健な政策を取り始める。
中産階級は革命の成果に満足していたが、言わば骨抜きになった革命政権に対し、今度は、貧困層が不満を持ち始めた。あの、革命は何だったのか。革命の後にも、自分たちに幸福はやって来ない。革命は失敗だったのではないか。国民はほとほと疲れ果てると共に、国王派が勢力を盛り返し、1660年、フランスへ亡命していたチャールズ2世がイングランドへ帰国し、王政が復活する。しかし、その後チャールズ2世は、ピューリタンに対する迫害を始める。
1685年に死去したチャールズ2世には、子供がなかった。そこで、弟のジェームズ2世が王位に就く。残念ながら、このジェームズ2世という男が、またまた悪い男だった。(個人的な感想です。)カトリック国だったフランスと結託し、再度、イングランドをカトリック化しようとしたのである。
業を煮やした議会派は、1688年にオランダのウィリアム3世とその妻、メアリにイングランドの国王へ即位するよう要請した。何故、外国人にそのようなことを要請したのか、と思う訳ですが、まず、議会派の狙いはメアリにあった。彼女は、ジェームズ2世の娘だったので、血筋上の問題はなかったし、プロテスタントだったのである。更に、彼女の夫もプロテスタントだった。当初議会派は、メアリだけを女王に迎えようと希望したが、ウィリアム3世の希望があったので、共同してイングランドを統治するという条件で、2人を迎え入れたのである。オランダから軍隊を率いてウィリアム3世がやって来ると、イングランドの国民はこれを歓迎し、ジェームズ2世は国外に逃亡した。流血なく達成されたので、この革命は、名誉革命と呼ばれた。
翌1689年、議会は新国王となったウィリアム3世とその妻メアリに“権利の章典”を承認させた。ここに近代、議会制民主主義国家が誕生したのである。
概ねご理解いただけたでしょうか。
王政 → ピューリタン革命による議会制 → 王政復古 → 名誉革命による議会制
人間の社会というのは、なかなか進歩しない。3歩進んで2歩下がる。そんな具合にしか、動いていかないんですね。この原稿を書いているだけで嫌になってしまいますが、しかし、当時のイングランドの人々や、この一連の革命プロセスで命を落とされた方々にしてみれば、それはもう大変な時代だった訳です。
そのような時代を生きたロックは、元来、静かに暮らしたいタイプの人間だったようですが、政治的な動向について、「われわれのすべての運命が掛けられており、われわれは、それとともに泳ぐか沈むかしなければならない」(文献13)と考えていたそうです。
<ロック年表>
1215 イギリスにおいて、マグナカルタが制定される。
1588 ホッブズ誕生(~1679)
1618 30年戦争(~1648)。主に神聖ローマ帝国を舞台として繰り広げられたカトリックとプロテスタントの戦争。後に、ヨーロッパ各地を巻き込む。約575万人が死亡。
1628 権利の請願。
1632 ジョン・ロック誕生(~1704)
1642 ピューリタン革命(~1649)
1649 国王チャールズ1世は、ギロチンにより処刑される(議会派が勝利)。
1651 イングランドにて“リヴァイアサン”出版。ホッブズ、イングランドへ帰国。
1660 王政復古。イングランド国民は、フランスへ亡命していたチャールズ2世の帰国を歓迎した。しかし、その後チャールズ2世は、ピューリタンに対する迫害を始める。
1667 ロックは「宗教的寛容論」を執筆。
1683 ロックは「統治二論」を執筆。議会派に属していたロックは、国王派の弾圧を怖れ、オランダへ亡命。
1685 チャールズ2世が死去し、ジェームズ2世が即位。
ジェームズ2世はカトリック化政策を強力に推進。
1688 名誉革命。
1689 イギリスの議会は、新国王となったウィリアム3世(オランダ総督)とその妻、メアリ(ジェームズ2世の娘)に“権利の章典”を承認させた。
1689 ロック、イギリスへ帰国。ロックの「統治二論」が出版される。
1696 ロック、アイザック・ニュートンと親交を持つ。
1704 ロック死去。享年72才。
文献1: 新 もう一度読む 山川世界史/「世界の歴史」編集委員会/山川出版社/2017
文献12: ロック/田中浩 他/清水書院/1968
文献13: ジョン・ロック/加藤節/岩波新書/2018