文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

文化認識論(その31) 何が正しいのか

近代思想の象徴としての日本国憲法を考えますと、実は、これはとても自制的なものだと言えます。権力側に対しては、3つの規制を掛けている。平和主義、基本的人権の尊重、国民主権。他方、一般国民に対しては、ほぼ何も言っていない。どのような思想を持とうと、どのような価値観を持とうと、それは自由だと言っている訳です。すなわち、憲法が想定している規範には、空白の領域がある。一般国民が守るべき規範は法律に書いてある、と言う人がいるかも知れません。しかし、法律をもってしても、一般国民の思想や価値観を拘束することはできない訳で、やはり憲法を頂点とする法治主義の体系には、その対象に空白の領域がある。

 

別の見方をしますと、憲法は、公的領域と私的領域に分けて、公的領域(権力者側)を拘束することによって、私的領域(一般国民)の自由を保障しようとした訳です。そこが素晴らしいと憲法学者は言うのでしょうが、では、私的領域に対して言うべきことはないのか、と私は思う訳です。私的領域に言及すること、それは確かに憲法が果たすべき役割ではないかも知れません。しかし、現在の私たちの文化には、決定的にそれが欠けている。かつては宗教がその役割を果たしていたのでしょうが、現在その有効性は、ほぼ消失している。結局、何が正しくて、何が間違っているのか、そのことに対する社会的な共通認識というものが、欠落している。だから、こんなに息苦しい世の中になってしまったのではないか。

 

ミシェル・フーコーエピステーメーという概念を提唱した。歴史的な時間軸で考えると、私たちが当然のこととして認識している社会的な慣習や、常識や、思想さえもが依存している地下のグリッド線のようなものがあって、それは絶えず変化し続けている。従って、そのエピステーメーに依存している限り、私たちは、普遍的な真理に辿り着くことができない。これがフーコーの考え方ですが、そこには深い断念がある。

 

実は、憲法における空白の領域と、フーコーの断念は、同じルーツを持っているのではないか。そして、その断念にこそ、近代思想の本質がある。

 

理性ばかりに注目して、狂気から目をそむけてきた近代。そう言って、「狂気の歴史」を執筆したフーコーは、近代思想に対するアンチテーゼとして登場した訳ですが、本当にそうでしょうか。そもそも近代思想というのは、ホッブズまで遡れば、宗教戦争に対する反省から生まれたものです。ドイツの人口を3分の1まで減少させてしまった宗教戦争。これは、狂気そのものの歴史だと思います。

 

ちなみに、フーコーの「狂気の歴史」については、ジャック・デリダが噛みついて、大変な論争を繰り広げたそうです。結局、ポストモダンと呼ばれるフーコーも、近代思想を超えていないのかも知れませんが、この点は、別途検討したいと思います。

 

さて、無謀であることは承知で、私的領域における価値観について、少し私の考え方をまとめてみたいと思います。

 

1. 全ての生物は、生きようとしているし、人間も例外ではない。それは人間の本質であって、誰も生きようとする人間の試みを否定することはできない。
2. 人間は、生存戦略としての文化を醸成してきた。文化とは、人間が生きようとする試みの体系である。
3. 但し、環境は刻々と変化しているのであって、私たちが将来も生き続けるためには、私たちの文化を前進させる必要がある。
4. よって、文化を前進させようと試みること。それが私たちにとっての正義である。反対に、文化を後退させ、または停滞させようとする試みは悪である。

 

結局、憲法が発するメッセージも、一言で言えば「みんなで生き延びようぜ!」ということだと思います。

 

平和主義・・・戦争なんかやったら、人々が死んでしまうからダメだよ!
基本的人権の尊重・・・弱者や貧者も、一緒に生き延びようぜ!
国民主権・・・みんなで生き延びるために、国民主権の国家を設立しよう!

 

もちろん、愚かな私たちは過ちを侵すに違いありません。何が正しくて、何が誤りなのか、そんなことは分からないのです。この点は、フーコーの意見に賛成です。従って、それが正しいと思って行われた全ての試みは、許容されるべきだと思います。失敗なんて、いくらしたっていい。チャレンジせよ! ・・・と私は思います。

 

ふと思うのですが、仮にこの世に神が存在するとしたら、それは人間である私たちのことではないか。地球上の食物連鎖の頂点に君臨し、あらゆる生物進化の最先端に位置する。だから、私たちには、それだけの責任がある。自然に対して、地球上の生物に対して、そして、私たち自身の未来に対して。

 

一方、公的領域についてですが、どうやら愚かな大衆が主役となる民主主義には欠陥がある。それはとても深刻な欠陥だと思う訳ですが、今のところ、それに代わる制度は発見されていない。そうであれば、民主主義を前進させる以外に手はないように思います。また、公的領域をつかさどる政府には、論理的な意思決定と徹底した説明責任を求めたいと思います。そうでなければ、国家としての危機管理ができない。私たちは、生き延びることができない。

 

東京で、新型コロナの感染者が増えていますね。とても心配です。