<認識方法の変遷>
1. 真似る・・・観察、関係性、自然記号
2. 融即律・・・想像力、関係性
3. 介在原理・・・想像力、概念、関係性
4. 物語的思考・・・想像力、概念、因果関係、話し言葉
5. 論理的思考・・・観察、想像力、概念、因果関係、文字
6. 記号分解・・・記憶力、人工記号
毎回、「1番から4番までの認識方法」と述べるのは、煩雑です。そこで、これを指して言う良い言葉はないだろうか、と考えた訳です。「想像的認識」という言葉も考えたのですが、1番には「想像」という要素が記載されていない。そこで「芸術的認識」又は「芸術的認識方法」という言葉を考案しました。1番から4番までの認識方法は、これを発展させて行きますと、いずれの項目も「芸術」に結びつくからです。復習しますと、芸術的認識、芸術的認識方法とは、無文字社会の人々が行っていた認識方法を意味します。何だか、どんどん複雑になって行き、恐縮です。
ところで、子供たちの遊びについて考えますと、実は、この芸術的認識方法を用いて、外界を認識しようとしているのではないかと思えて来ます。例えば、女の子が好きなママゴトというのは、親の真似です。絵を描くのが好きな子供も、少なくありません。
ちなみに私は千葉県で育ったのですが、当時はまだ自然に恵まれていました。自転車に乗って20分も走ると、カブト虫が採れたりする。採ってきたカブト虫をカゴに入れて飼うことになります。母親にもらったスイカの皮だとか、キュウリの切れ端などをやると、カブト虫がそれにしがみついて、果汁を吸うのです。それを見た時、私は本当に嬉しかったのを覚えています。この現象は、介在原理で説明できます。
私 - スイカの皮 - カブト虫
子供たちの遊びというのは、一見、無意味に思えますが、実は、この芸術的認識方法によって、彼らなりに学んでいるのではないでしょうか。
芸術的認識の反対概念として、記号分解という現代人の認識方法を考えることができます。そもそも「分解」というのは広辞苑によれば、「一体をなすものを個々の要素に分けること」とあります。例えば、世の中に存在する物質を分解していくと、元素という単位に行き着く。これらに記号を付して、人間は物質を認識しています。うろ覚えですが、窒素はNで炭素はCとか、水はH2Oということになる訳です。これは素晴らしい。水は水素の粒子2つと酸素の粒子1つで出来上がっている。良くこんなことが分かったものだと感心してしまいます。このように記号を用いて、何かを分解し、認識する。これが、記号分解という認識方法です。元素に分解して、元素記号を付して認識する。私はこの事例に何の異議もありません。
では、“時間”はどうでしょうか? 時間というのは、連綿と続いている訳で、これを分割することなど不可能ですが、現代人は年月日に分けて、これを認識している。時計を見れば、分単位、秒単位で現在時刻を認識することができる。しかし、“時間”とは何か。これを説明できる人は少ないのではないでしょうか。私にも、それはうまく説明できません。従って、記号分解に関するこの事例について、私は、疑問であると言わざるを得ないのです。
次に、“色彩”はどうでしょうか。色彩というのも本当は多種多様なはずですが、例えば、「これは茶色だ」などと、現代人は勝手に決めつけて認識している。茶色の絵の具に黄色の絵の具を混ぜるとオレンジ色になる訳ですが、本当は、茶色とオレンジ色の間にも、無数の色彩が存在する。従って、記号による名称を付して色彩を正確に認識することは、ほぼ、不可能だと思います。“音”も同じです。音も多種多様で、無数の音素が存在する。無数に存在する音素の中から、日本語であればアイウエオなどの音素を抽出して言語化している訳ですが、その言語によって馬のいななきを表現することはできない。楽譜によって、表現できることも限られていますね。このように連綿とつながっている事柄を、記号によって分解したところで、本当のことは認識できないのではないでしょうか。
日本は、今年IWOを脱退するまで、調査捕鯨を行って来ました。これは建前上、クジラの生態などを調査する目的で行われてきた訳です。クジラを殺して解体し、例えば胃袋の中を見ると、クジラが何を食べているのか分かる。心臓や肺など、他の臓器も調査の対象になるでしょう。しかしこれに対して、そんなことをしても重要なことは分からない、という反対意見があります。例えば、南氷洋のどこかでオキアミが大量に発生すると、何故か、そこにクジラが集まって来る。オキアミの群れを発見した最初のクジラが、実は、他のクジラを呼び寄せているのではないか。そもそも、2次元の地上であれば、人と人が出会うことは容易だ。しかし、真っ暗な3次元の海の中で、どうやってクジラの雄と雌は出会っているのだろう。このようにクジラの生態は、未だに謎に包まれている訳です。そして、これらの謎がクジラの魅力を高めている訳ですが、いくらクジラを解体してみても、これらの謎を解くことはできない。生きているクジラの行動なり生態を観察することによってしか、すなわちクジラを分解せずに、総体として、ありのままのクジラを観察することによってしか、クジラが秘めている謎を解くことはできない。
このように記号分解という認識方法は、ある意味、科学的ですが、欠陥もある。世の中には分解できない事柄(色彩や音)があるし、分解しては返って分からなくなってしまうことがある。分解した途端に、掌から砂が零れ落ちるように、重要な何かを秘めている部分が見えなくなってしまう。そういう本質的な欠陥を持っている。それが、記号分解という認識方法だと思うのです。
反対に、芸術的認識方法はどうでしょうか。例えば、アイヌの人々が美しい鶴を観察する。その動きを真似てみる。そして、“鶴の舞”という踊りができあがる。このプロセスにおいて、零れ落ちていく要素というものは、多分、存在しない。アイヌの人々は、鶴の総体を見ているのであって、それを分解しているのではないと思うのです。
思えば、芸術というのは、そういうものではないか。つまり、記号によっては表わしえない何か、それを表現するのが芸術であると。ジミ・ヘンドリックスの音楽は、音符にできない。ピカソやジャクソン・ポロックの絵画を、何らかの別の方法で説明することはできない。小説は、文字という記号そのものによって成り立っているものの、そこに表現される何かを、別の記号に置き換えることはできない。
ところで、この記号分解という認識方法によって、人間を認識できるか、という問題があります。もちろん、答えはNOですね。しかし、大人は様々な記号によって、子供たちを分解し、認識しようとする。元来、彼らは芸術的認識方法を用いて遊んでいるのに、大人は彼らを学校に縛り付け、学科毎にテストを受けさせ採点し、評価する。
私は学校が嫌いでしたが、その理由がよく分かりました。