文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

反逆のテクノロジー(その13) 人間のデフォルト

工場を出荷する段階でのコンピュータは初期設定の状態にあり、これをデフォルトと言う。人間にも、同じことが言えるのではないか。生まれたての人間の状態、人間の初期設定の状態は、どうなっているのだろう。

 

かつて西洋人は、世界各地を訪れ、先住民たちを観察した。すると、どの民族も信仰を持っていることに気づく。そこで西洋人は、人間は生まれながらにして、換言すればそのデフォルト状態において、神という概念を持っていると考えた。これに対し、ジョン・ロックは「生まれたての人間の心は白紙なのであって、その内実は経験によって醸成される」と考えた。これが「経験主義」と呼ばれる思想だ。このような考え方に似たことを私も考えている訳だが、そのアプローチは少し違う。そもそも人間の心は、その初期設定状態において、正常なのか、それとも最初から狂いを生じているのか。そういう疑問がある。私は今日まで、人間の心というのはその初期設定状態においては正常なのであって、誤った教育を受けたり、過酷な経験をしたりすることによって壊れていくのだろうと考えてきた。しかし、本当にそうだろうか? いくつかの事例を通じて、そのことを考えてみたい。

 

まず、私が敬愛しているイワム族の事例を取り上げたい。私がイワム族を知ったのは、吉田集而氏の著作「性と呪術の民族誌」(平凡社/1992)を通してのことだった。吉田氏は民俗学者であると共にフィールドワーカーであり、パプアニューギニアに何年か滞在し、その経験をこの文献において活写している。それは小説のようでもあり、私は、この本に魅せられた。そして、吉田氏がイワム族を愛したように、いつか私の心の中にもイワム族が棲みついた。私の呪術に対する考え方などは、この本に拠るところが大きい。

 

著作の年次は逆になるが、その後、私は同じく吉田氏の著作である「不死身のナイティ」(平凡社/1988)を読んだ。しかしこちらの文献は、驚くべき記述から始まる。まず、イワム族のグループAの男が、グループBの男によって殺害される。怒ったグループAは、だまし討ちを掛けて襲撃し、グループBを皆殺しにしてしまう。そして、殺害したグループBの死体を持ち帰り、皆で分け合って食べたというのだ。1956年のこと。あまりの記述にショックを受けた私は、この本をそれ以上読み進めることができなかった。飢えたピラニアなどが、水槽の中で共食いをすることはあるだろうが、人間以外の哺乳類において、共食いなどということはあるのだろうか? そもそも人間は、狂っていないか?

 

カニバリズムは、イワム族に固有の現象かと言うと、そうではないらしい。「暴力の人類史」(スティーブン・ピンカー/上巻/青土社/2015)から、引用させていただこう。

 

- カニバリズムは長い間、原始的な残忍さの見本と見なされてきたが、文化人類学者のなかには、カニバリズムの報告は隣接する部族による「血の中傷」〔差別や虐殺の口実として、でっちあげられた事実無根の噂〕だと片づける者も少なくなかった。しかし、近年の法医考古学の研究により、カニバリズムは先史時代に広範囲に行われていたことが明らかになった。人間の歯形がついた人骨や、動物の骨のように折ったり火を通したりして、食べ物のゴミとして捨てられたものなどが証拠として見つかっている。 -

 

次に、ミシェル・フーコーの「監獄の誕生」(新潮社/発行2020。フーコーの執筆は、1975年)を取り上げたい。私は、この本をまだ読み始めたばかりだが、こちらもショッキングな描写から始まる。それは1757年のパリにおける死刑執行の様子である。まず、死刑囚の体に灼熱した“やっとこ”を押し付ける。そこに溶かした鉛などを浴びせかけ、最後は、死刑囚の四肢をロープにつなぎ、それぞれのロープの端を馬に曳かせたという。そしてこの刑罰は、公衆に公開の上で執行されたとのこと。繰り返しになるが、私は、この手の話が苦手だ。フーコーの著作なので、読み進める覚悟はしているのだが。

 

このように残酷な刑罰の方法というのは、フランスや西洋に固有の事象だったのかと言うと、そうではないのだろうと思う。日本においてもかつては打ち首、晒し首、切腹などの刑罰が執行されていたはずだ。

 

現代に目を転じてみよう。トランプは今日までに「消毒液を注射すればコロナは治癒するのではないか」とか「コロナの99%は完全に無害だ」などと発言している。現実には、ホワイトハウスクラスター化し、既に21万人の米人がコロナで死亡している。これが世界一の軍事力を誇るアメリカの実情かと思うと、背筋が寒くなる。

 

日本では今年の8月に1845人が自殺したとのこと。これらは遺書が発見されたケースだけだろうから、実際にはもっと多くの方々が自ら命を絶っているに違いない。コロナ禍の影響で経済が停滞し、派遣社員の多くの方々が職を失っている。その影響から、女性の自殺者が急増しているらしい。現在の日本だって、狂っていないだろうか?

 

歴史上のジェノサイド(大量殺戮)を数え上げれば、きりがない。

 

そうしてみると、人間というのはその初期設定の段階において、既に狂気を孕んでいると考えた方が自然ではないだろうか。そして、その狂気は人間集団におけるマイノリティにおいて顕在化するばかりか、時として、マジョリティを構成する人々を凶行に走らせる。歴史を通じて、人間社会から狂気が消え去ったことはないのではないか。私たちは、現在も狂気と向き合って、日々の暮らしを立てているに違いない。今も狂気は犯罪を生み、人々の精神をむしばみ、時に自殺に走らせ、社会を狂わせている。

 

こういうことを考え始めると、その人は最後には「自分は狂っていないか?」という疑問に行き当たると、何かの本に書いてあった。私が狂っている? そうかも知れないし、そうでないかも知れない。それは、誰にも分からないのではないか。人間の認識能力というのは、極めて不確実で、限定的なのだから。