ミシェル・フーコーは、人間が自ら生きているその時代のエピステーメーを認識することは不可能だと考えていた。そうかも知れない。何しろ、思考の前提から情報から、全て、その時代のエピステーメーに依存しているのだから、それを第三者的に、若しくは客観的に認識することは不可能、又は極めて困難だと言わざるを得ない。しかしフーコーは、「現在」について思考せよ、とも言っている。もちろん、私たちが最も知るべきエピステーメー、それは現在のそれであるのだから。
ところで、このブログでは過去の歴史を4つの時代に区分して、それぞれの認識方法や社会制度について検討してきた経緯がある。今思えば、これはフーコーが提唱したエピステーメーという考え方に似ている。では、現代をどう表現するか。それは「経済的認識」と「グローバリズム」と表現するのが分かりやすいのではないか。以前提示したもの(2020.02.18 文化認識論 その23)を若干バージョンアップしたものを以下に示す。
古代・・・芸術的認識・・・シャーマニズム
中世・・・宗教的認識・・・君主制
近代・・・科学的認識・・・国家主義(民主主義 & ファシズム)
現代・・・経済的認識・・・グローバリズム
自然科学が目覚ましい発展を遂げた近代においては、人間や人間社会を対象とする学問もそれにならって科学的であろうとした。そして、社会科学、人文科学という分野が登場する。近代思想を象徴する一つの言説として、日本国憲法がある。私はそこに記載された理念を支持している。しかし、日本国憲法が地域に根差した村落共同体や、職業単位で構成される同業者組合のような中間集団を解体してきた、との指摘もある。いずれも憲法22条によって、居住及び移転の自由が保障され、職業選択の自由が認められたからに他ならない。つまり、近代思想はそれらの中間集団に依拠する社会像を捨てて、国家という単位で秩序化を図ろうとするものだったのだ。
そして、グローバリズムが登場する。グローバリズムは、国家という単位を否定し、世界標準で人間の社会を運営していこうとする思想に他ならない。但し、グローバリズムが破壊したのは、国家だけではない。本来、国家だけが持ち得た基本的人権の尊重や、法治主義という理念さえも破壊してきたのだ。例えば、日本国内で殺人事件が起きたとする。すると、日本には警察機構があって、それが国家権力を背景として、犯人を逮捕し、刑事裁判に付すことができる。一方、例えば中国がウイグル自治区などで少数民族の人権を蹂躙しているということは、ほぼ確実な事実だと思えるし、最近の香港における人権弾圧には目を覆いたくなる。しかし、日本はこれらの問題に介入することができない。日本のみならず、国際社会全体が問題を解決できずにいる訳だ。すなわち、国家の内部であれば、警察力によって秩序を維持することが可能だが、国際社会においては、この強制力が働かない。もちろん、条約や国際的な協定は存在する。しかし、これらは強制力を持たないため、実効性が担保されていない。最終的な強制力ということで言えば、それは軍事力を用いた戦争ということになるが、核兵器が拡散してしまった今日において、戦争は現実的な解決手段たり得ない。
加えてグローバリズムは、文化をも破壊してきたのだ。文化はそもそも、制限された時間や空間の中においてしか、成立しない。相撲には土俵があり、野球は野球場で、コンサートはコンサートホールで行われる。そのような制限(リミット・セッティング)があるからこそ、人間は認識することが容易となり、文化の内実を楽しむことが可能となるのだ。日本各地には、それぞれの民謡や民話、そして祭りがあった。それらは衰退する一方で、代わって出てきたのがサッカーなどのグローバルで行われているスポーツや、ハロウィンなどのイベントである。こうして、エンターテインメントの世界まで、規格化、画一化が進んでいる。
もっと深刻なのは、現在、日本語が危機的状況にあることだろう。かつて、日本語には美があった。「円かな月に、夢を結ぶ」。かつて私たちの日本語には、このような美しさがあったが、失われてしまった。いくつか理由があるのだろうと思う。1つには、現代の日本から美しい自然が失われてしまったということがある。美しい自然を描写するから、美しい言葉が生まれる。もう1つには、日本語の世界にアルファベットや数字が頻繁に登場するようになったこと。もしあなたの身近にペットボトルや缶飲料があれば、手に取って眺めて欲しい。そこにはアルファベットが記載されているはずだ。これら商品の世界に加え、エンターテインメントの世界にもアルファベットや数字が浸透しつつある。AKB48の例を出すまでもないだろう。またインターネットの世界には、アルファベットが溢れている。YahooとかGoogleなど。例えばフランスでは、無闇に外国の文字を使用することは、法律で禁止されているらしい。中国も同じではないか。かつて中国を訪れたとき、街の看板に「電脳」という文字を見たことがある。なんとなく、電子を使った頭脳、すなわちコンピューターのことではないかと思ったので、記憶に残っている。
日本語から美が消えてしまった今日、果たして日本文学は成立するのだろうか? 私は、懐疑的にならざるを得ない。
グローバリズムが何をもたらしたかと言うと、それは経済原則に基づく権力のシステムだろう。拝金主義、弱肉強食の新自由主義と言ってもいい。これらは地球環境をひたすら破壊し、人々の経済格差を拡大した。
このシステムを運営している連中が、権力者ということになる。それはアメリカかも知れない。国際金融資本と呼ぶべきかも知れない。あるいは、陰謀論の文脈で語られるロスチャイルドやロックフェラーなのかも知れない。私は一次情報を持っていないので、確定的なことは言えないが、そういうこともあり得るような気がする。しかし、権力者が誰なのかということが最も重要な問題なのかと言うと、そうではない。見えにくい権力者を探し出すことよりも、私たちがこのシステムから抜け出すことの方が、余程、重要だと思う。
では、このシステムがどのような手口で大衆を管理しているのか、考えてみる。列挙してみよう。
・情報を与えない。
・不安を与える。
・気晴らし(エンタメ)を与える。
・考える時間を与えない。
・金を与えない。
一般に愚民政策として語られる内容と重複していると思う。2番目の「不安を与える」というのは、仮想敵国を作って、その脅威を喧伝するという方法だ。日本で言えば、北朝鮮からミサイルが飛んで来るとか、中国に尖閣を奪われるとか、そういう情報がこれに当たる。しかし、ミサイルは一向に飛んで来ないし、尖閣よりもむしろ中国に北海道の土地を爆買いされていることの方が、余程脅威ではないのか。4番目の「考える時間を与えない」というのは、特に、学校の教員にその傾向が強いように思う。子供というのは権力者にとって他者であり、教育を司る教員たちが本気で考え始めては、子供たちに影響が及ぶ。それをシステム側の人間は恐れているに違いない。だから教員は皆、忙しいのだろう。そして最後の「金を与えない」ということだが、ここらがポイントだと思う。大衆が経済的に裕福になれば、彼らは勤勉に働かなくなる可能性がある。そして、価値観が多様化する。システムを運営する側にとってみれば、これこそが最大の脅威なのではないだろうか。大衆を貧しくさせておく。そして、コロナ禍の真っ最中であるにも関わらずGo Toトラベルなどというキャンペーンを打つと、中高年の支持率が一気に上がる。携帯電話の料金を下げると言えば、貧しい若者たちがこぞって政府を支持する。
日本の状況を見ると総理大臣などの権力者とそれに隷従する大衆というのは、基本的に同じタイプの人間ではないかと思える。そこら辺の仕組みについては、既にオルテガの「大衆の反逆」にて検討したので、繰り返さない。なお、権力者や大衆の愚かさについては、エティエンヌ・ド・ボエシという人が書いた「自発的隷従論」という本がちくま学芸文庫から出版されていて、こちらも参考になる。
但し、この権力側が運営するシステムも疲弊している。あちこちに亀裂が入り、軋み音を立てている。こんなシステムをいつまでも続けられるはずがない。別の言い方をすれば、彼らはシステムを維持するために必死になっているに違いないのだ。私には、彼らの断末魔の叫びが聞こえる。
グローバルで見た場合、やはりインターネットの影響は大きいに違いない。政治的な情報は、ツイッターで瞬時にして拡散する。ここまで来ると、誰もネットの勢いを止めることはできない。消費税の欺瞞は暴かれ、MMT(Modern Monetary Theory)も拡散しつつある。従来シンギュラリティとの関連で語られていたBasic Income(“BI”)の論議が、コロナ禍を契機として急速に高まりつつある。コロナだから、大衆は働けないのだ。働けないから、政府が金を刷って配れ、という論議が高まっている。ちなみに、BIには2種類あるので、ご参考まで。
“天使のBI”・・・現在の年金制度や生活保護制度を維持しつつ、インフレターゲットが達成されるまで、BIとして国民に金銭を給付するというもの。山本太郎氏、池戸万作氏などが主張している。
“悪魔のBI”・・・年金制度や生活保護制度を廃止し、一律、7万円をBIとして給付するというもの。悪名高き竹中平蔵が主張している。(月7万円で暮らせるはずがない!)
地球環境は急速に悪化しており、現在のシステムを継続する訳にはいかない。私が子供だった頃、夏でも30度を超えると大騒ぎだった。今の日本の夏は異常だ。北極の氷が解けると、北欧の国々が沈み、国土が縮小する可能性がある。
コロナ禍がどうなるか、それは誰にも分からないが、この冬にパンデミック(第3派)が発生する可能性がある。アジア諸国においては、未だ謎の理由(ファクターX)によって、死亡率は高くない。しかし、欧米諸国での死亡者数には愕然とさせられる。
コロナなので、在宅勤務、リモートワークを推進しろという説もあるが、これには限界がある。そもそも会社においては、仕事を通じて、上司が部下を手取り足取り教育する必要がある。これをOJTと言うが、リモートワークではこのOJTが機能しない。ある程度自律的に仕事をこなせるのは、一部のマネージャークラス以上の従業員に限定される。すると、そもそも会社という組織自体、そのあり方が問われるかも知れない。アウトソーシングが加速し、会社はどんどん空洞化する。働ける個人は会社と雇用契約を結ばず、出来高払いの請負方式に変わっていくかも知れない。
いずれにせよ永遠に続くエピステーメーなど、存在しない。今のシステムが、永遠に続くなんてことは、あり得ない。世界のどこかの国で、何かが起こり、新しいエピステーメーが世界を席巻する。そういう日が来るに違いないのだ。
但し、その起爆剤となる国は、日本ではないだろう。日本では、既にほとんどの機構が、システムに飲み込まれてしまった。新しい時代と文化、その芽が出てくるのは、ヨーロッパのどこかの国ではないだろうか。
ひとまとまりの原稿としては、以上で終わりだが、どうしても書いておきたいことがもう1つある。やはり、人類の歴史というのは、秩序化、システム化のプロセスだと思う。そして、各時代のシステムが対象としてきた人数というのは、着実に増加してきたのだ。大雑把に記してみよう。
古代・・・シャーマニズム・・・70人
中世・・・君主制・・・・・・・7千人
近代・・・国家主義・・・・・・7千万人
現代・・・グローバリズム・・・70億人
このように並べてみると、各時代のシステムが対象とする人間の数が、指数関数的に増加してきたことが分かる。そして、グローバリズムまで行き着いてしまうと、これが天井で、これ以上増やすことはできない。だから、現代という時代は「どん詰まり」の時代なのだ。この状況を打破するためには、時代を遡って対象人数を減少させるという方法が考えられる。国家主義まで戻るのか、もっと少ない人数の集団を措定するか。しかし、時代を遡るという発想には疑問がある。何故なら、時代の流れが逆行したことは、未だかつて一度もないのだ。そうではなくて、全く新しい発想で、人間集団というものを考え直す必要があるような気がする。仮に、そのアイディアが出て来ないというのであれば、とりあえず、国家主義にまで戻すべきではないか。