原始領域と生存領域において、「知」は開示されない。それはむしろ、隠されることによって、一つの権力と結びついている。例えば、祭祀における「知」は、シャーマンが持っていたのだ。呪術においては、呪術師や占い師がその「知」を持っていた。神話における「知」は、神話を書く者、若しくは神話を書かせる者が隠し持っていたに違いない。個人崇拝になると、崇拝される個人が「知」と権力を独占することになる。
生存領域においては、師匠や親が「知」を持っているのであって、それはノウハウと呼んでも良いだろう。ノウハウというのは、ちょっとしたコツのようなものだ。料理人や大工などの職人は、このノウハウを持っていて、それは少しずつ弟子に引き継がれる。但し、それが体系的に説明されることは稀だと思う。全てが体系的に開示されてしまうと、その時点で師弟関係は終了する。
ところが、この「知」を開示しようという動きが、歴史の中に登場する。それを私は「認識領域」と呼ぶことにしよう。
認識論はギリシャ哲学に起源を持ち、法律学は古代ローマに由来する。そして、マルティン・ルターから始まったプロテスタンティズム。概ね、この3つの流れが合流して、「社会契約論」に至ったのではないか。
主に哲学は文字によって書かれ、本という媒介をもって流布されてきたに違いない。法律も文字によって書かれる。ルターが提唱したのは、文字によって書かれている聖書を尊重せよということだった。この認識領域において「知」は文字によって書かれ、かつ、それが開示されるべきなんだという前提を持っている。認識領域において注目されるべき記号は、エクリチュール(書き言葉)である。
社会契約論は、トマス・ホッブズ、ジョン・ロック、ジャン・ジャック・ルソーによって確立された。ちなみに、その後登場するカントはジョン・ロックの思想を継承しているので、社会契約論は哲学の本流に位置づけられるのだと思う。
第2次世界大戦に敗れた日本において、敗戦の翌年、すなわち1946年に日本国憲法が制定される。この憲法は、GHQが1週間で書き上げたと言われているが、その基底をなす思想は、前述の社会契約論にある。
日本国憲法の3本柱は、平和主義、国民主権、基本的人権の尊重にあると言われている。私がここで強調したいのは、「平等主義」である。日本国憲法の第14条①項には、次のように書かれている。
- すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。 -
この平等主義は、3本柱の中では「基本的人権の尊重」の1種類であると解釈されているのだろう。
日本国憲法は、制定から75年が経過するが、その間、改正されたことは1度もない。我が国において憲法は、顧みられることなく、ないがしろにされてきたのだ。ではその間、憲法の持つ偉大な精神や、ここで述べようとしている認識領域がその歩みを止めてきたかと言えば、そんなことはない。残念ながらその動きは日本国内で起こったのではないのだが。
実際問題として、アメリカにおける黒人差別がなくなった訳ではないだろうが、少なくとも表面上、それは厳しく規制されるようになった。黒人という表現は禁止され、African Americanと呼ばなければならない。そして、ポストモダンの思想を経て、ジェンダーの問題がクローズアップされてきた。それは言葉の問題にまで遡り、最近ではbusinessmanとさえ言わず、busines personと言うのが普通になっている。
長い間、私は「差別はいけないが、区別は必要だ」と考えてきた。例えば、力仕事は男が行い、女はそのような義務を負うべきではないと思ってきた。これは、差別ではなく区別だ。しかし、現代アメリカの動向を勘案するに、その背景には「そもそも、区別するから差別が生ずるのだ」という思想を見て取ることができる。つまり、区別すら許さない、ということになる。
同一性と差異に着目して認識する方法については、「識別」と呼ぶのが適当だろう。上のロジックに従えば、アメリカに限らず、先進諸国においては既に男と女を「識別」することすら許さない、という状況にあるのだ。
加えて、LGBTの問題がクローズアップされてきた。私は長い間、「欧米には同性愛が多く、日本では少ない」と思ってきた。しかし、それは間違いなのであって、日本においても概ね13人に1人がLGBTであるという統計がある。日本においてLGBTが少なかったのではなく、日本の息苦しい社会が、彼らのカミングアウトを阻んできたに過ぎない。
平等主義は、このように人間の識別方法までも一変させるに至ったのである。最早、民族や肌の色、そして性差によって人間を識別することすら許されないのである。このように社会が持つ常識や価値観、すなわちエピステーメーは、急速に変化する。その変化を日々確認することは困難だが、変わるときには一気に変わると言う他はない。
次に、日本国憲法には、三権分立という考え方が定められている。これは、はなはだ不完全なもので、現実には内閣総理大臣の独裁を許している。どうにかならないものかと思う訳だが、同じような話が、会社を取り巻く法規制の分野において、目覚ましい進化を遂げている。しかもそれは、株主至上主義とでも呼ぶべき、資本主義の最前線で起こったのだ。
事の発端は、相次ぐ企業の不祥事だった。大規模な公害案件、独占禁止法違反、横領など、企業の不祥事が相次ぐ時代があった。このような不祥事があると、企業価値が大幅に棄損され、株主が損失を被る。経営者の責任を追及すると、彼らは口を揃えて「自分は知らなかった」と言い訳をする。これでは投資できない。
そこで、コーポレート・ガバナンス(企業統治)ということが言われ始める。企業は、不祥事を起こさないような態勢を作れ、そしてその情報を公開せよ、と言う主張がそれだ。情報公開を十分に行わない企業の株は買わないぞ、という訳だ。
日本において、この論議を活性化させた「大和銀行ニューヨーク支店事件」と呼ばれる裁判があった。企業側の対応に業を煮やした株主が、訴訟を提起したのである。そして、日本の最高裁は、次のように判決を下した。「リスク管理の大綱は、取締役会においてこれを決することを要す」。つまり、リスク管理の基本方針を取締役会で決議せよ、その内容が充分であった場合、取締役(個人)は責任を負わないけれども、不十分であった場合、取締役(個人)全員が、連帯して会社に対する賠償責任を負う、というのだ。何しろ、会社が被る損害は莫大なもので、それを各取締役が個人の資産をもって会社に賠償するというのだから、彼らは震え上がったのである。
この論議はやがて、会社における権力論に及ぶ。何しろ、コーポレート・ガバナンスは「暴走するワンマン社長を抑止する」ことが目的なので、社長の権力を分散させようという議論に至るのは、当然の帰結だった。そして、社長から後任の役員を指名する人事権と役員に支払われる報酬額の決定権を奪う、という考え方に至る。欧米ではいち早くこのような仕組みが確立されていたが、日本も会社法の制定と共に、そのような企業構造を推奨するようになったのである。
従来の日本企業においては、概ね、取締役会があってそれを牽制する監査役会があった訳だが、監査役というのは社長に対するイエスマンが就くポジションであり、体を張って社長に意見をするような人はいない。これに対して、欧米型の企業構造は、取締役会の中に指名委員会、報酬委員会、監査委員会を設置するのである。組織は複雑になるが、確かにこの体制であれば、ワンマン社長も暴走し難い。但し、日産のカルロス・ゴーンの事件などを見ていると、人間のすることなので完全ということはないような気もするが・・・。
いずれにせよ、情報を開示せよ、権力を分散させよ、という論議は、憲法とは別の所で進展しているのである。現在、東京五輪組織委員会の森喜朗が暴言を吐き、問題となっているが、上のような事情を知っていれば、理解しやすいのではないか。
disclosure → 情報開示
accountability → 説明責任
transparency → 透明性
compliance → 法令順守
internal control → 内部統制
どれも素晴らしい概念だと思うが、日本人が発明したものが1つもないのは、はなはだ残念である。
最後に、1つ言えるのは、企業統治に関する論議が目覚ましい進展を遂げているにも関わらず、国家統治に関する論議、すなわち憲法に関する論議は停滞しているということだ。何故、停滞しているかと言えば、それを妨害する権力が存在するからだと思う。