どの本に書いてあったのかは忘れてしまったが、こんな話がある。何年か前にある人が、何ヵ国かを対象としたアンケート調査を行った。設問は、次の通りである。
人類にとって、最も重要な哲学書は何か?
結果として、堂々の第1位に輝いたのは、何とプラトンの「国家」だったそうだ。2400年も前の古代ギリシャの時代から今日に至るまで、人々は国家について考え続けているのである。ただ、プラトンが思索した国家とは、ポリス(都市国家)と呼ばれる少人数の集団であって、近代国家ほどの規模は有していない。
では、国家とは何か、一体、どうあるべきなのか。未だに人類は、その答えに到達していない。米国では、銃の乱射事件が相次ぎ、人口妊娠中絶の是非について、激しい対立が続いている。イランは、女性の髪を被うヒジャブの是非で対立が激化している。フランスでは、NATOに加盟しているが故に軍事費が高騰し、物価高に苦しむ庶民がNATOからの脱退を求め大規模なデモを繰り広げ、警察官はデモ隊に対してこん棒を振り上げている。芸術大国のフランスでも、この程度なのだ。英国はEUを脱退したようだが、相変わらずスコットランドの独立問題がくすぶっている。
哲学者の西谷修氏は、国境について、こう述べている。
- アフリカの利権をめぐって、ヨーロッパの後発国であるドイツ・イタリア・ベルギーと、イギリス・フランスとの対立や衝突が深まります。それを調整するために、1884~1885年、ドイツのビスマルク首相の提唱によりベルリン会議が開かれ、西洋列強による「アフリカ分割」が決定されました。アフリカの国境線の一部がいまも直線なのは、そのときヨーロッパ諸国が机上の地図に線を引いて分割した結果です。アフリカ諸国は現在もその結果に苦しめられているのです。(文献1) P. 55 -
確かに、国境によって人々は苦しめられているのだろう。例えば、お隣の朝鮮半島を見れば分かる。戦争の結果、戦勝国が38度線を設けた。そして、国境の南北に民族や親族が分断され、今日に至っても軍事的に対立しているのである。
そもそも、国家というものがあるから、国同士の戦争が起こるのだ。そのような考え方もあるだろう。しかし、本当にそうだろうか。もし、日本という国家が存在しなかったならば、私たちの社会はどうなるだろう。
統一教会が飛躍的に普及し、「天の父母様が~」などと学校で教えるようになるかも知れない。女性たちは合同結婚式で、海外の貧しい男性と強制的に結婚させられ、悲惨な人生を送る。自衛隊は米軍の支配下に置かれ、米国のために命を捧げる。経済的にはGAFAに支配されるに違いない。やがて、日本語は使用禁止となり、英語が公用語となる。憲法もあらゆる法律も、全て英語が原本となる。国会も、裁判も、英語で行われるだろう。英語を理解できない人々は、あらゆる権利を放棄させられるのだ。また、日本語を失えば、私たちの歴史や文化、それらに裏付けられたアイデンティティも消失するだろう。
氏族や民族、宗教団体が自然発生的な集団であるのに対し、国家はあくまでも人為的に作られた集団なのだ。だからこそ、危うさを持っている。実際、近年のグローバリズムは、国家という枠組みを脅かしている。例えば、宗教、イデオロギー、科学、経済などは、国境と無関係に世界を股にかけて普及、流通しているのだ。
私たちは、一体、どこを目指せば良いのだろう? 私は、国家という枠組みを死守すべきだと思う。無限に広がる空間に線を引く。これは私たちが何かを認識し、思考するためには必要不可欠な限界設定であるに違いない。(限界設定・・・相撲は土俵の上で、野球は野球場という限られた空間の中でしか、成立しないという話。人間の認識能力は、設定された限界の中でしか機能しない。これは学説ではなく、私の意見。)
上記のような考え方は、国家主義なのだろうか。一般に国家主義と言えば、それは全体主義であって、お国のために命を投げ出せ、という戦争礼賛主義を指す。私が主張しているのは、その正反対のことである。あくまでも正義を求め、平和を希求し、人々の人権を尊重する国家を作ろう、ということなのだ。このように最初に考えた人は、トマス・ホッブズ(1588-1679)かも知れない。国家とは海獣(リヴァイアサン)のようなものだ。巨大な力を持っているので、これを制御することは極めて困難である。制御することに失敗すれば、国家は国民に召集令状さえも交付する。しかし、諦めてはいけない。この海獣を制御することによってしか、人類は文明化を果たすことができない。
(参考文献)
文献1: ロジェ・カイヨワ 戦争論/西谷修/NHK出版/2019