どうやら私は、ウクライナ戦争が始まってから、憂鬱な気分に覆われているのだ。そして、イスラエルによるパレスチナへの侵攻が続いた。これはもう、ジェノサイドと言う他はない。パレスチナの人々は狭いガザ地区に閉じ込められていて、そこへイスラエルから容赦のない攻撃が加えられている。パレスチナの人々に逃げ場はない。21世紀の今日において、何故、こんな残酷なことが起こるのか?
日々の情報に接する都度、私は憤懣やるかたない気分に陥るのだが、同時に、圧倒的に無力な自分と向き合わざるを得ない訳だ。どうすればいいのだろう。多分、このような状況に明確に答えを提示できる思想は、存在しないのだと思う。
そんな鬱々とした日々の中で、ふと、「無為の人」という言葉が浮かんだ。これは、為になることが無い人、という意味である。私は誰かの為になることがない、社会の為にもならない。そういう人間として、余生を全うする他ないのではないか。但し、この言葉は私のオリジナルではなく、随分前に読んだつげ義春氏の漫画のタイトルにあったような気がした。
本棚を探索すると、2冊の文庫本が出て来た。
マンガのタイトルには、「無能の人」とあった。しかし、私にはやはり「無為の人」の方がしっくり来る。また、「無為の人」と言うと、フーテンの寅さんを思い出す。寅さんの場合は、そうは言っても様々な人々に救いを提供してはいたのだが・・・。
そんなことを考えていると、アナーキズムに関するYouTubeの動画に巡り合った。どうやら最近では、文化人類学を基礎としてアナーキズムに向かおうとする人々がいるようだ。話は、そう複雑ではない。簡単に言えば、文化人類学とは無文字社会の人々の暮らしを研究する学問である。例えば私は、アイヌの文化をこよなく愛している。するとアイヌ文化と現代文明を比較することになる。当然の帰結である。そして私は、アイヌ文化においては、現代文明が抱える醜悪な権力というものが存在しなかったのだろうと思っている訳だ。そうしてみると、現代文明よりもアイヌ文化の方が優れているのではないか、という発想が生まれる。そのように考える人は、少なくない。そして、現代文明においては権力が秩序を生み出している訳で、それでは秩序自体を否定できないだろうか、ということになる。この秩序に対するアンチテーゼの試みが、すなわちアナーキズムということになる。
参考となる動画のリンクを貼っておこう。ここに紹介する栗原氏が文化人類学のバックボーンを持っているのか否か、それは不明だし、同氏の意見に私が100%賛成かと言うと、そうではない。例えば、同氏は動画の中でホッブズやロックの思想は強い個人をベースにしていると述べているが、私の意見は異なる。しかし、ボサボサ頭の栗原氏が缶ビールを片手に語る様には、好感が持てるのである。
生の負債からの解放/栗原康
https://www.youtube.com/watch?v=KEbfNTbxv5U
私はまだ、アナーキズムについて語れる程、勉強していない。しかし、つげ義春、フーテンの寅さん、アナーキスト、そして「無為の人」には、どこか共通点があるのではないかと直観しているのだ。
余談になるが、私は、小さくて派手な国産車を発注した。色はブルー。納車は、来年の2月になる。私はその車で、温泉巡りをしようと思っている。