文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

虚脱感と共に過ごす日々

 

大分涼しくなってきたが、一向に意欲というものが湧いて来ない。ということは、私の“ヤル気”が消失した原因は、夏バテではなかったのである。前回、原稿をアップしてから、早くも1か月が経過してしまった。私の精神状態が危機に瀕しているのかという問題は別にして、少なくともこのブログが存亡の危機にあることだけは確かだろう。

 

このブログを始めたのは2016年だから、かれこれ7年も続けてきたことになるが、前回の原稿「構造と自由」において、私の思想は、一応完成したのである。文化人類学から出発して、ユング、パース、フーコーなどの思想を経由し、オリジナリティー溢れる文明論に至ったのだ。それが、このブログの経緯である。当初、私は何も知らなかった訳だが、現在の私は、多くの疑問に答えることができる。

 

文明の起源は、原始宗教にある。原始宗教の構成要素は、呪術、祭祀、神話の3つである。やがて人々は文字を発明し、文字による幻想を生み出した。それが宗教だ。従って、宗教の本質は幻想にある。やがて、宗教から個々の要素が分岐し、近代芸術が生まれた。その経緯の典型は、ルネッサンスに見ることができる。私たちが今日、芸術として認識しているのは、主にこの近代芸術だと言っていい。

 

但し、今日の文明を形作っているもう1つの流れがある。人々は、呪術や経験の蓄積を経て、科学を生み出したのである。科学は様々な商品と共に、武器を開発し続けている。武器の歴史は、単純な刀や弓から始まり、やがてマスケット銃が発明される。それが大砲となり、原爆につながる。科学が生み出した兵器は、権力を強化し、増長してきた。科学は、今日のグローバリズムの基礎をなしているに違いない。やがて権力は、自らの保身、延命を図るために、幻想を生み出す。例えば、原発安全神話など。このように科学を基礎とする権力もまた、幻想に依存している。権力者は自らの権力を維持する目的で、往々にして、戦争を始める。幻想に依存しているという点において、宗教と科学は同質なのである。

 

私たちが見ている何か、信じている何か、それは真理とは程遠い幻想なのかも知れない。そう疑ってみることが必要なのだ。そう考えるのが哲学で、それは古代のギリシャ哲学から、ポストモダンミシェル・フーコーにまで一貫した主張なのだと思う。私は、この立場を支持している。

 

そして、上に記したような文明の構造を明らかにしようと試みたのが、先の原稿「構造と自由」なのだ。よくぞここまで来たものだ。私は、私を誉めてあげたいと思う。

 

人が何らかの原稿を書く動機は、疑問である。分からないことがあるから、それを何とか明らかにしよう、考えを整理しようと思って、人は原稿を書くのだ。そうだとすると、私には疑問というものがなくなってしまったのかも知れない。若しくは、疑問を設定する意欲が失われてしまったのかも知れない。

 

本当にそうだろうか? 私に残された最後の問いというものが残っているのではないか?

 

それはつまり、人間は幻想を脱することができるのか、という問いである。

 

この問いに対しては、3つの回答が考えられる。1つ目は、幻想を脱することができる、というもの。しかし、そう答えるのであれば、その方法を提示すべきだと思うが、私にその能力はない。イスラエル戦争さえ、始まってしまった。それが現実である。

 

2つ目の回答案としては、人間は幻想から脱することができない、というものである。そう言ってしまうと、絶望しかないことになる。仮にこの案を採用した場合、哲学の歴史自体が無意味なものとなってしまうし、私がこの7年の間、考え続けてきたことにも意味はないことになる。

 

3つ目の案としては、人間が幻想から脱することは困難だが、永遠にその努力を続けるべきだ、とするもの。先の原稿「構造と自由」の結末において、私はこの案を採用したし、実は、日本国憲法の第12条にも、同様の記載がある。

 

12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。

 

憲法に「永遠」という記載はないが、文脈から察するに、日本国民には永遠に努力することが要求されているに違いない。しかし、そんなことが可能なのか、私はその答えを持ち合わせていない。

 

私は、何とかこのブログを継続したいと思っているが、このような状況にあり、思いあぐねているのである。そして、虚脱感と共に無為な日々を過ごしているのだ。