文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

ソクラテスの魂(その9) あとがき

 

約3か月に渡って掲載してきた本シリーズを終わるに際して、雑駁にはなるが、これまで書き洩らしてきたこと述べたいと思う。

 

まず、歴史的な背景について。古代ギリシャにおいてもシャーマニズムが息づいていたことに、私は少なからず驚きを覚えた。洋の東西を問わず、歴史を遡って行くとシャーマニズムに行き着くのだ。哲学さえもが、シャーマニズムから生まれたのである。しかしながら、シャーマニズムに関する学術的な研究は、ほとんどなされていないように見える。本屋へ行っても、関係文献を見かけることはほとんどない。本来的には、文化人類学がこれを研究すべきではないのか。

 

文化人類学は、当初、歴史主義的なアプローチを取っていた。その頃、アミニズムに関する若干の学説は存在していたのである。しかし、そこにレヴィ=ストロースが登場し、神話、親族関係、トーテミズムなど、学問として成立し得る分野のみを研究対象とするようになったのだろう。しかしそれでは、人間の本当の姿を探究することにはならない。そこら辺に、アカデミズムの限界がある。いくら文化人類学者たちが無視しようと未だにシャーマンは世界各地に存在するだろうし、人々は麻薬でハイになり、ロックコンサートで熱狂しているのである。シャーマニズムについて研究しない限り、これらの現象を説明することはできない。

 

余談になるが、たまたま見ていたYouTube番組で、面白い情報に出会った。なんと古代ギリシャの研究者であるカール・モイリ(1891-1968)という人は、アイヌ文化についても研究していたというのである。古代ギリシャにも動物信仰の痕跡があり、そこにアイヌ文化との共通点を見ていたのである。

 

次に、ギリシャ哲学について考えてみよう。アテナイをはじめとする都市国家を舞台として隆盛を極めたギリシャ哲学。そこに、人類史上稀に見る高度な思想が生まれたのである。政治的な状況の変化もあって、やがてギリシャ哲学は終息する。しかし、紀元後300年頃、「ギリシャ哲学偉人列伝」という文献が記される。この文献とギリシャ哲学は、その後、千年以上の永きに渡り、眠りにつく。人々の興味は、哲学よりも宗教へと向かったからである。ところが印刷技術が進展した西洋において、この「ギリシャ哲学偉人列伝」が復活する。この本、学術的には少し怪しいところがあるそうだが、物語風に書かれていて、とても面白いらしい。そして、西洋の近代思想家であるトマス・ホッブズなどに影響を与えたのである。なんというドラマだろう! この本、ちなみに日本でも岩波文庫で発刊されたようだ。その目次に記された哲学者の人数を数えてみると、約80人もいる。思想の黎明期ということもあって、多くの哲学者たちが様々な思想を展開していたことが分かる。

 

ところでソクラテスの死後、彼を批判するパンフレットのようなものが出回ったそうだ。これに怒ったソクラテスの弟子たちは、一斉にソクラテスを賛美する本を書き始めた。プラトンもその中の1人である。その数は200冊とも300冊とも言われ、これらの文献を総称して「ソクラテス文学」と呼ぶ。これ、何かに似ている。パロールの偉人、キリストがいて彼の死後に新約聖書が書かれた。ブッダの死後、ブッダの発言を記した無数の経典が書かれた。それにも関わらずソクラテスが宗教の教祖とならなかったのは、彼の思想が集団の結束を弱める危険を孕んでいたからだろう。

 

文明論的な見方をしても、ソクラテスは様々な論点を提起している。まず、哲学と政治の関係。既述の通り、ソクラテスは哲学を志す者は政治家になるべきではないと述べた。また、ソクラテスは自己の名誉や金銭のことに夢中になるべきではない、とも述べている。言ってみれば、これは経済原則に対する批判だと受け止めて良いだろう。また、ソクラテスソフィストと呼ばれる「詭弁を弄する知識人」についても批判している。特に、ソフィストは高額の対価を得た上で、家庭教師のようなことをしていて、この点をソクラテスは批判しているように思える。ちなみに、ソクラテスは多くの若者や弟子たちに知識を提供したが、対価を受領したことはないのだ。これは、現代文明に照らして言えば、教育やアカデミズムに対する批判だと解釈できそうである。

 

現代的な観点から興味深いのは、哲学と科学との関係である。ソクラテスが登場する前に自然哲学と呼ばれる思想が生まれていた。この自然哲学を主張する者たちを自然学者と呼ぶ。そして今日における言わば科学万能主義のような考え方を「自然主義」と呼ぶ。自然主義者たちは、人口知能の効用を喧伝し、やがてシンギュラリティが訪れ、ロボットの知能が人間のそれを上回るだろうと主張する。

 

このような考え方に反対する立場は、反自然主義ということになる。今日、先頭に立って反自然主義を訴えているのは、若き哲学者であるマルクス・ガブリエルではないか。このように、現在、哲学と科学の対立関係は先鋭化しているのだ。

 

この問題、私は哲学の立場を支持することに決めた。確かに、科学は文明を進展させるために、それなりの役割を果たしてきたと思う。しかし、それはあくまでも補助的なものであって、科学が人間の本質を言い当てることはない。ガブリエルは、次のように述べたらしい。

 

「世界を救うのは、新しい哲学である。」

 

私は、この立場を支持しようと思う。結局、現在、人類の文明は行き詰っているのである。環境問題があり、資本主義の暴走がある。ただ、私が重要視しているのは、芸術の衰退ということだ。それは古代文明が作り出した1つの認識方法だと思う訳だが、芸術の衰退した文明は、味気ない。人間が豊かで充実した人生を送るためには、芸術は不可欠の要素なのである。そんなことを科学は、教えてくれない。