文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

戦争と文明(その9) 永遠平和のために/カント

 

過去において、戦争を礼賛する哲学者や文学者がいたことは、前回の原稿で紹介した通りである。そして、哲学者の西谷修氏は、次のように述べている。

 

- 戦争が避けるべき「災い」あるいは端的に「悪」だと考えられるようになった、その転換を象徴するのは、アインシュタインフロイトの往復書簡です。(文献1)-

 

その意見に反対する訳ではないが、考えてみるとその前に「パリ不戦条約」が締結されており、この条約には日本を含む15か国が参加している。更に遡ると1920年には国際連盟が設立されているし、その基本理念はカントが公表した小論文「永遠平和のために」に記されているのだ。これは国際連盟が設立される125年も前のことで、カントがいかに先見性を持っていたか、驚く他はない。(但し、戦闘状態を脱し人命を尊重し、平和を構築すべきだと考えた哲学者としては、カントの遥か以前にトマス・ホッブズ(1588-1679)がいる。)

 

1795年: カント「永遠平和のために」を公表

1920年: 国際連盟設立

1928年: パリ不戦条約

1932年: アインシュタインフロイトの往復書簡

 

そもそもカントが何故、この小論文を書こうと思ったのかと言うと、それは1795年にフランスとプロイセンの間で取り交わされたバーゼル平和条約について、カントが不満に思ったことがきっかけだったらしい。(文献2)

 

さて、この小論文の要旨は、まず、各国が従うべき1つの法(ルール)を作り、各国が契約によって、その法を遵守する体制を作ろう、そしてその体制は世界国家、つまり世界を1つの国にするのではなく、それぞれに独立した加盟国が連盟するのが良い。簡単ではないが、加盟国が増えて行けば、いずれ永遠平和を実現することができる、というものである。

 

では、私が興味を覚えたいくつかのテーマについて、以下に掘り下げてみよう。

 

〇 民主主義

 民主主義と言うと、とても良い制度だという印象がある。確かに、他の制度よりは良いだろうが、そこには自ずと限界がある。カイヨワが指摘したように、民主主義(国民主権)になると愛国心が生まれる。そして愛国心全体主義的な傾向を持つのだ。結果として、全体主義的民主主義が登場する。同じようなことをカントも指摘している。

 

- 国の形態は、その国がどのようなものであれ最高国家権力を持っている人によって区別することができる。(中略)まさに支配の形態と呼ばれるもので、3つの形態だけが可能である。支配権力を持っているのが1人だけか、または手を結んだ数人か、または集まって市民社会をつくっている全員か、のどれかなのである。(文献2)-

 

カントは「民衆制」という用語を用いたようだが、これは現代用語の「民主制」と同等であると思って良いだろう。するとカントが指摘した形態は、次の3つであると言える。

 

独裁制

・寡頭制(貴族制)

・民主制

 

カントは、次のように続ける。

 

- 民衆制の形態は、言葉を厳密に理解すれば、必然的に独裁主義である。その理由は、民衆制が設定している執行権力を見ればわかる。なにしろみんなで、(賛成していない)人を無視して、場合によってはその人に逆らって、ということは、「みんなで」とはいっても、全員ではないのに決議するのだから。(文献2)-

 

だんだん、民主主義が嫌になってくるが、カントは更に続ける。

 

- どれがいいのか、不確実だ。あらゆる統治方式について歴史には失敗例がいろいろある。(文献2)-

 

そうかも知れない。この点、私はこう考える。独裁制や寡頭制より、民主制はまだましな制度なのだ。但し、民主主義というのは必要条件ではあっても、十分条件ではない。民主主義だけでは、何かが不足しているに違いない。それを私たちは、考え続けなければならない。

 

〇 自然状態

 文明に侵される以前、本来人間はどのような特質を持っていたのか。それが、自然状態と呼ばれるものだ。カントは「人間は、利己的で、邪悪で、戦争好きだ」と考えた。

 

- 隣人どうし平和に暮らしているのは、自然状態ではない。自然状態とは、むしろ戦争の状態である。つまり、敵対行為がつねにあるわけではないが、敵対行為の脅威がつねにある状態のことである。だから、平和な状態はもたらされるしかないものだ。(文献2)-

 

上に引用したカントの考え方は、少し人間を悲観的に見過ぎていないだろうか。トマス・ホッブズは、「自然状態」においては「万人の万人に対する闘争状態」が起こると考えた。しかし、その真意は次のようなものである。

 

- ホッブズも、自然状態において、人間が、年がら年中バトル(戦争)しているとは考えていない。なぜなら、生命の危険のともなう闘争など、人間は極力、回避しようとするからである。闘争状態はあくまで「例外状態」、「異常事態」下のできごとであると考えるべきである。(文献3)-

 

どうだろう。カントよりは、少しマイルドな感じがしないだろうか。一般に、欧米人は性悪説で、日本人は性善説だと言われる。キリスト教が言う原罪の意識が、欧米人に影響しているのが原因ではないか。

 

私は、カントの説に納得できなかった。アイヌ民族は、平和に暮らしていたに違いないのだ。しかし、調べてみるとアイヌにもやはり戦争の歴史はあるようだ。(文献4) 残念!

 

人間の自然状態に関する理解としては、概ね、ホッブズの説が妥当ではないか。また、人間には他者と親和的な関係を築こうとするエロスと、その正反対の破壊欲動とがあるとするフロイトの説が妥当ではないだろうか。

 

〇 今日的な評価

現在、世界には196の国があり、そのうち193か国が国連に加盟している。そして、全ての加盟国が遵守すべき国連憲章というものも制定されている。しかし、カントが構想したような平和は訪れていない。何故だろう。1つには、国連憲章に違反した国に対する制裁力が弱いということがある。確かに、国連軍による武力介入という方法はあるが、どこの加盟国も自国の軍隊を派遣することには消極的だろう。それ以上に、そもそも国連憲章自体、カントが想定したような平等な内容になっていないということもある。国連の中核組織として、安全保障理事会があるが、そこには5つの常任理事国(米、英、仏、露、中)が定められており、彼らは拒否権を持つ。従って、常任理事国の中の1か国でも反対すれば決議は成立せず、国連は機能不全に陥るのだ。最近の事例では、ロシアのウクライナ侵略を非難する決議をしようとしたが、当然のことながら、ロシアは拒否権を発動した。

 簡単に言えば、米国を含めた大国のエゴイズムが、国連を機能不全に陥らせているに違いない。第二次世界大戦戦勝国が作ったのが国連であり、国連は「永遠平和」を希求しているのではなく、第二次世界大戦の事後処理を目的としているようにも思える。例えば、日本を含めた敗戦国は、未だに「敵国条項」の適用を受けている。

 やはり、カントは単なるロマンチストに過ぎなかったのだろうか。私は、そうではないと思う。カントの掲げた崇高な理想を、未だ、人類が実現できていないのだ。機能不全に陥っているとは言え、それでも国連はないよりあった方が、よほどマシなのだ。世界平和を希求する人々がいる。人類には、そのような思想に至らざるを得なかった不幸な歴史がある。そのことを国連は、人々に想起させているだろう。

 

さて、「戦争と文明」と題したこのシリーズ原稿も、そろそろ結論に向かうべき時期に来たようだ。フロイト、カイヨワ、カントなどの思想も参考にしながら、私自身の意見を述べるべきだと思う。「啓蒙とは何か」と題されたカントの小論文は、次のように述べている。

 

- ところでかかる未成年状態にとどまっているのは彼自身に責めがある、というのは、この状態にある原因は悟性が欠けているためではなくて、むしろ他人の指導がなくても自分自身の悟性を敢えて使用しようとする決意と勇気とを欠くところにあるからである。それだから「敢えて賢こかれ」、「自分自身の悟性を使用する勇気を持て!」 ― これがすなわち啓蒙の標語である。(文献5)―

 

すなわち、誰でも未成年状態を脱し自ら思考する能力を持っているのだ。だから、あとは自ら思考する勇気を持て、とカントは言っているのである。

 

文献1: ロジェ・カイヨワ 戦争論西谷修NHK出版/2019

文献2: 永遠の平和のために/イマヌエル・カント/丘沢静也 訳/講談社学術文庫/2022

文献3: ホッブズ/田中浩/清水書院/2006

文献4: アイヌの歴史/瀬川拓郎/講談社選書/2007

文献5: 啓蒙とは何か/カント/篠田英雄 訳/岩波文庫/1950