文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

救済としての芸術(その2) 文化、秩序、そして主体

 

現代文明を根底から支えているのは、文化である。それはとても永い歴史を持っていて、私たちの暮らしと密接な関係を持っている。文化は、融和的であり、女性的で、そこにおけるコミュニケーションは、パロール(音声言語)に依拠している。

 

文化は、主に小集団において育まれる。この小集団は、特段の目的を持ちはしない。社会科学の用語で言えば、ゲマインシャフトということになる。文化は、主に次の要素によって構成されている。

 

生活技術・・・食生活に代表されるような、生活を営む上での技術。

 

身体技術・・・身体の健康を維持する技術、子育や介護、性の取り扱いに関する技術。

 

自然技術・・・自然との関係の持ち方。例えば、生け花など。

 

祭祀技術・・・祭りや冠婚葬祭などの儀式。古くは雨乞いの儀式など。シャーマニズムや呪術、歌や踊りなど。

 

芸 術 ・・・祭祀などに至る以前の不定形な遊びや神話、民話、童話などの文学、動物の声や動作を真似る行為など。

 

上記の5項目以外にも記述すべきものがあるかも知れない。しかし、本ブログにおいては、文化について既に多くを語ってきたので、重複は避ける。上記のものを文化、若しくは文化領域と呼ぶことにする。文化領域においては、原則として、権力は存在しない。

 

もう少し時代が流れると、一定の制度や目的、権力構造を持った集団が登場する。社会科学の用語で言えば、ゲゼルシャフト。個人や家族、小集団より規模は大きく、国家よりは小さいこの集団は、一般に中間集団と呼ばれる。宗教団体、会社、業界団体などがその例である。これらの集団が持っている制度や権力構造を差して、ここでは秩序、若しくは秩序領域と呼ぶことにする。

 

中間集団が生まれるメカニズムについて、私は、次のように考える。

 

最初に必要となる要素は、「知」である。これは宗教的な世界観やイデオロギー、新たな技術に至るまで、多くのバリエーションを持っている。例えば、本田宗一郎は自転車での買い出しに苦労している妻を見て「自転車にエンジンを付ける」という着想を得た。これが「知」であり、そこから本田技研は出発したのである。この「知」は、創始者、団体名、ロゴマークなどによって象徴される。

 

「知」が生まれると、そこに人々が参集する。その「知」に興味を持ったり、賛同したり、そこから何らかの利益が得られるだろうと期待する人々が集まるのだ。そこで、集団が組成される。

 

集団が生まれると、その内部的な統制規則が定められる。古くは、聖徳太子が定めた「冠位十二階」というものがある。こうして、集団内の序列が決定され、上位者は下位者に対して権力を持つ。権力は、集団の内部においてしか、効力を有さない。例えば、社長は会社の外に出ればただの人となる。

 

権力が生まれると、それに対し自発的に隷従しようとする者が現われる。そうすることによって、会社であれば給料がもらえるし、出世だってできるかも知れないのだ。隷従することによって、利益が得られるのである。

 

「知」 → 集団 → 権力 → 隷従 → 利益

 

驚いたことに、今日の会社から、中世に生まれた宗教団体まで、同じメカニズムが働いていることが分かる。また、権力の源泉は「知」にあり、言うまでもなくそれは隠された時に、最大限の効力を発揮するのである。

 

昭和の時代には、「床の間を背負う」という表現があった。床の間には、大概、掛け軸が掛けられている。掛け軸には、何やら難しい漢字などが書かれていて、その意味はトンと分からないのである。つまり、掛け軸は崇高な「知」を表わしているのであって、その最も近くに座る者、掛け軸を背に座る者が、その「知」に近い、すなわち権力者であるということを暗に意味していたのではないだろうか。もちろん、それは家長だった訳だ。女子供は、近づけない場所だったのである。

 

このような中間集団におけるメカニズムを拡大していくと、国家に至る。国家は絶大な権力を有しているが、そこに「知」は存在しないように思える。憲法を貫く3原則、すなわち平和主義、主権在民基本的人権の尊重がそれだと言えなくもないが、今日における我が国の実態は、それらとかけ離れている。

 

さて、秩序化は進展し、今日の日本においては北海道から沖縄まで、24時間、秩序は維持されているのである。この秩序に反すると、お金を稼げなくなったり、犯罪者として投獄されたりする。加えて、時の流れと共に「知」は陳腐化するし、権力は腐敗する。これが、私たちが日々感じている息苦しさの原因だと思う。

 

では、どうすれば良いのだろう? 共産主義はどうだろう、と思ったりする訳だが、ロシアや中国を見ていると、そんな気にもなれない。

 

そこで、私たちの文明は、主体に出会ったのである。こんな秩序は嫌だ、こんな権力にはついて行けないと思う人たちが、登場したのである。

 

主体とは、行為や意志の発動者のことであり、それは個人であって、「私」のことである。最初に声を上げ始めたのは、黒人ではないだろうか。そして、女性、LGBTなどの人々が続いた。こうして、現代の文明においては、秩序と主体が激しく対立し、文化がそれを仲介するような形になっている。

 

主体 ← 文化 → 秩序

 

右と左、保守とリベラルの対立だと見ると、それは違っている。現代は、主体と秩序の対立関係だと見るべきなのだ。そして、この反秩序、主体の側に立つのがポストモダンなのである。

 

ポストモダンなんて、私には関係ないや」と思っている人がおられるかも知れない。しかし、ポストモダンは、既に建築の世界において飛躍的な進展を見せている。秩序や合理性を追求するモダンに対し、反秩序、非合理性の側に立つのがポストモダンで、具体的には曲線や非合理な空間に象徴される。

 

ちなみに、私の住んでいる埼玉県は、近隣からダサイタマと呼ばれ馬鹿にされているが、心外である。近所の区役所の写真をお見せしよう。大胆な曲線と広大な広場を採用した、ポストモダンの良い例である。

 

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思えば、自然とは反秩序だったのだ。自然界にはそれなりに法則があるが、人の目からすれば、そこに秩序は存在しない。自然界に、直線はないのだ。そのような自然を大切にしようという主張に、私は賛成である。しかし、既に自然を失ってしまった地域においては、人工的に反秩序、すなわちカオスを創造するという手があるのだ。人工的に、カオスを創造する。それが、ポストモダンが示す私たちの希望ではないか。