本を読んでおりましても、なかなか、すぐには分からない。しかし、いろいろ当たっておりますと、ストンと腑に落ちることがあります。
文献14によりますと、ヘーゲルは次のように考えていた。
“矛盾の発端は、「自由」でありたいという各人の欲望の本性にあるが、自由を実現するためにもっとも合理的な方法は、各人が各人の自由を相互に承認しあうことにあると、やがて人々は気づくにいたる。もちろんこの自覚は、少しずつしか進まない。が、それでも人間の社会は、事実として徐々にそのような社会制度の実現へと動いてきた。そして、ヘーゲルによれば、このプロセスの最後の展開が、フランス革命に象徴される市民社会なのである。”
簡単に言うと、ヘーゲルは人間の社会というものは必ず良い方向に進化する、と考えていた。それにしても、それがフランス革命とは、驚きます。現在の黄色いジャケットの抵抗(Yellow Vest Protest)のあり様をヘーゲルに見せてあげたい位です。
また、文献15におきましてヘーゲルの歴史観は、次のように述べられています。
“観念史観の典型をなすヘーゲルは、アジア的、ローマ的、ゲルマン的という三段階を通って絶対的理念が実現されていくと見る。”
やはりヘーゲルは、人間社会の歴史は良い方向へと、言わば一直線に進むと考えていたようです。ヘーゲルの歴史観が、“進歩主義”と呼ばれる所以です。
これは流石に、私でも賛同できない。そこでヘーゲルは、ポストモダンの思想家たちにとっては、批判すべき対象、すなわち悪役となった。フランスの哲学者リオタール(1924~1998)は、1984年に出版した「ポストモダンの条件」の中で、次のように述べた。
“西洋近代は、学問が発展し真理へ近づくことによって人間性と社会の在り方もますます進歩していくという「大きな歴史の物語」を掲げていたが、そのような真理と進歩の物語を信じた近代はもう終わったのである。”
上記の引用箇所が、言わばポストモダンと呼ばれる時代の開幕を宣言したものだった。つまり、リオタールが敵視していたのは、ヘーゲルだった!(ここで腑に落ちたのです。)
さて、私のような者が、偉大な哲学者を批判するのもいかがなものか、と思わないでもありませんが、率直に言って、ヘーゲルもリオタールも間違っている。
まず、ヘーゲルの進歩主義についてですが、そのように歴史は動かない。人間の社会、歴史、文化というものは、あたかもダーウィンが唱えた進化論のように、様々な方向へ向かう種が出てきて、一部は人々によって選択され生き残り、そうでないものは死滅していく。こういう構造を持っているのであって、“進歩主義”ではなく、正解は“進化主義”であるべきだと思います。
次にリオタールですが、進歩主義を批判する点は私も同感ですが、だからと言って真理までも否定してしまうのは違う。2度に渡る世界大戦、マルクス主義の失敗。確かに、人類はいろいろ挫折を経験した。しかし、だからと言って真理の存在を否定するのは、敗北主義に過ぎない。それでも真理は存在するのだ、ということで、本稿の主題に入りましょう。
まず、真理とは何か、ということになります。こういう時、やはり哲学中辞典(文献15)は便利です。
1) 対応説・・・知識や言明は、実在と一致しているとき真、そうでなければ偽である。
2) 明証説・・・私たちがきわめて明晰判明にとらえることはすべて真である。
3) 実用説・・・観念は、それを信じることが生活にとって有益である限りにおいて「真」である。
4) 整合説・・・他の言明と一致し、矛盾しないこと。
いろいろありますが、簡単に言えば、「間違っていないこと」が真理だと考えられているようです。但し、もう少し真理を動的に捉える考え方もあるようです。文献15には、次のような記述もあります。
“特殊な時代・社会に実際に獲得される真理は相対的なものであり、その批判的蓄積によって客観を完全に捉える絶対的な真理に接近することができる”
こちらの方が、私のイメージに近そうです。“真理とは、仮説として登場し、検証され、歴史の中で修正され、体系的に理解される普遍的な原理のことである。”これが私の考える真理の定義です。
このように考えますと、哲学の中で重要な位置を占める“認識論”の構造について、一応の理解が成立すると思うのです。これは、認知、認識、思考という3つのステップで考えることができるのではないか。
哲学用語辞典に「認知」という項目はありませんが、「認知科学」という項目はあります。この認知という概念は、比較的新しいものではないでしょうか。例えば、ホッブズは“リヴァイアサン”という大著を「感覚について」という項目から始めている。これは何を意味しているかと言うと、人間はまず、感覚によって外界を知覚する、だからそこが出発点なんだ、ということです。もちろん、それはホッブズの時代なりの考え方でしかない。しかし、この考え方は、感覚によって知覚されるものが“記号”である、という発想に発展し、パースが記号学を確立した。そして、パースの記号学を、今、人口知能の専門家たちが学習している。記号学については、既に述べましたので、ここでは繰り返しません。もし、ご興味のある方は、このブログの右上にあるキーワード検索の機能を使うと、関連する原稿が出てくるはずです。
次に、認識というステップに移る。認識については、文献15に的確な説明があります。
“認識は現象から本質へ、さらにより深い本質へと接近していく無限の過程であり活動である。”
ただ、そう言ってしまうとこれで認識論全体の説明になってしまうかも知れません。人間が真理に近づこうと努力する際、まず、認知ということがあって、次に、対象を観察する、実験する、比較する、関連づける、体系化する、というようなプロセスがあると思うのです。この段階では、正に、対象の本質を探っている訳で、このような働きを認識と呼んで良いと思うのです。ちなみに、先に記した事例の中で、観察、実験、というのは、ロックの“経験主義”においても述べられている事項です。ロック以前の時代においては、人間がオギャーと生まれてくるその時点で、既に何らかの観念のようなものを持っていると考えられていたようです。これに対し、ロックは、赤ん坊は白紙で生まれてくる、と主張した。そして、人間はその後の経験によって、観念などを獲得する、とロックは考えた訳です。これが、“経験主義”と呼ばれる考え方で、私も賛成です。
そこで、3番目のステップとして、思考ということがある。これは、私が論理的思考と呼んできたものであって、理性という言葉に近いものだと思います。論理には、3段論法、演繹、帰納、そしてパースが提唱したアブダクションがある。特に、このアブダクションこそが何かを発見する時のロジックなのです。まず、驚くべき現象がある。しかし、仮にAという事項が真実だとすれば、係る驚くべき現象の理由を説明できる。このような場合に、Aという仮説は真実であることになる。簡単に言えば、これがアブダクションですが、これも完全なロジックということにはならない。そこで、アブダクションによって立てられた仮説が本当に真実なのか、ということは、その後、個々の事例に照らし、すなわち帰納法によって検証すべきだ、ということになる。そこで検証された事項は、すなわち、真理である。だから、真理は存在する、というのが私の考え方です。
憲法上の概念に照らして、考えてみましょう。民主主義ということがある。これは、正しく機能する場合も、そうでない場合もある。民主主義はナチズムに加担したし、最近ではポピュリズムという弊害を招くことが指摘されている。しかしよく考えてみれば、民主主義が正しく機能するためには、いくつかの条件がある。例えば、民衆に正しい情報が提供されること。フェイク・ニュースが流行り、毎月勤労統計のデータが改竄されるような社会において、民主主義が機能するはずがありません。更に、教育も重要だ。加えて、ある程度の経済的な余裕も必要だと思います。長時間労働で睡眠時間が5時間という環境にあって、人間は正しく思考することはできない。但し、上記の条件で十分なのか、それとも他に必要な条件があるのか、そういうことは未だに検証されていないのではないでしょうか。すると、この口当たりの良い民主主義という言葉も、本当はまだ仮説に過ぎないと言える。
他方、権力は腐敗する、というテーゼを考えますと、これは既に実証されている。現在の日本政府など、現在進行形でこれを実証している。すると、権力というのは分散させた方が良いことになる。立憲主義ですね。こちらは、検証済みの真理である、と言える。少し、整理してみましょう。
認知・・・記号学
認識・・・経験主義
思考・・・理性主義、論理学
このように、真理というものは、確実に存在する。だから、私たちは敗北主義に陥る必要など、どこにもないのです。2度の世界大戦があった。しかし、それを未然に防ぐことのできる原理は、必ずあったはずだ。その原理を発見できなかったのは、当時の仮説が間違っていたからに他ならない。マルクス主義が敗北した。それは、マルクス主義が間違っていたか、それを柔軟に修正する努力を怠ったからではないのか。考えることを止めてはいけない。真理は、必ずどこかに存在するのだから。
文献14: はじめての哲学史/竹田青嗣、西研/有斐閣/1998
文献15: 哲学中辞典/尾関周二 他編/知泉書館/2016