文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

文化認識論(その30) 文化の構成要素

ミシェル・フーコーが提唱したエピステーメーという概念は、何かに似ていると思っていたのですが、これは私が述べている「文化」に似ているのではないか。

 

「私は私と私の環境である。この環境を救わないなら私をも救えない。」

 

これは、スペインの哲学者であるオルテガの言葉ですが、この「環境」という言葉の意味も、「文化」という概念に近いのではないか。私なら、こう言い直したい。

 

「私は、私を取り巻く文化の中で生きている。より良い文化を築かない限り、私は、より幸福になることができない。」

 

エピステーメー、環境、文化。これらの言葉の意味は、必ずしも同一ではないと思います。それぞれ、発言者の思いがそこには込められている。しかし、少なくとも近似しているとは言えるように思います。それは私たちにとって、あまりにも当たり前の存在であり、そうであるが故に、私たちにはそれを認識することが困難だ。しかし、私たちはその中で生きているのであって、その外に出ることはできない。

 

いずれにせよ文化論は「今だけ、金だけ、自分だけ」という昨今の風潮に、真っ向から対立するものだと言えます。自分だけ幸せになるなんてことは、不可能なのです。例えば、古池に何匹かの鯉がいたとしましょう。そして、その中の一匹だけが、餌を多く食べて肥太ったとします。それでも池の水が腐れば、全ての鯉は死ぬのです。

 

さて、突然ですが、あなたはジャズがお好きでしょうか? もしあなたがこれからジャズを聞いてみたいと思っているのであれば、まずはピアノ・トリオをお勧めします。これがジャズの基本だと思うのです。ピアノがあって、そこにベースとドラムが加わる。ドラムが刻むリズムに乗せて、頭の中でコード(和音)を追ってみる。基音と言ってもいい。例えば、ドミソという和音があると、ドの音が基音となって聞こえます。これはベースラインを追っていると、自然と聞こえてくるものです。そして、トリオの場合は音の数が少ないので、美しいピアノの音色を楽しむことができます。スタンダード・ジャズであれば、オスカー・ピーターソン・トリオが有名ですが、私は、ケニー・ドリュー・トリオも好きです。

 

最初はピアノが奏でるメロディーばかりが聞こえて来ますが、少しずつベースの音に注意を払うようにしましょう。すると、音楽の全体が聞こえてくるようになります。

 

ピアノ・トリオの魅力が分かったら、他の楽器にも興味を持ってみましょう。例えば、菅楽器。最もポピュラーなのは、ピアノ・トリオにサックスを加えたものです。この4人編成のバンドは、カルテットと呼ばれます。スタンダード・ジャズであれば、私はソニー・スティットが好きです。ソニー・スティットはアルト・サックスのプレイヤーです。アルト・サックスは、人間の声に最も近い楽器だとも言われています。サックスには、テナーもあります。こちらになると、やや低音域が広く、夜のムードに似合います。テナー・サックスだと、私はジョー・ヘンダーソンが好きですね。特に、彼の演じるボサノバが好きです。

 

更に楽器の数を増やす場合、一般的にはトランペットが加わることになります。5人編成のこのバンドは、クインテットと呼ばれます。トランペットの美しい音色を楽しみたい場合、お勧めなのはマイルス・デイビスの「マイ・ファニー・バレンタイン」という曲です。そう言えば、この曲にはちょっと思い出があるのです。

 

私が50才の手前の頃だったと思います。サラリーマンをしていたのですが、かなり深刻な仕事があって、私は九州へ出張したのでした。小倉だったでしょうか。そこで、ふとジャズバーに立ち寄ったのでした。マスターが、何かリクエストはありますか、と尋ねてくれたので、私はマイルス・デイビスのマイ・ファニー・バレンタインをリクエストしたのです。当時は、まだ聞いたことがなかったのです。何故、私がこの曲をリクエストしたのか、それは未だに謎なのです。

 

そして、マイルスの美しいペットの音色が聞こえてくる。これは素晴らしい。仕事で疲れ果てていたこともあって、また、少しお酒に酔っていたことも影響したのかも知れませんが、私は完全にノックアウトされてしまったのでした。これは、この店のスピーカーが余程、高級であるに違いない。そうでなければ、こんな音が出るはずがない。そのお店のスピーカーは、JBLという高級なものだったのです。帰りがけ、私はマスターに「流石、JBLはいい音するねえ」などと軽口を叩いたものです。

 

その後、マイルスのCDを買って自宅の安物のステレオで、同じ曲を聞いた所、なんとあの素晴らしい音がそのまま聞こえてくるではありませんか! そして、その素晴らしい音がスピーカーのせいではなく、マイルスが吹くペットそのものの音だったことに気付いたのでした。あまりに感動してしまった私は「ペットを始めよう。そして、私もあの曲を吹いてみよう!」と思ったのでした。実際、トランペットは購入したのですが、三日坊主で終わってしまいました。

 

また、脱線してしまったようですね。

 

何故、このような話をしたかと言えば、文化にはそれを構成する要素がある、ということを言いたかったのです。ジャズの場合は、楽器による区分がある。そして、それを奏でるミュージシャンという区分もある。その組み合わせによって、ジャズという音楽は成り立ってきたのではないか。

 

要素を組み合わせることによって、音楽そのものが成り立っている。そして、その組み合わせを変更することによって、時として、思わぬ成果を得ることができる。もちろん、うまくいくとは限らない。それは、要素と要素を融合してみなければ、分からない訳です。

 

だから、ジャズやロックのミュージシャンは、夜な夜なジャム・セッションを繰り広げる。新しい何かを探して、いろんな楽器と、いろんなミュージシャンと共に演奏してみる。これは、私たちの食文化にも言えることです。食材があって、調理方法がある。その組み合わせによって、新しい何かが発見される。

 

もう少し大きな話で言えば、ヨーロッパの知識人だったダーウィンは、ビーグル号に乗って長い船旅をした。ダーウィンという要素と、南海の島という要素がそこで出会う。そこから、進化論が生まれたのです。ゴーギャンの場合も、ヨーロッパの画家がヒバ・オア島に移住した。そこで現地の風俗と出会い、あのような傑作が生まれた。戦争という悲惨な体験があって、そこに文学が融合し、戦後文学が傑作を生んだ。

 

文化にはそれを構成する要素というものがあって、異なる要素が融合した時に文化は前進する。

 

上に記した文化形態を「融合型」とするならば、反対に、「排除型」というものも存在します。本来的には異なる要素が存在するにも関わらず、その違いを排除する文化が存在する。その最たるものが、スポーツだと思います。

 

それぞれの民族なり国民には、独自の文化がある。しかし、それらの違いを許容せず、同じルールの中で戦わせる。そこに、文化的な発展は望めません。野球とか、サッカーとか、ラグビーとか。これらスポーツのルールは固定されていて、そのルールからはみ出すことはできないのです。いくらサッカーを続けたとしても、ゴールキーパー以外のプレイヤーがボールに手で触れていいというルールには、なりようがないのです。多様性を排除する。そういう意味で、「排除型」と私は呼びたい。いくら野球を続けたとしても、それは野球場の中での出来事であり、新しい何かを発見することはできません。

 

スポーツというのは、敗戦後に進駐軍が進めた3S政策の1つであって、もうこんなものに時間を費やすのは止めた方がいい。運動選手が、野球場やサッカー場の中を走り回っている間に、本を読んでいる人だっている。時間の使い方としては、そちらの方が余程いい。新型コロナの問題を別にしても、オリンピックなど止めた方がいい。あんなものは、グローバリズムを促進するための道具に過ぎない。

 

もう一つは、現在のアカデミズムです。人々を専門分野や研究室に閉じ込める。それは特定の目的を持って投資するには、効率の良い方法かも知れません。しかし、そんなことで自由な発想が生まれるとは、とても思えないのです。実際、アカデミズムは現実社会の諸課題に対応できていない。

 

この「融合型」と「排除型」を時代区分に当てはめてみると、次のようになる。

 

古代・・・芸術・・・シャーマニズム・・・融合型
中世・・・宗教・・・君主制・・・・・・・排除型
近代・・・思想・・・民主制・・・・・・・融合型
現代・・・記号・・・グローバリズム・・・排除型

 

古代の人々や無文字社会の人々は、自分たちと例えば動物を融合させていた。そこから、芸術や信仰が生まれた。中世になると、王様や殿様が権力をふるい、独裁体制を築いた。ここでは、人々の移動や思想的な自由は排除された。宗教も同じだと思います。そこで、近代思想が生まれる。思想家たちは、民主主義を発想した。これは、人々に移動の自由、思想の自由を保障するものだった訳です。理性に注目し過ぎたきらいはあるものの、しかし、民主主義という社会制度は、あくまでも「融合型」だった。そして、現代はグローバリズム。これは移動の自由は認めるので、一見、「融合型」に見えますが、実際はそうではありません。グローバリズムとは、野球やサッカーと同じで、同じルールに従え、ということです。完全に「排除型」だと言えます。

 

このまま行くと、AIの時代になる。すると、そこで勝利する企業というのは、グローバルスタンダードとなり得るプログラムを作成した企業だけ、ということになります。例えば、GAFAと呼ばれる4つ企業が勝ち組となり、その他は全て排除されていく危険性がある。現在、私たちはそういう危険を目前に控えている訳で、人類は早くそのことを認識すべきだ、と「文化的進化論」の著者で、アメリカの政治学者であるイングルハートは述べている。

 

このように考えますと、以前の原稿で、「私は古代と近代を肯定し、中世と現代には否定的だ」と述べましたが、その理由が分かったように思います。私は、「融合型」の文化を肯定し、「排除型」の文化を否定しているのです。

 

ちなみに、反近代の旗手として思想界に打って出たミシェル・フーコーですが、後年、カントを再評価したらしい。近代思想に対する評価は、もう少し勉強してみたいと思っています。