文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

山本太郎と東京都知事選(その6) 埼玉より愛を込めて

権力をシステム化したもの、それが組織である。このテーゼを起点に考えてみますと、どうやらとても本質的な所に論議が及びそうなのです。

 

子供たちの世界には、ガキ大将が存在する。ガキ大将は、体が大きかったり、喧嘩が強かったりする訳で、子供集団におけるリーダーということになる。しかし、このポジションというのは、とても流動的だと思う訳です。より体の大きな子供、より喧嘩の強い者がその集団に加入してくる場合がある。もしくは、喧嘩に凶器を持ち込む子供が登場するかも知れない。すると、リーダーの立場は他の子供に移動する。

 

豪族が権勢をふるっていた聖徳太子の時代にも、同じことが言えそうです。戦国時代もそうですね。権力というのは流動的で「栄枯盛衰は世の習い」だとか「盛者必衰の理(ことわり)」などと言われる所以です。

 

そもそも、権力というものをこの世から無くしてしまえばいい訳ですが、人間の社会というのは理不尽なもので、なかなかそうもいかない。そこで、組織というものが生まれたのではないか。すなわち、元来、流動的で不安定なポジションにあった権力者の地位を安定化させる様々な試みがなされた。中世の殿様であれば、現実空間の中に城を築き、自分の側近たちに役職を与え、自らは権力組織のヒエラルキーの頂点に君臨した。食料を蓄積し、兵隊を雇った。これが、権力のシステム化であって、そこから生まれたのが権力組織だと思う訳です。

 

ところが、このシステムでも安定しなかった。権力組織同士の戦いが止むことはなかったのです。そこで、ヨーロッパにおいて国家というものが誕生する。当初、国家には2つの特徴があった。1つには、宗教を切り離すということ。宗教を切り離すと、世襲という制度が崩れる。マルティン・ルターが「万人祭司」を主張して以来、人々の中に平等という概念が生まれる。そうだ、殿様や王様が偉い訳ではない。神の下に人々は平等なのだ、ということに人々は気が付いたのでした。そして、民主主義が誕生する。これは素晴らしいということで、以来、民主主義を批判する人というのは、ほとんど出現していない。日本においても丸山真男など、偉い学者が民主主義を超える制度は存在しないと主張し、これが定説となる。常識と言ってもいいと思いますが。

 

このように考えますと、民主主義というのは、権力を前提とし、それをシステム化したものが権力組織であり、権力組織のトップは選挙で選ぼうという構造を持っていることになるわけです。

 

本当に、それが正しいのでしょうか? あのヒトラーを生んだのも、民主主義だったのではないか。

 

現在の日本においては、民主主義によって選任された「嘘つき晋ちゃん」が総理大臣を務め、それを権力組織たる官僚組織や自民党が支えている訳です。どうやら「権力→権力組織→民主主義」という構造が、うまく機能しているとは言い難い。

 

元来、人間というのはとても愚かな存在なので、民主制によって、正しいリーダーを選ぶことは困難なのです。加えて、この権力組織というのは経路依存性を持っており、その目指すところは「現状維持」なのです。加えて権力組織の内部で特権を持った者は、それを手放そうとはしない。そして、老害が生まれる。社会の動向や新しい考え方に対する柔軟な思考力と未来を切り開く情熱を失った人たち。これらの人々を、年令に関わらず、私は老害と呼びたい。

 

官僚組織や、現在の大企業が権力組織であることに疑いはありません。また、自民党公明党もそうです。加えて言いますと、立憲民主党共産党も、本質的には何ら変わりがない。これらリベラル左派の政党は、学歴偏重、学歴エリート主義に毒されており、ある意味、自民党よりもたちが悪い。

 

立憲民主党の本音は、対米従属、大企業優先なのではないか。そうでないと言うのであれば、何故、枝野氏はアメリカのシンクタンクであるCSISを訪問したのか。何故、立憲民主党は日米FTAに本気で反対しなかったのか。何故、連合の支持を受け続けるのか。連合東京は、今回の都知事選で「緑のたぬき」を支持しており、その本性が大企業の利益優先であることは明らかだと思います。

 

共産党が何故党名変更をしないかと言うと、重鎮である不破哲三氏の存在を無視できないからだと言う説があります。不破氏は現在90才であるにも関わらず、共産党の常任幹部会委員を務めている。90才! 志位委員長は、既に、共産党の委員長を20年も務めている。20年! これが民主的な政党だとは、とても思えません。

 

私(64才)などの世代よりも、若い世代の人々はもっとこの「権力→権力組織→民主主義」という構造に、嫌気が差しているのではないか。立憲民主党に離党届を3回提出したという須藤元気氏が、「上の人はもう引退して欲しい」と涙ながらに訴えておられましたが、本当にその通りだと思います。

 

世代交代を進めよ! 老害と言われる前に、権力者は自ら身を引くべきです。

 

しかし、希望が全くないかと言うと、実は、そうでもない。例えば、若い人が会社を立ち上げる。その起業家の理念に共感した人が、その会社の株を買う。特に環境分野において、こういうことは既に起こっています。例えば、農薬を使わず有機農法で野菜を作る。多少高くても、その野菜を買う。そういうことも増えつつあります。

 

多分、こういうことって、これから更に増えていくと思うのです。権力を前提としない。ある個人が何かを思い立って、行動を起こす。その行動に賛同した人が、自発的に協力する。そうやって、政治や経済が回っていく。

 

例えば、誰かが独自の教育理念をもって、学校を立ち上げる。その理念に賛同した者がその学校に通う。このパターンは、既に大隈重信早稲田大学などの例がありますね。コロナの影響で、パソコンを使ったリモート授業が始まっているようですが、すると離れた場所にある学校にでも、入学することが可能となる。すると、生徒や学生たちが学校を選ぶ際の選択肢というのは、各段に増えていく。会社にも同じことが言えて、リモートワークが増えてくると、労働者の就職先の選択肢も拡大する。現在はそうなっていないとしても、やがてそういう方向に社会は向かっていくのではないか。

 

権力や権力組織を解体した後に現出するであろうポスト民主主義の社会。その時、人々が見るのは、組織ではない。宗教やイデオロギーでもない。利権でもない。行動を起こしたその人を見るのである。その人の人格を見るに違いないのです。

 

このポスト民主主義の社会システムの本質は、シャーマニズムにあると私は思います。

 

例えば、東京都知事選に立候補している山本太郎さんは、現在、地方債(都債)を最大で15兆円発行したいと主張しています。私は、それなりにMMT(現代貨幣理論)を理解しているつもりだし、通貨発行権を持っていない東京都が地方債を発行することの当否については、大西つねき氏や池戸万作氏の解説によって勉強しています。そして、これは可能だと思う訳です。しかし最近、理論的な当否よりも重要なことがあるように思えて来ました。それは、そのことを主張している太郎さんの人格であり、情熱ではないかと。

 

7月5日は、東京都知事選の投票日になっています。どうか、都民の皆様、投票に行ってください。埼玉より愛を込めて。

 

“Winter” Long Version / Mick Taylor & Rolling Stones
https://www.youtube.com/watch?v=wnvT_Izb90M