文化認識論

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反逆のテクノロジー(その8) フーコーの地図(思想経歴概略)

初めての街を歩くときは、どんなに粗雑な地図であっても、ないよりはあった方が良い。それと同じで、フーコーの思想を学ぼうとしている今、私は、極めて単純な地図のようなものを提供したいと思ったのです。遂に、フーコーの思想が夢に出てきてうなされるようになった私には、そうする資格があるように感じています。

 

では、駆け足で行きます。(末尾に「フーコー年表」を再掲しておきますので、必要に応じて、ご参照ください。)

 

16才で哲学の勉強を始めたフーコーは、超エリートが集まる高等師範学校に入学するが、22才、24才のときに、それぞれ自殺を企てる。2回とも未遂に終わった訳だが、その理由はエリート学校の校風が合わなかったことと、フーコー自身がゲイだったことに理由があると言われている。当時のフランスでは、日本で言うところの軽犯罪法のような法律によって、同性愛は禁止されていた。ゲイであることがバレると、出世にも影響する。フーコーは自身がゲイであることを隠し続け、生涯を通じてカミングアウトすることはなかった。

 

フーコーが最初に向かったのは精神病理学だった。フーコーは精神病院に通い、そこで医師と患者の実態を観察すると共に、大学で心理学の講義を行った。フーコーの授業は面白いと評判になった。受講生の中には、後年、哲学の世界で名をはせるジャック・デリダもいた。

 

フーコーは、1954年に「精神疾患とパーソナリティ」を出版するが、この頃、自らアルコール依存症になり掛ける。心配した父親の勧めもあって、フーコーは自ら心理療法を受ける。

 

1961年、博士論文として執筆した「狂気の歴史」を出版する。当時、大学のシステム上、博士論文は公に出版されていることが必須条件だった。「狂気の歴史」は狂気を歴史学的に考察するというユニークなものだった。これは膨大な論文だが、高い評価を得たと言われている。以後、歴史学的に考察するというフーコーの方法論は、終生続くことになる。

 

1966年、40才になったフーコーは「言葉と物」を出版する。人々は菓子パンを買うようにこの難解な哲学書を買った。実際、週刊誌のベストセラーランキングで第5位に入った。エピステモロジーの影響を受けたフーコーは、この「言葉と物」においてエピステーメーについて論じる。フーコーは、本文献の中で、次のように時代を区分し、それぞれのエピステーメーについて論述している。

 

ルネッサンス・・・16世紀まで。

古典主義時代・・・17世紀~18世紀

近代・・・・・・・19世紀

 

3つの時代があるということは、その間、2回の歴史的断絶があったことになる。しかしながら厳密に言うと、フーコーは4つ目の時代区分として、近未来を措定している。そして、この大著の最後において、フーコーは近未来における「人間の終焉」を予言する。文章の末尾のみ、引用しよう。

 

- (前略)そのときこそ賭けてもいい、人間は波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろうと。-

 

人間が消滅すると言うのだから、物議を醸したのは当然のことだった。サルトルをはじめ、当時のビッグネームはこぞってフーコーを批判した。それまでは一介の大学教員だったフーコーだが、この「言葉と物」の出版によって、一躍、ベストセラー作家となると同時に世間から批判を浴びる身に転じたのだった。2つの週刊誌がフーコーに質問状を送付したらしいが、その結果、フーコーがどこまで答えたのかは定かでない。

 

ところで、フーコーの著作は、難解だ。ちなみに私は、ねじり鉢巻きを締めて、右手に黄色のマーカーを握り締め「言葉と物」を通読したが、20時間、いや、それ以上の時間を費やした。但し、翻訳に際しては、プロの翻訳家が2人がかりで7年を費やしたとのこと。ご苦労様と申し上げたい。

 

ここで、何故そんなに難解なのか、という話をしておきたい。

 

1.そもそも、ポストモダンの作家は難しいという話がある。フーコーの他にも、デリダラカンは難解だと言われている。ドゥルーズも同じ。

 

2.若手書きだから難しい。若いうちは肩に力が入って、難しい文章になる。フーコーの場合、「狂気の歴史」「言葉と物」「知の考古学」の3作が、特に難解だと言われている。

 

3.言葉の定義が曖昧。「言葉と物」における主要概念は「エピステーメー」にある訳だが、フーコーはこのような言葉に対する定義づけを行っていない。従って、本が出版された後で、「そもそもエピステーメーとは何か」という論議が起こる。

 

4.レトリックが頻繁に用いられる。すなわち、華美な形容だとか、比喩が多くて、文章が長くなる。だから分かり難いのだ。この点、純粋なロジックを表現する文体というのは、法律の条文だと私は思っている。そこには、無駄がない。あるのはロジックだけ。法律の条文には「賭けてもいい」というような表現は出てこない。反対に、レトリックに終始する文体は、文学の世界で使用される。そしてフーコーの文体は、その中間に位置すると言える。このレトリックの部分が、分かりづらいのだ。と言うよりも、フーコーの文体というのは、100%理解されることは、拒絶している。

 

5.最後に、これが一番重要なのだが、そもそもフーコーには、分かりやすく書こうという気持ちがない。自ら「普遍的な真理というものに、私は懐疑的だ」と語っているように、物事を断定的に述べたくないと思っているのである。この点、後程、補足します。

 

話を戻そう。フーコーが「言葉と物」において主張したエピステーメーという概念は、ある時代を区切って、その時代に共通する認識や価値観を表わすものだった。これはソシュールが言った「共時態」で考えていることになる。そこで、「フーコー構造主義者だ」という論議が巻き起こった。この点、確かに単独のエピステーメーを考えた場合、それは「共時態」で見ていることになるが、フーコーは少なくとも3時代のエピステーメーとのその間に存在する2つの断絶、非連続性を見ているのであって、つまり「共時態」と「通時態」の双方の見方を採っていることを意味している。従って、フーコーは明らかに、ソシュールとは違う。フーコー自身は次のように述べている。「私は、構造主義的な方法を採用したことはあるが、構造主義者ではない」。

 

長くなるので、「言葉と物」の話は別の原稿を準備することにして、先に進もう。

 

1969年、フーコーは「知の考古学」を出版する。ここでフーコーが注目したのは、ディスクールである。日本語で言えば「言説」ということになる。フーコーにはそれなりの思いがあってこの言葉を使っているので、ここではディスクールという表現をそのまま用いることにしよう。これが何かと言うと、記号の集合体のことである。そう言ってしまえば、身もふたもない訳だが、実際問題、どういうものを指すのかと言うと、これが判然としない。具体例を挙げて説明してくれれば分かりやすいと思うのだが、私が読んだ本の範囲では、その説明がない。そこで、想像する訳だが、例えば、監獄における業務日誌というのはどうだろう。精神病院におけるカルテなども考えられる。これらは記号の集合体であって、加えてポイントとなるのはそこに権力の関与があるということだ。フーコーディスクール自体が何を語っているのかということは無視して、そのディスクールがどのような経緯で、どのような「由来」で、存在するのか、という点に注目した。すると、そこには何らかの形で、権力の影響があると考えたのだ。そして、フーコーは「ディスクールの由来」を考えるという学問形式を「系譜学」と名付けた。系譜学は、反権力の学問ということになる。また、この時期のフーコーは、主体ということを中心には考えていなかったのが特徴である。ディスクールを誰が書いたか、どのような気持ちで書いたか、そのようなことは一切排除して、ひたすらその由来を考えるのが系譜学だった。

 

そして、フーコーの70年代が始まる。

 

1970年、フーコーコレージュ・ド・フランスの教授に就任し、アカデミズムの頂点に立つ。思えば、このコレージュというのは英語のcollege に相当するフランス語なのではないか。ドというのは定冠詞に違いない。するとこれは、「ザ・フランス大学」という意味で、随分大仰な名前なのである。ただ、面白いのはこの大学、誰でも参加できる言わばオープンセミナーのようなものを開催していたらしい。フーコーの講義もこの形式で行われた。多分、大学で一番大きな教室が使われたのだろうが、フーコーが教壇に立つときは、立見席まで含めて何百人もの聴講生で満員になったそうだ。

 

講義の内容はありきたりな「哲学の歴史」というようなものではなく、その都度、フーコーは自らの研究成果を発表していたのである。つまり、聴講生としては、世界で最高峰の、そして最新の知性を表象するフーコーその人の言葉を、生で聴いていたのである。

 

70年代のフーコーは、大学で講義を行う傍ら、デモや抗議運動などに参加していた。従って、70年代、フーコーのまとまった著作は少ない。但し、講義録の一部などは、多分、ちくま学芸文庫の「フーコー・コレクション」(全7巻)に収められている。また、フーコーの権力論は1976年に出版された「性の歴史I-知への意思」に記述されている。

 

ところで、フーコーは権力について、どのように考えていたのか。君主制や戦時中の権力というのは、暴力によって大衆の命を奪うものだった。他方、戦後の自由主義社会における権力は、大衆の命は奪わない。あくまでも生かしておく。しかし、巧妙に「知」を支配し、経済的に収奪する。そのように変化したとフーコーは考えていた。

 

前述の通り、「性の歴史」の第1巻が出版されたのは1976年のことだが、その第2巻「性の歴史II-快楽の活用」が出版されるのは、それから8年後、1984年のことである。この間に、フーコーの内部において、何らかの転換があったのではないだろうか。そしてフーコーは、主体の問題に回帰していくのである。また、カントの啓蒙主義を再評価するのである。

 

この時期のフーコーは、性道徳がどのように作られてきたのか、という点に関心を持っていた。それは例えば、キリスト教における「懺悔」「告白」の問題などと結び付けられる。そこでフーコーは、キリスト教の影響が生じる前、すなわち古代ギリシャまで視野を伸ばして、研究を続けたのである。

 

晩年のフーコーは、講義の中で「パレーシア」ということを述べたそうだ。これは師匠と弟子の関係になぞらえることができる。師匠が弟子に具体的ことを教える。しかし、それだけでは、弟子は1人立ちすることができない。そうではなくて、師匠は弟子に対して、その背後にある事柄や考える姿勢、そのようなことを教えるべきなのだ。すると弟子は、やがて師匠の力を借りることなく、自ら思考できるようになる。フーコーは、最初から、そう考えていたのである。

 

真理とは、個別的なものである。そして、ある人が自らの真理に辿り着くためには、権力と戦うことによって人格を磨き、自己変容を続けるしかない。フーコーの思想に結論があるとすれば、そういうことなのかも知れない。

 

 

フーコー年表

 

1926年(0才)                    10月15日。フーコー生まれる。

 

1942年(16才)                  哲学の勉強を始める。

 

1945年(19才)                  高等師範学校不合格。第二次世界大戦終結

 

1946年(20才)                  高等師範学校合格。

 

1948年(22才)                  自殺未遂。

 

1950年(24才)                  自殺未遂。大学教員資格試験に失敗。

 

1951年(25才)                  大学教員資格試験に合格。

 

1952年(26才)                  精神病理学高等教育終了証書を取得。

                                                リール大学文学部哲学科の心理学助手に就任。

 

1954年(28才)                  「精神疾患とパーソナリティ」を出版。

                                                  アルコール依存症になりかけ、心理療法を受ける。

 

1961年(35才)                  博士論文として書かれた「狂気の歴史」が出版される。

(狂気と非理性―古典主義時代における狂気の歴史)

 

1963年(37才)                  「臨床医学の誕生」出版。デリダが「狂気の歴史」を批判。

 

1966年(40才)                  「言葉と物」出版。

 

1969年(43才)                  「知の考古学」出版。

 

1970年(44才)                  コレージュ・ド・フランス教授に就任。初来日。

 

1975年(49才)                  「監視と処罰-監獄の誕生」出版。

 

1976年(50才)                  「性の歴史I-知への意思」出版。

 

1978年(52才)                  2度目の来日。

 

1984年(58才)                  「性の歴史II-快楽の活用」出版。

                                                  「性の歴史III-自己への配慮」出版。

6月25日、フーコー死去。(誕生日前なので、享年は57才。)