文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

ソクラテスの魂(その3)

 

結局人間は、互いに理解し合うことはできないのではないか。昔から「十人十色」などと言うが、それは1億2千万人(日本の人口)いれば1億2千万色になる訳で、同じ価値観を持つ人間は、2人といないに違いない。

 

例えば、水について研究してみれば、それは必ず高い所から低い方へと流れるし、摂氏100度で気化し、0度で氷結する。このように水には明確な規則性がある。もう少し人間に近いところで猫について考えてみよう。彼らは怒るとシャーと言うし、気持ちが良ければゴロゴロと喉を鳴らす。こちらにも規則性を認めることができる。猫の行動を支配しているのは本能である。リリーサーと呼ばれる何らかの外的な「きっかけ」に出会うと、本能のある部分が開放され、猫の身体が反応するのである。従って、猫の身体的な反応や行動を注意深く観察すれば、彼らの本能を推し測ることは可能なのだ。

 

ところがこの世で唯一、人間だけは、このような規則性を持たないのではないか。例えば、コロナに関するニュースがヤフーに掲載される。するとその記事に対するコメントが一気に書き込まれる訳だが(ヤフコメ)、それを見ると人々の意見がいかに多様であるか、見て取ることができる。相変わらずコロナは風邪の一種でたいしたことはないという楽観論があれば、変異株に対する恐怖を説くものもある。政府や自治体の対策についても、強化すべきとするものと、解除すべきだというものがある。はたまた政府はコロナの感染者数を意図的に多く出しているという意見があれば、反対に少なく偽っているというものもある。

 

人間は皆、個性的な顔を持っている。同じ顔をした人間が世界に3人はいるという説もあるが、私は、私と同じような顔をした人間に出会ったことがない。つまり人間は、顔が違う、持っている知識が違う、経験が違う、生きている時代が違う、加えて利害関係も違うのである。だから、物の見方や考え方も違うのである。少なくとも、誰かと同じ人生を送る人間など、この世に1人もいないのである。

 

本質的に、人間は互いに理解し合うことができない。

 

このように考えると、万人が納得する法律や憲法というものも存在しないことになる。仮に、真理とは万人が納得するものである、と定義してみると、この世には真理すら存在しないことになる。

 

哲学の歴史もまた、この問題に直面したことがある。まず、西洋を中心に発展した近代思想があった。人間には理性があるので、これに従って、社会を構築しようというものだ。だから、多くの哲学者は「法とは何か」という問題に取り組んだし、理性を強化しようと考えたカントは「純粋理性批判」を書いたのである。カント、ヘーゲルマルクスあたりまでがモダン(近代)だと言っていいだろう。ある意味、モダンの思想家は楽観的だった。しかし、そこに登場したのが心理学のフロイトだった。フロイトは、人間の心の大半は無意識に占領されているのであって、人間は無意識に支配されていると訴えた。理性なるものが存在するとすれば、それは意識の側にあるのであって、フロイトの心理学は西欧のモダン思想と対立した訳だ。加えて、2度に及ぶ世界大戦、広島、長崎に対する原爆投下などがあり、モダン思想に対する懐疑が渦巻く。

 

そこで登場したのが、レヴィ=ストロースで、彼は「悲しき熱帯」において、ヨーロッパ中心主義の誤りを指摘し、構造人類学を提唱した。これが構造主義だ。その後、多くの思想家が様々な構造を提唱したが、然したる成果は生まれなかった。そこで、ポスト構造主義が誕生する訳だが、私の敬愛するミシェル・フーコーもその1人に数えられている。ちなみに、構造主義ポスト構造主義を総称して、近代の後という意味で、ポストモダンと呼ぶ。

 

大雑把に言うと、人間には理性がある、法によって社会を統制し、憲法に従って国家を建立しよう、というのがモダン思想だろう。しかし、その前提は崩れた。するとポストモダンの思想は、2つの選択肢を持つことになる。1つには、人間は無意識によって思考し、行動するので、これを統制することはできない。真理など存在しない、という立場である。勢い、真理など存在しないのだから考えたって無駄さ、ということになる。そして2つ目は、それでも人間は思考せよ、という立場である。フーコーは、それでも思考せよというこの立場を選択した。

 

冒頭に記した「人間は互いに理解しあうことはできない」とする私の意見は、ポストモダンだと言っていいだろう。そして私は、フーコーと同じように、それでも思考すべきだと考えている訳だ。しかし、この立場は重大な矛盾を抱えている。思考すべきだが、真理には到達できないのだ。真理に到達できないのであれば、何故、思考するのかという問題があって、これに対する簡単な回答は、用意されていない。このパラドックスは、人類が抱える永遠の課題なのであって、その宿命から人類が解放されることはないのではないか。私がそう考えるようになったのは、この問題、既に2500年前にソクラテスが提起しているからである。

 

一般に「無知の知」と呼ばれる思想がある。これは誤りであって、正しくは「不知の自覚」と言うべきだとする説もあるが、双方に本質的な差異は認められないので、ここでは一般的な表現に従うこととしよう。おおまかな経緯は、次の通りである。

 

古代ギリシャアテナイに、おせっかいな人がいて、この人は神殿に勤務する巫女さんに「この世で一番優れた人間は誰か」と尋ねた。すると巫女さんは「ソクラテスである」と答えた。そのことを知ったソクラテスは不思議に思う。無知な自分が何故、優秀なのかと。そこでソクラテスは、周囲にいる偉そうな顔をしている人々に、真善美について、片っ端から議論をもちかける。しかし、誰も本質的なことには答えられない。そこでソクラテスは思う。自分は、自分が無知であることを知っているが、他の者はそのことに気付いていない。無知であることを知っている分、自分は他の者たちよりも優れている。巫女さんが言った通りだ。ソクラテスは、そう考えたのである。

 

これが「無知の知」という思想の経緯だが、少し整理してみよう。ソクラテスは、巫女さんの発言を前提に考えているのであって、すなわちこのことはソクラテスが神の存在を信じていたことを意味する。そして、ソクラテスは神のみが真理を知り得るのだと考えていた訳だ。神の次に優秀なのは、無知の知を自覚している自分であって、その他の一般人が最下層に位置づけられる。

 

神 ・・・・・・・ 真理を知っている。

ソクラテス ・・・ 無知であることを自覚している。

一般人 ・・・・・ 無知であることを自覚していない。

 

また、ソクラテスは「自己の魂に配慮せよ」とも言っている。これは矛盾しているのであって、先に述べたポストモダンが抱える課題とよく似ているのだ。

 

仮にある人が「考えた結果、自分は真理を悟った」と言えば、その人は無知であることの自覚を失った訳で、最下層の「一般人」のレベルに転落するのである。他方、自分が無知であることを自覚して考え続けたとしても、真理には到達できない。つまりソクラテスは、永遠に到達することのできないゴールを目指して歩き続けよ、と言っているのに等しい。

 

しかし、人間とはそういうものではないだろうか。ちょっと、ため息が出る。