文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

ソクラテスの魂(その4) 個別的な真理

 

身体は死滅しても、魂は死なない。だから、身体よりも魂の方が重要なのだ。ソクラテスはそう考えたので、自らの魂に忠実であろうとした。そして、死刑の評決に従って、毒の盛られた盃を飲み干して死んだのである。このようにショッキングな死に方をしなければ、ソクラテスは今日のように有名にはなっていなかったかも知れない。

 

そして、ソクラテスの命日は、紀元前399年4月27日なのである。それがどうしたと言われるとちょっと困るのだが、この4月27日という日、実は私の誕生日なのである。一瞬、私はソクラテスの生まれ変わりなのかと思ったりしたが、そんな馬鹿なことがあるはずはない。それでも、ちょっと嬉しい。何しろ、この427という数字は「死にな」と読める。とても縁起の悪い日なのである。しかし、それがソクラテスの命日と重なるとなれば、事情は異なる。このことを私は、何かの本で読んだのだ。どの本だったのだろう? そう思って手持ちの本の頁を繰るのだが、その記述は見つからない。勘違いだったのだろうか? 夢の中にそのような話が出て来て、私は、それを現実のことと勘違いしたのではないか? 半ば諦めかけたのだが、念のため、ネットで検索してみた。「ソクラテス 命日」と打って検索を掛けると、見事に複数の記事にヒットした。それはやはり、4月27日だったのである。そして、ソクラテスを偲んで、この日は「哲学の日」とされているとのこと。なんという偶然! 私の本名は哲学の哲と書いて、サトシと読むのである。

 

哲学の日に生まれたので「哲」になったのであれば、これは随分と教養の高い家庭に生まれたことになる。しかし、実際は違う。私の祖父はタカシで、父はヒトシ。そして、私がサトシなのだ。明らかにこの名は、単なる語呂合わせで生まれたものである。

 

それにしても、ソクラテスの命日が哲学の日となり、その日を誕生日に持つ日本の哲という男が、今、ソクラテスの勉強をしているのである。これはシンクロニシティではないのか!

 

ところで、前回の原稿について、少し補足させていただきたい。ソクラテスの思想には、矛盾がある。その1つにソクラテスは、人間は自己の魂に配慮せよ、すなわち学べ、思考せよと言っている訳だが、それでも人間が真理に到達することはない。それでは何故、人間は思考すべきなのか、という問題がある。この点、どうやらソクラテス自身も悩んだようなのである。この問題を解決するためにソクラテスは、「人間並みの知恵」という概念を作り出した。人間は、この「人間並みの知恵」を得ることができるのだから、学ぶべきだ、思考すべきなのだ。しかし、それはあくまでも「人間並み」なのであって、神の知恵には遠く及ばない、と考えたのである。

 

ここまで書いて、私は、フーコーの言葉を思い出す。

 

「普遍的な真理というものに、私は懐疑的だ」

 

とても複雑で、難解なフーコーの思想も、その骨格はソクラテスに依拠しているのではないか。ソクラテスは人間の能力を「人間並みの知恵」に限定されると考え、フーコーは普遍的な真理に対し、懐疑的だと述べている。似ている。

 

そうしてみると、ソクラテスの思想に現代的な意義を見出すことが可能となるのではないか。ソクラテスは、まず、神の存在を信じた。そして、死後にも生き続ける魂の存在を信じていた。私は、この2点については全面的に否定したい。神や不滅の魂など、存在するはずがない。

 

少し、整理をしてみよう。概念上、「普遍的な真理」というものを設定しよう。これは、いつの時代においても妥当するものである。それは、決して変化することがないのだ。そして、真理と言うからには、それは人間にとってとても重要な何かのことである。今日現在、そのような原理だとか、システムは発見されていない。古代に生まれた芸術も、中世に育まれた宗教も、近代を象徴する理性を基軸とした思想も、決して全ての人々を幸福に導くことに成功はしていない。それどころか、それらの歴史の最先端にある現代において、人類による環境破壊は進み、資本主義はとてつもない格差を生み出し、行き詰まっている。ホモサピエンスという形態に至ってからでも、既に20万年が経過しているというのに、人類は未だに普遍的な真理を発見できずにいる。すると、今後ともそれを発見することはできない可能性がある。それを発見するか、その前に滅亡するのか、それは誰にも分からないので、フーコーのように「懐疑的だ」と述べるのが限界なのではないか。

 

次に、便宜上、「個別的な真理」という概念を措定しよう。これは、ソクラテスが「人間並みの知恵」と呼んだものに相当する。そして、「個別的な真理」は各時代の科学的知見、常識、価値観など(エピステーメー)に影響を受ける。エピステーメーは変化し続けるので、その影響を受けている限りにおいて、人間が普遍的な真理に到達することはない。すると、人間はエピステーメーの外側に出ることができるのか、という問題があることになる。結論から言えば、それは不可能であるに違いない。人間はエピステーメーの内側でしか、思考することができない。それはソクラテスにも言えることで、神や不滅の魂という発想自体が当時の常識(エピステーメー)であったことは明らかだし、その他にもソクラテスをはじめとするギリシャの哲人たちは、当時の社会が容認していた奴隷制に疑問を提起していない。ソクラテスといえども、エピステーメーの内側で思考していたのである。

 

このエピステーメーの内側の思考とは、正に「人間並みの知恵」に相当し、普遍的な真理には至らないので、これを「個別的な真理」と呼びたい訳だが、これは1つの仮説のようなものである。こうなっているのではないか、こう考えればうまくいくのではないかという仮説。それが宗教であり、イデオロギーなのである。しかし、その正しさが実証されたものなど、1つもないのである。占星術キリスト教マルクス主義も、仮説に過ぎない。もう少し普遍化して言えば、全ての思想は未完なのである。個別的な真理を求め、仮説を立てて、失敗を繰り返す。それが人類の歴史だとも言える。

 

次に魂について考えてみよう。ソクラテスの弟子だったプラトンは、魂とは何かということを真剣に考えた。魂という概念があって、それがデカルトを経て心に変わったという説もある。しかし、ここでは、簡単に次のように考えてみよう。魂、それは心の奥底にあって、その人が決して妥協できない何か、切実に訴えたいと思っている信念のことだ、と定義するのはどうだろう。魂という言葉は現代にも生きているし、現代人である我々は、概ねそのように理解しているはずだ。それは身体と共に滅びるが、だからと言って魂が重要ではない、ということにはならない。

 

そして、自己の魂に配慮せよというソクラテスの主張は、個別的な真理に到達するための方法論であることに留意する必要がある。また、個別的な真理とは、人間集団の中にあるのではなく、それは個々人の魂の中に存在するということを示唆している。私はこの主張に賛成である。そもそも、人間というのは、3人集まれば派閥ができると言われている。2人対1人になる訳だ。そして、数の力が働いて、2人の方が権力を持つことになる。権力を持った者は、それを維持しようとする。権力を持った者が何かを始めると、それは経路依存性を持ち、たとえそれが破滅に向かう道であっても、突き進もうとするのだ。つまり、人間集団の内部には必ず権力が生じ、往々にして権力は集団を狂気へと導く。全ての人間集団と集団の論理は、狂気に充ちているのである。

 

この点、前の原稿で戦争を強行したアメリカ政府と、戦場から戻りPTSDに苦しむ米兵の例を書いた。そんな例は、枚挙にいとまがない。例えば、古くから裁判制度は冤罪を生んできた。集団の側に立つ裁判という制度。これは狂いがちなのだ。そして、刑事事件であれば必ず真犯人がいる訳で、真犯人の魂は、自らが犯した罪について認識しているのである。

 

現在、五輪のスポンサーになっているマスコミは、五輪を開催する方向へ世論を誘導しようとしている。あの朝日新聞毎日新聞でさえも、事情は変わらない。コロナの第5波を迎えつつある現状に鑑み、私は、これらのメディアは狂っていると思う。朝日新聞は、五輪のスポンサーを降りるべきだという意見が、ようやく出て来たが、多分、既にそのタイミングは逸しているのだろう。ここでも、一縷の望みがあるとすれば、それはメディアに働く個々人の良心しかないのである。真実を伝える。正しいことを主張する。メディアに働く個々人が、自らの魂の声を聴くべきなのである。

 

つまり自らの魂に配慮するとは、狂気に充ちた集団の中にあっても、自分だけは壊れない、狂わないようにしようとする強い意志を持つことに他ならないのだ。

 

以上が、私の考えるソクラテスの思想の現代的な意義である。