文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

救済としての芸術(その6) 芸術の力

 

人は、その人生を文化領域の中から始める。家族がいて、生活がある。そこに留まる人生もある。専業主婦や、1次産業従事者、職人の方々は、文化領域の中で暮らしている。例えば、私の知っているある寿司屋の大将は、小さな漁師町で生まれた。高校を卒業すると同時に東京の寿司屋に修行に出た。3年程、修行を積んだ後、暖簾を分けてもらった大将は、故郷の漁師町へ戻り、そこで寿司屋を始める。布団屋の娘と見合い結婚をし、子供も作り、幸せな家庭を築いた。大将はその店で今も寿司を握っており、今年で74才になる。客は顔なじみの常連さんばかりだ。店は正午から開けているが、午後2時から5時の間に客が来ることは稀で、その間大将は、テレビを見て暇を潰している。他人には分からない苦労もあったのだろうとは思うが、私が現役サラリーマンだった頃に日々感じていた強烈なストレスを、大将が感じているようには見えない。私よりは幸福な人生を送って来たのだろうと思ったりもする。

 

一方、文化領域からすぐに秩序領域へと進む人々もいる。子供の頃から塾へ通い、勉学に務めるエリートたちだ。若しくは、資産家の子供たちで、彼らは子供の頃から秩序の中で生きていくことを前提とした人生を送る。医者や弁護士、高級官僚に大学教授。親の代からの地盤を引き継ぎ、政治家になる者もいる。彼らの多くは、秩序の中から地位と名声と金を得て、人生を終わる。彼らにとって、秩序とは都合の良いものであり、彼らは決して秩序を変えようと思ったりはしない。先の原稿に記した通り、秩序は「知」から始まり、やがてその「知」は陳腐化し消えていく訳だが、エリートたちの権力だけは残るのである。陳腐化した「知」を決して捨て去ることなく、後生大事に守り続けようとするのが、アカデミズムである。

 

こうして、現代文明は硬直し、「知」を伴わない権力が横行することになった。

 

しかし、そんな現代においても、秩序をその外側から眺め、批判しようとしている人々も少なくはない。そのような人々は、自分の頭で考える能力を有している。つまり、これらの人々は、「私」を持っている。主体を保持しているとも言える。では、彼らがどのようにして主体を獲得したかと考える訳だが、1つには秩序の中で痛手を負った、挫折した、というケースもあるだろう。しかし、それだけではない。彼らが、自我に目覚め、「私」と向き合うようになったその原動力は、芸術にあるのだ。

 

芸術は常に、私たちが日々、直面している秩序の世界とは、異なる世界を見せてくれるのである。芸術の世界において、当たり前ということは存在しない。現実には起こり得ないこと、現実には存在しない事物、そんなものが無数に提示されるのである。そこから、人々は想像力を掻き立てられ、新しい可能性を見出そうとする努力に着手するのである。優れた芸術作品に接する経験は、時として、人生における実体験を凌駕すると言っていい。例えば、ある絵画が描き出した情景、ある小説が描写したある場面は、私たちの深層心理にまでその影響を及ぼすに違いない。芸術は、人間の人格を形成する上で、最も重要な経験なのである。

 

芸術の分類方法はいくつかあるだろうが、簡単な分類方法としては、大衆芸術と純粋芸術とに区分するのが良いのではないか。大衆芸術は文化領域に属するもので、人々の共感を呼び起こそうとするもの。そして純粋芸術とは、秩序に対する抵抗を目的としているように思える。秩序に飲み込まれない、秩序の外側から何かを認識しようとする提案。それが純粋芸術であって、それは時に抽象性を帯びる。

 

f:id:ySatoshi:20211214235402j:plain

見る角度によって、姿を変えるオブジェ

 

自然科学は、物資を対象とするのであって、主体を形成することはない。

 

社会科学は、人間を集団として見るもので、人格形成に役立つことはない。

 

宗教は、考えるな、信じろ、と主張するものであって、そこに「私」は存在しない。

 

そして、主体について考察する思想が何かと考えると、1つには「自己の魂に配慮せよ」と主張したソクラテスの哲学を挙げることができる。2つ目としては、自らの精神疾患と向き合ったフロイトユングの心理学を挙げることができる。それ以外で考えると、芸術しかないのだ。そして、現代文明に与える影響の大きさを考えると、やはり芸術の力が圧倒的に大きい。

 

行き詰った現代の文明、それを切り開く力は、秩序の外側から秩序を批判する芸術の中に潜んでいるに違いない。