文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

猫と語る(第12話) 真夜中の思想

 

- ぷんぷく山?

 

猪ノ吉がオウム返しにそう言った。

 

- まずは、ぷんぷく山の位置を確認してみよう。

 

私は左手で懐中電灯をかざしながら、右手で地面に道路地図を広げた。

 

- いいかい。青い部分は海だ。そして、漁港がここだから、今、俺たちがいるのはこの地点だ。黒三郎、ぷんぷく山はどこだい?

 

黒三郎はしばらく地図を眺めていたが、やがて嘴で地図をつつきながら言った。

 

- フムフム。ここだな、ぷんぷく山は。では、ルートを確認してみよう。ここから出発して、すぐそこのいろは山を越えると谷間に出る。そこまで行けば小川があるから、飲み水に困ることはない。ゆっくり行けばいいんだよ、うり坊たちも一緒だろうから。あとは小川に沿って、山を登って行けばいいのさ。そこまで行けば、ぷんぷく山はもう近い。10日も歩けば、ぷんぷく山の中腹に辿り着けるだろう。人間はやって来ないし、ドングリだって沢山あるはずさ。いっそ、こんな海沿いの崖っぷちよりは、余程ましな場所だと思う。

- 何か、問題はないのか? ブヒブヒ。

- ちょっと待て!

 

私は、目を凝らして地図を覗き込んだ。黒三郎が示したルートだと、人間の集落の近くを通らなければならないのだ。そしてその村の名は、ぼたん村というのだった。

 

- 黒三郎。そのルートだと、ぼたん村の近くを通ることになる。それは危険だ。他にルートはないだろうか?

- 確かにぼたん村の西側を通ることになる。でも、他にルートはない。ぼたん村の住民は、危険な奴らなのか。

- 危険だと思う。好んでイノシシの肉を食べる連中かも知れない。しかし、人間は昼間にしか行動しない。一晩で、つまり暗いうちにぼたん村の西側を通過することができれば良いのだが。

- それは、大丈夫だろう。カァー。

- そういうリスクがあるってことは、分かった。ブヒブヒ。しかし、他に選択肢はない。そう思わないか?

- そう思うよ、猪ノ吉。

- そう思うわ。ニャー。

- そう思うぜ。カァー。

 

猪ノ吉は、ゆっくりと立ち上がった。

 

- さて、そろそろ行かなければ。集会が始まる。

- 猪ノ吉、イノシシたちの集会は、どこで開かれるんだい?

- この下の浜辺だ。

 

猪ノ吉は吐き捨てるようにそう言うと、洞窟を出た。黒三郎は、猪ノ吉の後を追った。

 

- どうしよう、花ちゃん?

- あたしたちも行ってみようよ!

 

花ちゃんはそう言うと、私の背中に飛び乗った。洞窟を出ると、猪ノ吉が斜め右の方に向かって下りていくのが見えた。私たちは、斜め左の方角に進んだ。いずれにせよ、砂浜はもう近い。私は、懐中電灯で足元を照らしながら、ゆっくりと坂道を下った。やがて、波打ち際に辿り着き、私たちは海岸に沿って、右手の方向に進んだ。懐中電灯を消して大きな岩の影から覗くと、大勢のイノシシたちが集まっているのが見えた。彼らは興奮していて、何やら怒鳴り合っているのが分かった。

 

- この裏切り者!

- うるせえ、このクソババー!

 

そんな声が聞こえてきた。バサバサと羽音が聞こえて、黒三郎がやってきた。黒三郎は、私たちが隠れている岩のてっぺんに舞い降りた。

 

- オッサン。あんたはこれ以上、近づかない方がいい。何しろあんたは人間なんだから。

- そうだね、そうするよ。

 

私がそう答えた次の瞬間、ひと際大きく猪ノ吉のいななく声が聞こえた。

 

- ブッフォー! 静かにしろ。それでは、これから集会を始める。

 

イノシシたちは騒ぐのを止め、辺りは静まり返った。波の音だけが、静かに聞こえた。

 

- みんなが知っているように、今日、ワシたちの仲間、3頭が殺された。ここは危険だ。ワシらは、もうここに住むことはできない。そこで、提案がある。ここから西に向かうと大きな山がある。そこまで人間はやって来ない。ドングリだって、沢山落ちている。その山は、ぷんぷく山という。途中、人間たちが住んでいるぼたん村の近くを通らなければならないが、暗いうちにそこを通過すれば、問題はない。これからみんなで、出発しようじゃないか、ぷんぷく山を目指して。それがワシからの提案だ。

 

イノシシたちは、一斉にざわめき始めた。すると一頭の大きなイノシシが、猪ノ吉の前ににじり寄るのだった。

 

- シシ丸だわ。若手のリーダーよ。

 

耳元で、花ちゃんがそう言った。

 

- 猪ノ吉よ、考えてもみてくれ。今日、殺された3頭は、いずれも若者だ。人間たちが若いイノシシを狙っていることは明らかだ。オレたちは、ぼたん村になど近づきたくはない。仮にぷんぷく山まで行けたとしても、人間たちがいつやって来るか分からないじゃないか。そこで、オレからの提案がある。ここから泳いで、沖のこんぺい島を目指すんだ。こんぺい島は、無人島だ。オレたちはこんぺい島へ行って、人間に殺される恐怖から解放されるべきなんだよ!

- ちょっと待って!

 

今度は、老婆がシシ丸に詰め寄った。

 

- シシ丸! あんたは若いから知らないのかも知れないけど、沖まで泳いで行くとサメに食われちまうんだよう。死んだ爺さんが言っていた。海には入るなって。

 

シシ丸が言い返す。

 

- それじゃあ聞くが、婆さんはサメを見たことがあるかい? 他のみんなにも聞く。誰かサメを見た者はいるか? ほらみろ、誰もいないじゃないか。そんなのは迷信さ。仮にそうじゃなかったとしても、鉄砲で打たれるよりはマシさ。

 

老婆が続ける。

 

- シシ丸。あんたら若い者は、それでいいかも知れない。でも、わたしら年寄りはどうすればいい? こんぺい島まで泳いで行く体力なんて、わたしらには残っていない。わたしらの仲間うちには、うり坊だっている。うり坊たちが、そんな遠くまで泳げるはずがない。

 

シシ丸は下を向いて、しばらく考えているようだった。やがてシシ丸は空を見上げ、大きく息を吐き、そして話し始めた。

 

- 婆さん。オレたちは、自分だけで生きている訳じゃない。オレたちは、イノシシという誇り高き種族として生きているんだ。この種族を存続させるためには、誰かが生き延びなければならない。全滅だけは、避けなければいけないんだよ。うり坊たちは、置いていこう。子供なら、また作ればいいじゃないか。こんぺい島まで泳げるか泳げないか、それはやってみなければ分からない。これは、オレたち種族の存亡を掛けた挑戦なんだよ。やってみる前から、尻込みすべきじゃない。

 

重苦しい空気が流れた。再び、波が岩にぶつかる音が聞こえた。うり坊たちが、キィーキィーと鳴いた。そして、ミッシェルが言った。

 

- それじゃあ、みんなでこんぺい島へ行けばいい。わたしはうり坊たちとここへ残る。

- ミッシェル。それは駄目だ。

 

猪ノ吉だった。

 

- うり坊たちだって、やがては大きくなる。そうすれば、彼らだって人間の標的になるだろう。ミッシェル、ここに残るという選択肢はない。

 

- どうやら平行線のようだな。しかし、オレたちに時間はない。

 

そう言ったのは、いらだち始めたシシ丸だった。

 

- 猪ノ吉よ、どうだろう。オレとお前との間で決着をつけようじゃないか。決闘だ。勝った者が、本当のリーダーだ。

 

シシ丸の意見を聞いたイノシシたちは、一斉にざわめき始めた。岩の上をピョンピョンと跳ねながら、黒三郎が言った。

 

- これは大変なことになったな。カァー。オッサン、何かいいアイディアはないか?

- そうよ、おじさん。何かいい解決策はないかしら? にゃん。

 

私も一生懸命に考えたが、答えは見つからなかった。本当にどうすればいいんだろう? すると、再び、猪ノ吉が吠えたのだった。

 

- ブッフォー!

 

猪ノ吉は右の前足を岩に乗せ、話し始めた。

 

- みんなよく聞け。ワシはまだ若い者に負ける気がしない。ワシの牙とシシ丸の牙を比べてみるがいい。シシ丸の牙は、まだ小さい。

 

イノシシたちは一斉にシシ丸の顔を覗き込み、納得したようだった。

 

- でも、ワシが言いたいのはそんなことじゃない。決闘をして勝った方の言う通りにするとすれば、そこにお前たちの意志が介入する余地はない。お前たちは奴隷か? 違うだろう。違うんだったら、お前たちは自分の頭で考えて、それぞれに結論を出すべきだ。お前たちの主(あるじ)は、他の誰でもない。お前たち自身であるべきなんだ。シシ丸と一緒にこんぺい島を目指すか、それともワシと一緒にぷんぷく山を目指すか。これはとても重大な選択だ。命をかけた決断となる。

 

シシ丸は少し後ずさってから、波打ち際の方へ歩きだした。1頭、また1頭とシシ丸の後に続いた。

 

- 猪ノ吉、すごいね。ニャー。

- そうだね。まるでカントみたいだ。

- カントって誰? カァー。

- ドイツの哲学者さ。

 

膝頭まで海に浸かったシシ丸が、振り返って言った。

 

- それじゃあ、こんぺい島を目指す者は、オレについてくるんだ。夜が明ければ、また人間たちがやって来るかも知れない。いいか。口で息をしてはいけない。海面より上に鼻を突き上げて、鼻で呼吸をするんだ。それから、猪ノ吉。

- うん。

- 幸運を祈る。

- ありがとう、シシ丸。成功を祈る。

 

シシ丸は、暗い海に向けて泳ぎ始めた。若いイノシシたちが、こぞってシシ丸の後に続いた。闇の中へ、イノシシたちの列が消えていく。先ほどまでイノシシの群れで被われていた砂浜が、その姿を現した。結局、大半のイノシシはシシ丸に着いて行き、残ったイノシシはわずかばかりだった。黒三郎が、猪ノ吉の元へと飛んで行った。

 

- あたしたちも行こう。ニャン。

 

懐中電灯をつけて、私たちも猪ノ吉の元へと歩み寄った。足を取られて、砂浜は歩きにくかった。

 

残っていたのは猪ノ吉の他にミッシェルと3匹のうり坊たち、老夫婦、流れ弾に当たって肩口を負傷した者、それとどこか不良っぽい青年とミーハーな感じのする彼のガールフレンドだった。

 

不良青年が肩をいからせながら、私たちの方を向いて言った。

 

- 正義っていうのは、いつだってカッコいいものなのさ。

 

猪ノ吉は、まだ海の方を見ていた。