文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

猫と語る(第11話) 希望のかけら

 

Tシャツの上に薄手のジャンバーを羽織って、私は、にゃんこ村に向けてクルマを走らせていた。気分は上々だった。花ちゃんに対するレッスンは無事に終了したし、今日は、新製品のカリカリも入手していたのだ。しかし、いつもの駐車場に着くと、何とも言えない違和感があった。先ほどまで晴れていたのに、空には黒っぽい雲が立ち込めていた。カラスたちが無秩序に飛び交いながら、気味の悪い鳴き声を上げていた。その中の1羽が羽音を響かせて、私の足元へ舞い降りてきた。黒三郎だった。

 

- てえへんだ、てえへんだ、カァー、カァー!

 

黒三郎はそう言いながら、せわしなく動き回った。花ちゃんも駆け寄ってきた。

 

- おじさん、大変なことになったの!

- 一体どうしたんだ。2人とも落ち着いてくれ。

- ニャン。実はね、今日の昼間のことだけど、鉄砲を持った沢山の人間がやってきて、イノシシたちを撃ち始めたのよ。パン、パンって、それは凄い音がしたわ。3匹の若いイノシシが殺された。ケガをした者もいる。こんなことは初めてだわ。イノシシたちは、みんな興奮している。一体、どうすればいいのかしら。

- ミッシェルや猪ノ吉は、無事だったのかい?

- 大丈夫だ、彼らは生きている、カァー。

- 実はね、最近、人間とイノシシの間でトラブルが相次いでいるんだ。食料を求めて山から下りてきたイノシシが、人間を襲う。そういう事件が続いている。ましてやここら辺は、観光地だ。事故は許されない。そこで、地元の猟友会がイノシシ狩りを決行した可能性がある。どうすればいいんだろう!

 

私は、頭を抱えて、しゃがみ込んでしまった。

 

- そうだ、逃げ道はある。ぷんぷく山へ逃げるんだよ。カァー。

- ぷんぷく山? それは、すぐそこに見えている山のことかい?

- いや、違う。そこに見えているのは、いろは山だ。ぷんぷく山は、いろは山を越えて、谷を越えて、更にその先にある大きな山だ。そこまで行けば、人間はやってこない。カァー。

- それはいい考えだ。そうだ、俺は地図を持っている。それを見ながら、作戦をたてよう。

 

私は急いでクルマに戻り、道路地図と懐中電灯を手に取った。

 

- ニャー! それじゃあ、作戦会議を開きましょう。黒三郎は、猪ノ吉を探し出して。場所は、いつもの洞窟よ!

- ガッテンだ!

 

黒三郎は、そう叫ぶとすぐさま飛び立った。

 

- いつもの洞窟って?

- おじさんは、あたしが案内するわ。ついてきて!

 

花ちゃんは、フェンスに沿って、北に走り出した。私は、懸命に彼女の後を追った。花ちゃんは、時折立ち止まり、振り返るのだった。駐車場の敷地を出て、花ちゃんは草むらの中へと入って行く。

 

- さあ、おじさん。ここよ、フェンスを飛び越えて!

 

花ちゃんはそう言うと、軽々と金網状のフェンスを越えてみせた。私は、フェンスの上部に手を着いて、右足を跳ね上げた。体が重い。もっと真剣にダイエットに取り組んでおくべきだった。それでも私は、何とかフェンスを乗り越えたのだった。にゃんこ村の深部へと踏み込んだような気分だった。花ちゃんの後を追って行くと、けもの道に行き当たった。すると花ちゃんは、私の背中に飛び乗って言ったのだった。

 

- おじさん、気をつけて。この道に沿って、しばらく下って行くの。すると小さな洞窟があるわ。それから、あたしは少し疲れちゃった。猫はね、瞬発力はあるけれど、持久力はないのよ。しばらく背中を借りるわね。

 

私は頷いて、一歩ずつ足の裏で地面を探りながら、急な斜面を下り始めた。路面はデコボコだったし、草の根っこに足を取られそうだった。あちこちに松の老木が生えていたが、どの幹も曲がりくねっていた。強い海風の影響に違いなかった。遠くに見えていた海面が、少しずつ近づいてくる。波の音も、大きくなる。膝がガクガクしてきたので、少し休もうかと思った頃だった。私の耳元で、花ちゃんが言った。

 

- 着いたわ。右手に見える松の木の根元。そこが、洞窟の入り口よ。

 

入口の付近に、雑草は生えていなかった。むき出しになった岩肌の真ん中に、ぽっかりと穴が開いているような感じだった。かがみ込むと、花ちゃんが私の背中から飛び降りた。懐中電灯で中を照らしてみた。数人の大人が横になれる程度の広さがあった。地面も平らになっていたし、雨風を凌ぐには充分な環境だと思った。中に入ると、少し湿気があった。

 

- 少し、疲れたね。

 

私は、そう言って腰を下ろした。花ちゃんも近くに座った。

 

- そうだ。忘れるところだった。今日はね、新しいカリカリを持ってきたんだ。チキン味の奴。食べるかい?

 

花ちゃんは、待ち切れない様子だった。私はムーミンの刺繍が施されたいつもの黒いショルダーバッグからカリカリを取り出して、紙の皿に盛りつけた。花ちゃんは、夢中でそれを食べた。洞窟の壁に背中をもたせ掛けて足を延ばすと、花ちゃんが私の体に乗ってきた。私の腹につかまるような格好だった。

 

- おじさんのお腹って、なんかプヨプヨだね。

 

そう言ったかと思うと、花ちゃんは寝息を立て始めた。私も花ちゃんにつられたのか、睡魔に襲われ、眠りの中へと落ちていった。

 

どれ程の時間が流れたのか、私には分からなかった。洞窟の中は、すっかり暗くなっていたが、突然、私の腹の上で花ちゃんが身構えるのが分かった。その瞬間、花ちゃんの中の野生を感じた。辺りに注意を払うと、ガサゴソという小さな音がした。そして、何とも言えない野生動物の臭いがした。急いで懐中電灯のスイッチを入れた。洞窟の外で、何かが動くのが見えた。

 

- 猪ノ吉か? だったら、入っておいで。

 

花ちゃんがそう言うと、大きな体を揺らしながら、猪ノ吉と黒三郎が入ってくるのだった。猪ノ吉は、少し汗ばんでいるようだった。私は、なるべく洞窟の中の全体を照らすような場所を探して、懐中電灯を置いた。

 

- 遅かったね。にゃん。

- カァー、カァー。ごめん。でも、大変だったんだ。急遽、辺り一帯のイノシシを集めて、今夜、集会を開くことになったのさ。それで、オイラたちカラスは、手分けしてイノシシたちに召集を掛けて回ったんだ。

- 集会って、今日の出来事を受けて、今後のことを相談するんだね。

 

私がそう言うと、猪ノ吉がうなずいた。

 

- 今日、3頭もの仲間が殺されたんだ。ワシたちイノシシにも、誇りというものがある。このまま、引き下がる訳にはいかない。見ろ、ワシの牙を。

 

猪ノ吉はそう言うと、その顔を少しだけ私に近づけた。

 

- りっぱな牙だね。

- そうだ。オスのイノシシは、何故、牙を持っていると思う? それはな、戦うためなんだ。ワシらは、仲間を殺した人間どもと戦うべきなんだ。その時がやって来たってことさ。

 

花ちゃんと黒三郎が、私の顔を覗き込んだ。

 

- 猪ノ吉。君は確かに、立派な牙を持っている。でもそれは、君自身を守るためのものでもあると思うんだ。必ずしも、敵を攻撃するためだけにある訳じゃない。落ち着いて考えてみてくれ。これは、俺が人間だから言うんじゃない。君たちイノシシが人間に立ち向かうというのは、無謀だ。それは日本が中国に戦争を仕掛けるのと同じ位、勝ち目のない戦いなんだよ。いいかい、奴らは鉄砲を持っている。君の牙が奴らの体に突き刺さる前に、鉄砲の玉が君の体を撃ち砕くだろう。

 

花ちゃんと黒三郎が、今度は、猪ノ吉の顔を覗き込んだ。

 

- 男には、負けると分かっていても、戦わなければならないときがある。今が、そのときなのだ。

- ちょっと待て、猪ノ吉。君たちの戦いは、そんなスケールの小さなものじゃない。長い時間と、広大な空間の中における、君たちイノシシの存在を賭けた戦いなんだ。そう思わないか。それに、君たちが奴らに勝つ方法が、ない訳じゃない。

 

少しの沈黙が訪れた。花ちゃんが私の膝に手を置いて、話を促した。

 

- いいかい。奴らの目的は、君たちを殺すことだ。その目的を阻止できれば、それは君たちの勝利を意味する。仮に君が奴らに戦いを挑んだとすれば、君たちの一族は壊滅するかも知れない。それは、君たち一族の歴史が終わることなんだ。そうではなくて、生き延びるんだよ、猪ノ吉。君は、君の仲間たちと一緒に、幸せに生き延びるんだ。この世界には沢山の悪がはびこっている。いちいちそれらと戦っていては、我々の命は、いくつあっても足りない。逃げるっていうのは、1つの戦略であって、決して恥ずかしいことじゃない。

- そうよ、猪ノ吉! あたしはおじさんの意見に賛成だわ! ニャー!

 

猪ノ吉は下を向いて、しばらく考え込んでいるようだった。そして、ぽつりと言った。

 

- でも、何処へ?

 

黒三郎が、間髪入れずに答えた。

 

- ぷんぷく山さ。

 

それは私たちが、ある共通する希望のかけらに手を掛けた瞬間だった。