文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

世界観について

 

文明論的動物ファンタジーと称して「猫と語る」という作品を掲載してきて、先日、脱稿した。その評価を含め、あとがきのようなものを書こうと思ったのだが、どうも書けない。現時点では、私自身、この作品を評価できないのだ。私史上、最高作であるような気もするし、愚作であるような気もする。何年かたって読み返してみたら、そのときにはある程度、客観的に評価できるのではないだろうか。

 

さて、元来、民話や童話は、人々によって語り継がれてきたものであって、そこには人間の無意識が潜んでいる。そう思うと興味は尽きないし、高齢になった私ですら魅力を感じている。そして童話には、市井の人々が子供たちに伝えようとしたメッセージが含まれているような気がしてならない。その1つに、世界観ということがある。

 

「昔々、ある所におじいさんとおばあさんが住んでいました。」

 

これは、誰もが知っている典型的な童話の書き出しだが、短いこの一文に、世界観を見ることができる。「昔々」というのは時間で、「ある所」は空間を意味し、「おじいさんとおばあさん」は人間である。そして、そのことを言葉、つまり記号で表現しているのである。時間、空間という外的な環境があって、私たち人間がその中で生きている。そして、人間は記号を通じて外界を認識しようとしている。時間、空間、人間、そして記号。世界を構成している要素とは、この4つに尽きるのではないか。

 

芭蕉の俳句になると、もう少し複雑になる。

 

古池や 蛙飛び込む 水の音

 

古いというのは時間に関わる概念であって、池は空間の中に存在している。そして、水の音は記号である。このように考えると、芭蕉のこの句には人間が登場しない。そこで私は、はたと立ち止まるのである。本当にそうだろうか? もしかすると、この句に登場する蛙とは、人間を指しているのではないか。人間を、とりわけ「私」を、蛙になぞらえて表現しているのではないか。そう仮定してみると、この句の意味は、大きな変容を遂げる。つまり、「私」が生まれてくる前にはとても長い静寂があって、そこに蛙としての「私」が登場する。「私」が池に飛び込み、ポチャンという音が一瞬だけ、静寂を破る。そして辺りは再び、長い静寂へと帰っていくのである。「私」の一生はかくも短く、儚い。

 

私は、俳句に関する知識をほとんど持っていない。ましてや、松尾芭蕉について学んだことなど1度もない。従って、上に記した解釈は、深読みであるかも知れない。しかし、このように解釈してみると、この句の深淵を覗くことができるような気がする。ああ、わびさびの世界だなあ、空しいなあと感じる人もいるだろう。しかし、私は逆に励まされるような気がするのだ。つまり、芭蕉のような歴史に名を残した人でさえそうであるならば、私のような凡人が、無力で愚かな人生を送ったとしても、それは当然のことなのだ。人生において、成し遂げなければならないことなど、何もないのである。人間のすることなど、所詮、蛙が池に飛び込む程度のことでしかない。そう思うと、気が楽になるのである。