文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

領域論 - 主体が巡る7つの領域 - (その1) はじめに

 

現在、私たちの文明は、危機に瀕していると思う。コロナウイルスの問題もそうだが、そればかりではない。政治の危機という問題もある。原則として、政治家は選挙によって選ばれているのだから、政治の危機を引き起こしているのは、主権者である国民の民度の低さであるに違いない。結局、国民がどの政治家に投票すべきか、そもそも選挙に行くべきか否か、そういう判断を下している訳で、その認識自体が危機的状況にあるのだ。

 

何故そうなるかと言えば、それは社会の複雑さに1つの要因があるのではないか。急速に進展する科学やITの技術もあれば、反面、古い文化も依然として生き残っている。古い価値観や文化の上に、新しいそれらが堆積している。それは、長い年月をかけて形成される地層のようではないか。私たちが直面している現代の文明とは、いくつもの層を持っていて、それらが互いに影響を及ぼしながら、時に反目し合っているのだ。その結果、政党は乱立し、人々の意見は真っ向から食い違い、共通の理解、共通の認識を醸成することが困難になっている。

 

上に記した課題に対処するために必要なことは、まず、現代日本保有している文明の本質的な構造を明らかにすることではないか。それは、細分化が進んだ「学問」が成し得ることではない。例えば、日本社会が抱える問題の1つに「自殺」の急増、ということがある。多くは、うつ病が原因だと言われている。これは心理学の問題だ。しかし、それでは何故うつ病になるかと言えば、経済的な要因や人間関係上の問題などが想定される。こちらは経済学や社会学が対象とする分野ではないか。つまり、「自殺」という問題は、細分化された個々の学問によっては、解決できないのだ。コロナの問題も同じだ。必要なのは、全体を見ること。総合性を確保することだと思う。

 

以前、このブログのタイトルの下に、私は「世界を記述する」と書いた。それは、総合性に対する私の願いを込めたものだった。この「世界」とは、自然科学が対象とするような世界のことではない。世界地図が示すような地理的な世界のことでもない。私の興味の対象は、あくまでも人間の世界のことである。そんなことが可能なのか? それは私にも分からない。しかし、チャレンジしてみるべき時期が、やって来たように感じている。所詮、私には失うことを恐れるべき名誉や名声など、何もないのだ。迷ったときには、前進する。それが私の若い頃からのポリシーでもある。

 

さて、随分前のことだが、ローリング・ストーンズが埼玉スーパーアリーナへやって来たことがあった。途中、キース・リチャーズが右手でギターのネックを握り締め、しゃがみ込むシーンが大型のスクリーンに映し出されたのを覚えている。彼の笑顔は、「人生って素晴らしいじゃないか」と言っているように見えた。日々の生活に四苦八苦していた私は、言いようのない敗北感を感じたものだ。コンサート会場を出ると、冷たい夜風が心地よかった。電車に乗って、私は帰宅した。部屋の中にはいつもの机があり、ベッドがある。翌朝、私は何事もなかったかのようにネクタイを締めて、会社へと向かった。

 

この短い話の中に、3つの空間が登場する。コンサート会場、自宅の部屋、そして会社である。これらの空間は、異なる特徴を持っている。それは、場所的な差異だけではなく、そこにいる人間が違う。雰囲気が違う。そして、許容されるルールが違うのだ。例えば、コンサート会場では歓声をあげることが許されるが、会社でそうはいかない。この曰く言い難く異なる空間と言うか、場所と言うか、上述した地層のようなもの。それを本稿では「領域」と呼ぶことにした。そして、「私」(主体)という人間がいて、様々な領域を出入りするのだ。私たちの暮らしや人生は、そのようにして成り立っている。

 

では、古いものから新しいものへ、領域を並べてみる。これが言わば縦軸となる。

 

原始領域

生存領域

認識領域

記号領域

秩序領域

喪失領域

自己領域

 

そして、各領域が持っている特性をチェックするポイントとして、記号、「知」、権力、秩序などの項目を考えている。これらが横軸となる。これらの項目は、左程、難しいものではないので、簡単に説明してみよう。

 

記号とは、人間が五感によって感知するものだ。例えば、ノックの音が聞こえる。これが記号だ。そして、それは誰かの来訪を告げるものだと理解することができる。これを解釈能力と呼んでおこう。(記号学のパースは、解釈思想(Interpretative thought of a sign)と呼んでいたが、明らかに「思想」とは異なる。「能力」と言った方が適切だと思う。)そして、解釈能力があれば、「誰かの来訪」という意味を理解することができる。

 

すなわち、「記号」→「解釈能力」→「意味」という流れにある訳だ。

 

各時代によって、それぞれの領域において、人間が注目してきた記号は異なるので、この点に留意することとしたい。

 

次に、「知」だが、これは「知識」とは異なる。例えば、職人であれば師匠から弟子へと伝授されるものだし、キリスト教においては神が知っているものだ。そこには、価値観が含まれている。そして「知」は、各領域における「権力」と深い関係があるに違いない。

 

「権力」とは、それぞれの領域を支配する力であって、社会の秩序を維持するために必要なものではあるが、同時に社会の進展を妨げ、不平等を引き起こす要因ともなる。

 

「秩序」とは、人間が記号、「知」、権力などを用いて構築することを目指してきた体制であり、ルールのことである。そして、その対象範囲は、少人数の部族から始まって、現代のグローバリズムに至るまで、徐々に拡大されてきたに違いない。

 

では、次回から縦軸に従って、各領域について述べたいと思う。その後、テーマを絞って各論に入る予定でいる。