文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

イノベーションの終焉

 

それがいつの頃から始まったのか、私は知らない。多分、その答えは資本論に書いてあるのだろう。

 

資本家が出資して、会社を作った。会社は多くの労働者を雇用し、何かを製造し始める。会社が製造したものを消費者が購入する。しかし、そのためには消費者がある程度の資金を持つ必要がある。そこで、会社は賃金を上昇させて、人々に商品を購入するための資金を提供した。最初にそれをやったのは、米国のフォードだと言われている。こうして、会社が成長すると共に、中産階級が生まれた。ハッピーエンドである。

 

しかし、この話には続きがある。人々が欲しがる商品、象徴的にここではクルマだとしよう。当初、人々は車を持っていなかった。だから、上の例に従って言えば、フォードのクルマは飛ぶように売れたのである。何年か、若しくは何十年かそんなことを続けていると、一通り、人々にクルマが行き渡ることになる。すると、クルマの販売量は減少する。新規需要は急減し、代替需要に依存するようになる。会社は儲からず、消費者も困窮する。供給過多、需要不足の状態に陥る訳だ。この状態を解消するためには、新たな需要を探す必要がある。そこで、侵略戦争が始まる。武力で他国を制圧し、植民地化する訳だ。

 

多分、こうして2度に渡る世界戦争が繰り広げられたのだ。しかし、すぐに世界的な規模で戦争をする訳にはいかなくなった。核兵器が登場したからだ。核兵器はまたたく間に世界中に拡散した。需要不足は深刻度を増す訳だが、最早、世界戦争もその解決策にはなり得なくなった。こうして、人類、とりわけ先進諸国は困り果てたのである。

 

この構造的な需要不足を解消するための手段として、グローバリズムが登場する。自国内で需要を掘り起こすことが困難になった先進諸国は、他国への輸出に頼ろうとしたのである。そのために貿易のルールなどを一元化し、輸出入の手続を簡素化した。このルールに乗じて、最初に台頭したのは日本だった。日本は高品質、低価格のクルマを大量に作って、米国に輸出した。Japan as No. 1とまで言われた時代のことである。慌てた米国は、日本を叩き始めた。1つには1985年のプラザ合意があり、2つ目としては1989年に開始された日米構造協議がある。こうして日本のバブルは1990年頃にはじけたのである。以後、日本の経済は30年以上に渡って、停滞を続けている。

 

日本の次に台頭したのは、中国である。中国は外国資本を積極的に取り入れ、膨大な国内需要と低賃金を梃子に、急成長を遂げた。経済分野に留まらず、軍事力においても中国は急拡大を続けており、これが現在の米中対立を生んでいる。敗戦国である日本は簡単に米国の圧力に屈したが、中国は強気の姿勢を崩していない。仮に中国が勝った場合、世界の秩序は急変するだろう。

 

さて、需要不足をいかに解消するか、という問題に戻ろう。もう1つの方策、それはイノベーションである。思えば日本の高度成長期(1955-1973)を支えたのは、科学技術が生み出す新商品ではなかったか。洗濯機や冷蔵庫、テレビや電話などが普及したのはこの時期だ。次々に生み出される新商品が、新たな需要を創出したのである。余談だが、洗濯機が登場する以前は、洗濯板というものを使っていた。今の若い人は、そんなもの見たこともないだろう。

 

それらのイノベーションについて思い浮かべてみる訳だが、最新のそれは、IT技術だと思う。Windows 95の登場が、ビジネスを一変させた。もう28年も前の話だ。それ以降、私たちの実生活を急変させるようなイノベーションは、起こっているのだろうか? 答えはノーだと、私は思う。率直に言えば、あらゆる面においてイノベーションとは、20世紀に起こった出来事であって、21世紀の今日においては、最早、起こり得ない夢に過ぎないのではないか。

 

福島第1原発メルトダウンは、12年も前の出来事である。当時は、フランスの会社が対応技術を持っているのではないかとか、ロボットを使って燃料棒を取り出せるのではないか、などという議論がなされたが、いずれも実現していない。ただ、ひたすら水を掛けて冷やし続けているのである。結果として大量の汚染水が生まれた訳だ。政府や東電は、これを処理水と呼べと主張しているようだが、そんなもの、汚染しているに決まっている。更には、汚染水を海に放出する計画だというから、驚く他はない。

 

原発に代わる自然エネルギーへの期待も高まっているが、結局のところ、太陽光発電風力発電も環境を破壊することに変わりはなく、一向に有力な手段は出て来ない。

 

クルマについて言えば、環境に優しいという謳い文句で電気自動車が脚光を浴びているが、そこで使われる電気だって、結局のところ、原発によって発電されているのだ。

 

文化系の私が言うのもなんだが、結局のところ、地球上に存在する物質の種類には限りがあるのであって、自然科学が無限に発達するということはなく、どこかで限界に達するのだ。そして、その限界は20世紀に迎えたのではないか。

 

では、21世紀に生きる私たちは、どうすべきなのか。持続可能性(sustainability)という尺度で科学技術を選別し、持続不可能なものを切り捨てていく必要があると思う。

 

ついでと言ってはなんだが、ここで基軸通貨について記しておこう。戦後まもなく、国際取引に用いられる基軸通貨は、米ドルとすることになった。例えば、途上国などが破綻した場合、その国が発行する通貨の価値はなくなるので、危険だ。そこで、最も信用できる通貨を各国で共に使おうじゃないか、ということになる。そして、外国から何らかの物品を輸入したいと考える国は、米ドルを取得する必要に迫られたのである。米ドルを取得するためには、市場でドルを購入するという方法もあるが、そのための資金を準備するのは大変だ。手っ取り早く米ドルを入手するには、米国に物品を輸出し、米ドルで代金を払ってもらうことになる。こうして、各国は競って米国への輸出に務めたのである。一方、米国はいくらでもドル紙幣を印刷することができる。こうして、世界中の富が米国へと流れ、米国民は贅沢の限りを尽くすことができたのである。誰が考えたのかは知らないが、世の中にはずる賢い人間がいるものだ。

 

このような仕組みによって、現在、日本は100兆円を超える米ドルを保有している。中国も同程度の米ドルを保有している。

 

しかし、米国が独り勝ちする仕組みも、長くは続かない。ある程度、各国の米ドル保有残高が積み上がってくると、それ以上、米ドルを取得する必要がなくなるからである。それにも関わらず、米国がドル紙幣を刷り続けると、今度はドルの価値が下落し、ドルの信用が失われる危険が生ずる。

 

また、米ドル離れという現象も起こり始めている。例えば、EUがそうだ。ヨーロッパを1つの経済圏とし、共通通貨であるユーロを使い始めた。最近では、戦争中のロシアが油や天然ガスの取引にはルーブルを使えと主張した。

 

こうして、米国は軍事的にも経済的にも凋落の一途を辿っているのである。