文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

構造と自由(その12) まとめ

 

前回の原稿をアップしてから、3週間以上が経過してしまった。その間、私の思考が停止していた訳ではないのだが、とにかく、何もする気が起こらなかったのである。もしかすると、老人性のうつ病ではないのか。そう思って、先日、散髪に出かけた際、試しに言ってみたのである。

 

私 ・・・どうも最近、何もする気が起こらない。

床屋・・・みんな、そう言ってますよ。

 

どうやら、みんなヤル気が起こらないらしい。ということは、私も単なる夏バテに見舞われているのかも知れない。

 

さて、「構造と自由」と題してお送りしてきたこのシリーズ原稿だが、そろそろ、まとめようと思う。他にも興味深いタイトルは思いつくのだが、これ以上進めると収集がつかなくなりそうな気がする。

 

まず、私の歴史観から。大きな流れで見ると、まず、身体に関わる営みがある。生活と言っても良い。文化と言っても良い。そこから文明は出発したのである。次に、身体を否定する形で、「知」が誕生する。この「身体を否定する」ということを具体的に言うと、断食とか禁欲という営為を挙げることができる。「知」には、呪術的なもの、宗教的なもの、そして科学的なものまで、様々なバリエーションがある。やがて、「知」は権力を生み出す。権力は必然的に腐敗し、そして暴走する。従って、強い権力を基軸に置いた文明や勢力は、いつか必ず崩壊する。ローマ帝国だって滅んだし、ナチスも崩壊した。そして今、米国の権力構造さえも、その土台が揺れている。そこで、権力に対抗する反対概念として、主体を措定することになる。これは権力を外側から観察する個人のことで、自らの意思を発動する者を指す。単純に考えると、この主体に目覚めた人間が過半数に達すれば、その集団や国家は成長し、危機を回避できる訳だ。そう考えると、文明論の観点から言えば、日本はとても遅れていることになる。但し、そのような国家、すなわち過半数の国民が主体に目覚めているような国家を、私は知らない。

 

次に、「知」と権力と幻想の関係について。「知」が権力を生み出し、権力が幻想を作り出す。幻想は権力を更に強化するのであって、権力と幻想とは、共犯関係にある。原子力を例に説明しよう。原爆に関する技術、すなわち「知」は、米国が発明した。マンハッタン計画である。そして、原爆を手にした米国は、世界を席巻する権力を手に入れた。そこで米国の権力者は様々な幻想を作り出したのである。広島と長崎に原爆を投下したのは、戦争を終わらせるために必要な手段だったのだとか、核兵器のバランスによって、平和が維持されるというような詭弁が、世界を侵食したのである。近年では、比較的威力の小さな戦術核というものが開発されていて、ロシアがウクライナに対しそれを使用するリスクが指摘されている。核技術の平和利用という名目で出発した原発にも同じことが言える。権力者たちは原発安全神話を喧伝してきたが、福島第一原発ではメルトダウンが起こった。今度はALPS処理水を海洋投棄すると言う。これを汚染水と呼ばないよう、国を挙げての同調圧力が加えられているが、本当にそれは安全なのだろうか。私が1つ確実だと思っているのは、東電や国の説明が不十分だということである。それは、保守系のテレビ番組も同意している。これだけのことを実行するのに、説明が不十分であるということは、東電や国は何かを隠しているに違いない。説明が不十分なのではなく、説明不能であるに違いない。

 

話を戻そう。人は集団を作らないと生きていけない。そして、集団の中には必然的に権力が生まれる。権力を持った者は、幻想を作り出す。集団のメンバーは、権力者たちが作り出した幻想を信じるように洗脳される。こうして、人間は、必然的に幻想の中で生きるようになる。この考え方は、例えばプラトンが提示した「洞窟の比喩」に奇しくも合致する。薄暗い洞窟の中で、人間は手足を拘束されながら、洞窟の壁に映し出される影を見て、それを実体だと勘違いしながら生きて、やがては死んでいく。

 

多くの人々は、幻想の中でしか生きられない。彼らにとっては、それが宿命なのかも知れない。プラトンが生きた、古代ギリシャがそうだった。日本の平安時代に生きた貴族たちは、怨霊を恐れた。現代の日本においても、多くの人々は死後の世界が存在すると思い、日本は米国の核の傘に守られていると信じ、汚染水を処理水と呼ぶ。

 

しかし、幻想の外に出よう、真理を発見しようと試みる人がいなかった訳ではない。ソクラテスがそうだった。そこから哲学、とりわけ認識論の歴史が始まったのだ。大変困難な試みだが、これ以上に大切な思想は、存在しないのだと思う。

 

最後に、私が出した結論を述べよう。

 

まず、人間は構造の外に出ることができない、ということ。人間が集団で生きている限り、そこには必然的に権力が生まれる。権力が存在する限り、文明の基本的な構造を変えることはできない。そして、個人は文明の中でしか、生きることができない。

 

では、人間に自由は存在しないのか、という問題がある。但し、そもそも自由とは、獲得すべきものであって、与えられるものではない。そして、自由を獲得しようとする領域は、幸い、構造の中に含まれている。端的に言えば、芸術と哲学である。芸術とは、人々に活力を与え、人々が何かを思考し始めるきっかけとなる。クルマに例えるならば、芸術とはエンジンのようなものだと思う。そして、何をどのような方向で考えるべきか、それを示すのが哲学ではないか。クルマに例えるならば、哲学はハンドルの役割を持っている。

 

構造の中にあって、それでも幻想を捨てようと試み、自由を希求する。それが人間のあるべき姿ではないか。

 

 

※「構造と自由」と題してお送り致しましたシリーズ原稿は、本稿をもって完了と致します。お読みいただきました皆様、有難うございました。